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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

五 昭和後期

 短歌会の台頭

 昭和二〇年戦争終結、平和を取りもどした国内の文化活動は俄かに溌刺となった。そのことは愛媛歌壇の場合も同じく、各地に於てあたらしく短歌集団の台頭、これに伴う機関紙の発行などが人々の注目をあつめた。宇摩郡川滝村(現在川之江)の「須美礼」(佐伯冨重)、周桑郡石根村(現在小松)の「いしづち」(伊藤隆志)、上浮穴郡久万町の「やまびこ」(田村嘉寿美)、伊予郡中山町の「せせらぎ」(飛田吉一)、大洲市の「ひぢ川」(河田澄雄)、東宇和郡俵津村(現在明浜町)の「やまなみ」(西田亀八)など、それぞれの地域でささやかながら短歌のともしびをかかげて先駆の役目を果たした。その頃、即ち昭和二一年に注目されたのは「いづかし」と「若鮎」の発足である。

 「いづかし」と「若 鮎」

 「いづかし」は「アララギ」の指標を鮮明にして宇和島の地に声を挙げた。愛媛アララギ会の機関誌として、内山直が編集に専従した。最初はアララギの大村呉樓、鈴江幸太郎の二人を大阪より宇和島まで招へいしてその気運を昂めた。これに加わったものは十亀儀三郎(故人)・山下照山(同)・曽根千代(同)のほか浅井俊治・清水正男・浅野次郎・大谷光利・山本貞子・井上渉・平山忠義ら。のちの「愛媛アララギ」創刊に合流するまで、昭和二六年第六巻の業績を遺した。その間昭和二二年一〇月、周桑郡丹原町の興隆寺に土屋文明出席のアララギ歌会を開いたこともある。
 「いづかし」は県下アララギの最も古い会員であった東淳造の死去に際し、故人の遺詠と年譜を載せた追悼号を出した。東の「アララギ」入会は大正八年、ひとり孤高の姿を崩さず、中村憲吉、また土屋文明に師事して写生の道を究めた。彼の没したのは昭和二〇年七月。五五歳である。また東についで重厚な歌を遺した十亀儀三郎は周桑郡庄内村(現東予市)出身、昭和一五年アララギ入会。昭和三五年八月死没の日まで後進をよく導いて大いに尽くした。享年五二歳。

  咲きつげる八ツ手の花はけながくもみ冬に至り花粉をこぼす     東  淳造
  つゆながら朝刈りすなる飼草にまじる蓬はいたくかをりぬ      東  淳造    青萱につつむ山薯十一本体よわき妻養はむため           十亀 儀三郎
  息やすめやすめ掘るこの山薯を掘りつくし昼の飯を食ふべし     十亀 儀三郎

 「若鮎」は伊予郡松前町有光輝一朗(あけび)を主宰者として重松俊雄・藤田幸一・石丸若恵・佐野幸子らを糾合。これに倉橋宗由、稲垣茂が加わったが、同誌の性格は有光の指導下による「あけび」系の色彩を明らかにした。伊予郡の歌人はほとんど「若鮎」の勢力に入り、松山、温泉郡にも会員を持った。この間、有光は子規門下の赤木格堂(岡山)、「アララギ」の高田浪吉とも交流、常に指導激励をうけて来た。こうして堅実な歩みをつづけた「若鮎」も昭和四五年四月、有光の死去に会い、後継者に佐伯秀雄を要請。同四六年一〇月には創刊一〇〇号をむかえたが、その後は佐伯をリーダーとして隔月刊の形をとりつつ存続して今日も発行している。

  薪買ふ金のくめんのつかざれば冬枯れ草を刈る妻となる       有光 輝一朗
  田草とる足のかゆきは蛭ならむ思ひっつ土用の日照りにくらす    有光 輝一朗
  あからみて太き梅の実元木をば育てし父の霊位に供へむ       佐伯 秀雄
  庭の朴二十年経て初めての花さかせたり妻と見あぐる        佐伯 秀雄

