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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

一 近代詩への出発と口語自由詩(明治期)

 『新体詩抄』は明治新詩の出発をうながした。新しい時代にふさわしい新しい詩を創り出そうとする意欲をもって自覚的に試みられた訳詩・創作詩は、従来の伝統的な詩歌には見られなかった新鮮な題材・措辞・詩型によって広く世人の歓迎をうけた。この詩抄は以後、軍歌・唱歌、口誦体方便詩、芸術的純粋詩に分化的影響をあたえた。なお、愛媛の明治初期における「和詩」については第一節俳句に述べてある。

 いさり火 大和田建樹

 宇和島出身の大和田建樹(安政四 一八五七~明治三九 一九〇五)は、『書生唱歌』(明19)を刊行し、明治二○年詞華集『詩人の春』、二一年詩集『いさり火』を出版した。さらに二六~七年にかけて『欧米名家詩集』三巻を刊行して訳詩集刊行の初めをなした。建樹の新体詩観を明らかにしたものに『新体詩学』(明26)がある。建樹は新体詩を長詩と同義語と解した。記紀万葉の長歌をはじめ近世の浄瑠璃・長歌・理謡・端唄・俗曲にいたるまですべてを新体詩の概念に包摂し、新体詩とはそれぞれの時代の新体の詩であるとした。建樹の文学的生涯は国文学啓蒙家・唱歌作詞者として偉大なる足跡を残したが、詩人としての詩業である詩集『詩人の春』や『いさり火』には近代詩としての意義は少ないとされる。しかしながら膨大な著作は近代詩最初の通俗流行詩人であったことを物語っている。とくに『欧米名家詩集』は稚拙とはいえ、純然たる単行訳詩集の嚆矢をなすものであった。

    海のあなた   (『いさり火』 明21・12・21中央堂発行 所収)
 いさり火遠く見えそめて    親子うちつれ岩かげを    こころ千里の旅びとを
 沖よりよする暮の色      おくれて帰る海士小舟    いつまで吹くか春の風
 なかば夢路とすぎさりし    あすの日和の外にまた    寝られぬ夜の友とては
 たびの月日もいま幾日     ものおもひなき生涯や    まくらをたゝく
 あゝ恋し海のあなた      あゝ恋し雲のあなた     あゝ恋し家なるひと

 情熱をこめ夢想を托して、自我の自由と解放を求める精神が醸成されて浪漫的な気風が詩文に漲るに至ったのは明治も二〇年代の半ばであった。その気風をもっとも良く体現しわが国浪漫主義文学運動の拠点となったのが北村透谷・平田禿木・戸川秋骨・馬場孤蝶・上田敏・島崎藤村たちを同人とする『文学界』であった。西欧文化の刺激を土台に、青春の情熱と浪漫的な芸術憧憬にささえられた文学運動としてその時代の青年たちの心をとらえた。

 思君十首 中野逍遥

 宇和島出身の中野逍遥(慶応三 一八六七~明治二七 一八九四)、字は威卿。別に澹艶堂・狂骨子・南海未覚情仙と号す。幼時、郷儒山本西川に漢籍素読を受け、南予中学時代私塾継志館で朱子学を修めた。明治一七年大学予備門に入り、子規・漱石と相識り、二三年帝国大学文科大学漢学科入学、二七年第一回卒業生、さらに研究科に進み『支那文学史』(未刊)を起草、また雑誌「東亜説林」を創刊し将来を嘱望されたが肺を病んで没した。大学入学後はもっぱら詩に意を注ぎ、杜甫・邵康節の雄渾沈痛な詩風を慕い、韓偓の香奩体を学び、西欧近代詩よりの自由な詩想を交じえて青春の情熱・憂愁をうたいあげて独自の詩境をひらいた。その浪漫詩人としての素質は北村透谷・島崎藤村と比肩される。日夏耿之介が「中野逍遥が二十年代の浪漫的春愁を四角な漢字に託して、却って新体詩以上の詩的エフェクトを示した事は異彩であり、且つ旧詩形が人を得て新詩形以上に情意を深化しうる実例であった。」(明治大正詩史)と評し、ことに「秋怨十絶 思君十首のセンティメンタリズムは高邁で深烈で清尚で激越である。」と讃えている。

