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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

1 写生文派

 本県との関係における明治後期の小説を、写生文派・戦記文学・翻訳文学・県外出身作家の作品・県下同人雑誌に分けて述べることにする。

 竜門 ほか  正岡子規

 正岡子規は、明治二七年、処女作としての小説「月の都」を「小日本」に連載した。「月の都」を含め、子規の小説全般について述べる。
 明治一八年(一八八五)、坪内逍遥が文学の独立宣言ともいうべき『小説神髄』を発表、その理論の実践として書いた小説『当生書生気質』は、当時一九歳の正岡子規に大きな影響を与えた。それを読んだ子規は、友人に向かって「かやうな面白いものがよくも世の中にあった事よ」とその衝撃を語り、晩年には、「此書生気質を見た時に文章の雅俗折中的なる所から、趣向の写実的でしかも活動してをるところから、其上に従来の小説の如く無趣味なものでなく或る種の趣味を発揮してをるところから何れ一つとして余を驚かさぬものは無かったのである。(中略)これこそ今日から見ても明治文学の曙光で明治小説史の劈頭に特色大書せうるべきものである」とも記している。
 逍遥の作品に啓発された未完の小説に「竜門」がある。この作品は、第一回つまづく石も縁のはし、第二回渡りに舟、第三回果報は寝て待つ、第四回類を以て集まる、の四節で構成されている。第一回は、年の暮、三人の書生が落語をききに若竹亭に入り、身延という書生の一人が、客の中に一五、六の美しい娘を見つけ心ときめかすが近くに火事が発生し、心を残して出て行く。第二回は、上流家庭の正月。庭で追羽子をする一〇歳ばかりの少女お松と一八のお梅。そのお梅に思いを寄せる書生太井。第三回はカルタ取り。太井はお梅をくどこうと思うが、せいては事を仕損じると思い、果報は寝て待つことになる。第四回は、一回に出た書生の風見が、若竹亭の火事の続きを架空の話として四人の書生に語るという筋である。
 次に第二回の終わりの方の一部分を抄出する。

  太井「お梅さん。その羽子板のおし絵はだれの似顔。ソウ矢張り福助の。うらやましいねえ、お梅さんなどに可愛がられて、おもちゃにされる人は。
  お梅ははづかしさうに、
  お梅「役者なんざあつまらないぢゃありませんか。
  太井「そんならだれがいゝのです。どんな種類の人間が……矢張り何爵夫人とかいはれたいのでせう。さうでなければ、せめて無踏会位に出かける勅任官……それでもない、そんなら衣食は我儘のいひはうだいで、朝から炬燵にあたってゐて、一日猫と小説本とを相手にする金満家の細君……ナユ金持は苦労だ。ウム分った。たとひ貧乏でも『お前とならばどこまでも』といった様な丹次郎もどきの色男。ハテナこれでもあたらないとは不思議だなア、それではどう  いふ人間がヱヱ。お梅さん、いったっていゝぢゃありませんか。
  お梅は思ひきりて、
  お梅「矢張り、今日の高等な教育をうけた……書生さん……。
  折柄お松は馳せ来り、
  お松「これからカルタをとるから、お梅さんも太井さんもいらっしゃいッて、サア早く早く。
  とせきたてられて三人共に内へはいりける。