 昭和二四年五月には喜多郡河辺村から「雲線」のグループを作った七五三満・山本治純・中山久二子ら主とする小学校教員の活動に期待をよせられた。一時は清新な作品を発表、特に七五三の動きは将来を嘱望されたものである。しかし、昭和二五年一一月、第二四集を出して「雲線」は終わった。編集責任者の山本治純は神奈川県藤沢に移り、いま「覇王樹」に入会している。

 「くにぶり」の創刊

 昭和二一年一月、宇摩郡土居町の山上次郎を編集者として、「くにぶり」を創刊。主要同人として中井コッフ・竹葉秀雄・白田三雄・中村秋良・根本スミエらが加入、くにぶり即ち国風の名にふさわしく古雅荘重の歌風を以て県下に臨んだ。竹葉秀雄は安岡正篤門下の国学者、その学識を踏まえて特色のある作品を毎号発表した。会員も県下にわたり漸く軌道に乗ったかに見えたが、山上の身辺の事情などもあり、惜しくも昭和二三年一二月に廃刊のやむなきに至った。三年間の生命ではあったけれども、「くにぶり」の県下歌壇に残した実績はきわめて印象的なものがある。

  翁草みるみる埋めしが根雪にて茂吉の国は長き冬に入る       山上 次郎
  這ふ霧にゆるぐともなく岬山に浜大根の花白く咲く         山上 次郎
  浮脂くらげなす世に国固め天の瓊矛執り起つは誰ぞ         竹葉 秀雄
  白々と雲井はるかにかかりたるただ一条のさやかなる道       竹葉 秀雄

 「星雲」と「歩道」

 昭和一七年八月「あをぐも」終刊後、一時空白状態になっていた今治・越智郡地方の歌壇は、終戦の前後にかけて「たかなは」(大沢茂隆・越智敏見・森寿誉)、「短歌新生」(味岡光之助・中谷明)、「つきしろ」(沖野彪・木村行雄)、「みなかみ」(森田清美)らの歌誌が続出した。このせまい範囲に歌誌の群立消長をたどる中に、合同を説く人々もあって、昭和二四年三月越智敏見・木村行雄・味岡光之助・新居田夫左武・二宮哲也らをメンバーに「星雲」を創刊、この編集発行責任者として竹田正夫の指導が現在に至っている。
 「星雲」は号を追って会員を拡大、東予各地に普及して、宇摩郡土居の斉藤健爾・合田盛一・新居浜の粂野為逸・神野雅夫・越智郡吉海の小原子穂・西条の高橋数一・それに今治の砂田清哉・越智秋雄らをそろえて、昭和五七年五月には三〇〇号の記念号を出した。誌齢はいま第三五巻に入っている。

  やすやすと刈れると見えし燕麦が鎌にからまり吾に抗ふ       竹田 正夫
  原木の積込作業に捕へたる青きとかげを焼きて食らひぬ       竹田 正夫    納屋の戸にたてかけてある洗ひ鍬寒の入日を鋭く反す        斉藤 健爾
  残雪の山見てあれば蝶一つ漂ふごとく眼の前を過ぐ         斉藤 健爾    せめて年一度の逢ひをと七夕の夜更けに亡き子を妻言ひ出しぬ    粂野 為逸
  涅槃会を戻る野の道足裏に地のぬくみあり亡き子おもほゆ      粂野 為逸    育林のコンクールへの出品地へ査定に出でたつ秋風の中を      砂田 清哉
  高冷地大根畑の空すみてこほろぎはここにも秋を告げをり      砂田 清哉

