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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

第三節 川柳

 川柳

 川柳は俳句とともに日本の短詩型文学として多くの作家・研究者に親しまれてきた大衆詩といえよう。その初めは「前句付」の独立したものであった。七七調の題句(後句)に対して五七五調の前句を付け句するもので、その狙いは俳諧付け合わせの習練のためのものであった。山崎宗鑑『犬筑波集』に、(題句)切りたくもあり切りたくもなし、(付句)盗人をとらえて見ればわが子なり、とあるのが好例といえる。宝暦七年(一七五七)以後「月並万句会」といわれる前句付の刷りものが発行されるようになったが、なかでも柄井川柳選句のものが好評であった。川柳点評の「川柳評前句付万句合」のなかから付け句のみで独立しうるものを選んで明和二年(一七六五)に呉陵軒可有が「誹風柳多留」を出刊した。可有はその序文に「:こ句にて句意のわかり易きを挙げて一帖となしぬ なかんづく当世誹風の余情をむすべる秀吟などあれば いもせ川柳樽と題す…」と記している。この「柳多留」が〝川柳点〟という短詩型文学形態の名称となった。しかし、以後刊行された川柳句集は柳風狂句・柳多留・新柳樽・開化柳樽・新選柳多留・絵本柳多留・滑稽発句屋奈機樽・川柳狂句柳樽・明治柳樽・狂体句集などの題名が冠された。柳多留(柳樽)が〝川柳〟となるのは明治三〇年頃以降とされる。しかしながら当時の新聞は、新風俗詩(電報新聞)・新題柳樽(日本新聞)・瘤柳(読売新聞)・新編川端柳(やまと新聞)・狂句(萬朝報)の名称のもとに川柳欄を設けていた。なかでわずかに都新聞のみが〝川柳〟と呼称していた。
 明治三六年ごろ坂井久良伎・井上剣花坊が、のち岡田三面子・田能村朴念仁らが加わり、川柳誌・川柳句集を出刊し川柳復興・新川柳運動をはじめ、全国各地の新聞社に協力を求め川柳欄の設置を要請した。

 暁雲黎明ー明治期-

 久良伎・剣花坊の川柳欄開設・川柳募集の要望にすばやく応じたのが海南新聞であった。明治三九年のことであった。当時、海南新聞には川柳愛好家田中七三郎がいて時雨子・時雨楼と号して作句していた。このいきさつを越智二良(柳号・緋威子)はつぎのように回顧している。

  …県下で初めて川柳欄を設けたのは海南新聞であった。これは明治四〇年のころで窪田而笑子を選者として連日その選句を発表したが、これは当時編集長であった田中翁の発意に依るものである。地方柳壇草創の時代だけに「川柳とはどんなものか」から講釈せねばならぬほどで、地方には殆ど普及しておらず、作者も多くなかったが、翁自身「時雨子」と号して川柳作句に励みその発展に力を注いだのである。翁の話に依れば、初め読売新聞の田能村朴念仁の選を希望したが、多忙の故を以て而笑子を推せんして来たとのことである。ところがその而笑子が熱心家で、身ぜにを切って賞を懸け奨励につとめたので、一時は俳句を圧倒するほどの隆盛ぶりで、愛媛新報・伊予日日新聞もこれに敬い、井上剣花坊・今井卯木らを選者にして柳壇を設けるに至った。しかし最も盛んだったのは海南新聞で、紙上発表のほかに、毎月川柳研究会を開いていた。また海南新聞社内の研究会(藤井藤吉郎・野本楽笑子ら)をはじめ、柳絮会(小山哲笑子・藤野川影子ら)その他の団体も生まれて毎週のように句会が催され、順次県内各地に普及して今日の隆盛に及んでいる。思うに愛媛柳壇は翁の努力に依ってその基礎が築かれたと言っても誤りは無いであろう。…