   思君十首
 思君我心傷 思君我容瘁 中夜座松蔭 露華多似涙   思君我心悄 田心君我腸裂 昨夜沸涙流 今朝盡成血
 示君錦字詩 寄君鴻文冊 忽覺筆端香 窓外梅花白   為君調綺羅 為君築金屋 中有鴛鴦圖 長春夢百禄
 贈君名香篋 應記韓壽恩 休将秋扇掩 明月照眉痕   贈君雙臂環 寶玉價千金 一鐫不乖約 一題勿變心
 訪君過壹下 清宵琴響揺 佇門不敢入 恐亂月前調   千里囀金鶯 春風吹緑野 忽發屋頭桃 似君三兩朶
 嬌影三分月 芳花一条梅 潭把花月秀 作君玉膚堆   書聲入機聲 鶯語交笑語 春風八百街 興君住何處

〔訳詩〕
  君ヲ思ヘバ我ガ心傷ミ 君ヲ思ヘバ我ガ容瘁ル 中夜松蔭二座シ 露華多ク涙二似タリ
  君ヲ思ヘバ我ガ心悄ヒ 君ヲ思ヘバ我ガ腸裂ク 昨夜沸涙流レ 今朝盡ク血ト成ル
  君二示ス錦字ノ詩 君二寄ス鴻文ノ冊 忽チ覺ユ筆端ノ香 窓外梅花白シ
  君ノ為ニ綺羅ヲ調ヘ 君ノ為ニ金屋ヲ築ク 中ニ鴛鴦ノ圖有リ 長春夢百禄
  君二贈ル名香ノ篋 應ニ韓壽ノ思ヒヲ記スベシ 秋扇ヲ将ツテ掩フヲ休メヨ 明月眉痕ヲ照ラスニ
  君二贈ル双臂ノ環 宝石價千金 一ハ鐫ル約ニ乖カズト 一ハ題ス心ヲ変フルコト勿レト
  君ヲ訪ネテ台下ヲ過グレバ 清宵琴ノ響ニ揺ラグ 門ニ佇ミテ敢ヘテ入ラズ 月前ノ調ベヲ乱サンコトヲ恐ル
  千里金鶯囀リ 春風野ヲ吹ク 忽チ發ク屋頭ノ桃 君ガ三兩の菜ニ似タリ
  嬌影三分ノ月 芳花一柔ノ梅 花月ノ秀デタルヲ潭把シテ 君ガ玉膚ニ堆ク作ラン
  書聲機聲ニ入リ 鶯語笑語ニ交ル 春風八百街 君トトモニ何處ニカ住マン
  ※訳詩は「訳文逍遥遺稿 笹川臨風・金築松桂」(岩波文庫本)にも掲載されているが、本稿では「日本近代文学大系=藤村詩集」(角川書店)によった。〔原作では、①頭屋 ②渾把、③思は恩が正しい。〕

 『逍遥遺稿』正編・外編は中野重太郎著。宮本正貫・小柳司気太編。明治28・11・16、不破信一郎発行。菊判和装。口絵著者肖像・遺墨1頁。題字6頁・伊達宗徳・島田礼(篁邨)、序4頁・岡本監輔・張滋昉(匏翁)、著者小伝2頁、例言1頁、本文正編90頁、外編100頁、雑録24頁。非売品。
 正岡子規は、この『逍遥遺稿』に「逍遥遺稿の後に題す」の一文・四句を寄せてその夭逝を悼む。

   志士は志士を求め英雄は英雄を求め多情多恨の人は多情多恨の人を求む 逍遥子は多情多恨の人なり 多情多恨の人を求めて終に得る能はず 乃ち多情多恨の詩を作りて以て自ら慰む 天覆地載の間盡く其詩料たらざるは無し 紅花碧月以て多情を托すべし 暖煙冷雨以て多恨を寄すべし 而して花月の多情は終に逍遥子の多情に及ばず 煙雨の多恨は終に逍遥子の多恨に若かざるなり 是に於てか逍遥子は白雲紫蓋去って彼の帝郷に遊び以て多情多恨の人を九天九地の外に求めんとす 爾来青鳥音を伝へず 仙跡杳として知るべからず 同窓の士同郷の人相議して其遺稿を刻し以て後世に伝へんとす 若し夫れ多情多恨逍遥子の如き者あらば徒に此書を読んで万斛の涕涙を灑ぎ尽す莫れと爾か言ふ