 その間、佐藤佐太郎の「歩道」に加入した藤原弘雄・香川末光・山上次郎らによって愛媛支部を結成。機関誌「歩道えひめ」の名乗りをあげるとともに、発行人に新居田夫(十に匕)武、編集人に越智敏見をあてて、すでに通巻第一〇〇号に余り、その勢力は大三島・宇摩郡土居・今治の乃万・越智郡の波方・大西などに伸びている。
 また越智郡の島嶼部を占めて、伯方の織田悦隆を主軸に、大島の八塚孝子・村上光子らの「原野」がある。通巻第一〇〇号をすぎて、いまも浪漫的歌風の振興につとめている。「原野」は前川佐美雄の「日本歌人」の系統に属し、もう二〇年近くの古い誌歴を持つ。

  金柑の実にも暖冬の変異あり果皮ふくらみて辛みさへなし      香川 末光
  雨のなき冬の日つづき乾きたる川原の砂を雉が浴びゐる       香川 末光
  谷あひの狭き室より来るひかり雪の川原はさながらきよし      新居田 夫(十に匕)武
  雪の上にあはれなる青横たはる崖より落ちし氷柱にして       新居田 夫(十に匕)武
  岩風呂の灼熱したる闇にして思ひ単純に耐へつつゐたり       越智 敏見
  岩風呂に身を焼き耐ゆるしばらくののちに満潮の渚に走る      越智 敏見
  音たてていくりを越ゆる潮流はあらき光となりてひろがる      藤原 弘雄
  遠白く転流の潮見えながら入江はさびし紺ふかき海         藤原 弘雄
  硝子戸に雨光り降る夜明けがた数知れず梁より降りくる気配     織田 悦隆
  昨日見し引かれゆく牛の涙眼をなんのため思い出でしか知らず    織田 悦隆

 「潮音」系の進出

 「潮音」に属する伊与木南海の主唱により、松山に「にぎたづ」の登場を見たのは昭和二五年九月、この周辺には伊藤泰博・古茂田君子・高木実・斎藤良枝・高橋照葉らが集まった。もちろん、戦前に出たことのある「にぎたづ」とは全然かかわりなく、今度の場合は「潮音」の系統をはっきりとさせて、太田水穂や四賀光子の影響をほしいままにした。かくして「にぎたづ」の地盤が固まり、その頃として県下で唯一の月刊歌誌の風格を備えたものである。

  橋一つ紅葉の山にかかりゐて湛ふ水は空とてりあふ         伊与木 南海
  越えて来し峠仰げば梅雨の雲低くしたれて見えわかぬかも      伊与木 南海   シルクロードの東端は日本千余年の昔牡丹も絹も渡来す       高橋 照葉
  淋しさを掬ふ形に夕風の吹き来よ六月のさやかなる風        高橋 照葉    ためらはず吐かれし言葉打ち拂ひおもひを変へて菊の水やる     古茂田 君子
  小鋏の鈴の音やさしそのひとのおもひ一つを胸に秘めもつ      古茂田 君子 

 たまたま、昭和三一年一一月、伊与木の逝去にあい、主宰者の後任に大野静を推輓、ここに「にぎたづ」は中絶することを免れて、その陣容をあらたにした。即ち「あさひこ」にいた高橋照葉、「橄欖」の五百本小平をはじめ西川喜代水・田中美代・林いわを・瀬川茂子・倉田幸子・菅野寿々江・沖野水城・斉藤冨海子・大西幸子らを数え、「潮音」一色より各派総合的な性格を示し、会員は全県下に及んだ。昭和五四年一一月には創刊三〇周年を記念、「潮音」の太田絢子を招いて盛大な短歌大会をひらいた。その後編集の一切は大野を補佐して大江昭太郎、関谷百合子、曽根篤子らが協力、第三四巻をかさねている。
 なお「にぎたづ」より東京に出て名を成した歌人に小野興二郎がある。

