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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

四 昭和前期

 はじめに

 昭和の初期は、県下の各地でそれぞれに地域的な背景をもつ短歌雑誌が相次いで生まれ、かつ短命に消えて行った、眼まぐるしい時代である。たとえば、「風艸」「青雲」「くさの葉」「にぎたづ」などの名を挙げることができる。これと同時に、「アララギ」、「あけび」、「覇王樹」など中央結社につながる集団的勢力が次第に台頭を見せはじめたのは、自然のいきおいと言いながらもあたらしい一つの傾向として見逃しがたいものがある。

 「風艸」創刊

 旧松山高等商業学校(現在の松山商大)の学生を母体として「風卿」が生まれたのは昭和二年五月。それまで出ていた文芸誌「黒潮」を第六号で発展的に解消、第七号を「風艸」と改題したのである。この名付け親は、「黒潮」以来その面倒を見てきた当時の松山高商教授大鳥居茂(本名蕃)。同人としては井上淡山・友石実・小林元・越智通久(木下落実)、これに外部からあたらしく友広保一が加わり、編集は主として、友広、越智の二人が担当。従来の松山高商の殼を脱して、学内と外を問わず短歌同好の仲間をあつめた。しかし学生の卒業その他の異動により昭和三年七月の第一〇号で終刊した。
 短い期間であったが、「風艸」の性格にはアララギ色が見られた。それも編集責任者の友広保一がアララギ会員であり、新しく同人に加わっていた白木素風(裕)が斎藤茂吉門下の一人であったなどのこともある。又、同人の佐伯秀雄(松山)は岡野直七郎の「蒼穹」に迎えられて重要メンバーに列した。のちに愛媛歌人クラブの初代会長として歌壇に貢献した。
 白木裕は松山の城北高女教員から広島文理大学に転じ国文学専攻の傍ら「アララギ」に精進、たまたま広島の原爆に遭遇して家族を失い、郷里宇摩郡土居町に帰住。地方のアララギ会員を指導していたが、昭和五五年六月、東京の寓居で没した。友広保一はアララギの古参として山口市に健在である。

  山につづく竹藪暗し立ち停るわが眼にふれてもの動きけり      鳥井  茂
  ひねもすを陽かげとどかぬ藪中におどろき見れば山鳩のをり     鳥井  茂    家の者みな寝しづまる夜を起きて心せきつつ答案しらぶる      木下 落実
  生徒らが心こらして書きあげし答案と思へばおろそかならず     木下 落実    茜さす夕空に向ひ時の間は忘れてゐたりもろもろのこと       白木  裕
  蓮根を日すがらに掘り空明りになほ掘る人のかげ動く見ゆ      白木  裕    今宵咲かむ一つ夕顔の白花を夜目にも見むと置く鉢の位置      白木  裕

 「にぎたづ」の発刊

 「にぎたづ」と言っても、現在松山から発行されている「にぎたづ」とは全く関係がない。昭和六年四月に発刊されて、僅かに第四号で消滅した幻に近い歌誌である。
 岩浪藤尾を中心に重見白朗・大国庫一・大野静ら「あけび」に所属する人々を中軸に、「アララギ」の三好晴光(山部杉風)、森俊一、旧「風艸」系の鳥井茂・越智通久(木下落実)、これに砂川艸迷・愛原幽江・村井幽果・また今治の別府流星・中谷秋羅・藤野紫朗らをそろえて、始めは県下の歌壇を統一した雑誌に育てゆきたい構想であった。そうして第一号には「あけび」主宰の花田比露思に乞うて「熟田津私解」の一文を巻頭に載せるなど大へんに華やかな首途を見せた。次号には中井コッフはじめ県下各地の有力歌人をあつめはしたが、内部の不統一を招来して、折角の「にぎたづ」も所期の成果を挙げぬままに終焉の破目に陥った。この原因には「あけび」色偏向に対する一部の不満もあったかに考えられる。時に昭和六年七月、第四号で終わる。