    春風や天上の人我を招く   鶴鳴いて月の都を思ふかな
    いたづらに牡丹の花の崩れけり  世の中を恨みつくして土の霜

 日夏耿之介は『逍遥遺稿』のなかの「思君十首」を挙げ「古詩型の新詩才」と題して次のように記している。

  青春の夢見る如き惝怳と抑へ難き狂熱と眞摯な観照とを伝説的詩形の窮屈な約束の中に押し包んで而も裂け出でんばかりの激情をよく表現してゐる処は、詩形の如何を問はず、真に才能ある人が来れば如何なる鎔鑪に於ても、詩はその驚くべき成果をあげうる具体的學証となったものである。詩は七言五言絶句律詩多い中に、藤村が「哀歌」のモットーに置いたのが卓れてゐるものの内の一である。

 島崎藤村は詩集『若菜集』に中野逍遥をいたむ「哀歌」を収め、「思君十首」のうち五音絶句九首を掲げ、一連四行・一三連の追悼の詩をうたう。

  秀才香骨幾人憐、秋入長安夢愴然、琴臺舊譜銷前柳、風流銷盡二千年、これ中野逍遥が秋怨十絶の一なり。逍嘉子字は威卿、小字重太郎、豫州宇和島の人なりといふ。文科大学の異材なりしが年僅かに二十七にてうせぬ。逍遥遺稿正外二篇、みな紅心の余唾にあらざるはなし。左に掲ぐるはかれの清怨を寫せしもの、寄語殘月休長嘆、我輩亦是艶生涯、合せかゝげてこの秀才を追慕するのこゝろをとゞむ。

 ※〔訳詩〕
  秀才ノ香骨幾人カ憐ム、秋長安二入リテ夢愴然タリ、琴台ノ旧譜壚前ノ柳、風流銷二盡クス二千年
  残月二語ヲ寄セ長嘆スルヲ休メヨ、我輩モ亦是レ艶生涯、

 かなしいかなや流れ行く  かなしいかなやする墨の
 かなしいかなや前の世は  かなしいかなや同じ世に
 水になき名をしるすとて  いろに染めてし花の木の 
 みそらにかゝる星の身の  生れいでたる身を持ちて
 今はた残る歌反古の    君がしらべの歌の音に  
 人の命のあさぼらけ    友の契りも結ばずに
 ながき愁ひをいかにせむ  薄き命のひゞきあり  
 すゞしき眼つゆを帯び   同じ時世に生れきく
 葡萄のたまとまがふまで  同じいのちのあさぼらけ  
 その面影をつたへては   君からくれなゐの花は散り
 あまりに妒き姿かな    われ命あり八重葎

 かなしいかなやうるはしく  かなしいかなやうるはしき
 さきそめにける花を見よ  なさけもこひの花を見よ
 いかなればかくとゞまらで  いといと清きそのこひは
 待たで散るらんさける間も  消ゆとこそ聞けいと早く
 君し花とにあらねども   かなしいかなや人の世に 
 かなしいかなやはたとせの かなしいかなや人の世の
 いな花よりもさらに花   あまりに惜しき才なれば 
 ことばの海のみなれ棹   きづなも捨てゝ嘶けば
 君しこひとにあらねども  病に塵に悲に
 磯にくだくる高潮の    つきせぬ草に秋は来て
 いなこひよりもさらにこひ 死にまでそしりねたまるゝ
 うれひの花とちりにけり  声も悲しき天の馬
 かなしいかなや音を遠み  流るゝ水の岸にさく
 ひとつの花に照らされて  飄り行く一葉舟