  落葉せし街路樹もけさ雪降ればしばしながらに花やぎを見す     大野  静
  高山に白く残れる白雪ありてあしたあしたの心を照らす       大野  静    夕ぐれの庭木に篭り啼く禽の一羽ならぬを耳にやさしむ       西川 喜代水
  天わたる一所不在の白雲のこころを思ふ息づまる世に        西川 喜代水   気圧さるることのみ多し若竹は天に至りて開くみどり葉       林  いわを
  山里に離れて住めば良寛さまのやうに野鳥におのづ親しむ      林  いわを   うす紅の山茶花に透く秋の陽につぐなへざりし過去を羞しむ     倉田 幸子
  冬庭に深く埋づめむ来む春を満たすアネモネの小さき球根      倉田 幸子    かなしみを容るる器の小さければ神はわが母にみみしひ賜ふ     大江 昭太郎
  巻きしめし移植の樫にふきいづる芽の赤ければ苦しかりしか     大江 昭太郎

 子規五〇年祭

 子規の死後五〇年をむかえた昭和二六年、松山市では命日にあたる九月一九日から四日間、子規の遺した功績を追慕して五〇年祭の法要と、これを記念する講演・短歌・俳句の大会・その他の行事が営まれた。この祭典には子規門下の高浜虚子をはじめ漱石門の安倍能成、また子規にゆかりを持つ鈴木虎雄(葯房)アララギの土屋文明、俳人中村草田男ら錚々たる顔ぶれの列席を得て、五〇年祭の名にふさわしい盛大な追悼が行われた。特に短歌大会は、四〇〇人近く参加し、土屋文明がその指導をした。

 「愛媛アララギ」の発足

 「いづかし」を下敷きにして「櫪林」(見奈良の愛媛療養所)、「東雲」(松山)の三誌を併合して「愛媛アララギ」が発足しだのは昭和二七年七月、以来県下のアララギ会員をあまねく参加させて、ことし第三二巻、編集責任者は創刊より現在に至るまで弘田義定が担当している。最初は「いづかし」の項で紹介したメンバーのほかに大久保福太郎・高木善胤・泉百彦を加え、更に妻鳥通教・矢野伊和夫・岡田弘・武市博・武田鈴江・久保七郎・川本正子・武市公子らの新人により、作歌の上に活気を注入した。
 「アララギ」は、子規を源流としながらも、愛媛に於ては容易に振るわず、大正の初期に斎藤茂吉、島木赤彦に師事した吉田の上甲蓼果(本名万吉)ら二、三を数えるのみであり、次いで既述の東淳造らを挙げるにとどまる状況にあった。折から子規五〇年祭のとき、土屋文明の来県に刺激されて年々に隆盛を招来した。
 「愛媛アララギ」では未来を大きく期待されながら、若くして逝った兵頭定久(津島)・太田道夫(東予市)・野村順道(重信)らが惜しまれる。又、特筆すべきは晩年盲目の身をもってアララギに精進、すぐれた作品を遺した広瀬芳夫がある。若くして土田耕平に傾到、今治地方で歌誌発行、多くの子弟を育成した。

  ふゆくさの鉢あけてあらたに入れ替ふる腐葉ぬくしわが掌に     弘田 義定
  蔓草のたぐひ枯れたる林の中夕づく光に胸しづまりぬ        弘田 義定    つつがなき旅をと草茶に梅干を入れてたまひし母の恋しも      中本 幸子
  燈臺の道に実生のをさなき櫨草にまじりてくれなゐの映ゆ      中本 幸子    吹かれ来て黄色き蝶のあはあはと芙蓉の花をめぐるやさしさ     浅井 俊治
  今年また枯れし枝切る馬酔木なれど赤き花芽のさはさはとして    浅井 俊治    売れざりし砂糖黍積み夕暮れの野道帰りき少年われは        大久保 福太郎
  朝焼の赤く匂へる町の上にかそけく白き月かかりをり        大久保 福太郎
  朱を帯びし寒蘭の花にしばし寄り旅遠く来し疲れを覚ゆ       内山  直
  かかり来る電話もなくて長き午後コーヒーを作り一人飲みたり    内山  直

