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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

1 抵抗の詩人たち

 昭和初期のプロレタリア詩は「黒」と「赤」との二系統に分かれている。「黒」はアナキストの系統であり、自由連合新聞・黒色靑年・黒旗などの機関誌に拠り「矛盾」「弾道」などの詩誌を持った。「赤」は社会民主主義、もしくは共産主義の系統であり、文藝戦線・戦旗・ナップ・プロレタリア文学などに拠り「プロレタリア詩」などを持った。「赤」系統の「日本プロレタリア詩集」はロシヤ革命十周年記念として日本プロレタリア藝術連盟によって一九二七年(昭和二)に発刊され、以後一九二八年(全日本無産者芸術連盟)、一九二九年(日本プロレタリア作家同盟)、一九三一年(同上)、一九三二年(同上)と続刊された。

 極めて家庭的に  木村 好子

 愛媛県出身の木村(旧姓白河)好子(明治三七 一九〇四~昭和三四 一九五九)は伊藤証信の無戦愛運動の影響をうけて上京し、木村重夫と結婚。プロレタリア詩人会に参加。「洗濯デー」(一九三一年日本プロレタリア詩集所収)のほか「破る」(年刊 一九三四年詩集所収)、「落葉」(年刊 一九三五年詩集所収)を残している。庶民的で平明な表現のなかに強靭な抵抗感覚がある。癌闘病生活中に夫によって編まれた『極めて家庭的に』(昭34・新日本詩社)は好子の第一詩集であり、かつ遺稿集でもある。

 曠野に狂ふ   名本 栄一

 名本栄一 (明治四二 一九〇九~)松山市。戦前、筆名小林潤三も。伊予新報・毎日新聞記者。『新興農民詩集』(犬田卯編昭5・11・25全国農民芸術連盟出版部発行)に「曠野に狂ふ」が収められている。
〈曠野に狂ふ〉 曠野にミゾレが降っている。風が枯草をもみちぎって狂うてゐる/俺は散亂した肉體と刃のやうな神経を震はせて曠野の路を村に歸ってゆく/奴等は何故俺を引張
って行つたか/奴等は何故俺をひっぱたかねばならなかったか/俺も、奴等を解ってゐるのだ、解ってゐて解らない事實なのだ/曠野に風はミゾレを孕んで荒れ狂ふ/俺はぎっしり
詰った屈辱を壓え切れない胸に抱いて駆けてゆく土百姓!/見ろ/ 俺の肉體は凍って倒れさうだが、この内なる胸に渦巻く血汐は/幾千年、壓迫と強制とどろどろした泥濘に喘いで来た俺達先祖の壓えに壓えた反抗が/今 二十世紀の現實に忍苦の地底から敢然と反逆の血汐を氾濫させ 俺達の胸に燃えたぎる/俺の肉體に燃えたぎる血汐は俺をぐんぐんと押してゆくがむしやらな反逆の道-/空は眞暗だ、風は唸ってゐる、ミゾレは荒狂ってゐる、家々はしんと静まってゐる/荒涼たる曠野、嵐の音、ミゾレの叫喚、俺の肉體は路をひょろひょろ吹きまくられてゆく/父と母が、忍び込む寒風と焦々しく雨戸を叩くミゾレに老いた身を震はせ/警察に引張られて行った俺の事をどう思って待つてゐるだらうか/母は泣いてゐよう、腕組みした父のやつれた老顔が浮んで来るー/俺の足は棒のやうに重い、俺はちっと荒狂ふ曠野の夜の喧騒の寂寥に身を沈める/ミゾレは屋根を打ち、風は雨戸を揺り、家の中はおびえた小鳥の巣のやうにひっそりとしてゐるが/誰がこの抜きさしならぬ生活に「従順な民」であり得るか/無言の反抗、無言の不平、幾千年の苦忍の生活が口を閉ざしたと言ふのかー誰だ?/時代の暴壓と強制が今曠野の冬に荒狂ふ/俺は暴壓の曠野をゆく、荒狂ふ強権の亂舞の中をゆく、血みどろでゆく 土まみれでゆく/大地に立つ生活ー俺達は暴風雨の中に高らかに叫ぶ、土は答へるであらう、ゆけ/と/暴壓の曠野、血みどろな曠野、呻吟に泣く曠野、幾千年の呪咀と反逆を耐え忍んで来た曠野ー/眞黒な空よ!真黒な大地よ/無限なるうらみに彷徨へる同胞の死に切れぬ魂を知る大地よ/空よ//荒れ果てた、踏みにじられた曠野の春ー三月の花が咲き亂れぬと誰が言ひ得る?/日本にマフノと其の一黨が無いと誰が言ひ得るか?/限りなき戦ひ、限りなき突進/・/俺達のゐる限り、大地のある限り、たった一つの信念に荒涼たる曠野に荒れ狂ふのだ。  (同志RKにー)