(補説)逍遥が多情をたくし多恨を寄せた女性の名を南条貞子という。南条家は佐々木信綱
の家の筋向いにあった。田山花袋の初恋の人でもあった。花袋の『姉』の一節に…君は知っ
ているかどうか、文学士に中村という漢文の秀才があったのを。バイロンやハイネのやうな
熱烈な思想を漢詩や漢文に作って、一時洛陽の紙価を高めた男だ。其男は失恋して死んだ。
其失恋した女は誰だと思ふ。其女だ。僕の恋した女だ。かれは失恋の苦悶を慰めようとして
此町に来て、其女の生れた家の前を涙なしに過ぐることが出来なかった。…とある。
                                   (秋田忠後)

 情鬼 藤野古白

 明治二〇年の半ばの頃は日本文壇に初めて人生問題に対する懐疑が萌した時期である。理想と現実との距離を知った絶望・苦悶・悲哀を自ら意識し厭世の思想を抱く。松山の人、藤野古白(明治四 一八七一~明治二八 一八九五)にピストル自殺した。正岡子規編『古白遺稿』に古白の新体詩「情鬼」一編が収録されている。一二六行にわたる長詩である。冒頭の部分を掲げる。

  夜ははまいその松に時雨れて 闇は遠沖の波に沈みつ 雲にひろかる月の明りに 島より島になきかはす 千鳥の聲ぞきこゆなる 霜置きにける笘の上を 夜嵐寒く吹行けば 結びもあへぬ夢にして 綱手のきしる音すなり 思を運ふ岡の邊の 枯木の中のひとつ松 下枝の蔭の古庵の 主人も未だ寒き夜を いねがてにして埋火を 掻起しつゝ座りけり 兄よと呼べばふりむきて 弟といへば這入りけり(以下略)。 (講談社『子規全集第二十巻研究編著』所収)

 正岡子規は『古白遺稿』巻末に「古白の墓に詣づ」と題する四行一連、上下各一〇連、計二〇連の詩を収める。

 俚謡に擬す  正岡子規

 正岡子規(慶応三 一八六七~明治三五 一九〇二)の新體詩総数に約九〇編で、その時期に明治二九年八月から三一年一月頃までの約一年半に集中しており、おおまかにいえば、俳句から和歌革新への間にあたる。しかし、日夏耿之介が「子規の新体詩は、二十九年の頃に俳句で時事を諷したのを詩形に應用したまでのものが始まりで(中略)西洋詩史のパアスペクティヴの知見が実験創成時代には特に大いに力とならねばならぬ條件にあるので、子規にはこれが不得手の立場であり、世は方に浪漫思潮の花ざかりでもあったので手が伸びずに終わった」が「遉がに子規は飽くまで眞面目な正面的態度だった」と指摘しているごとく結果的には失敗に終わった。「新体詩が現代の詩想を盛るべく生まれたその必然性は漢詩・和歌・俳句との訳別であったのに、子規は新体詩が手を切ろうとした俳句のメガネをかけて詩を作ろうとしたのであった。子規は俳人であり歌人であって、詩人ではなかった。ただ、その詩の中で幾分の取るべきものがあるとすれば自然詠と民謡風の詩に佳作があることである。」と蒲池文雄は評する。子規の新体詩は、講談社『子規全集第八巻漢詩新体詩』に所収されている。

 〈俚歌に擬す〉 竹の里人  (日本人  第三八号 明治30・3・5)
  俚歌の中に子守歌、及び小児の謡ふ歌は言葉ひなびたれども面白き節少からぬを、小学校に唱歌を教へしよりやうやうに唱歌行れて俚歌は跡を絶たんとす。なかなかに唱歌よりも俚歌に文学趣味多きを思ふに其全く世に忘られんことも口をしく、此頃幼き時に覚えたる歌の忘れたるを老人に聞き正して書いつけ見るに、一入興に入りて、終に其口まねをぞこころみける。吾は韻語の自然ならぬを笑ふ、人は事の益無きを笑はん。
 其一 ねんねんやをころりや。ねんねの坊やは誰が子ぞや。お城の上の星の子か、南の海の河豚の子か。坊やを産んだ母の子ぞ、坊やを抱いた母の子ぞ。   其二 ねんねんねんや。ねんねの坊やは何を泣く。泣く子は鬼が連れて行く。坊は大人ぢゃ泣きはせぬ。坊やはあすから学校行く。   其三 大凧あがれ、天迄あがれ。天から落ちたら柳にかかれ。柳の枝に三羽の鷺がみんな逃げてしまった。(其四~其六 省略)