  春早き山登りくれば昼餉すぐる下べの村はくだかけのこゑ      重見 白朗
  けなかくも病みしものから朝々を仕事場に来れど客はあらざりき   大国 庫一
  日の光りとどかぬ庭の苔草や昼ひややけく露をたもてり       三好 晴光
  山岨の道下る時春鳥は秀枝おり来て啼きにけるかも         砂川 艸迷
  春の海凪ぎ静もりて青島の姿おぼろに雨ぎらひせり         愛原 幽光

 「やまぶき」登場

 このあと「にぎたづ」後身の形で、同じく岩浪藤尾の手による「やまぶき」を昭和九年三月創刊。やはり「あけび」の系統を主流として武智青芳・徳田義範・有光輝一朗・七五三満・久保静葩・中村紫蘭・桑山壬子生・佐川忠能・異色では鶴沢又春・加地宏吉らすぐれた歌人もいた。鶴沢又春は人形芝居の三味線師、東宇和郡野村町で一生を終わった。「覇王樹」でも名のある存在だった。加地宏吉(八束清)は松山の出身。結核と戦いながら作歌に専念、見奈良の翠松園で戦争の直後に悲しい一生を終わった。
 かくして「やまぶき」は昭和一二年、第四巻まで重ねた努力も空しく、六月に至って終刊せざるを得なかった。岩浪の一身上の都合によるものである。
 昭和六年八月、八幡浜の森川綱男・野田真吾・池田満穂・新村健司らを同人とする「笞荊」が創刊、数行書きの前衛短歌に気を吐いたが、数号を出して解散した。喜多郡内子町では久保静葩編集の「愛媛歌人」(のちに「愛媛短歌」となる)が、昭和六年「にぎたづ」に合流するまで活動をつづける時期があった。

  秋はやも庭のまがきの朝顔のうらがれそめて風にそよげる      岩浪 藤尾
  年ごとに人手減りゆくわが家には壁につるせる芥子とぼしも     七五三  満
  芝居はねて湯に行く時の静心その安けさの今あらぬなり       鶴沢 又春
  教室より児童が本よめる声きこえ泰山木は花ひらきたり       久保 静葩
 「青雲」と「くさの葉」

 今治の歌誌「白い風」と「草笛」が合同して、新しく「青雲」の第一号を創めたのは昭和七年四月。村上正人・中谷秋羅を編集者として、藤野紫朗・別府流星・羽藤隆保らを擁し、今治地方というよりも県下的に勢力をひろげた一〇年にわたる功績は大きい。その間に「青雲」の題字を「あをぐも」と改め、誌面も内容を充実して、中谷秋羅の「近世伊予歌人考」は大山祇神社に仕えた菅原長好の事跡を紹介するなどの勉強ぶりであった。その後半には竹田正夫・木村行雄(旧姓竹田)らの参加に内容を盛り上げた外、「橄攬」の五百木小平、また療養歌人として名のあった加地宏吉(八束清)が参加した。
 第七巻第四号には、藤原鏡浦追悼号、第八巻第四号には別府流星の歌集『蕗の薹』批評、第八巻第一一号には合同歌集『野榛集』批評を充て、きわめて重厚な運営をつづけた。投稿者も、さきの「幽光」に関係した西原重敏、「槻の木」の森直太郎らの外、西本桃菌・高橋照葉・芥川静馬らの協力も目立った。
 このようにして、第一一巻を数えるに至った「あをぐも」は、戦時下の用紙統制などにより、昭和一七年八月号を以て発行を打ち切った。この終刊号には通巻一一三冊にわたる「あをぐも」の概略史と巻末の後記に竹田行雄が悲壮の思いをこめて筆をとっている。

