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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 校歌・寮歌・応援歌

 校歌・寮歌・応援歌など、いわゆる学生歌は、その成立事情のいかんを問わず、いずれも校風を発揚し、仲間意識を鼓舞するために作られたものであり、誇りと母校愛によって支えられている。酒井秀次郎(昭和一七年宇和島商業学校卒)は、「真夏の深紅の太陽が豊後水道のはるかかなたに沈もうとしていた。その時、だれの口からともなく校歌が流れ出てきた。合唱しているうち、若い我々の魂をゆるがし感激のあまり、熱い涙がほおをつたうのをどうしようもなかった」と回想している。また、学生歌は、先輩と後輩という世代を超えた縦のきずな、共に机を並べたという横のきずなともなり、ある者にとっては、母校の思い出、若き日の思い出につながる「懐かしのメロディー」でもある。
 学生歌は、その学校で学んだ者の間にのみ歌われ、歌い継がれていくものである。しかし、なかには広く青年の心をつかみ、人口に膾灸した歌もある。「嗚呼玉杯に花うけて」(旧制第一高等学校寮歌)・「紅萌ゆる丘の花」(旧制第三高等学校逍遙歌)・「琵琶湖周航の歌」(旧制第三高等学校)・「都ぞ弥生」(北海道帝国大学予科寮歌)・「都の西北」(早稲田大学校歌)・「若き血に燃ゆるもの」(慶応大学応援歌)等々がそれである。新居浜市船木小学校の校歌(大正一〇年制定)が旧制三高の寮歌のメロディーであり、また、私立北予中学校(松山北高校の前身)は、旧制一高の寮歌の節で「あゝ勝山の城の北 千草露けき野を占めて」と歌われていたのも、その証左であろう。
 学生歌の最も古くは、明治二八年に旧制第一高等学校の寮歌として作られた歌が最初だといわれるが、しかし実際に学生の寮歌・校歌・応援歌創作の直接の火つけ役となったのは、同じく旧制一高の西寮寮歌「逍遥の歌」であったと考えられている。本県の場合、古い学生歌には成立年の不明のものもあり、最も古い学生歌はつまびらかではない。成立年の明らかなもののうち、校歌では、明治三四年に制定された松山高等女学校校歌(田中好賢作詞)・同年制定の八幡浜市神山小学校校歌(清家中枝作詞現在も校歌として継承)、応援歌では、明治三五年にできた宇和島中学校短艇部応援歌「思へば過ぎし」(本田正一作詞)等が古いものと言えよう。

  松山高等女学校 校歌                田中好賢 作詞
一、千代もかはらぬ師の恵み 千代もかはらぬ友の恩
  われら乙女の学ぶなる 教への庭の楽しさよ
二、教への庭に学ぶ身は 名に負ふ伊予の松山の
  松のみさをを心にて いざもろともにつとめまし

  八幡浜市 神山小学校 校歌             清家中枝 作詞
一、旭日直射す神山の 森に生い立つ稚児桜
  大和心と美しく 教えの園に匂うなり
二、夕陽の陽照る御田代に 植えて育てんうまし稲
  八束足り穂に実を結び 学びの庭に栄ゆらん

 校 歌

【作詞者】 校歌は、そのほとんどが学校関係者又は学校関係者となんらかのつながりのあった人々によって作詞されている。宇和島商業学校の校歌(昭和一〇年制定)の作詞者は「荒城の月」の作詞で有名な土井晩翠である。当時の校長丸島清と土井との間に親交があったという。一方松山中学校の校歌は「浜辺の歌」の作詞者林古渓によって作詞された。昭和六年二月一一日の制定となっている。当時、林は松山高等学校の教師であった。済美高等女学校校歌(済美高校校歌 宮城道雄の作曲であり、本来琴の歌である。現在琴の伴奏で歌われている)、松山市味酒小学校校歌(昭和五年制定 現在も校歌として継承)も彼の作である。大洲中学校校歌(明治四二年制定大洲高校校歌として継承)は堀沢周安の作詞である。彼は愛唱された文部省唱歌「田舎の四季」の作詞者でもあり、当時大洲中学校の国語の教師であった。大洲高等女学校・大洲小学校・越智中学校(今治南高校)の校歌も堀沢の作詞。西条中学校校歌(昭和一〇年制定 西条高校校歌として継承)の作詞者は唱歌「春がきた」、〝白地に赤く〟と歌い出す「日の丸の旗」を作詞した国文学者高野辰之。宇和島中学校の校歌は同じく国文学者藤村作が作詞、今治北高等学校の校歌は小説家・詩人佐藤春夫、松山北高等学校校歌(「朝の友情」作曲は高浜虚子の次男池内友次郎)は俳人中村草田男の作詞である。また、北宇和郡吉田中学校校歌は吉田町出身の国語学者江湖山恒明の、新居浜市中萩中学校校歌は同市出身の小説家白川渥の作詞である。
 本県の校歌を最も多く作っているのは国語教育で著名な古田拡である。教育関係者のなかで彼の教えを受けた者、彼と親交のあった者がいかに多かったかがしのばれる。彼が作詞した校歌は、母校東予市多賀小学校の校歌(昭和一五年制定 校歌として継承され毎朝歌われている。)をはじめ、小・中・高合わせて百を越えている。その他校歌の作詞者として、竹葉秀雄(元県教育委員長)・和田茂樹(愛媛大学名誉教授)・佐伯秀雄(元県立高校長’歌人)・坂村真民(元高校教諭・詩人)・藤原与一(広島大学名誉教授・方言学者)・内山直(元小学校長・歌人)などの名をあげることができる。