 讃美歌四〇四番 西村 清雄

 明治三六年、西村清雄(松山市 明治四 一八七一~昭和四〇 一九六五)に法華津峠を越えた。シャドソン女史の伝道を助けるため、ときどき松山-宇和島の二日の行程を歩いた。アーロン・ショパン作曲「ゴールデン・ヒル」を愛唱していた清雄はその曲に合わせて峠での心境を詞に託し讃美歌委員三輪源蔵に稿を送り、讃美歌送行旅行の冒頭四〇四番が生まれた。神を信ずる者の明るさを、日本人としての詩情でささえているものとして愛唱されつづける。清雄は松山市出身で文部大臣表彰・県教育文化賞を受賞、松山市名誉市民である。

 ①山路こえて/ひとりゆけど/主の手にすがれる/身はやすけし。 ②松のあらし/谷のながれ/みつかいの歌も/かくやありなん。③峰の雪と/こころきよく/雪なきみ空と/むねは澄みぬ。④みちけわしく/ゆくてとおし、/こころざすかたに/いつか着くらん。 ⑤されど主よ、/われいのらじ、/旅路のおわりの/ちかかれとは。 6日もくれなば/石のまくら/かりねの夢にも/み国しのばん。 (日本基督教団讃美歌委員会編集 『讃美歌』)

 長宗我部信親  森  鴎外

 森鴎外の年譜…明治三六年(四二歳)九月。叙事詩『長宗我部信親』(國光社刊)、弘田長の依嘱で薩摩琵琶の詞章として作ったもの…とある。この詞章は上・戸次川、中・中津留川原、下・日振の島の三部に分かれている。鴎外の自註には「…彌磁三郎信親は元親の子なり。此編は全く事実に拠りて結撰す。一の虚構だに無し。而してその事實は主に谷氏の所蔵寫本 土佐國編年紀事略 を取れり。此原書は南国治亂記、土佐軍記、元親記、鶴ヶ城合戦記、十河談、其他古文書數種を参酌して、戸次川の戦を叙したり。」とある。豊臣秀吉の九州征定に抗戦したのは島津宗久であった。元親は後詰として豊臣の麾下にあって豊後国戸
次川に島津勢と戦い、中津留川原で最愛の嫡子信親を失う。ときに元親四八歳、信親二二歳。時は天正一四年(一五八六)の師走。その「下・日振の島」の最後は次のごとく終わっている。

 …壷にをさめし遺骨に/天甫常舜居士といふ/一紙の戒名を取り添へて、/日振の島に持ち歸る/僧俗二人の使者と共に、/島津とぶらひのつかひを遣れば/これを聞きたる新納さへ/いと懇に消息して、/最後のいくさに信親が/身につけたりしかたみなる/甲冑をおくりけり。/異国のむかしTorjaにて/愛子Hectorが屍を/敵の陣所に乞ひ得たる/Priamos王が恨にも/まさる恨は日振なる/仮屋の軒に元親が/最愛の子の亡骸を/あだに待ちける恨なり。

 パリシナ 木村鷹太郎

 『海潮音』に前後して明治三八年には多くの訳詩集が出版された。木村鷹太郎(宇和島市出身明治三 一八七〇~昭和六 一九三一)の『海賊』、片上天弦の『テニソンの詩』である・鷹太郎はこれよりさき三六年に『艶美の悲劇詩パリシナ』を、さらに四〇年にも『含羞草』を訳詩刊行した。木村鷹太郎は宇和島藩士木村重協の長男、東京大学文学部哲学科卒。陸軍士官学校教官・新聞記者、井上哲次郎らと「日本主義」を発行、著書『東洋西洋倫理学史』『世界的研究に基ける日本太古史』などがある。与謝野鉄幹・晶子の媒酌人、「明星」終刊号に〝明星の廃刊を祝す〟を書く。
 『パリシナ』(明治36・3・15、松栄堂書店発行。三六判紙装、前書1頁、本文72頁、定価20銭)はバイロンのParisinaの訳詩で全二〇章、上段訳詩・下段原詩を掲ぐ。第三章は次のとおりである。

