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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

2 童謡・少年詩

 明治が唱歌の時代だとすれば、大正は童謡の時代と言っていいだろう。『赤い鳥』の詩人北原白秋、西条八十、『金の船』の野口雨情。そして、作曲家山田耕作、成田為三、本居長世、中山晋平などが多くの秀作を生み出した。「今の子供たちは、あまりにも自分の欲する童謡や童話を、その学校や親たちから与えられておりません」との白秋のことばからも感じられるように、大正童謡は、文部省唱歌へのレジスタンスを意識していた。
 いわゆる「童心主義」は、人道主義の立場から、子どもたちの解放を目ざしたものであったにちがいない。
 しかし、文部省唱歌に見られない「やさし(平易)さ」「わかりやすさ」を標榜しながらも、芸術的であろうとするあまりに、別の意味の難解さを生み出したところもある。しかも、過度の感傷性は大人の郷愁につながるもので、それが、日本人好みの「懐しのメロディ」として今日なお一部大人に愛唱されるゆえんではあるが、小市民的「ひよわさ」として批判されることにもなっている。また、芸術的歌曲としての高さをみせる名曲に寄りかかって、「詩」としては必ずしもすぐれていないものが愛唱されてきたような面もある。
 それにしても、一流の詩人、作曲家が、「子どもたち」のために全力投球をした大正のこの時代は、まさに、童謡の黄金時代として評価されるべきであろう。昭和、戦後のこの世界は明らかに衰退している。

 玉置光三

 (たまき・みつぞう)明治二七年(一八九四)宇和島市に生まれた。大正一三年(一九二四)東洋大学卒業後、白秋主宰の『詩と音楽』『近代風景』に研究や作品を発表、講談社、小学館の雑誌やビクターレコードなどにも作品を発表するなど、童謡、民謡の創作、研究に没頭した。野口雨情にも師事、日比谷図書館にも勤めた。しかし、地元県内で知る人は少なく、業績も詳らかでない。
 昭和五年、童謡集『山のあなた』(人文書房)には約六〇編が収められている。童画家武井武雄の装丁とさし絵、序文は北原白秋。集中の「桜咲いた」「赤い牛の子」は宮城道雄作曲、「山の童女」「野川の野菊」は江口夜詩、「霧の歌」は小松平五郎の作曲。その当時の童謡界の評価がうかがえる。
 白秋の序は、「清明な母の眼、その母の眼を、恒に山のあなたの青空に望む人の子は幸いである」と書きはじめ、「彼は季節に対し、昆虫に対し、草木に対し、土俗に対し、素朴にして純一なる眼と心を以て直面する。」「よし、手技の未だ到らず、詞藻にさびしい欠所はあっても、みだりに市井の俗に阿らず、強ひて智巧を企てぬ謙譲性と、稚気の単純性とは、斉しく正しく評価されねばなるまい」と述べている。
 この白秋の評価は、彼の本質を端的に言いあてている。この素朴さが、彼を華やかな流行作家となしえなかったと言えるが、また、むしろそのことが彼の身上であり、彼の存在理由を示すものであった。なお、「小さなエスさま」「ヨブ爺さんたち」などキリスト者的な作品の章も、この集に収められている。

 西川 勉

 明治二七年(一八九四)宇摩郡金田村(現川之江市)に生まれる。(資1028)大正三年(一九一四)早稲田大学英文科卒業、出版社、読売新聞社などに勤めながら、童謡・童話・翻訳・評論など児童文学への関わりも深かった。しかし、遺稿出版のため集められた資料の一切を空襲のため焼失、その業績には、まだ明白でないものが多い。同郷の詩人篠原雅雄が、昭和五八年、川之江文化協会刊の『文化時報』盛夏号より筆を起こし「西川勉小伝」の連載を始めており新資料の発掘が期待される。
 西川は、西条八十、大木淳夫、萩原恭次郎らと親交があった。一九二一年版『日本童謡選集』(稲門堂)は、西条八十と共編。同年「童謡及び童話界の現状」(早稲田文学)、大正一二年『純正童謡講演』(交蘭社)と評論を発表。大正一四、一五年版『日本童謡集』(新潮社)には、それぞれ童謡五編収載。大正一〇年には、雑誌『小学女性』に「達磨」、『児童の友』に「電車の窓から」など、また、『とんぼ』に発表した、代表作ともいうべき「お月さん」は本居長世曲でレコーディングされるなど、大正末期の活躍がうかがわれる。西条八十に似た抒情的な詩風であった。訳書に『母を探ねて三千里』『メーテルリンク童話集』などもあるが、出版年、出版社など詳細は不明。昭和九年、四一歳で急逝した。

 長岡通夫

 (生没年経歴など未詳)昭和三二年、南宇和郡西海町船越在住のこの作者によって童謡集「ほらがい」が出ている。本文三八ページの小さい版で、南予の海辺に土着した詩に特色が見られる。大正期童心主義的な旧い語法や発想も多いが、海辺の生活に密着したものに資質をのぞかせている。「かさこそかさこそ 話してる / よなかもかさこそ 話してる / 竹にさされて かさこそと / いわしの言葉は わからない」(「いわし」第一連)在住地域にあってひそかに歌いつづけ中央志向の感じられていないところに好感がもてる。