 「流域」と「川霧」

 「青垣」の主宰橋本徳寿を松山にむかえたのは昭和二二年六月、このときから愛媛青垣会の本格的活動がはじまった。同時に機関誌「流域」を発刊、営々としてこの歌誌は五年間つづいた。参加した会員は猪川喬興・三好けい子・大田正志・正岡一行・松木久、それに小川晴江が有力な「流域」のスタッフであった。この機運に乗じて再び橋本徳寿を招き、松山に四国青垣大会をひらいたのは昭和四〇年一一月。小川の離県などにより「流域」は終刊のやむなきに至ったけれども、右に述べた会員の大部分はいまも「青垣」の中堅的存在として重きをなしている。

  人よりも寂しきすがた枯蓮の茎折れたるは吹かれやすしも      猪川 喬興
  伏流はここにわきいで枯葺の下ひとはばに水澄みにけり       猪川 喬興    広広と続く刈田の果てにして水光りなく湛へたるみゆ        三好 けい子
  谷上嶺に雲とどこほる午後となり刈田は翳る山のかたちに      三好 けい子   酔ひしれて乗りし終電に発車待つ足もと温き空気うごくも      正岡 一行
  虎杖の小花全身に降りかかる杉より伸びし虎杖を刈る        正岡 一行    湧き水のつひに絶えたる池の辺に細々として愛媛アヤメ立つ     大田 正志
  刈り終えし田の畦くろに残りたる大豆に寒き風吹きわたる      大田 正志

 大洲の「川霧」創刊は昭和二七年。尤もこの母体である「川霧短歌会」は、明治の頃に近田冬載の起こした菅根会のあとを継いで昭和二三年に発会、伝統の古いものである。村井幽果を指導者に、徳田義範・梶原幽泉・門多かめ。これに大月満前らを加え、大洲地域の後進を育成した。即ち弘岡操・戸田友輔・藤木美智子・安武波津らがそれである。
 「川霧」の出るまで「蒼穹」「微風」「水郷」など相つぐ歌誌も見られはしたが、結局は昭和三二年の終刊まで「川霧」の果たした役目は著しいものがあった。
 村井幽果は大正一〇年「あけび」の創刊に応じて逸早く入会。花田比露思の鉗鎚をうけながら作歌に精励。県下では少壮歌人として大正時代から注目されていた。晩年は「あけび」選者の一人として有力な地位におかれていたことも見逃せぬ。大洲市若宮の出身、昭和五〇年六月、八一歳で永眠した。
 「川霧短歌会」は現在往田進(「歩道」所属)が指導にあたっている。

  わが宿の庭を埋むる柿若葉みどりのひまに花つけにけり       村井 幽果    やま水をひきたたへたる池のべに咲きつつましき山吹の花      村井 幽果    桑の芽の延びいちじるし安寝せで蚕飼ふべき時ちかづきぬ      村井 幽果    世にうとく望すくなきこれの身に着れば親しき木綿の綿入      徳田 義範
  わきたてる青田の水に踏み入りて田草取るなり今日の日中も     徳田 義範

 「群島」と水沼短歌会

 昭和二九年八月「群島」の第一号を世に訴えた北宇和郡三間町の岡本利男は県下に於ける気鋭の歌人と目せられた一人。当時のアララギ傾向に反発して「群島」の在り方に恃むところがあった。その頃、「リアリズムを基盤とする新しき詠嘆」を指標にした「砂廊」の大野誠夫が同誌をバックアップした。大野、岡本両者の相呼応する気概の下に共鳴して地元の岡本景一・石井重季・高田益枝・南宇和郡御荘の梶原杉夫・喜多郡の水落博(現在香川県)また高知、徳島からも出詠相ついだ。その間、岡本は精力的に大量の作品を毎号に発表、壮絶に近い活動ぶりも、結局は息のつづかぬままに「群島」は短命に終わった。昭和三一年八月休刊。
 これより先に、同じく三間地域において昭和五年に「水沼短歌会」設立。二宮正明を世話人として河本大定・兵頭佐一郎・兵頭友枝・毛利元礼らが名をつらね、昭和四五年には一〇周年の記念誌「水沼」を発行。その後も毎月歌会を継続している。大野誠夫の系統にはいま「作風」に拠る今治の高橋佑太郎らがある。