 三 彼等に取っては世界萬物果して何ぞや。/時の推移、潮の満干何かあらん。/凡ての動物も、天も、地も、/彼等の眼にも心にも、げに何物にてもあらざりき。/是等は凡て死者の如く、/四周の事物、身の上、身の下、/凡てのもの盡く看過されて過ぎ行けり。/二人の呼吸は二人の胸の間に通ひ、/其のつくと息は一と息毎に深き喜に充ち/其喜は永久にうつらふことなし思へるものゝ如し。/彼等二人の幸福なる狂行は/熱きやさしき此夢の眞中に於て/罪と危難との制御の下にあるを感じ/其心情を傷むるならんか。/此の激烈なる情を感じたる者にして、/誰か此場に臨みて或は躊躇し或は恐れしものやある?/誰か此の瞬間は永續するものに非ざることを考へしものやある?/されども其瞬間は既に過ぎ去りぬ。/かゝる楽しき夢は、再び来らざることを知る前に、/吾等先づ覺めざる可からざるなり。

 『含羞草』(明治40・9・1、武林堂発行。四六判クロース上製、挿絵21葉。序4頁、緒言39頁、本文82頁、注釈4頁。定価70銭。)はシェレーSenstive Plantの訳詩である。本文は第一・二・三部と結論である。第二部は六行一連、一五連の構成である。

  〈第二部〉 いと楽しかる此園に/一の力うしはきて、/エデンの園のエヴのごと/花は目さむも夢みるも、/里の御空の神のごと、/そを治むなる美の女神  二 女の内のすぐれたる/手弱女一人、其身には/可愛き心ゆきわたり、/姿ふるまひ作り成し、/大海深き底ひにも/「海の花」さく如くなり。(以下略)

 テニソンの詩  片上 天弦

 片上天弦(明治一七 一八八四~昭和三 一九二八)名は伸。今治市出身。早稲田大学教授、文学部長。ロシア留学、唯物史観文芸評論家。著書『テニソンの詩』『片上伸全集』(三巻・砂子屋書房)。
 『テニソンの詩』(明治38・10・5、隆文館発行。四六判並製。序・坪内逍遥2頁、自序2頁、目次2頁、テニソン略伝8頁、本文166頁。定価30銭。)は、無為の島(The Lotus Eaters) ・船旅(The Voyage) ・かひなき涙(Tears,idle Tears) ・妖姫(The Lady of Shalott) ・死にゆく白鳥(The Dying Swan)・ユリシス王(Ulyases)・こだま(Splendour Falls)・船出(Crossing the Bar)などテニソン詩の訳詩である。坪内逍遥が序文で「直訳流の晦澁にも流れず注解風の冗漫にも堕することなくしてふと讀めば御自作かと思はるゝばかりに句作りの流暢なる、原作にては打かたぶかるゝ句までおほかたは讀みながら解し得らるゝほどに平明なる」と称賛しているごとくきわめて好評であった。天弦訳は無難な句法で、措辞も円熟した佳品であった。

  〈無為の島〉 「山なす浪はたちまちに/舟を岸辺に近づけん/つとめよやよ」とユリシスは/陸をさしてぞ叫びける/やがて真昼を過ぐるころ/人々陸にのぼりしが/ここはOもとこしへに/夕近くぞ見えにける 懈き夢路をゆく人の/おもき太息をつくごとく/岸をめぐりてたてこめし/太気は倦みて力なく/そよとだにせぬものうさよ (以下略)