  宇和島商業学校 校歌              土井晩翠 作詞
一、心を磨き体を錬り士魂商才標語とし
  我が宇和島の商業の校に勉むる健団児
二、東朝日を鬼城山西沈む陽を大海に
  眺め無双の風光に親しむ我の幸想う

  松山中学校 校歌                林 古渓 作詞
一、二柱神いとなましし二名の島の伊予のくに
  そびえて繁りぬ扶桑の大樹清くけだかき我等の心
二、吾がすめらぎみ詔り給ひしみことのまにまいかしたつ
  根を張る枝はる松山中学治めつちかふ我等のつとめ

  大洲中学校(大洲高等学校)校歌         堀沢周安 作詞
一、近江聖人の 跡とめし 昔の庭は 此処ぞとて
   日毎日毎に踏みならす われらが身こそ 嬉しけれ
  中江の水の 澄みまさる 心をおのが 心にて
   誠の道を 辿らまし 由縁の藤を 仰ぎつつ
二、朝夕わたる 肱川の  水の流を 顧みよ
   進み進みて やまぬこそ われらが常の 務なれ
  矢野の神山 動きなき 心をおのが 心にて
   学びの窓に 励ままし 月の桂も 手折るべく

  東予市 多賀小学校 校歌            古田 拡 作詞
多賀の里    雲は飛ぶ白雲    健かに我等在り    おおらかに我等行く    歌い挙げん
わが産土    晴れたり石鎚    信もてつどい     日の本の道を       我 等
野は展け    潮は寄す青潮    爽かに我等起つ    ああ学舎
水豊かに    月待つ内海     道限り無し      多賀の名を

【歌詞】 校歌には、子どもたちをはぐくむ風土が美しく詠み込まれ、また、その学校の教育の理想、児童生徒への願いが込められている。本県の校歌に詠まれている自然は、「石鎚山」(東、中予地方)、瀬戸の海(瀬戸内沿岸地方)、宇和海・黒潮(南予地方)等がその代表であり、緑(松の緑・緑に映ゆる・緑ゆたかな等)という言葉が目につく。概して穏やかで、明るい風土がその基調となっている。歴史的事項を詠み込んだ校歌は少ないが、川之江小学校校歌「二洲先生をあおいで……」(尾藤二洲)・大洲中学校(大洲高校)校歌「近江聖人跡とめし…」・大洲高等女学校校歌「近江の海の藤波の…」(中江藤樹)などがあげられる。
 旧制中学校(実業学校を含む)の校歌には、一般に質実剛健、若者の情熱を感じさせるものが多い。まさに「健児」という言葉によって象徴されているといってよい。(新制高校の校歌は「健児」に代わって「若人」が多く使われているように思われる)これに対して旧制女学校校歌は「操」によって象徴され、当時の女子教育の理念がうかがわれる。特に第二山下実科高等女学校(三瓶高校の前身)の校歌(大正九年制定)は、その二節において創立者山下亀三郎の設立の趣旨がうかがわれて(第二節)興味深い。戦後に制定された校歌には、小・中・高を問わず、一般に「理想」・「希望」・「夢」・「真理」等が多くみられ、「明」に象徴されるような明るい未来志向が特徴のようである。
 詞型は戦前・戦後いずれも定型、特に七五調のものが多い。また、戦後制定された小学校校歌には口語調のものが多くみられるが、一般に校歌は概して文語調で作詞されている。

