データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

1 愛媛の詩壇

 愛媛の詩誌

 愛媛の詩活動もこの間めまぐるしい動きを示している。詩誌の主だったものを地域的に挙げてみる。
 〈川之江市〉=樫(三木昇)・冬のうた(個人誌 篠原雅雄)・海南詩人(高尾栄一 三木昇) 〈伊予三島市〉=山脈 〈新居浜市〉=業(個人誌 正岡慶信)・ほのお(横田重明)・いしころ道・だれもいない部屋(岩崎静子ら)・愛媛詩人 〈西条市〉=蕊・KOBU(瘤)・地の塩(尼崎安四 平井辰夫ら)・じあまりのうた(個人誌 河野好美)・きゅろひ(個人誌 清家博幸) 〈今治市〉=独立詩(黒河洪輝)・炎(大森孝義)・黒・不器用な天使(大森孝義 佐藤富次郎) 〈菊間町〉=いちぷらすいち(菅昌夫 田中まり) 〈松山市〉=野獣・海溝・愛大詩帖・葦芽・地熱・樹液・山猫・ハンガー・えひめ(名田隆司)・あらるげ(村上伸生)堊(芥川義男)・朱(青木俊恵 青木道子)・詩園(山本耕一路 伊藤重徳ら)・詩都(高木至 奥田政樹)・愛媛詩人(中井茂樹)・ばらあど(個人誌 高木敦之)・私は詩(小野山新作)・きょうとあす(個人誌 中井茂樹)・あゆみ(詩性川柳誌) 〈砥部町〉=詩国(個人誌 坂村真民)・朔(浅海道子) 〈松前町〉=星屑の村(個人誌 西江雄兒) 〈内子町〉=悪路(大本義幸)・ほつれげ 〈八幡浜市〉=海市・SIVA・詩奴・ドルフィン・断絶 〈保内町〉=草笛・午前(坪内稔典)  〈宇和島市〉=リアス・ばらた(棹見拓史)・秀登留武(個人誌 西之谷好) 〈城辺町〉=愛媛詩人 ほかに無名詩人・暖層・葦・コークス・石碑など。
 廃休復刊、離合集散・融和反駁…まことに激しく、興亡の跡を辿り現状を探るに困難である。とくに松山市では「一人一党の詩人で詩壇の大半を占めている。これは自我のはげしい個性的な仕事をしているひとが多いということになるが、半面、独善におちいりやすい欠陥も指摘しないわけにはいかない。新鋭・中堅・ヴェテラン、星のようなといえば大げさだが、とにかく多量の詩人が輩出しながら二、三年の寿命で詩壇から去ってしまうのは、こうした短所が災いしているようだ。俳句的な風景のなかで、何が人間を詩にかりたてるのだろうか。松山詩人を理解するうえでも問題点を探る意味でも、そういった詩風土の分析と関係を考察していい時機が到来しているようにも考えられる。」(「四国の詩壇」高垣昌博)とされたのは昭和三八年のことである。いま、刊行されているものはまことに少なく、樫・ほのお・瘤・野獣・葦芽・山猫・詩国・朔・悪路・SIVA・ばらた、などを数えるにすぎない。

 愛媛詩人  愛媛詩人社

 敗戦後、南予の最南端である城辺町で詩誌が誕生した。多田不二・古谷綱武・高橋新吉・弘田義定・光田稔・伊賀上茂を顧問として昭和二二年四月三〇日「愛媛詩人」第一冊を刊行した。発行社・愛媛詩人社、編集同人久保麟一・長岡通夫・金田福一とある。この周辺にあった西之谷好の「愛媛詩人発刊のころ」と題する回想を要約する。