  はだか木の影くろくしむ冬の地うつむきかへる今日も疲れて     岡本 利男
  カンテラをともしてひさぐ椎の実を買ひポケットにしのばせてをり  岡本 利男    田植するわれ等にかかはりなき如く宣伝自動車楽流しゆく      岡本 景一
  刈りたての坊主頭にすがすがし青田吹きくる土用晴れの風      岡本 景一

 「吾妹」と「コスモス」

 「吾妹」の主宰生田蝶介を迎え、宇和島で大会をひらいたのは昭和二九年八月、地元の
支部会員その他五〇名出席した。「吾妹」と宇和島のつながりは古く、昭和一五年の清家
正子・古島きやう らの出詠にはじまる。ついで山内操・浜木みつぎ・都能敬子・佐々木多代・羽田野千鶴ら、現在は友沢喜與子が中心となり、活発な動きを示している。この間、生田蝶介は昭和四二年三月再度宇和島を訪れるという工合に縁故の深さを思わせるものがある。昭和五七年には松山支部が生まれて土居さとほか多数の会員を指導している。

  竹筒に椿一輪活け終えて思ひ冴え来るきさらぎの宵         清家 正子
  遠足に撮りし写真は逝きし児も大きおにぎり持ちて座れり      古島 きやう

 「コスモス」短歌会の愛媛支部ができたのは昭和三二年。西条の田坂保・田坂幸・今治の竹田正夫・玉井多寿子・東予市の日高筝風・新居浜の神野雅夫・松山の藤田美佐子・八幡浜の菊池初美ら加入。昭和四九年一一月には中央の主宰者宮柊二来県、四国のコスモス大会を松山に於てひらくなど、その後も定期的に研修会をくり返し、愛媛の地に深く根をおろした形である。機関誌としては高知、香川、徳島各支部と連携して毎月、「珊瑚礁」を発行している。
 なお、長浜町出身の高野公彦は「コスモス」の発行所にあって編集に従事、中央の歌壇では新進気鋭の一人として声名をたかめている。


  太き足ふまへし楠の仁王像その肌の皸無数に走る          神野 雅夫
  取水の制限きびしくなりしとぶダムの汀の乾きて白し        神野 雅夫
  丈低き石鎚笹が埋め尽す氷見二千石原霧冷えて飛ぶ         田坂  幸    荒れざまに雨降らしたる雲黒く片空へ去り巨き虹たつ        田坂  幸

 「南うわ」と「さわらび」

 南宇和郡は本居大平の門下として二神永世・岡原常島・小幡如水らの傑出した歌人を持つ伝統の土地柄である。さきに出ていた「くさの葉」もまたこの伝統を受け継いだ一面のあったことを指摘せねばならぬ。昭和四七年に発刊された「南うわ」もまた同じことが言えるであろう。本田南城、吉田信保、土居清を編集担当者として、岡添勉・入多泰・浅井俊治・佐藤房子・宮下甚太郎・光井芳子・西かつみ・入多渥美・石河梅野・井村操ら参加、「覇王樹」・「にぎたづ」・「アララギ」などの各派を交じえ、「南うわ」を堅実に守りつづけて一〇年、季刊ではあるが、第五〇号を目前にひかえている。
 「さわらび短歌会」は一本松町の主婦を中心に結成。この主唱者は橋本俊夫、みずから先達の役を買い、「さわらび」の育成に全力を注いだ。昭和五七年一二月橋本死没のあとも、故人の遺志を継いで「さわらび」短歌会はいまもつづいている。橋本俊夫は始め「香蘭」に属し、のち「にぎたづ」に参加。重厚な歌人として郷土の信望をあつめていた。