 海南新聞は明治三九年九月の創刊三〇周年記念行事のひとつとして「懸賞付文芸大募集」を企画発表し、川柳をも募集した。選者は窪田而笑子であった。天地人(三句)、佳作(一九句)、平抜(二〇句)、軸吟(四句)が発表された。天位〝二度は嘘三度よもやで貸してやり〟(耕石)、地位〝今度のが三人目だと下女小声〟(胡妥子)、人位〝離縁状二度も三度も反古になり〟(志流)。〈三・十・年の一字読み込み課題〉。このときの応募者は四、五○人であったと推定され、寒川風柳会・松山連学会・泉柳会(西条市船木)の団体作品もあった。この年一二月、愛媛新報は小野甘突を選者として(のち、西田当百)川柳欄「新柳樽」を設置した。伊予日日新聞が今井卯木の選で川柳の募集をはじめたのは明治四一年である。海南新聞社主催の海南川柳研究会の句会が松山市唐人町の観音寺で開催されたのは明治四〇年一〇月二三日で、これが県下ではじめての川柳句会とされる。
 南予ではすでに明治三八年ごろから安波半我・井上目角子・兵頭楽好子らが読売新聞に投句していた。「二六新聞」在社中、久良伎と熟知の間柄であったと思われる南予時事新聞社長の小林儀衛は久良伎の川柳雑誌「五月鯉」の社友でもあり柳号を葭江と名乗った。南予時事新聞も川柳壇を設置し、明治四一年五月には光国寺を会場として川柳大会を主催した。翌四二年には進柳会(舞笑子ら)・与南川柳会(目角子・半機ら)・潜龍会(南予時事社員・投句者ら)が、四二年には読売川柳研究会宇和島支部が発会した。このころ吉田川柳会(読売支部)も吉田狸・小西柳好らを世話人として発会した。煎茶会(明浜町高山)は明治四一年に発足し、二宮蛙念(柳号・一天張・浮塵子)は、明治四三年一月、県下の川柳雑誌の最初である「煎茶録」を発行した。なお、「柳人蛙念句集」(久保高一編)は昭和五六年に刊行された。
 「角力吟」をはじめたのは海南新聞柳壇である。而笑子の軍配捌きに興味が持たれた。明治四一年、松山に柳絮会・研柳会・海南川柳同好会の三団体ができた。柳絮会は少壮の、研柳会は熟年の、同好会は理論派の会員を擁してそれぞれの長所を発揮して確執するところはなかったという。明治四一年、柳絮会は研柳会に(一月一〇日)、同好会に(一月二六日)「挑戦状」を発した。研柳会は「柳絮会に答ふ」(一月一六日)、同好会は「応戦状」をもってこれに応じた。研柳会(東)対柳絮会(西)の句角力結果は二月五日の紙上に発表され、東一勝・西三勝・一分で柳絮会の勝であった。ちなみに越智二良は、やなぎ丸(緋威子改め)として西・柳絮会の関脇として登場し白星を挙げている。題・リボン…×お清書の出来がリボンの数となり(派上使)=扇風機リボンとけたりもつれたり(緋威子)○。対同好会との結果は二月末に発表されたが柳絮会が三対二で敗北している。柳絮会は宇和島読売川柳同好会、鳥取米子の読売川柳支部とも交歓試合を行っている。米子との結果は一勝一敗六分であった。題・紅葉、合評者・天涯子、柳影子で、越智二良はその唯一の勝者である。○大原女枯木に紅葉さして来る (松山緋威子)=紅葉狩帰りに一つ撞いて見る(米子香水)×。
 読売新聞は「読売川柳研究会」を設立し各地方に支部を設けた。明治四二年七月松山支部が、一〇月宇和島支部が結成され、而笑子主宰の「川柳とへなぶり」を機関誌とした。しかしながら松山の三新聞紙の川柳壇掲載回数が減少するとともに川柳熱は冷めはじめた。蛙念入営のため、「煎茶録」は藤井藤吉郎が北九州小倉に転出後、県下の柳人を対象とした「轡」が継承し六号まで刊行した。明治の末の県川柳会は火が消えたかの観を呈する。宇和島でも南予川柳社(住谷蛸夢郎・安波半我・井上目角子・茅田五風ら)が結成され明治四四年八月「絮」を発行したが三号を刊行して消滅した。

 柳運間歌ー大正期-

 窪田而笑子は県柳人を主軸とした柳誌出版を企画し、大正元年八月一五日「新柳眉」を発行したが大正二年三月で終わった。これは当時県下の柳人たちの間に雑誌発行の計画があったことにも原因があった。松山連隊の陸軍中尉安井八翠坊・岩崎不関焉・大窪文芳・藤野近眼子など県下柳人こぞって参加し柳誌「凩」を発行したのは大正二年一月であった。「新柳眉」の休刊は「凩」の発行によるものといえるが而笑子は「凩」の選句・句評を担当し拘泥するところがなかった。「凩」の巻頭言にいう。

  …真川柳研究のため公開せられたる試演場なり。(略)蓋し同人は、健全なる覚悟と、真摯なる態度を有す。然も、大なる抱負の下に、清新なる趣味を頒ち、且つ現代的情緒の横溢によりて、自然に選出せらるる短型詩の真髄を味わわんとするに外ならざるなり。川柳は詩なり。然り、詩たると共に、川柳はその独得の詩型と其真髄あることを知らざるべからず。これ即ち川柳の俤なり。(略)吾徒が描写せんとするは、剴切なる人生問題なり。吾徒の購わんとするは、真面目なる現代的情緒より来る所の清新なる興趣なり…