  北予中学校校歌          作詩者  不詳
一、澎湃天を打たんずる 濁世の浪に侵されず
  茫々草に露しげき ゆかしき野辺や城の北
  並ぶる甍勇ましく 巨人の如きたたずまい
二、颯爽として意気高き 巨人の栄の偉なるかな
 `華美繊弱を嘲りて 浮世の夢に憧れず
  寧ろ剛毅を世に誇る 健児六百此処に在り

  第二山下実科高等女学校校歌   長井 音次郎作詞    (曲は「金剛石」のものである。)
一、金刀比羅山の山松の 操を常に守りつつ
  三瓶の海の濁りなき 水の心を鑑にて
  女の道をいや深く 修め磨かん諸共に
二、母その森の下露の 恵みを偲ぶ学び舎に
  学ぶ心は垂乳根の みおやの為を本として
  女の道を朝夕に 力め励まん諸共に

【消えゆく校歌】 戦後の学制改革(昭和二二年三月「学校教育法」制定)により、旧制高等学校・旧制専門学校・師範学校などは新制大学に姿を変え、旧制中学校・実業学校・女学校はそれぞれ新制高等学校の母体となるかあるいは統合された。したがって、現在の高校に受け継がれた校歌(西条中学校・今治中学校・松山商業学校・大洲中学校など)を除いては、旧制の学校の校歌は時の経過とともに歌われなくなる運命にある。
 また、戦後の新しい教育方針に従って新校歌を制定した小学校における古い校歌、学校統合によって廃校となった小・中学校の校歌等も同じ運命をたどるであろう。しかし、校歌は学校におけるいわば貴重な文化財でもある。消えゆく校歌の保存が望まれる。

  松山高等学校 校歌             高木  武 作詞
一、瀬戸の島山春たけて 霞の海に煙るとき
  緑の松に影映えて 綻び初めし花櫻
  象る姿真善美 譽はしるく世に薫る
二、さあれ此の花翳し起つ 健児の胸に希望湧き
  鳴るや血潮の浪高く 堅き雄心穂に出でて
  正大の色鮮かに 剛健の風ここに吹く
三、ふりさけ見れば大空に 懸かる理想の月冴えて
  行手は永久に赫ひぬ 尊き啓示仰ぎつつ
  真澄の影を心にて やをら辿らむ人の道
四、目ざす峠はいや遠く おどろが道のこごしくも
  自信の駒に鞭揚げて 靡く正義の旗の手に
  時と人とを救ふべく 栄ある使命果さなむ

  愛媛師範学校 校歌             関口 正助 作詞
一、行方も知らず流れ去る 彼の光陰の浜に立ち
  時の沙上にしるしたる そが悠久の跡見れば
  群小あだに消えうせて 巨人の跡ぞしるかりし
二、久遠の命に憧れて 炎ぞ胸にくるほしき
  光明遠く指させば 颯爽の風肌に立ち
  我吐く息に浮華は飛び 脈質息実の音高し
三、寒灯照らす書は古今 鍛へて強き筋骨に
  道を支へん力見よ 霜夜を高く仰ぎては
  星爛々の蒼穹に 自彊息まざる誠かな
四、鳴門に落つる黒潮の 洗って清き多島海
  潮の満干に規律あり 雲の往来に任せつつ
  石鎚白き雪の峰 動かぬ勇姿偲べ人

 寮歌・応援歌等

 寮歌といえば旧制高校が思い出されるほど、旧制高校(旧制大学予科を含む)では盛んに寮歌が作られ、歌われていた。まさに寮歌は青春の血をたぎらせる歌であった。松山高等学校においても、風早義雄作詩「嗚呼海南の空はれて」・富永和郎作詩「紫雲棚曳く勝山の」・岩島肇作詩「瀬戸の内海の霊享けて」・西山義雄作詩「暁雲こむる東明の」・岩田義道作詩「春花霞立つ朝」・木村駒男作詩「朝金亀の城仰ぎ」・山下寛三作詩「今しひらけつ青春の」・伊達良一作詩「人道正義地に落ちし」といった寮歌が作られている。もちろん旧制高校だけでなく他の学校においても寮歌が作られていた。

  松山高 等学校寮歌           西山 義雄 作詞
一、暁雲こむる東明の 金色の扉開け行けば
  古城に朝日影映えて 健児の胸に希望湧く
二、葉末の露の繁くして 露に明け行く夏の園
  暁清き涼風に 思は馳する雲の上
三、校庭淡く黄昏れて 星夕闇に輝けば
  今蕭條の秋の聲 若人我に涙あり
四、「北光」冴ゆる冬の夜半 海荒ぶ朔風に
  氷山砕く極洋の怒濤の花を思ふ哉