  見送る人もない貨物船は出で行くに気笛吹きたり長き気笛を     村上 正人
  炭小屋の屋根の片屋根は雪あれど春さりけらしふきの薹見ゆ     別府 流星
  炭がまの庭のあたりにふきの薹ふみにぢられて花咲きにけり     別府 流星    風強み峡の竹群さわさわと音をたてつつ夕さりにけり        中谷 秋羅
  春あさみまだ芽をふかぬすずかけの並木にそそぐ雨のつめたさ    羽藤 隆保
  朝顔や咲きの乏しくなりにけり秋は日にけに寂し我が庭       羽藤 隆保
  日ぐらしの声すみとほる裏山に心あそばせ陽にひたりをり      藤野 紫朗
  街行けば人顔の皆新しく春のけはひの息吹漂ふ           五百木 小平
  帰り来て火鉢にあたりしばらくは出る鼻水のとどまらぬなり     五百木 小平   墓の端に吾がいこひ居れば下谷よりここにひびきて鵯なくも     加地 宏吉
  君はもう此処にゐるかと墓の背の納骨口を掌にはなでつつ      加地 宏吉    双子島のあはひをすぎてわが船はみどりのしげき怒和島に近づく   木村 行雄
  由利島は南に青しひろひろと風吹き渡る灘の夕べは         木村 行雄 

 「くさの葉」の創刊は昭和七年八月。発行所を南宇和郡御荘町の石野義一方に置いた。地元の二神碧堂(伝蔵)・岡添勉・入多泰・丸箭庄三郎・二神実千枝、その頃南宇和高校の教職にあった有吉菊一・羽田猪一・波多野千里らが参加、これをバックアップしたのは中井コッフ・森田虎雄・弘田義定・加藤勇ら宇和島の一群であった。中井は当時中央の「覇王樹」につながる橋田東声門下の最古参、したがって南予各地の有力歌人はほとんど中井の傘下にあり、石野もその例外ではない。「くさの葉」が覇王樹ファミリーの色彩を形成して行ったのも自然の成り行きである。
 号をかさねて「くさの葉」の第五巻、第六巻を迎えた頃は、東宇和郡から喜多郡にキャリアをひろげ、一方隣接の高知県幡多郡にまで勢力を伸ばして、安定した軌道の上に地方歌誌としては目ざましい活動ぶりを発揮した。だが、時局は満州事変の 拡大から戦争に突入しようとする危機に際会し、「くさの葉」も用紙難のため昭和一六年二月、遂に第一〇巻第二号、通巻九六冊を出して終止符を打った。その終刊号となった表紙の畦地梅太郎が描いた版画、阿蘇の噴煙が前途のただならぬ動きを象徴するかに感じられたものである。

  夕山に啼きのこりたる鳥の声一つひびきて静かなるかも       中井 コッフ
  山の雨早や眼交ひに降りおりて道べの小田に音たてにけり      中井 コッフ
  山の中の昼も日の目のささぬ家白き鶏数多飼ひ居り         中井 コッフ
  向っ嶺に日の入り行きて久しきに山鼻ゆ日光峡のねにさす      中井 コッフ
  足びきのみやま川とんぼあわれなり人をおそれず帽子にとまる    中井 コッフ
  そうそうと棚田を落つる水の音に沿ひて登れば坂の涼しき      石野 義一
  束ね髪子等にかまけてある妻に思ひ至ればいとほしきかも      石野 義一
  雲かげは田の面走りて遠山に逼ひ登りゆくその迅きこと       二神 碧堂
  吾が袖をはらひし萩は随へる妻にあたりて花をこぼせり       二神 碧堂
  読みふけて寝につくことの楽しさを偶々遠きほととぎすの声     森田 虎雄
  向つ峯に涼み人等の話すことさやに聞えてよき月夜なり       森田 虎雄
  ときどきを人声のして夕ぐれを麦摺り急ぐ向ひの家は        有吉 菊一    軒さきに灯かかげて麦摺れる家見しからにふるさと思ほゆ      有吉 菊一
  将棋盤かこめる子等の背にうつる秋の日ざしはひそかなりけり    岡添  勉
  梅雨曇る朝掃き歩く部屋ぬちの畳のしめりさびしく感ず       岡添  勉
  跳ね上る鯉の水の音に目覚めゐて宿直の夜は長かりにけり      羽田 猪市
  宵雨に書読みともるさびしさや五位鷺の声はすみて聞ゆる      羽田 猪市
 中井コッフは本名謙吉、旧北宇和郡来村(現宇和島)の出身。愛知医専(現在の名古屋医大)に学んで小児科専門の医師となった。大正八年「覇王樹」入会、爾来作歌に精進をつづけて多くの門下を指導育成、昭和三三年には県教育文化賞をうけた。晩年は愛媛歌壇の者宿として各派歌人の敬慕を蒐めた。在世中に遺した作品約二万首。昭和三七年三月、八一歳でこの世を去った。
 現在も「覇王樹」にあって活動をしている中井門下に入多泰(一本松)・二宮正明(三間)・薬師神義武・日野清(以上宇和島)・中山久二子(野村)・佐藤房子(御荘)・西かつみ(同)らがある。