 百舌よ泣くな

 昭和初期、なお自由主義の風潮は残り、子どもの歌イコール童謡といった余光は定着していた。しかし、ファシズムが勢力を得、昭和一六年「皇国民の錬成」を目標とする「国民学校令」が公布、「日本少国民文化協会」の発足、「太平洋戦争」勃発と、児童文化も軍国主義的統制に巻きこまれていった。そんな中で、昭和十年、サトウハチローの『僕等の詩集』の中にある「百舌よ泣くな」は、たとえば(兄さは満州へ行っただよ 鉄砲が涙に光っただ)など、民衆の本音を歌った異色のものといえよう。戦後、フォークグループが「反戦歌」と位置づけて広く歌われた「百舌が枯木で」(あるいは「枯木に」)がそれである。しかし、やがてハチローも国策順応の品行方正な子どもの歌などを書き続けることとなる。
 戦後、雑誌『赤とんぼ』『木曜手帖』によって、ハチローは戦後童謡の大きい主流を作っていった。やや古風な日本的抒情を現代風に生かし、自らの内に在る「悪童」の心情を繊細に歌ったものが多い。愛媛県人ではないが、宇摩郡新宮村にハチロー詩碑がある。(資1133)。ハチローの大きい功績の一つに、「木曜会」を作り若い作家の養成に努力したことがあげられる。宮中雲子も、この門から出た。

 宮中雲子

 昭和一〇年、西宇和郡三瓶町に生まれる。(資1079)東京学芸大学在学中から「木曜会」に入りハチローに師事。今も「サトウハチロー記念館」運営管理者として館内に居住、童謡の道を一筋に進んでいる。ハチローの残した童謡誌『木曜手帖』の編集、日本コロムビア専属作詞者、NHK「夢のハーモニー」メンバーなど、今までにも、現代童謡第一線の活躍が多い。
 昭和四五年、処女詩集『七枚のトランプ』(木曜会出版部)で日本童謡協会童謡賞詩集賞受賞。以後、木曜会、サンリオなど各社から童話、詩集、詩曲集、詩文集、童謡集など六冊を出し、昭和五七年、詩集『愛の不思議』(サンリオ)に至るまで、詩人として、多彩、着実な仕事を積み上げている。童謡を第一義の道として追求する者の少なくなった現在、健筆が望まれる。
 彼女の特質を一言で言えば、思春期の心情をそのまま持ち続けうる資質にあるのではなかろうか。たとえば、童謡集『お月さまがほしい』(昭和五五年・サンリオ)の中にある「なずなの花と小犬」(なずなの花に 顔をよせ/ないしょばなしの 小犬です/いいこと いいこと きいたのか/しきりに しっぽを ふってます)など、ハチローの息づかいを受け継いでいるが、詩集『黒い蝶』(昭和五六年・木曜会)中の「黒い柩」「祈り」などの不吉に暗い予感の重さは、童謡の世界とは異質の内面を語っているように思える。
 童謡集『七枚のトランプ』には「遠い四国の母に捧げるうた」「ちいさいちいさいおへんろさん」などがあり詩集『黒い蝶』でも「故郷の絵」「ふるさとの祭をうたう」など、望郷の思いを歌い続ける詩人でもある。

 県内在住の童謡詩人

 周桑郡小松町石根小学校に童謡詩碑がある。同校出身で書家として有名な織田子青(資908・1121)の童謡「夏のあくび」(夏があくびをしているようだ/桐の広葉がだるそうに/さよらさよらとゆれている)が刻まれている。この童謡は、戦後復刻された『少年倶楽部名作選』にも収載されているが、子青は大正八年(一九一九)若くして上京後、多くの少年雑誌に童話童謡を書き、童謡集『銀の種』も上梓されていた。今治の戦災で資料のすべてを焼失、今は断片的にしかその跡をたどることができないのは残念である。
 同じく書家である林克山の童謡碑も松山市県立動物園にある。(資1156)この「母馬子馬」は、昭和九年、文部省国定教科書に収載されたものである。
 篠原雅雄は川之江市で永年、青年学校、小、中学校教員、校長を歴任、退職後も公民館長、図書館長を勤めて郷里に在ったが、現在は加古川市在住。昭和五三年、童謡童詩集『わたり鳥』(自費出版)を出した。「北海道へかわった(幼な友だちの)文やん」や「ねえやん」への思慕、「ばあさん」の思い出の「ちそ」(ちそもんだ/むらさき色の指かげば/ちそくさく/ばあさん思いだす)など、方言もまじえて、故郷に生きる詩人らしい作品が多い。白秋のような繊細なことばづかいである。詩集も多く、児童詩の指導にも成果をあげている。日本童話会主宰の後藤楢根の『童謡詩人』、西条市の児童文学誌「ぷりずむ」に所属していた。
 京都の詩人有馬敲は、昭和三八年ころから、『新篇わらべうた』『ぼくのしるし』『わたしのげんまん』『はあとうとう』と童謡集を出してきたが、仕事のため約一年間松山に在住していた昭和五六年、少年詩集『ありがとう』(理論社)を刊行、谷川俊太郎なども試みている言葉あそびの歌など、新しい少年詩の方向を意欲的に拓こうとしている。愛媛の詩壇に影響を与え、風のように京都に去った。
 どの部門についても言えることだが、県人で文学上の著名な仕事をしたほとんどは中央に出てからの業績である。「地方の時代」が言われる昨今、県内在住の作家の活動を貴重なものに思う。「資料編」にのみ取りあげて本稿では触れ得なかった県内作家の芽が、さらに成長することを念願する思い切である。愛媛の地が、それを育みうる土壌となりうるか、そんな問い返しも必要に思われる。