  〈死にゆく白鳥〉 一 野もせには草のみ繁く/わびしくも荒れはてたれば/ひろびろと人けもたえて/はてしなく空につらなる/野路のはてゆきゆくかぎり/ものがなし灰色ぐもり/地を蔽ふ空のはるけさ/穹窿をたてつるごとくかすかなるひゞきをたてゝ/川水のながれはゆけり/流れゆく水のまにまに/むらぎものいきもたえだえ/白鳥はただよひながら/音に立てゝなげくなりけり 日はまさに眞晝のまなか/ものうげに風吹きそよぎ/川沿ひにすぎゆくままに/汀なる蘆の穂みだす (以下略)

 「少年園」から分かれた「少年文庫」が「文庫」と改名され、青少年の投書雑誌として一派を形成していく。「明星」の艶麗空想とは異なる穏健清明なこの派の詩人として、河井酔茗・横瀬夜雨・伊良子清白、のちに島木赤彦・北原白秋・服部嘉香らが知られる。日常的な人間の生活感情への志向は口語詩運動につながる素地となり、三木露風・相馬御風らの明治四〇年三月の早稲田詩社結成となり、口語詩への積極的な試みが進められ詩壇における自然主義と表現としての言文一致が進められる。

 その目 東  草水

 東 草水(明治一五 一八八二~大正五 一九一六)重信町田窪に生まれる。「重信町史資料」に「彼は万般にわたり天分ゆたか、広い趣味を持ち政治・文化・哲学・宗教・美術に卓越した造詣と見識をもち、その文章は雄渾の論文となり、あるいは華麗な美文となり、時には滑稽洒脱、和歌に俳句に、また絵画に彩筆をふるった」とある。越智二良は「…草水は主として『文庫』に詩を寄せていたが、文筆にすぐれ詩・短歌・俳句にまで手を染め、多才の人で弁舌にもすぐれてぃたという。…享年わずか三十四…才子多病、若くして世を去った不遇の詩人草水には一編の詩集も残らず、その作品も多くは散逸して求めがたい。わずかに『松山案内』一冊に名残をしのぶほかないのは、いかにも遺憾で寂しい限りである…」(愛媛新聞)と述べている。

  〈その目〉 その目の中を熟視れば/空色とこそ澄みわたれ、/映るは我か、夕月の/微にさしたる光とて。 その目の中を熟視れば/海底なせりふかぶかと、/潜むは我か、阿古屋珠/瑠璃色なしてきらめくを。/若き我世のあさぼらけ/瞳の中にすかしみて/新に生れしわが命/融けてぞ永久の安居せる。/睫毛の奥の輝は/夢のさまして覗へど/二人の霊の人知れず/和ぎこもる聖殿なれば 遠つ元祖より代々經たる/若き命の閃光は/涙さしぐむ目ざしに/酔へるが如く集れり。さは滅びなき卿と我が/心なる愛の奇力/今その目よりの世の/うつくしき目に傅はらむ。(明治40年3月「芸苑」第2年第3収載)

  〈秋風そよぐ〉(松山中学校短艇部応援歌)一、秋風そよぐ宇和島の/海に夕陽の影おちて/月の桂の冠は/仇の健兒に奪はれぬ 二、戦い果てて磯に立ち/敵よりあぐる勝どきを/聞くに九島もたそがれて/波悲しげに寄せたりき (三~九省略)  一〇、いでいで漕がん冬の海/いざいざ行かん夏の海/あらあら勝たん芳しく/春は花咲く波の上

 バレエへの招宴 服部 嘉香

 服部 嘉香(明治一九 一八八六~昭和五〇 一九七五)東京市日本橋区浜町に生まれる。父嘉陳は当時、旧松山藩常盤会寄宿舎舎監。四歳、父の隠退に伴い郷里松山に帰る。松山中学校在学中より中学世界・少年世界・少国民・文庫・文芸界に新体詩を投稿掲載される。詩・詩論の業績は筑摩書房『明治文学全集61明治詩人集(二)』にくわしく、口語詩については自著『口語詩小史ー日本自由詩前史-』(昭38年12・1昭森社)がある。嘉香は『バレエへの招宴 服部嘉香第四詩集』(昭42・11・3新詩潮社)の「後記」に詩観と詩業について述べている。