  枯れ草を焼きたる跡に降り出でし雨の灰打つ音やわらかし      入多  泰
  斧振れば梢の霜が金粉となりてこぼるる朝光の中          入多  泰    いつしかに春の息吹きを感じをり畑打つ土の黒き色にも       二宮 正明
  孤独より迯れることも出来ずしてあたり一生を農に生きつぐ     二宮 正明    此世にてわれを信じて呉れる者絶対無けむわれ一人なり       薬師神 義武
  感謝して生きねばならぬその心理やうやく今は分る心地す      薬師神 義武

 「神南備」出現

 昭和一七年二月、愛媛県歌人協会を設立、ときの大政翼賛会愛媛支部の中に事務所の看板をあげた。会長に県視学官林傅次、副会長に佐伯秀雄、常任理事に岩浪藤尾・砂川正雄・中村潔、理事には人選を県下各地に配分して三好晴光・七五三満・別府幹直・石野義一・徳田義範ら九名を並べた。また顧問に石榑千亦・寒川陽光・中井コッフ・田窪八束・矢野義晶ら新旧両派の年長者を委嘱した。
 つまり、県下の歌人を総動員した形のもとに、同年六月、機関誌「神南備」第一号を発刊。この巻頭には林傅次が「ことば・うた・まこと」の一文を載せ、万葉集の歌を例に引いて、大和ことばの永遠性とまことを説いた。詠草はさきにあげた理事メンバーを軸として、県下の歌人から寄せたものを集録、これにはいわゆる旧派の人々も参加した。
 同年七月は休刊、八月に第二号を編集。細矢清見の「子規文学の性格管見」安岡正篤の作品を巻頭に載せるなどして意欲だけは旺盛に見えたが、戦争の苛烈化に伴う市民の緊迫した生活などの影響もあり、以上二冊だけの活動にとどまり、後続の希望は空しく消滅した。

 奨弘会と旭日吟社

 愛媛奨弘会の創立は昭和一五年一月、会長に菅菊太郎を推して、護国神社の宮司矢野義晶が専ら和歌の指導にあたった。いわゆる神宮皇学館の流れを汲んで、題詠による古風なところもあったが、格調の流暢かつ潤雅な制作に一つの特色を保持した。矢野は実作に併せて後進に対する指導力もあり、その中に西園寺源透・西村竹五郎・正岡定幸・池内文雄らの名が見られる。
 その後、会長は久松鶴一に変わり、現在は久松偉生が三代目を継ぎ、選者に中本幸子を招いて運営をつづけている。矢野義晶は、宮司を退いて東予市北条に帰郷、「桜井すさび会」を起こして子弟を養成、昭和二六年八月に没した。
 「旭日吟社」の生まれたのは大正一二年。今治の吹揚神社宮司田窪八束を主宰者として、今治周辺より集まる和歌同好の人々を教え、大正一三年には機関誌「旭日」を発行、昭和一九年死去するまで継続した。八束は父田窪勇雄の手ほどきをうけて一家を成した斯界の俊英、父子二代にわたる歌人の家柄であった。八束の門下には山田芳雄、長野猛彦、岡本清らがある。