 「竜門」は、昭和三年(一九二八)に「日本及日本人」に初めて発表された。解題で、寒川鼠骨は「恐らく明治十八九年常盤会寄宿舎に在った頃、即ち大学予備門在学時代、居士の十九歳乃至二十歳の頃の処女作であらう」と述べている。「子規全集」(講談社版)一三巻では、その成立は「二十年まで下ると考えなければならない」(蒲池文雄)としている。
 正岡子規には、この作品を含めて小説一一編(翻訳一編を含む)がある。すなわち、「竜門」(明治20年ころ)、「銀世界」(同23年)、「山吹の一枝」(同23年ころ 未完)、「月の都」(同25年)、「一日物語」(同27年)、「当世媛鏡」(同27年)、「月見草」(同30年 未完)、「花枕」(同30年)、「曼珠沙華」(同30年 未発表)、「我が病」(同33年 未完)の小説一〇編と翻訳「レ・ミゼラブル」(脱稿 不明) 一編である。
 「銀世界」は、銀世界にちなむそれぞれ独立した五編の創作から成っている。第一編について、夏目漱石は「此編一名を観雪展覧会小説と云ふ。(中略)展覧会小説の事なれば余程其道に執心な人でなければ愛読し難し。今少々見物人の滑稽を多くして俗物にも面白がらせては如何。然し紙数に制限ありと云はば是非なし」と評している。
 「山吹の一枝」は、子規と新海非風(明治三 一八七〇~明治三四 一九〇一・虚子の小説『俳諧師』の五十嵐十風のモデル。とが、交互に一回ずつ執筆した未完稿の合作小説である。子規は、二二歳のころベースボールに熱中するが、この作品には〝投球会〟のことが書かれており、一種の野球小説と見ることもできる。
 子規が「月の都」に着手したのは「明治廿四年の暮近く」(天王寺畔の蝸牛廬)である。その前年の秋、本郷の夜店でたまたま幸田露伴の『風流仏』(明治22年9月刊)を入手、くり返し読むうちその作品に傾倒〝どうか一生のうちにたゝ一つ風流仏のやうな小説を作りたい〟と思い込むようになり、約二ヵ月かかって二五年二月に脱稿した。この作品は〝来客を謝絶〟し〝余が初陣の小説〟の意気込みで書いたものであったが、批評を頼んだ露伴からは、期待していたほどの評価をもらえず出版社の斡旋もしてもらえなかった。この年五月、子規は虚子あての書簡に「僕ハ小説家トナルヲ欲セズ詩人トナランコトヲ欲ス」と書き、有名な詩人宣言の決意を述べている。しかし、小説家志望は断念しきれないまま、一方では六月より「獺祭書屋俳話」を「日本」に連載し始めるなど、得意な俳句の道に精進するようになった。二七年二月、「小日本」が創刊され、その編集を担当するようになると、同紙に、大幅に改稿した「月の都」を創刊号から一三回にわたって掲載した。美男子高木直人と美女水口浪子との恋愛至上主義ともいえる悲恋物語である。
 「月の都」以後、前記六編の小説を書いている。「花枕」は「新小説」(明治30年4月号)に載った小説。継母にいじめられる姉妹をヒロインにした夢幻的な内容で、「国民之友」(明治30年4月)は、「こは人寰の混濁苦患を自然宇宙の美象に慰籍するの消息を描かんとせる散文詩なり。着想頗る妙、詩味また多し。筆力は未だ足らず」と評している。
 「曼珠沙華」(明治30年9月~10月か)は生前未発表の作品で、今日でいう同和問題を背景にした子規最初の口語体小説である。御領内第一の富豪野村家の総領息子である玉枝と、蛇使いの父親を持つ〝みいさん〟と呼ばれる貧しい花売りの少女との悲恋を描いた作品である。登場人物は松山方言を使い、文中に「監獄署の高き白壁」「城下」「兵営の喇叭」などの言葉がある。背景として松山の土地が連想される。曼珠沙華の花は下層階級の人の象徴で、その花を愛するみいさんを作者は好意を持って描いている。一部夢幻的な描写法をとっている。子規の小説の中で、最も社会意識が表面に出ている注目すべき作品である。

  あゝ変な夢を見た。併し思ふて居るから見たのかも知れぬ。まだ来んやうぢゃが、今迄来んやうなら、今日は来んのぢゃらう。暫く来なんだので、此処に来て居るとも知らずに、寄らずに去んだんでもあらう。どう考へても不便な者ぢゃ。毛一本でも不足の無い人間に生れて人間の交際が出来んのぢゃから。そんな理屈が天下にあるものか。今日の四民同等の世の中に、固より廃人でもなければ、悪人でもない、無垢清浄天女のやうな者ぢゃ。それをうぬ等が浅ましい心で軽蔑するとは、そもそも間違ふて居る。

 「我が病」(明33年)は、子規最後の未完の小説。作品中に「明治廿八年二月廿八日の日に新聞社で評議があって余はいよいよ従軍する事にきまった」とある。この日のできごとは子規の実生活とも一致する。「余」という一人称で書かれた私小説系の小説といえる。新聞記者である「余」の従軍中の体験を、写実的な手法で書いている。未完なのが惜しまれる。