 川柳の新理想を掲げてその志向する本格的な川柳誌「凩」は大正四年七月の終刊まで二九冊が継続刊行された。
 今治では明治四三年、読売川柳支部を正岡仏手柑が設けたが活動はなく、これを今治川柳吟社に発展させたが句会・会誌の発行もなかった。県内の川柳活動に刺激された形で大正三年八月、市内中浜町の村上雁来紅宅に会合した柳人たちは「川柳番茶会」を結成した。仏手柑は当時の、読売支部長、今治吟社会長であったので「番茶会」の会長には雁来紅が就任した。しかしこの時の柳人たちは殆どこの川柳三団体の会員であったので時に応じて団体名を使いわけていたのであった。型破りなもの・滑稽なものを目指し、雁来紅を編集担当者、谷川止水と斧蟷螂が助手となり大正四年五月「番茶」が発行された。
 棟田石鉄子主宰、大野寸笑子顧問の久万町の紅葉会が柳誌「楓」を発行したのは大正二年九月で、三号からは「かえで」と改題し八号まで発刊した。伊予市郡中の五色会の桑原皀角子が会報的な句集「五色」を発行したのが大正三年二月であるが、四年五月二五日第三号を出して廃刊した。この年三月には松山市垣生の中矢盛重が「笛」第一号を発行した。花岡百樹が選句を担当した。同年七月、第四号を出したが以後休刊している。周桑地方では大正三年ごろ三好喜楽指導の石根吟社があって小松町明穂三島神社新築記念奉納川柳句会の入選句を奉納額としてとどめている。「凩」が発行を停止したのは大正四年七月十二日発行の第二九号が最後である。編集・会計・発送のすべてを担当していた八翠坊が軍務多忙のためどうにも始末がつかなくなったからであった。以後、大正五・六・七年は県川柳の冬眠期で活動は全く停滞した。
 大正八年、海南新聞は新年文芸を募集した。川柳は正岡仏手柑の選であった。〝青空を額ぶちにして天守閣〟(鹿の子)とある入選者は酒井大楼の川柳の第一歩である。三月、前田五剣の名が活字になった。このころ三瓶町に「南海川柳社」が生まれ回覧誌を発行しはじめる。大正九年、海南新聞川柳は再び而笑子選となった。五剣・大楼・文芳など新進柳人の台頭は俳誌「媛柳」の発行をうながした。而笑子はみずから鉄筆を握り終生柳誌「媛柳」発行に情熱を燃やしつづけた。県下柳人もまたこれを支持後援し、松山(佐方楽天子)・宇和島(安波半我)・今治(村上木寅子・のち源氏)に支部を設けた。
 南予の一本松町で、西草之介・宮下中将湯が秋布・瓢六・砂丘草・枯すゝき・孤星・五郎丸らと「骨壷社」を組織して柳誌「骨壷」第一号を発行したのが大正一一年十月であるが、一三年五月一五日発行の第六号で止んだ。
 大正一三年、大楼・孤柳子・玄々子・かき松・喜峰・近眼子・楽天子・天津坊・貫堂らはすでに中堅作家となり、五剣・早柳は而笑子と交互に海南新聞選者として新人の育成指導に任ずるに至る。この年、西条市にも川柳会が結成され友納寒山が柳友とともに氷見神社に川柳額を奉納し、伊予三島市では森実九天・石川小鯛・合田柳水・森夕映らが「八綱川柳会」を組織し句会活動を始めた。松山市石井南土居の岡田広稔が編集人となっている柳誌「黒髪」第一集創刊号が五剣・優笑子を選者として発行されたのは大正一五年一月で、河本南牛史は比男呂久の柳号で見えている。第二集(卯月号)、第三集(六月号)をもって終刊となった。
 五剣が五健と改めたのは大正一五年十月、秋山好古将軍との道後鮒屋旅館での会談で、「質実剛健、進取不倦」を頂いた以後である〈川柳雑誌(昭和二年三月)アンケート回答記事〉。昭和二二年九月七日、大洲市粟津の「かじか川柳会」が聖臨寺で大会を開催したとき大洲市の今川椋影が五健の衰弱を見て「全川柳人が杖となって支えたい、五健の『五』に人杖を添え『伍健』と改めて頂きたい。」と発言したのに対し、「『五健』は秋山将軍から頂戴したものであるが厚情を素直にお受けして人杖を頂きましょう。」と述べ、以来〝伍健〟と改めた。昭和三五年二月一一日没、伍健院釈晃沢慈照居士がその諡である。