 …戦後の南宇和郡では文運高く、歌誌「海風」(昭20)、俳誌「檳榔樹」(昭21)、詩誌「愛媛詩人」(昭22)、復刊歌誌「草の葉」(昭25)が刊行された。わたしは二神節蔵さんの家に日参し「海風」の印刷発行を手伝っていた。節蔵さんが「芸術道場社」を起し、文庫を設け、万葉研究会・英語研究会を開いた。そのころ、節蔵さんは「芸術道場」「子供車庫」という個人詩誌を出しており、久保麟一さんと詩誌発行の話をしておられたのを覚えている。ある日、布鞄を肩に掛けた登山帽姿の男が節蔵さんを尋ねて来た。詩人のダダイスト高橋新吉さんということがわかってびっくりした。鞄の中には般若心経と数珠が入っているだけだった。節蔵さんの連絡で駆けつけた久保さんが連れて帰って一泊させ、翌朝久保さんはバスの切符と紹介状を新吉さんに手渡して宇和島まで送り届けた。節蔵さんが亡くなられた(昭22・3・533歳)。石野義一さんとともに「二神節蔵遺稿集」発行に奔走し、題字木活字を当時御荘町在住の畦地梅太郎さんに依頼し用紙を持参して刷ってもらい、わたしも節蔵さんの板画の中から二葉を選び手刷して遺稿集に入れた。「愛媛詩人」が発行されるや私達はこぞって会員になった。第二冊(昭22・6・10)、第三冊(昭22・7・31)と発行されたが、経費や久保さんの宇和島転勤で三号で終わった。その後、石野狭庭君は「愛媛詩人」続刊の夢すてがたく、自分で印刷し自分で配り歩くという状態であったが、これも三号で終わった。詩誌には後記・奥付はあるものの、なぜか発行日が記されていない。石野君が県外に転出したあとを金田福一さんが託されて発行することになり、第四号(昭25・10・12)から第七号(昭26・1・29)を順次刊行したが、第七号が終刊となった。わたしは昭和二三年の早春、進学のため笈を負うて故郷を離れた。増本盛喜先生の第一詩集「手向艸」が出版(謄写刷 昭23・9・7)された。わたしは題字を板木に刻し刷り上げて表紙とした。これは夏休みの帰省中のことであった。金田福一さんの第一詩集「鬼羊歯」(自筆謄写刷昭25・8・21)が愛媛詩人社から発行されたのもなっかしい。…

 リアス  詩を語る会

 リアスは昭和三一年七月に一号を創刊し二四号(昭40・4)をもって終刊となる同人詩誌であり、終刊号編集後記に〝終刊〟の辞を記した珍しくも折り目の正しい詩誌である。詩名は坂村真民の命名で、「詩を語る会」の陰の世話役は当時の宇和島市立図書館長渡辺喜一郎である。発行所は終刊にいたるまで「市立図書館内 詩を語る会」である。創刊号の編集委員は坂村真民・内山直・名本栄一・北川徹・川崎宏・渡辺喜一郎・船間屋譲一・石城隆夫・牛田幸男・島川昭太郎・日前瑛・二宮収・松本リン一であり、発行人は松本リン一である。活動を支えたのは三号から編集担当者となった石城隆夫の持久力と矢内原通雄(松本通雄=棹見拓史)・中山芳子らの活躍であった。松本リン一・清家一忠・山彦三太郎・坂村真民・正岡慶信・芝玲子・古谷さとるの詩作も見逃せない。第一期は宇和島の詩人を集結させ、ややハイレベルの詩誌を目ざした時期、第二期は詩を書く人の芽を絶やさぬよう発表の場を残そうとした時期、第三期は県下各地から図子英雄・村上伸生・芥川耕児・香川紘子・阿志津みづゑなどの詩人仲間が加わり活動の場が広がった時期であった。そして、愛媛の総合詩誌として「愛媛詩人」が創刊されるに当たって廃刊となった。愛媛詩人会の「愛媛年刊詩集」も昭和三七年以降、姿を見ない。

 『愛媛の詩史』  横田 重明

 いま愛媛の詩史を辿るにはその資料が散逸分散されすぎていて全貌を把握するのは困難である。県立図書館には「俳諧文庫」があり、県下で発刊される俳誌のほとんどが寄贈されている。しかし、詩誌の大部分は県立図書館では閲覧することが出来ない。詩人たちの個性の強さが、あるいは潔癖孤高羞恥が、さらには両者の怠惰無関心がこのような結果を招いているのであろうか。消失して行く資料・記憶を掘り起こし甦らせていく作業はたしかに困難ではあるがそれ故にこそ必要である。横田重明は『愛媛の詩史』 1「リアス」について(昭52・1・24)、2 プロレタリア文学運動の系譜(昭52・2・24)、3「いしころ道」について(昭52・7)を書いた。以後、不定期に発行を続けることを念願しながら、資料が想像以上に散失してしまっているためか未刊。ふたたび筆を起こしての続刊に期待する。

 詩誌の現状  棹見拓史・山本耕一路・三木昇

 いま宇和島市にあって「ばらだ」を発行する棹見拓史(松本通雄)、松山市にあって「野獣」を発行する山本耕一路、川之江市にあって「樫」を発行する三木昇に、それぞれの詩誌と周辺のことなどについての手記を寄せてもらった。