  秋立てば心わびしき夜明けにて咲く朝顔の紅も小さく        橋本 俊夫
  金なくて死にゆくドラマ見て居つつ桁が違ふと妻のつぶやく     橋本 俊夫    研ぎ上げし庖丁町寧に拭へよとわれに言ふ子の夫に似て来ぬ     光井 芳子
  道の上にさしかかりたる合歓の花今日のくもりに花閉ざし居り    光井 芳子

 その他の短歌団体

 機関誌を持たぬかわりに、地域的な活動をしている短歌団体として、その主なものを並べてゆくと、川之江伊藤澪子・和田真佐子らの「みどり会」、新居浜粂野為逸・秋山重晴らの「にいはま短歌会」、同じく斉藤冨海子らの「造型」によるグループ、西条の有吉菊一・真鍋充親らの「立春短歌会」、越智郡岩城村の沢村治子・岩井寛子らの「むつみ短歌会」、大西町鴨頭咲子らの「弓杖短歌会」、菊間町岡田政子らの「みなかみ短歌会」、松山では白潟せつのらの「浅紅短歌会」、東宇和郡宇和町中平周三郎の「宇和短歌会」、北宇和郡津島町岩城忠らの「つしま短歌会」などがある。この内「アララギ」・「潮音」・「にぎたづ」・「歩道」・「コスモス」・「星雲」などに属する地域歌会は省いた。

 総合団体

 総合団体としては、昭和三七年一〇月に発会した「愛媛歌人クラブ」。県下一円の各派会員を傘下におさめて初代会長佐伯秀雄、二代会長大野静、昭和五一年から会長弘田義定就任、現在に及んでいる。これを支える形において東予歌人協会は昭和四五年五月に設立、初代会長に藤原弘男、ついで有吉菊一、粂野為逸のあと山上次郎が継いでいる。中予地区は松山歌人会(会長弘田義定)、また南予歌人クラブは内山直を会長として、以上三ブロックによる県下統一の形態がとられている。

 歌人往来

 昭和二一年一月、大阪の大村呉楼、鈴江幸太郎が宇和島に来てアララギ会員を指導。昭和二二年一〇月、土屋文明は周桑郡丹原町の西山興隆寺に於ける歌会に出席。次いで昭和二六年九月、松山の正岡子規五〇年祭に招かれて来県、三〇〇人を越える盛大な記念短歌大会に臨んだ。橋本徳寿は昭和二二年六月松山の「青垣」大会に、ついで同四〇年、四三年にもやはり歌会のために来ている。
 昭和二六年一二月には柳原白蓮をむかえ、愛媛奨弘会中心の歌会をひらいた。生田蝶介は昭和二九年八月、宇和島の「吾妹」大会で講演、同四二年三月再度伊予の地に足を踏み入れて宇和海岸の法華津峠など探勝。昭和四九年一一月には宮柊二来県、松山の「コスモス」四国大会に出席した。
 この間、佐藤佐太郎は昭和二四年、今治の歩道会員に招かれて、西条市大保木の古刹極楽寺を尋ねたりしている。又昭和四〇年には来島海峡にあそんで「渦潮」一連の歌を遺し、翌四一年九月にも県下の大会に出席。その後も土居の山上次郎を訪ねて一泊している。吉田正俊は昭和五七年の五月松山の「アララギ」歌会をすませたあと、宇和島の城山・天赦園、北宇和郡日振島村に藤原純友の遺蹟を見た。また小市巳世司は昭和五八年五月松山、宇和島を経て足摺岬に遊んだ。
 また、「愛媛歌人クラブ」の毎年ひらかれる大会の講師として岡野直七郎(蒼穹)・太田青丘(潮音)・山本友一(地中海)・木俣修(形成)・生方たつゑ(浅紅)・高安国世(塔)・近藤芳美(未来)・清水房雄(アララギ)・馬場あき子(かりん)・宮地伸一(アララギ)・上田三四二(新月)・高野公彦(コスモス)らが来県している。