 柳誌叢生ー昭和前期-

 昭和二年、大阪の「番傘川柳社」が、四年に「川柳雑誌社」が松山に支部を設けた。一一月六日の松山番傘川柳会創立記念大会記は「番傘」一二月号にくわしい。この時期になると明治から大正初期にかけて活躍した川柳家の多くはほとんど影をひそめ新人の進出が著しく、作風も近代川柳に変わる。海南新聞選者・媛柳松山支部長・松山川柳会長・番傘客員・川柳雑誌客員としての五健の川柳活動が顕著となってくる。五健は、川柳が「真実の・情味の・美しき」詩であるとし〝川柳真情美〟を唱えた。
 窪田而笑子が昭和三年一〇月二七日、東京牛込の戸塚源兵衛町の自宅で逝った。享年六三歳であった。愛媛柳壇の黎明から昭和の初めまでその指導を担った而笑子の死は衝撃であったが、この時すでに五健は而笑子を継承するに足る力量を貯え来っていたかに思える。「媛柳」は而笑子の死去によって九三号をもって廃刊されたが、五健その遺業を継ぎ「松山媛柳社」を結成して『一糸集』(而笑子作品集)を出版するとともに「而笑子忌」を催しその功績を讃えた。『一糸集』は〝文金の一糸乱れぬ三ヶ日〟にもとづくもので、而笑子の句・論説・川柳観・日記・随筆などを収録して昭和四年六月に刊行された。一部実費八〇銭、送料四銭であった。
 吉海町津倉で「真槍川柳会」をおこし、「内海川柳会」と称し「津倉川柳会」となる結社を組織した村上源氏(木寅子)が柳誌「笹龍胆」を発行したのは昭和四年五月であったが、健康すぐれず一二月の第六号をもって終刊号とした。小康状態をとりもどし五年六月二五日「錦亀」第一号、七月二〇日第二号を出したが以後は続かなかった。遺句〝人生を半分無駄に過ぎただけ〟をのこし、昭和六年八月三日死去。行年三〇歳であった。
 吉田町在住の安波半我は芝杏坊らと「犬の尾吟社」を創立し雑誌「犬の尾」を創刊した。昭和四年二月一日である。四月・八月に第二号、第三号を出した。半我のいささか独走気味に対抗した「黒門川柳会」は「くろもん」を二月一三日に発行した。これは九月に第八号を出して終わっている。十月には両会は和解し「吉田川柳会」を結成し、秋田南柳の応募入選名による「柳誌九曜」を発行したが再び意見の相違を来し一二月の第三号で終わった。
 宇和島市で茅田五風・木下吟笑子・金沢欠伸(のち魚成華村)らは「宇和島柳会」を結成し、昭和五年五月「雀」を出した。その後「やなぎ倶楽部」が加入し「宇和島川柳会」と改称した。十二月、六号で挫折するが、主宰者五風は昭和六年三月「雀改題なんよ」(第七号)、五月(第八号)、七月(第九号)、九月には「道ははるけし」と題する第一〇号を自費出版したがこれで止まった。昭和六年ごろ、同市に「同笑会」と称する会ができ親睦句会を開いた。伊予三島市の「八綱川柳会」が再発足し三島神社社務所で句会を開き森実九天が会長となったのは昭和三年一〇月で参会者は九天のほか一三名、以後月例会を続けた。
 昭和六年ごろから県川柳会は五健・大楼の時代となり、川柳人口の増加に伴い各地で柳社が結成され柳誌が発行される。昭和六年、松山市に「ひかぶら吟社」、西条市に「槍さび吟社」が、翌七年には宇和島市に「鹿の子川柳社」、今治市に「吹揚吟社」、大洲市に「水郷川柳社」が新しく発足した。
 「ひかぶら」(ひかぶら吟社)は三浦秋無草と白石水樹が久間野松葉や岡田麦舟と協力して創刊した謄写印刷誌で麦舟が筆耕を担当し昭和六年一〇月に創刊した。翌七年九月発行の第一〇号から活版印刷となったが昭和九年三月の一八号で終わる。「槍さび」(槍さび吟社)は昭和六年一一月、荒井英賀夫が企画し越智虹二とともに創刊したが昭和九年一一月、第一四号をもって休刊となる。大洲市に「媛柳」支部が設けられたのは昭和三年一〇月、「肱川柳壇」の創立が六年一二月で丸本虚眠・花房南葉が中心となって句報「肱川柳」を発行したのが七年四月であったが虚眠の転出で八月に第三号を出したのみで終刊となった。