 「ばらた」(棹見拓史)…詩誌「リアス」が昭和41年に24号で廃刊になり、一年後の空白の後、43年2月詩誌「ばらた」が創刊される。宇和島市立図書館を拠点に「リアス」の旧同人、松本リン一・石城隆夫・棹見拓史・山彦三太郎・坂本雄志らが責任同人として参画し、当初石城が編集を担当したが、6号より棹見が引き継ぎ今日に至る。バラモン教の聖典であるヴェーダ讃歌にうたわれ、絶えず困難を打破し果敢な前進を続けるバラタ族(BHARATA)をこのグループの明日に重ね誌名とする。「傾向も異ったこのメンバーに又幾人かの仲間が加わっていくことだろう」と石城が創刊号の編集後記に書いているように、当初は詩誌運動としての主張はなかった。同人の個性を尊重し、市内の画家・写真家・俳人などとの討論会を開いたり、詩の学習会をもったり、詩の現代的な意味を模索する作業を並行して試みながら平均年二回のペースで詩誌発行が続けられていく。森原直子・扶桑子・入義紋四郎・小島和子・下野勉・清家一忠など同人の入退会が繰り返され、16号発刊時(53年)には創刊当時の同人は松本・棹見・森岡弘子が残るのみとなる。この頃より「ばらた」は棹見を中心にして文学運動体としての色彩を色濃くしていく。情感に流される従来の抒情を否定し、知的で乾燥した新しい抒情を求めて、共同体としての活動が展開される。55年1月よりガリ刷りの「月刊ばらた」が創刊され、それを習作の場としながら詩の新しい実験をもくろむ「実験工房」や他人の作品を受けて自作を展開していく「俳徊連詩」などの試みが強制的に同人に課された。それは、既成の自己の破壊や発想の転換を図り、同人の未知の資質を探り、それを更に拡大しようとするものであった。詩を「待つ」姿勢から、詩を「構築」していく積極的な姿勢への転換ともなった。月刊と並行して同人の「特集」を編み。「ばらた」の続巻として23号の上梓が続けられている。そこでは、同人の自選作品に対する評論が全員に義務づけられている。印象批評を排し、詩作品を客観的に読み取る〝視線〟を身につけようとする意図がうかがえる。転じて、作者としての活動を極度に〝自覚的〟にする意味をもっている。この活動は詩壇から多くの反響を得たが、58年12月で四年間にわたる計画を終え、「ばらた詩集」の発刊へ歩みを進めようとしている。「月刊」活動に継続して参加した同人は、棹見拓史・志賀洋・森岡弘子・坂本透・妹尾邦義・山室優子・鳥沙鬼夫・音地京・清水正・篠原一由であった。

 「野獣」とその周辺(山本耕一路)…松山は俳句人口尨大国と謂う稀な異名があるだけに、いつの場合も詩は片隅に逐いやられる。そうした土地柄と悪状況にもかかわらず幾多の困難に堪え、身ぜにをはたいて「野獣」も119号の三ケタを重ねるに至ったが、昨年から組織を改革して一層の充実へ向けて活発な歩みを続けている。「野獣」同人の平均年齢は四四、五歳か。職業も様々。現役の書き手は約三〇名。そのうちコンスタントに書き続けているのが約半数で、毎号真摯に作品活動を続けている。福吉政男・池田貴代子・藤渕欣哉・篠原雅雄・小松流螢・森原直子・伊志皓・黒川由起子・きねだるみ・門田千寿美・山本耕一路など。昭和三三年の後半から能勢与一郎・杉原節子・兵頭みち子・山内八重子らの有力新人が台頭しはじめており、この最近、東京の国弘浩介がカムバックして新たな詩魂の翼を羽搏いており「野獣」は漸次上昇気流に乗っている感がある。昭和五七年、福吉政男が「心の薬店」を出版して光彩を放ち、小松流螢は東京の芸風書院から「病虎」を出版した。この詩集は日本悪女列伝と言う異色の五編が収められており意欲的である。またそれより曩に「山本耕一路詩集」も芸風書院から日本現代詩人叢書第56集として上梓され、山本の詩集は9冊を数えた。昭和五八年、田都画廊で森本憲夫・池田貴代子・小松流螢・黒川由起子・山本耕一路が詩画展を開催して反響を呼んだ。また山本は伊予銀行新立支店・協和銀行ロビーで単独詩展を開催した。眼を僚誌に転じると、芥川義雄らによる「葦牙」が安定した活力を見せる。山田光・藤井敏夫・高田泰子・図子英雄など一騎当千のベテラン達。少数だが詩論に作品に精力ぶりを見せる。図子は小説「原点」も主宰し「沈黙」で第20回目の総評文学賞(詩部門)を受賞し一段と磨きのかかった熟成が光る。栗原洋一の「山猫」も潑剌とした明るい抒情を紡いでいるが、個人誌では坂村真民の「詩国」が〝念ずれば花ひらく〟の含蓄ある言葉と倶に真心をつらぬく。浅海道子の「朔」も10号を積み独自な抒情を書き続けて期待がもてる。愛媛詩人祭も第九回を重ね、昭和59年春には第32回のH賞を受賞した青木はるみを講師に迎えての開催が予定されており、同時に「野獣」も120号となる。これを記念して画期的な野獣詩集が計画されている。