 名本は松山市五明の山村農家の次男、父と炭を焼く。のちにその詩を書く。昭和五八年暮、名本の居間の火鉢には炭火が熾っていた。農民の窮乏を体験見聞し、農民文芸運動に関心を寄せ、全国農民芸術連盟に参加する。詩「鉄道開通」を「農民」(昭和5年5月号)に、「どん底の絶叫」を同誌(8月号)に発表、さらに新潮社発行の「文學時代」(昭和6年3月号)に小説「飢餓戦の村」が入選するが、同年刊行の詩集『飢えてゐる大地』(第一芸術社発行)は発禁となる。「全部特高に持って行かれ、兄の家に置いていたのも戦災で焼けたので現物がこの世に無く、百頁ぐらいということは覚えているが定価などは不明」と名本はいう。昭和一〇年の初め小林潤三の筆名で「表現」「記録」に詩を書き、戦後の詩活動にいたる。

 ※全国農民藝術連盟は、農民文藝会・農民自治会の後をうけ、29年(昭4)1月結成、農民自治社会の建設を主張し、機関誌「農民」(第3次)を同年4月に創刊、32年(昭7)1月の第4巻第1号まで32冊を発行した。この間、毎号、農民詩人の作品を掲載。30年に33名の作品を収録した『新興農民詩集』・一九三一年版を発行したが以後刊行されていない。この詩集は発行と同時に発売禁止をうけた。国立国会図書館蔵内務省検閲本表紙に「五年十一月二十五日禁止」とペン書きがあり、『出版警察報』第27号「禁止出版物目録」には施行日「十一月二十四日」とある。

 漂う草  木原  実

 木原実(大正五 1916~)筆名・健。今治市出身、千葉県市川市在住。千葉県第一区社会党元衆議院議員。詩人木暮真人として詩誌「コスモス」の同人、特に批評活動に力をそそぐ。詩集『漂う草』の「あとがき」にいう…一九四二年、兵隊として大陸の荒野に送りこまれたときから憑れたように詩のようなものを書きはじめ、それからの三十年余り断続的に詩に親しんできた。詩に親しむことは、私にあっては気恥しいほど、私的ないとなみに属する。私はただ自分のためにだけ、自分の小さな詩の世界を持った。わずかな詩を書いたり読んだりすることは、だから私にあっては、ときに言いようもない自己確認の手だてであり、たいていは自分のセンチメントに自分を遊ばせるはかない時間の領域を持つことでもあった。ただ激動に私自身もさらされつづけてきた時代を、草食動物のように、意気地なく逃げまどいながら生きてきたものにとって、それはやはり必要な業のようなものであったとおもう。…(詩集『漂う草』昭50・8・15土曜美術社発行)

 〈漂う草〉  シベリアの/草のいぶきの/むれかえる遠くのほう。国境をうずめ/人骨と砲車をうずめ/津波のようにのたうつ草。 風はさわいで/花もつけず/水のようなものになって/そらにつづく。 戦場を/草が漂う。

 この木原実が『南海黒色詩集』をめぐって秋山清に回想を寄せている。(『発禁詩集』 秋山清、昭45・11・25潮文社発行)
 …昭和四年ごろ、松山市に第一芸術社という詩人集団があり、木原茂、木原良一、名本栄一らを中心にガリ版雑誌『黒林』を出していたがほとんど毎号が禁止だった。名本栄一は短編の農民小説を書いて『新潮』の懸賞に当選したこともあり、その彼の詩集『飢えたる大地』が昭和五年に発売禁止を食らい、同人たちも家宅捜索などやられて雑誌がつぶれた。後に『南海黒色詩集』の中心となった宮本武吉等はこの第一芸術社から分かれた人々で、詩誌『防寒』を出す一方、地元の南海
新聞紙上で活躍し、やがて仲間も出来て、アンソロジーをつくるまでの力を得たが『南海黒色詩集』の禁圧を最 後として、戦前のアナキズム的傾向の詩人らの活動は、この地方ではおわりになったのではなかったかと思う。