「水郷」(水郷川柳社)は今川椋影の提唱によって昭和一一年三月に第一号が発行された。椋影の弟である今川春水が編集を担当したが七月に第三号を発行して止む。「鹿の子」(鹿の子川柳社)は同人である魚成華村・花岡桃水・村住月耕・是沢一浦・蛭子屋風山・斉藤光雨の柳誌で第一号が昭和七年一〇月一五日に発行された。吉田町の芝杏坊の祝吟〝朗かに唄えよ踊れ鹿の秋〟がすがすがしい。昭和一二年九月、四三号で休刊するが戦後再刊され現在に至る。昭和一一年春、刊行が行きづまった「鹿の子」に対し若山花精・酒井一茶らは「ほた吟社」を結成し柳誌「ほだ」を発行するが「鹿の子」の正常化に伴い七月の第三号で廃刊している。なお題字は月耕の書で創刊以来不変である。
 「今治吟社」は昭和六年、吉海町津倉の渡辺暁堂が今治市に転住し在間小楼を誘い、七年に暁堂・小楼・紫陽・十静・逸居・宵明・心府・小松・文庫が「吹揚吟社」と名付け句会活動をはじめた。昭和八年一〇月、「今治時報」が「時報柳壇」を設けたことや県立今治高女の石崎柳石、京大休学中の矢野虻の麿の参加も吟社の活動を刺激した。柳石は高師時代からの川柳研究家であり、虻の麿は京大での演劇部員であった。のち松高の生徒監になるが昭和三六年五月病没した。宇和島では森鶏牛子主宰の「三味線草南予の会」が昭和九年二月二八日に創立され、砥部町原町村では五月に門田九紫が「蛇の目川柳社」を組織し一〇年一月から雑誌「蛇の目」の発行をはじめたが一〇月に第九号を出して以後休刊となる。
 昭和一〇年五月、今治市では「番傘」読者、「時報柳壇」投句者を含めた「みすか川柳社」が結成され、柳誌「みすか」が六月から発行された。昭和一四年三月、第四六号を終刊号として、松山の「川柳伊予」と合体した。武田紫陽・矢野赫堂・西原一穂・和田仙海が継承して編集した。また原田一風編集による「今治柳壇自選句集」(一年六月二〇日)、「今治七人集」(一一年)、「南瓜の花」(一二年)、「車座」(一三年)、「戦車五号」(一四年)が引き続いて出版された。松山の芝田霊子が「川柳の松山」創刊号を出したのは昭和一〇年一一月一日である。
 昭和一四年正月、松山で川柳句会が開催された。矢野虻の麿(のち赫堂)が県下全柳人の参加する川柳誌発行を提案して一同の賛成を得て発起人代表で纒めることが決定した。県誌的規模のものを発行する企図のもとに県下各地の川柳結社の総結集を計るための交渉が行われた結果「川柳伊予」が四月に創刊された。昭和一八年五月より「川柳伊予改題、川柳八幡船」となり一八年六月、八六号で終刊号を迎える。この一四年には酒井大楼が〝弥陀の浄土は遠からぬ五月旅〟の辞世句をのこし五月一八日に死去、享年五一歳。また六月二二日には伊予三島市の森夕映が三六歳の若さで逝く。遺句〝肋膜と言わない方の医者にする〟〝限りない海の広さに糸を垂れ〟。
 「川柳伊予」は紀元二千六百年記念『川柳伊予総合句集』を刊行したが、昭和一五年一二月九日東京で開かれた「日本川柳協会」に愛媛川柳社も加盟する。この協会は「大日本文学報国会」に合流し、のち「大政翼賛会」の系列下に入り「大政翼賛会文学報国会川柳部会」と称する。前田五健は昭和一六年一月号「川柳伊予」の巻頭に「真とは心なり魂なり 情とは愛なり敬なり 美とは調なり色なり」の川柳目標を掲げた。「川柳伊予」改名「八幡船」の休刊後県内に柳誌の姿が消えた。戦争末期のきびしい状況のもとで、山本耕一路は矢野赫堂・伊藤楳子らと昭和一九年一月「川柳あゆみ」を創刊した。軍人療養所川柳会を対象としたものであったが同年一〇月には第一〇号を発行し、二〇年から「竹槍」と改称、以後「あゆみ」「竹槍」は重複発行されたが七月号の「竹槍」が二〇号であった。耕一路は戦後いち早く「あゆみ」二一号を一一月一〇日に発行し通巻六五号(昭和二八年一一月)まで続刊して後、詩誌「野獣」に継承させた。