東予の詩動向と「樫」(三木昇)…東予地方は、中予とことなって、小都市が横形に分散しているため、戦後の詩活動も派生的というより、分散的にあらわれたとみてよい。各地域にサークル詩運動があったものの、とりわけて目立った成果はあらわれなかった。それよりも詩誌「地の塩」(西条市)に詩を発表していた尼崎安四は昭和二七年、三七歳で夭折したが、すぐれた作品を発表している。生前二冊の詩集を刊行し、遺稿詩集は五四年に発刊し、一詩業をみせている。詩誌では「黒」(今治市発行者黒川洪輝)は戦後詩の課題をもって詩を発表したが、長続きしなかった。そうした低迷を破って現れたのが「樫」(川之江市発行者三木昇)である。つづいて「KOBU」(西条市 発行者平井辰夫)。「ほのお」(新居浜市発行者横田重明)などをあげることができる。「樫」は昭和四〇年に創刊された。前記の「黒」を発行していた今治市の黒川洪輝や大森孝義が参加し、これに川之江のメンバーが糾合、県外からの参同者を得て、季刊発行を目標にし順調に号を重ねて四五号を発行している。この間、三〇号アンソロジーを全国的な範囲で編集し質量的に高い評価をうけた。同人の詩集刊行は数多く、全国賞の候補にあがった詩集もある。他に「樫」叢書も刊行。現在同人は一五名、八〇ページ前後の詩誌を発行。「KOBU」は地味であるが、平井辰夫の精力的な努力により、二六号をかぞえている。詩営為では、詩画展や詩朗読を開催し成果をあげている。「ほのお」はサークル詩派の唯一の県総合詩誌として注目を集めている。横田重明らの積極的な活動により、東予では一番多く号をかぞえ五二号を発行。他に年刊アンソロジーを編み、詩のサロン的な雰囲気を脱し、だれでも書き読むことのできる詩誌を目指しているといえる。この派では「業」(新居浜市発行者芥川三平)を見落とせない。東予の詩の動向は以上あげた三詩誌に集中される。他に派生的に発行された詩誌もあるが、ながつづきしなかったし、問題詩集として特にあげる詩集も見当たらない。今後は前記の三詩誌に期待をもつことができる。

 愛媛詩人祭  愛媛詩人連合

 愛媛詩人連合(代表山本耕一路)主催による「愛媛詩人祭」の第一回が開催されたのは昭和四六年であった。開催日・テーマ・講演・会場などはつぎのとおりである。

 (1) 昭46・8・10~15 「あらゆる素材による詩の表出」 県立美術館 (2) 昭48・3・6~11 「あらゆる素材による詩の表出」 県立美術館 (3) 昭50・10・12(昼・夜2回) 「詩の朗読」 市民会館中ホール (4) 昭53・3・14~19 「詩と絵画・詩と写真」 県立美術館 (5) 昭54・1・23~28 「中学生入選作品展示勝山中学校木村和行・えんぴつ」 県立美術館 (6) 昭55・3・30 「徳永民平・生ッ詩ッ詩ッ詩」「森本憲夫・俳句解体」 市民会館小ホール (7) 昭56・3・15 「詩の朗読・野獣 朔 ほのお 樫、有馬敲」「図子英雄・高村光太郎と智恵子抄 糸井通浩・日本の詩歌とリズム」ニューグランドビル五階 (8) 昭57・3・28 「永瀬清子・詩は肉体である」「詩の朗読・阿志津 徳永 堀内 山本」 県労働会館中ホール (9) 昭59・3・25 「水口洋治・現代詩から近代詩へ」 プランタン会議室 (10) 昭59・3・25 「青木はるみ講演」 プランタン会議室
 なお、詩朗読の会に「吟遊キャラバン風」(主宰・堀内統義)・「ムンダナ」があり、詩人たちの横の組織をめざす「詩友の会」(代表・能勢興一郎)がある。