  愛媛女子師範学校寮歌          佐藤 スミ 作詞
一、春萌え出でし 白楊の 色香床しく 匂ふこそ
  若き我等が ひめをごと 磯なれ松の こみどりは
  高き操の すがたなれ
二、夏立ちそめば 伊予灘の 潮のしぶき 寮に寄せ
  湯あみ上りの 黒髪を アカシヤかげに けづりつゝ
  燃ゆる夕日に 見入るなり
 三、秋たそがれの波の音 砂丘は白く まごろむを
   友とさすらふ ノスタルジア 想ひは はるか山の家
   よきおとずれを 待つならむ
 四、冬木枯の夜の星は 皆 沈黙し おごそかに
   行手をみせて かがやけり おゝ この高き理想こそ
   我等が寮の誇なれ

 応援歌は各校で作られ、歌い継がれている。応援歌の中で最も有名なのは宇和島中学校短艇部応援歌「思へば過ぎし」であろう。松山・宇和島・西条の三中学校が松山高浜沖で漕艇の技を競ったとき、宇和島中学は惜しくも松山中学に敗れた。当時短艇部の選手の一人であった本田正一は、悲憤の涙をおさえ、雪辱を期してこの歌を作った。明治三五年のことであった。翌年、宇和島樺崎沖の対校レースでは松山中学が敗れた。松山中学校の「松山中学短艇部の歌」が東俊造(草水)によって作られた。

  宇和島中学校ボート部 応援歌           本田 正一 作詞
 一、思へば過ぎし夏の末 伊予の小富士を眺めやる
   高浜沖に催せる 松山宇和島西条の
 二、ボートレースの其折に いとも名誉の光ある
   チャンピオンフラグは勝山に あはれ二度握られぬ
 三、いかに南予の覇王とて 思へばここに幾歳か
   誇りし我らも甲斐なしや あはれ無念の血の涙
 四、昔越王勾践は受けし恥辱を雪がんと
   月や花には目もくれで 薪に臥しつ胆を嘗め

 明治三五年開校と同時に野球部が誕生、戦前・戦後を通じて輝かしい足跡を残してきた松山商業学校(松山商業高等学校)には、「嗚呼天籟に」・「此処仁喜多津の」・「天地の意気」・「天は晴れたり」・「敵塁如何に堅くとも」・「打てや打て打て」・「校風燦と輝きて」等多くの応援歌が作られてきた。これらの応援歌は、松商野球部の歴史とともに歩んできたともいえる。

   松山商業学校 応援歌
 一、此処仁喜多津の国原に 鬱蒸の意気絶えねども
   翼揃はぬ荒鷲の 蒼を望みてなげくごと
   綾羅を包み香をかくし 泣いて地に伏す幾年か
 二、瀬戸の浦曲に根をばしき 唐土四百と有余洲
   漢室の為に倒れしめ 荒び尽せる八幡船
   赤き心を受け継ぎて 雄々しき心を我持てり
 三、嗚呼南海の桃原に 桜花咲き又散りつ
   春秋久し拾余年 研鑽の苦の甲斐ありて
   万国のひさみ此処になり 今ぞ来りぬ栄ある日

 その他、各校では、新田高校の「学園かぞえ歌」・西条中学の「豪気節」・西条農業高校の「演習林の歌」のようなユニークな歌の数々、創立記念の祝歌・賛歌等が作られている。最も新しい学園の歌、昭和五八年四月開校の伊予高校の「よろこびの歌」今治東高校の「東高賛歌」を紹介しておく。

   伊予高等学校「よろこびの歌」       坂和 栄子 作詞
 一、緑の山々 背に受けて 瀬戸の内海 見はるかし
   ここに伊予高 開校す 我らの伊予高 我ら一期生
   真理求めて 伸びゆかん
 二、高き理想を 胸に秘め 鵬のごと たくましく
   永遠の伝統 築きつつ 我ら伊予高 我ら一期生
   未来目指して 翔ばたかん

   今治東高等学校 東高賛歌         河上 芳一 作詞
一、歌え 朝日輝く 東の空に 希望を胸に 太陽に叫ぼう
  未来に伸びゆく 夢湧き出でて はばたけ東 誠実の心固く
  ああ我らの今治東高
二、見よ 高くそびえる 石鎚の嶺 情熱胸に 真理をさぐろう
  苦難乗り越え 若さを賭けて 高めよ東 感動の心深く
  ああ我らの今治東高