 百花繚乱-昭和後期-

 山本耕一路が疎開先の松山市石井北土居五九一から発行した「あゆみ」二一号はまさに持続する魂そのものといえる。昭和二〇年の暮から二一年五月にかけて今治市「みなと吟社」、宇和島市「鹿の子吟社」、大洲市「水郷川柳社」・「かじか川柳社」、伊予三島市「八綱川柳会」が復活し創立され、川柳誌「鹿の子」が再刊された。昭和二一年七月一四日、耕一路主宰の「あゆみ」三〇号を記念して「愛媛川柳大会」が松山高等学校生徒集会所で開催され、大会後「愛媛県川柳文化連盟」が結成された。会する柳人は前田五健以下五三名であった。戦後「あゆみ」は次第に詩性の方向に進み昭和二三年には「詩性川柳、あゆみ」を標榜する。
 戦後の県川柳活動は混乱の世相のなかから新しい息吹をもって創生した芽生え、戦前からの伝統を復活させた逞しさの足音が強く響き、さらには日本の独立・経済的躍進・地方の時代・ふるさと運動など時代の変遷のなかで文字どおり百花繚乱ともいえる活況を示す。変容・変貌、栄枯盛衰、初志貫徹などさまざまな姿をも見受けられる。年を追い主な事象を追うことにする。長野文庫著『愛媛川柳の流れ』第四巻の川柳年表には次のような記載がある。数字は月を示す。