  大空のおぼろの月をなつかしみ花のした道われひとりゆく      菅  菊太郎
  春の夜の光を花にゆづりおきて月はおぼろにかすみけるかな     菅  菊太郎
  大杉の朝の霊気にふれつつも日光まうでの清々しかり        矢野 義晶
  白樺の若葉の木ぬれ谺して華巌の滝辺鶯の鳴く           矢野 義晶
  そのかみの長者屋敷の梅林ほのぎも匂ふ春の風吹く         西園寺 源透
  帰り花咲けど日蔭は寒くしていつとはなしに冬ぞ来向ふ       西園寺 源透
  花は散り梅は実りて行く春になほ飽き足らぬ都路の旅        久松 鶴一
  賤がたく蚊遣なるらむ山里の夕餉の後も昇る煙は          久松 鶴一
  若鮎もはやのぼりくるかげ見えてたつ川の瀬の音ものどけき     田窪 八束
  花に浮かれ霞にゑひてさわらびのもゆる心をうたふ鳥の音      田窪 八束

 景浦稚桃と万葉集

 伊予史談会の初期、有力メンバーの中には、古今集、新古今集などに造詣深く、みずから和歌をたしなむ風が見られた。西園寺源透(富水)・景浦直孝(稚桃)・菅菊太郎らがそれである。とりわけて景浦稚桃は古風を脱して流麗かつ典雅を旨とする歌と多く示した。すくなくとも大正から昭和にかけて愛媛歌壇に見逃すことのできぬ動きであった。稚桃は県立松山高等女学校、また北予中学校(現松山北高校)に教鞭をとっていた関係から、教え子らを中心に歌を志す人々を育成した。更に特筆すべきは稚桃門下の乞いを容れて永年万葉集の講義をつづけたことである。郷土では元愛媛大学教授武智雅一と並んで数すくない万葉学者。「にぎたづ」の位置を御幸寺山周辺と考察した新研究はひろく全国の万葉学会々員の間に反響を呼んだ。稚桃は昭和三七年八月没、八七歳であった。

  今朝咲けるバラを嬉しみここださせば花瓶の水の溢れつるかも    景浦 稚桃
  青葉かげうつる琉璃器の水の中金鱗二つ相触れて泳ぐ        景浦 稚桃

 泉百彦と「銀泉」

 昭和七年頃、宇摩郡津根村(現土居町)の泉百彦は個人誌「銀泉」を発行。短歌を中心に、ひろく文芸作品を載せて、地方の文学熱を昂めるために力を注いだ。百彦は本名橋本覚三、当時の津根村長でもあった。同郷の白木裕と深交をむすび、互いに短歌の道をすすんだアララギの先駆者でもある。

 歌人往来

 「明星」の与謝野鉄幹、晶子夫妻が来県したのは昭和六年一一月、川之江を経て松山に来遊。晩秋の城山また石手寺を探り、幾つかの歌を遺して伊予を去った。「あけび」主宰の花田比露思は、昭和六年一月、松山の県下短歌会に臨み、同年八月には上灘の武智青芳を訪れ、大洲の歌会に出席したのち面河、石鎚の風物を探った。その後昭和三六年まで数回に及んで、松山、大洲に於ける「あけび」仲間の歌会に出席している。「国民文学」の松村英一は昭和一一年四月、門下の西原重敏に招かれて四阪島に一泊、翌日は新居浜、松山を経て面河渓谷を探勝した。吉井勇は浪々の身をはじめて宇和島に迎えられたのは昭和五年八月。これを機縁にしばしば伊予をおとずれ、昭和一二年六月、越智郡伯方島の有津に仮の宿をさだめて滞留二ヵ月、あけくれ潮騒の音を友にして、人生の嘆きを海によせた多くの歌を作った。
 斎藤茂吉が山陰旅行のあと、松山の地に足を踏み入れたのは昭和一二年五月、道後に滞在して松山城、正宗寺の子規遺髪塔、内藤鳴雪の墓などに詣でた。また同じくアララギの土屋文明は、昭和一八年一〇月、松山市郊外重信町見奈良の軍人愛媛療養所に慰問講演を行った。次いで田窪(重信町)のアララギ会員東淳造の案内により伊佐爾波神社その他を回った。
 この時期、県外にあって作歌に専念した愛媛出身者に石榑千亦門の河上哲太(東予市)、窪田空穂門に服部嘉香(松山市)、森直太郎(余土)がある。河上は政治家であったが、短歌にも力を入れてすぐれた作品を沢山遺している。服部、森はともに早稲田大学に国文学を修めた学究。このために作歌の上では空穂に深く愛せられた。