 俳諧師 ほか  高浜虚子

 正岡子規は、明治三三年(一九〇〇)、新聞「日本」に「叙事文」を三回掲載し、写実写生の文を提唱。文章会「山会」を開催してその実践にあたった。主眼点は、主観を加えず、修飾の加工をせず、文章の中心・力点(山)をおく文章の研究にあった。この写生文を継承したのが高浜虚子である。虚子は、三一年一〇月から「ホトトギス」を主宰するようになったが、それに毎号課題短文を募り写生文の発展を計った。子規は、二四年一二月、虚子あての書簡で、小説を書くことをすすめている。虚子がはじめて小説を発表したのは、約九年後の明治三三年六月号「ホトトギス」の誌上であった。二七歳のときである。作品は短編「丸の内」。東京丸の内界隈を背景に、余の注意をひいた美人で薄命な電話交換手山本峰子と、その父親である車夫の亀六に同情を寄せた作品である。
 明治三五年に子規が没して後、「ホトトギス」は名実ともに虚子が中心となる。三八年一月からは夏目漱石の出世作となる「吾輩は猫である」を連載。やがて漱石の文名があがると、それに刺激されて、虚子自身も本格的に小説と取り組むようになった。「ほねほり」(明38 4) 「秋風」(明38 12) 「京のおもひで」(明39 10・のち「八文字」と改題) 「欠び」(明40 1) 「楽屋」(明402) 「風流懺法」(明40 4) 「斑鳩物語」(明40 5) 「大内旅宿」(明40 7) 「同窓会」(明408) 「雑魚網」(明409) 「勝負」(明40 10)と、たてつづけに「ホトトギス」誌上に短編を発表。明治四一年(一九〇八)一月一日、これらより一〇編を選び『鶏頭』と題した処女短編集を春陽堂より発行した。漱石が長文の「序」を寄せている。この序文は「余裕派」の呼称と「低徊趣味」を主唱したものとして有名である。その一節を抄出する。

  余は虚子の小説を評して余裕があると云った。虚子の小説に余裕があるのは果して前条の如く禅家の悟を開いた為かどうだか分らない。只世間ではよく俳味禅味と並べて云ふ様でもある。従がって所謂俳味なるものが流露して小説の上にあらはれたのが一見禅味から来た余裕と一致して、こんな余裕を生じたのかも知れない。虚子の小説を評するに方っては是丈の事を述べる必要があると思ふ。

 一〇編では、叡山の僧坊と祇園の茶屋を対照させ、小僧と舞妓の幼い思慕を描いた「風流懺法」、法隆寺辺の宿の娘と若い僧との愛情を軸に、のどかな大和路の春色を描いた「斑鳩物語」、昔なじみの大阪の宿の移り変わりに寄せる思いを述べた「大内旅宿」が好短編といえる。
 明治四一年二月から、初めての長編『俳諧師』を「国民新聞」に連載。四二年一月には単行本として刊行。ついで『続俳諧師』を連載、同年九月に刊行した。虚子の自伝性の濃い作品である。登場人物も虚子自身のほか、新海非風・藤野古白・内藤鳴雪・正岡子規・五百木飄亭・河東碧梧桐などがモデルとなっている。「ホトトギス」も小説を重視、多くの短編を載せ、四二年一二月には第二短編集『凡人』(春陽堂)を刊行した。このころより河東碧梧桐との間で俳論上での対立が激しくなり、衰運にあった「ホトトギス」の挽回をはかるため四五年七月、雑詠欄を復活、守旧派としての宣言で俳壇に復帰した。
 虚子は、大正期に入ってからも小説を書き続け、「ホトトギス」に「杏の落ちる音」(大2 1) 「道」(大3 3) 「十五代将軍」(大5 2) 「店のある百姓家」(大5 9) 「老い朽ち行く感」(大5 11) 「兄」(大6 1) 「風流懺法後日譚」(大8 1~大9 6)などを発表。また「東京朝日新聞」には、長編「柿二つ」(大4 1~大4 4)を連載し、同年五月刊行した。『柿二つ』は、子規の句「三千の俳句を閲し柿二つ」から題をとったもので、晩年の子規を中心に、俳壇の種々相を写実的に描き、病苦に耐えて生き抜く子規の心理に迫っている。