昭和二〇年…10「あゆみ」二一号発行 12今治川柳会発会(みなと川柳社)
昭和二一年…1鹿の子川柳社再発足 2水郷川柳社復活 5八綱川柳会再発足 7「川柳会」津倉支部発会 7あゆみ三〇号記念川柳大会 12『晴窓句集』第二集刊行
昭和二二年…1川柳文化連盟発足 2水郷社川柳大会開催 5美松吟社発足 5鹿の子川柳大会 5川柳「伊予路」発行 8川柳「みなと」創刊 9前田五健「伍健」と改名 9川柳「むつみ」創刊 9小女郎吟社創立
昭和二三年…1「あゆみ」が「詩性川柳あゆみ」と改称 3『晴窓句集』第三集刊行 4「川柳天地」創刊 10伍健句碑吉海町に建立 10さざなみ吟社創立 12「みなと」終刊 12晴窓川柳会閉ず
昭和二四年…1汐風川柳社創立「汐風」創刊 1オール愛媛川柳大会 7放送川柳相撲はじまる 7『みなと句集』
昭和二五年…1「川柳天地」休刊 4『汐風句集』第一号 4石鎚吟社創立 5大楼遺句集『五月旅』刊行 5川柳峠創立 6「まつやま」創刊 6芝杏坊没 8「川柳石手川」発刊 8『薫南集』刊行
昭和二六年…3片山青蛾没 9「川柳航路」創刊 12「鹿の子」五七号 「汐風」四〇号 「まつやま」一九号 「峠」 一八号
昭和二七年…1「小女郎」誌復活 2「あゆみ」誌復活 3「鹿の子」休刊
昭和二八年…1「鹿の子」誌復活 3おしぶ吟社・岩根川柳会・中萩川柳会発足 7富士紡川柳会発足
昭和二九年…5「槍さび」復刊 9「河童」誌創刊 12朝日新聞川柳欄(選者伍健) 11伍健句碑二基(銅山川畔)
昭和三〇年…3今治郵便局川柳会発足 11伍健句碑建立(西山興隆寺) 5田中七三郎没
昭和三一年…1灰皿吟社創立 5ふじぼう川柳会創立 7「水郷」再刊 11第一回四国川柳大会(西山興隆寺)
昭和三二年…3川内町もずく川柳会発会 4句集『灰皿』刊行 5伍健句碑建立(大洲城)、句集『一天快晴』出版
昭和三三年…8蛭子省三・鳴門帆舟没、第一回源氏忌川柳大会 10伍健句碑(石手寺) 11東洋樹句碑(興隆寺)
昭和三四年…1石井川柳会創立 2かえで川柳会創立、『たけし句集』出版 3紋太句碑(新居浜市) 5伍健句碑(新居浜市) 7鈴木菊城子没 10「峠」百号となる 12白石大観没
昭和三五年…1前田雀郎没 2前田伍健没 4武田桐翠没 9川柳裸吟社創立 11前田伍健追悼句会(興隆寺)
昭和三六年…2第一回伍健忌川柳大会 5矢野赫堂没
昭和三七年…2句集『野球拳』出版、村上とほる没 4川柳文化連盟再発足 5伍健句碑建立(伯方町)
昭和三八年…5加藤向水没、句集『春そこに』(紋々)、句集『あげ汐』出版 6林六山没
昭和三九年…5浜の和川柳会、うわ言川柳会発会 6NHKラジオ川柳文芸募集
昭和四〇年…2安波半我没 3『百句集』(鈴木房江)出版 4田坂病院川柳会「吾癒美」刊行 8岸本水府没 8句集『足あと』(上甲可州)出版
昭和四一年…8句集『酒』(堀内暁風)出版 9丸碆非風没 10句集『サルビア』(久米のぼる)出版 12柳誌「牛鬼」創刊
昭和四二年…3伍健句碑建立(伊予三島市) 4村田周魚没 5「つりはし」誌創刊、宵明・文庫二人一基碑建立(今治市蛇越池畔) 7三条東洋樹句碑建立(新居浜市) 8村上徹句碑(伯方町) 10河本南牛史句碑(松山市)
昭和四三年…5句集『道』(田中一軒)出版、句集『川柳楓糸集』(松沢鶴水編)出版 10赤星三周年記念句集刊行
昭和四四年…9「鹿の子」誌三百号 10鹿の子三百号記念句集「天地人」刊行 10紋々句碑建立(新居浜市) 11武知はじめ、米子映月没
昭和四五年…4句集『紋どころ』(紋々)出版、椙元紋太没、『水郷同人句集』刊行 10赤星五周年句集刊行 11清水白柳没
昭和四六年…4句集『あひるの声』(奥平小夜編)出版 5米子映月句碑(今治市)、「牛鬼」廃刊、柳原三多楼没
昭和四七年…1句文集『流人の国』(合田伍郎)出版 2句集『伊予がすり』(管野華泉)出版、高倉夕映没 11高倉伊棹没
昭和四八年…2伍健一三回忌川柳大会 5牛鬼川柳社主催予土川柳大会、句集『回転木馬』(馬越春樹)出版、句集『瀬戸』(山崎柳冬子)出版 6句集『天寿』(島田兼孝)出版、『愛媛川柳の流れ』第二巻(長野文庫)出版
昭和四九年…4川柳汐風総合句集刊行 8てかがみ川柳教室総合句集『ひめかがみ』刊行 7二官蛙念没
昭和五〇年…1句集『まるやま』(隣保館丸山荘寮生)出版、赤星一〇周年記念句集刊行、今川椋影没 6「ふじほう川柳会解散、句文集『あひるの歌』(奥平小夜)出版 7句文集『こころの栞』(篠原主一)出版
昭和五一年…3堀内暁風没 5句集『うぶごえ』(藤田綾子)出版、句集「九天の川柳」(森実九天)出版 7井関三四郎二五年忌川柳大会・井関三四郎句抄」出版、山崎柳冬子没 11句文集『病床散歩』(合田伍郎)出版、川柳紅寿会設立、野間新也没
昭和五二年…2渡辺義隆没 8川柳流点グループ創立(原田琲珈俚主宰)、ひろみ川柳の会創立 10流点グループ合同句集『流点』刊行 10句文集『あひるの足跡』(奥平小夜)出版 11日野起柳句碑建立(伊予市埜中神社)
昭和五三年…3句集『日々多忙』(蔦本昌道)出版、句文集『ほろほろ』(首藤一升)出版 8森実九天句碑(伊予三島市)