 その第一芸術社は、『宣言』(昭和5年6月号)に「詩の社会的要素と革命性-マルクス主義詩は如何に破産するか」を書き、アナキズムの詩の特徴を挙げた東京帰りの宮本武吉が中核であった。武吉は第一芸術社から月刊詩誌「南海詩人」を出し、詩集『雪の社会へ』を出版(四六判46頁、新創人社)、それ以前の木下節夫を中心とする伊予鉄労働者グループを第一芸術社から離脱せしめたのであった。その詩誌は「南海詩人」で、彼らの溜り場は北京町のヤギツネであり、高橋喜好・奥田盛善・佐和田唯夫などが集まった。昭和6年8月、愛媛・瀬戸内海詩人聯盟からアナキズム詩誌「南方山脈」が創刊され発禁になった号のあることが内務省警保局「昭和六年中に於ける出版警察概観」に記録されているということである。この時期の経緯の一斑を記したものに名本栄一の「不謹慎な苦笑」(「文脈」86、昭49・2・1発行)がある。

 南海黒色詩集 アナの詩人たち

 『南海黒色詩集』は昭和七年に松山市で発行されたアナキスト詩人六人のアンソロジーである。表紙に白井冬雄・日野忠夫・宮本武吉・起村鶴充・井上彌壽三郎・木原健の名があり、扉には「一九三二・第一輯」とあるが第二輯以降は刊行されない。発行日は、当初印刷六月十日、七月一日再版、貼紙訂正十一月一日の複数原本がある。国立国会図書館蔵の内務省検閲本表紙に「内務省昭和7・10・29禁止」のスタンプがあり、表紙見返しに〝全篇アナーキズムの宣伝又は煽動に亘る嫌ひあり 特に一三、一七、二〇、六六―六七、七一頁所載の記事は禁止処分を相当と認む〟と赤鉛筆での書き込みがある。『出版警察法』第五〇号にも同じ理由で一〇月二九日に禁止したことが記載されている。-起村鶴充編。昭和七年一一月。新創人社(松山市)刊。四六判紙製。本文六二頁。跋・宮本武吉。五〇銭。-のこの詩集は発行以前に発売禁止になっている。詩集で、起村鶴充は「土に咽ぶ秋」「おこよの詩」「霜の記録」をうたい、木原健は「骨が書いた詩」三編と「或る夜の話」のほかに「山から」と題する詩を書いている。木原良一は北海道に渡って開墾に従事し詩集『開墾小舎』(昭6・第一芸
術社)を刊行、「弾道」(三号、昭7・12復刊 「出奔」)や「クロポトキンを中心とした藝術の研究」に作品を発表したが、のち帰郷し朝日新聞記者となり郷土史に没頭し詩から遠去かる。名本の「曠野に狂ふ」のー同志RKにーとあるのは北海道阿寒山麓開墾中の木原良一に宛てたものであろう。このうち、昭和一一年一月に名本・中浜聖二・佐和田唯夫・篠原雅雄らは「表現」を出し、洲之内徹を含めて光田稔の「記録」が発刊されるが、二年後には「四國文学」と改題を余儀なくされていく。

 奥田盛善詩集  奥田 盛善

 奥田盛善(大正三 一九一四~昭和十六 一九四一)中山町に生まる。虚無的性格に人間性の問題に当面し死について煩悶する。「日本詩壇」同人。
…昭和十年頃、松山で、私は十人ほどの仲間と「記録」という同人雑誌を出し始めた。同人は概ね旧プロレタリア作家同盟支部のメンバーであった。そこへ、前から松山地方で「南海詩人」「黒林」というような雑誌を出していた詩のグループから長坂一雄が、他の二、三人と合流してきたのだったが、そちらは強いていえばアナーキスト系で、その合流しようとしなかった中に奥田君がいた、というようなことだろう。私だちとそのアナーキスト系の詩人連中とは、なんとなく反りが合わず、お互に往き来しなかった。奥田君がアナーキストだったかどうかはわからない…と、洲之内徹は『奥田盛善詩集』(昭47・7・4奥田盛善詩集刊行会)に「あの頃」と題して書いている。盛善は奥田晴義の兄である。

  〈死の足音〉 本を閉ぢ/目をつむってわたしは耳を澄す/静寂の中に/かすかに近づいて来る足音がある 昨夜烈風の如くきいた/今宵薄紫のくすんだ静寂の中に/たまらない愛着を覚える/微風の如く音のない/しかも心に迫るあの足音 目を閉ぢ/ぢっとわたしは待っている  (『奥田盛善詩集』所収)