  詩とは何かと聞かれると、わたしは、いつも、常識以上の世界を常識以上の言葉で表現したものだと答える。しかし、自分の詩作品については、そんな正面切ったことはいえない。その感じをいえば、詩は、深くもなく、浅くもない沼の鏡のようなものとでもいおうか。底石の見える泉ではなく、適当に己れを映して何か話しかけてくれる。その映像は、素面のつらよりは明瞭に感じられて、生きている。その内容が何であるかは分からないけれども、第一詩集『幻影の花びら』から『鶴朱の影』、『星雲分裂史』を経て、第四詩集『バレエへの招宴』に至るまで、一貫してわたくしの生活史、精神史であり、偽らず、気取らず、ありのままの自我生存の記録であるということは、はっきりいえるのである。稚考、粗淡の作ばかりであるが。わたしは、大正三年、三木露風の『未来』に参加した前後しばらくの外は、ほとんど口語自由詩形に終始している。明治四十年、川路柳虹が『詩人』に口語詩を書き始め、論によってそれを支持し、作によって同行者となって以来のことである。四十一年には、相馬御風、三木露風も口語詩を『早稲田文学』に発表し、四十二年には、人見東明、福田夕咲、三富朽葉らの『自然と印象』によって約一年、口語自由詩形による気分象徴詩が試みられ、相通じて自然主義文学の影響による形式打破を目標の一つとしたのであるが、詩の抒情性、音楽性、象徴性は失うまいとしていた。いいかえれば、口語詩、口語自由詩は、その発想の必然から散文化的現象を伴なうけれども、散文化的意図はなかったのである。行分け散文などと非難する者もあったが、行分けそのものが詩の成立の必然的条件であることを知らない妄言であって、この詩形は、今もつづいているのである。

〈虹と菜の花〉 子規が野球をやってゐた城北練兵場/西山かけて見渡すと/菜の花は一面の黄色い海のやうだった/土中に緋の蕪を隠してゐるが 西山に日が落ちると/伊佐庭の丘から御幸寺山の頂へ/七色の霧雨の橋を渡した/からだを浮かせて降りて行くと/千秋寺の門になるのだ/だから 千秋寺が好きだった   (『バレエへの招宴』収載)
〈灰の家〉 灰の灰の灰の家/讃歎と悔恨との/灰の家はたそがるる たそがれに雪降り出で 美の幻影は降り出であわただしげに悩ましく降りしきれども その窗に ともしびもなくたそがるる ともしびもなくたそがるる 雪の雪の灰の家  (大正3年3月号 「朱欒」 所載)

 桜活けた… 河東碧梧桐

 「碧は同時代の舶載の詩や文の作品及び主張を自釈して、それを俳句の将来に宛て嵌めたのである。…無中心と碧の唱へるものは、実は情趣象徴の発揮をさすので、中心的が人為的に必ずしもなるのではなく、中心操作の間に、巧技の未熟のまゝ通過するものある句が、人為の窄小にせくぐまる観が生ずる。』と日夏耿之介は述べながら〝ポエトリイとして採るべきに〟「木振ふ雫蘆の葉分れ家鴨より来」「一軒家もすぎ落葉する風のまゝに行く」(「現代俳句集」自選九十句)を挙げ、〝佳句〟として「後仕手に浪の鼓や雪曇」「逢魔時芒の眼光りけり」(「三千里」)を採る。隠約法もしくは暗示法と呼び得る句へ移って来た傾向を新傾向とし、それは余情余韻に富み複雑にも精緻にも進み得るものとし、さらに自由律俳句へ展開する。「子規庵のユスラの実お前達も貰うて来た」「林檎をつまみ言ひ盡してもくりかへさねばならぬ」を経て、「櫻活けた花屑の中ふら一枝拾ふ」「潮のよい船脚を瀬戸の鴎に鴎づれ」に至る河東碧梧桐(松山市・明治六 一八七二~昭和一二 一九三七)の詩的感覚の鋭さを〝詩〟としてとらえることはできないか。
 なお、高浜虚子における「俳体詩」については第一節俳句に述べてある。