 愛媛川柳の現状

紙 川 柳 会  伊予三島市宮川一丁目合田修方   昭36年3月創立(大正15年創立の八綱川柳会を継承) 紙川柳近県大会 合同句集『紙川柳』 合田伍郎『流人の国』 森実九天『九天の川柳』 合田伍郎『病床散歩』 合田伍郎『人間の勲章』 伍健句碑建立 春日神社川柳額奉納 合田伍郎『芭蕉と寿員』  ○機関誌『紙川柳』
豊岡川柳会  伊予三島市豊岡町長田       昭和37年7月創立
  総合句集『おいとこさん』(第一集~第三集) 創立記念川柳大会(5・10・15周年)   ○会誌「川柳豊岡」
赤星川柳会  宇摩郡土居町野田 上市奥平小夜方  昭40年11月3日創立
  記念句集『赤星』(3・5・10周年記念) 奥平小夜『あひるのため息』『あひるの声』『あひるの歌』『あひるの足跡』 加地輝峰『あし跡』 森いわお「あゆみ」  ○会報「赤星」
峠 川 柳 社  新居浜市若水町 高橋紋々方     昭和25年4月創立
  近県川柳大会主催(昭25~) 伍健句碑建立 紋々句碑建立 句集『春そこに』『紋どころ』 ○機関紙「川柳峠」
さいじょう吟社  西条市四軒町 山内晴夫方      昭和33年(昭和6年創立の槍さび吟社を継承)
石 鎚 吟 社  東予市周布 武田一豊       昭和25年4月(周布公民館文化部)
汐風川柳社  今治市共栄町二丁目二       昭和24年1月(吹揚吟社・みなと川柳社を継承) 愛媛川柳大会主催(昭和30年・第1回~) 桜井国道協・市民の森に句碑建立 綱敷天満宮奉納額(七面) 総合句集(五) ○機関誌「汐風」
吉 海 吟 社  越智郡吉海町本庄 村上晴達方    昭和21年創立(笹りんどう社・美松吟社・津倉川柳会を継承) 源氏・伍健・大楼句碑建立 源氏忌川柳大会主催
菊間瓦版川柳会  越智郡菊間町         昭和41年創立(むつみ川柳会を継承)
川柳まつやま吟社  松山市湊町六丁目五 仲川たけし方  昭和25年6月創立(川柳伊予・八幡船を継承)
  愛媛県春の川柳大会主催(昭25~) 女性川柳の集い大会(昭和46年~) 仲川たけし句碑建立 ○機関誌「まつやま」
てかがみ川柳会  松山市大手町 愛媛新聞社(てかがみ教室)  昭和41年2月設立
  月報「ひめかがみ」 川柳句集『ひめかがみ』
さざなみ吟社  松山市古三津町 岡田麦舟方    昭和23年11月創立  ○句報「さざなみ」
むつみ川柳会  松山市道後一万町五~一〇 上岡喜久子方  昭和43年6月創立  合同句集『むつみ』 ○句会報「むつみ」
川柳裸吟社  松山市日の出町九~四〇 仲原光雄方  昭和35年5月創立  川柳大会(昭和36年~) ○川柳「裸」
川柳「流点」グループ  松山市喜与町二丁目 原田琲珈俚方  昭和51年9月創立  合同句集「流点」  ○会報「流点」
松山市老連川柳教室  松山市鷹の子老人福祉センター  昭和53年6月創立(川柳紅寿会・松山老人クラブ川柳部を継承)  ○会報「紅寿」
かえで川柳会  松山市若葉町五~四 松沢鶴水方  昭和34年10月創立  ○句会報「かえで」  〈休会中〉
くろかみ吟社  松山市石井土居町九六六 河本南牛史方  昭和30年創立
えくぼ川柳会  伊予市下吾川本村 西城戸綾子方  昭和45年3月創立  起柳句碑建立
砥部川柳会  伊予郡砥部町高尾田二〇三 高橋柳泉方  昭和49年創立  O「句会報」
水郷川柳社  大洲市常磐町 米沢暁明方        昭和6年12月(肱川柳を継承)
  川柳大会主催(昭和32年~) 伍健句碑建立  ○機関誌「水郷」
つりはし川柳会  喜多郡肱川町宇和川 谷本一敏方     昭和42年5月創立
  つつじ祭川柳大会主催(昭和47年5月~)   ○句会報「つりはし」
小袖川柳会  八幡浜市大谷口 本田以水方       昭和40年7月創立(八幡浜川柳会を継承) 平田三立子追悼句集  O「会報」
竹の和川柳会  東宇和郡野村町竹の内 兵頭まもる方   昭和39年7月
  『竹の和百号記念句集』『井関三四郎遺句集』大会主催(昭和45年~)  ○句会報「竹の和」
権現川柳会  東宇和郡野村町権現          昭和51年4月創立
道野々川柳会  東宇和郡野村町道野々         昭和52年10月創立
川柳宇和吟社  東宇和郡宇和町 宮崎七星方       昭和39年7月創立
  川柳大会主催 三島神社奉納額  O「句報」
城の和川柳会  東宇和郡城川町 大崎五葉方       昭和47年7月創立  O「句報」
川柳鹿の子吟社  宇和島市御幸町二~八~二 清家喜仙方  昭和7年10月創立
  川柳大会主催(昭和37年~) 総合句集『天地人』 芝杏坊句集『薫抄』  ○機関誌「鹿の子」
川柳よしだ吟社  北宇和郡吉田町御舟手          昭和48年4月創立   O「句会報」
ひろみ川柳の会  北宇和郡広見町近永 菊池青水方     昭和52年4月創立   ○句報「ひろみ」
牛鬼川柳会  南宇和郡城辺町  昭和41年12月創立 予土川柳大会主催  ○句報「牛鬼」 〈休会中〉