 山部珉太郎詩集  山部珉太郎

 本名・宮内健九郎(明治三八 一九〇五~昭和二二 一九四七)松山市小野で生まれ、小野で死ぬ。朝鮮鉄道局に勤務し、花冠・詩祭・亜細亜詩脈・機関車などの同人誌を発刊し詩を発表した。「機関車」創刊号は…真黒な表紙に「機関車」と誰かの苦々しい肉筆をリノリームに刻み込んで赤色で浮き出してあった。その表紙からも感じとれるように、同人の思想傾向はアナキズムに近かった(「珉太郎の回想」 合田佳辰)。「機関車」五号は発禁になり(昭3・2)、「社会運動に走れなかった珉太郎の苦悩は漸次その後の詩にいろいろな陰を落して行き、珉太郎自身の思索はだんだん沈潜し変貌を示していった(岡田弘)。珉太郎の詩には温かい抒情がある。

 〈仔牛〉 ひぐれのみどりのくさはらに/仔牛はつながれてひとりぽっちだ ちいさくて犬のやうだけれど/ちょくちょく角なんかはやして/そりそり草をたべてゐるやうすは/どこかぶきようで へんにかわいい/おほきな牛になるまでには/どんなにたくさんの草をたべることだらう/はげしいからだいっぱいの食欲で/そりそり そりそり/いちにち草をたべつづけるのだ仔犬のやうにふざけないで/くんくん鳴きまわらないで/むっつりだまって そりそり そりそり/草ばっかりたべているので/へんにいとしくなってくる仔牛よ  (『山部珉太郎詩集』 昭29・3・29金沢市岡田弘発行)

 大空詩人 永井  叔

 永井淑、松山市出身。関西学院・青山学院・同志社大学の神学部を転々。右肩から左へ白い襷をかけ「おたがい大空のように」と墨書し、右の腰に「大空詩聞」を提げてマンドリンを奏でつつ自然の浄化と神の叫びを伝え、街から街を行脚する。社会主義者として獄中生活二年。詩編「緑光土」は獄中の記。自叙伝青年編「大空詩人」、壮年編「青空は限りなく」(昭47・4・20同成社発行)がある。

 〈世界万民一人一人が〉 人は皆!/天(大空)の使でなければならぬ。/衣を作る人も、売る人も/家を建る人も、売る人も/政治家も、農人も、芸術家も/お巡りさんも、全配達業者も/教師も、医家も……/皆!/天の使であれ!大空の聖使であれ!/ただ「愛」の意志のままに。/ただ「大空」の情熱のうちに。  (大空時聞第98号抄)

 二算句帖 真鍋 霧中

 真鍋霧中(大正三 一九一四~昭和五五 一九八〇)川之江市。松山中学卒業後上京、全協系非合法活動に協力。伊予銀行従組執行委員長。川之江市社教委員・収入役。画家。私家本句集「二算句帖」。その俳句誰が呼んでゐる夕空の柚子になってゐる冬の日ぬくぬくと一人くるとまた一人くる砂浜からぐるまからから帰るあとから暮色

 翼  伊賀上 茂

 伊賀上茂(明治三七 一九〇四~)松前町生まれ、埼玉県在住。愛媛新聞社文化部長・論説委員、東洋大学校友会事務局長。…私は学生時代に左翼思想に傾き、はじめアナーキズムから出発して、マルキシズムに転向、プロレタリア詩人会の結成や〝プロレタリア詩〟の発刊には、微力を尽くしたつもりである。しかし、朝鮮に渡り、さらに北京に滞留するに及んで、私は民族的な自由主義思想を抱くようになった…(詩集『残照』 昭53・9・30時の美術社発行 あとがき)

  〈よくなりたい〉 友は言った/お前程金銭にルーズな男は珍らしいと/或る知人は僕を引見して言った/君は世の中を呪詛ってゐるのかと/又或る女は言った/貴方のお話をいつ聞いても感心しませんわと/たった一人のおふくろは言った/お前が出世するまでわたしの寿命はないと/かゝることの度に僕はよくなりたいといらだつ。 (『翼』昭5・11・15前衛評論社発行 所収)
 〈望郷〉 障子山に雪がかかると/泉湧く神寄川の水底に/動かぬ鯉や鯰を追いにし/少年の日は遠くなりにけり 石鎚の山なみを見はるかす/重信川の長堤の/松の老樹に身を寄せて/物思いせし初恋の日よ 瀬戸内は夕べの凪で/潮騒もきこえざりけり/足もとの河原に浅瀬せせらぎ/いつしか松虫も啼きやんで/中州に月見草が咲いて出る/ふるさと恋しや重信河畔 (『残照』所収)