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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 自然主義とダダイズム(大正期)

 大正期小説では自然主義の作家坂本石創と、ダダの詩人として出発し、それを超克した禅詩人高橋新吉の小説がある。
 フランスに起こり、欧州を風靡した自然主義文学が、わが国に紹介されたのは明治二〇年後半である。ゾラ・イプセン・バルザックなど近代作家に触発されて、新しい文学の自覚が高まり、文学運動としての自己主張が始まる。小杉天外・永井荷風のゾライズムの移植を経てのち、島崎藤村の『破戒』・田山花袋の『蒲団』が発表され自然主義文学は確立期を迎える。

 開かれぬ扉  坂本石創

 坂本石創(明治三〇 一八九七~昭和二四 一九四九)西宇和郡川之石町雨井(現保内町)生まれ。本名石蔵。幼いころ額を石で傷つけたにちなんで石創と号した。明治四四年、八幡浜商業学校予科に入学、文学に関心を寄せ、「文章世界」(田山花袋編集兼発行者)に投稿した。大正五年卒業。大阪北浜の那須株式仲買店で株式売買の仕事を手伝う。六年、徴兵検査のため帰郷。酒井宗太郎(酒六初代社長。八幡浜初代市長。花眠)を介して小倉清三郎を知り、この年小倉に連れられて上京し本郷駒込千駄木町団子坂の近くに下宿した。近くに森鴎外の観潮楼があり、散歩する鴎外の姿を眺めた。
 大正八年帰郷、日土村了月院にこもり、長編処女作『開かれぬ扉』を書き、ふたたび上京。翌九年一月小倉の紹介で中村星湖を知り、さらに紹介されて、田山花袋を知る。この年の「文章世界」三月号の巻頭で、花袋は、『開かれぬ扉』を〝確かに芸術品として額に入りたるもの〟と評した。石創二三歳、花袋五〇歳であった。以後、見解の相違から絶縁するまで、石創は花袋を文学の師として仰ぐ。
 『開かれぬ扉』は、八幡浜の白木夏雄という二三歳の青年が宮崎県青島で見初めた女性にプロポーズするが、その女性には許婚者がいてことわられるという物語で、大正初期のひと夏の恋を描いた作品である。花袋は「少し冗いやうなところはあるけれども、純で、無邪気で、そして飽くまで芸術的なのが羨しかった。全く社会から離れてゐる形も好かった。私は若い作家からは常にかうしたものを望みたいやうな気がした。娘は条件なしに惚れて好いもの、美しい娘は皆自分が恋するためにこの世に存在してゐるものといふ風に、手放しに異性にラブして行く形が何とも言はれず無邪気で好かった。そこに、この『開かれぬ扉』の価値がある」と評している。大正一〇年、崇文堂より自費出版、資金の大半は酒井宗太郎が出した。石創は宗太郎の妹ユキと結婚する。
 大正一一年、小説『梅雨ばれ』を刊行。故郷の川之石を舞台に、商業学校在学中の文学青年が童貞を喪失するまでの心理と行動を描いている。中村星湖が東京朝日新聞で取り上げ好評した。星湖は、細田源吉の最初の長編『罪に立つ』と比較した。これが縁で細田源吉は石創の終生の友人となった。大正二一年、『蘭子の事』を刊行。古いタイプでありながら奔放な、蘭子という女性を描いた書簡体小説である。この年の信濃毎日新聞に小説「別後」を連載。六月単行本として出版した。翌一三年二月、石創は、信濃毎日新聞社の学芸部長となる。
 昭和四年、見解の相違により田山花袋と絶縁し、都会生活にも見切りをつけて帰郷。酒井宗太郎経営のタオル工場に工場長として勤務する。翌五年、花袋は六〇歳で他界。七年、花袋三回忌に長編小説『結婚狂想曲』を自費出版した。モデル小説で、花袋の晩年の愛欲生活と次女の奔放な生活を描いている。翌八年、雑誌「人物評論」(九月号・大宅壮一編)に文壇モデル小説と銘打って「その日の田山花袋」を発表。『結婚狂想曲』のモデルを実名で明かしたもので、花袋の娘千代子を中心に描いている。九年以降、大阪朝日新聞の学芸欄に短文を載せたり、地方新聞のいくつかに随筆風の小品を書いたりして、小説から遠ざかっていった。随筆集『三瓶たより』(昭13)・『砂風呂縁起』(昭13)・『お国自慢』(昭15)などがある。
 昭和一七年夏、結核、仏教思想に強く傾く。一二月、愛媛先賢叢書『盤珪禅師』を出版。戦後、宗教雑誌『禅文学』を発行。二二年、『西山禾山』を刊行した。二四年一月、五二歳で永眠した。鈴木大拙は、その死を悲しみ「石創君の分も働きます」と遺族に哀悼文をよせている。石創の姉ミチヨは、イギリスの性心理学者エリスの紹介者であり性風俗研究〝相対会〟の組織者である小倉清三郎と結婚する。澤地久枝の「性の求道者・小倉ミチヨ」がある。

 ダダ 高橋新吉

 高橋新吉(明治三四 一九〇一~)西宇和郡伊方町小中浦生まれ。当時、父は伊方尋常高等小学校の校長であった。自伝『海の中より』に「私は海の中で生れた。一九〇一年一月二十八日。一枚の鱗にさう書いてあった。伊予の西南の、象の鼻のやうに突き出た半島の中程の漁村である」と書いている。六歳、八幡浜市に転居。大正七年、八幡浜商業学校本科三年在学中、無断で上京。三月、父が退校願を出した。この年の夏、大阪での放浪生活の体験をもとに翌年六月『生蝕記』を発表した。この作品について佐藤春夫は「僕が高橋の作品で初めて感心したものは『生蝕記』である。第三回目に僕を訪ねた時に、彼はその謄写版冊子を僕に二部くれた。枯れ切ったその筆致と、しかも淡々と書き流したやうで実は周密な用意のある簡素と、世俗的な善悪などにコセコセと捉はれない心境とが正直なところ僕を相当に敬服させた。それが彼の自叙伝的作品であって彼が十九の時に書いたものであることを知るに到って、僕は、中流の家庭に生れて相当の教育のある青年がどういふ事情とどういふ心持でそんな境涯を送るやうになったかといふ事をちょっと不思議に思ふと同時に、それぐらゐの若さでこれぐらゐの投げやりな筆致と心境とをどこから得て来たらうかと考へると、どうやら僕は、少し不気味な心持になった程であった」(『ダダイスト新吉の詩』序文)と記している。『生蝕記』の断章は、『ダダイスト新吉の詩』の中に「ダダイストの睡眠」として載せてある。
 大正九年八月一日、「万朝報」の懸賞短編小説に、「焔をかかぐ」が当選する。当時著者は一九歳、八幡浜にいて「万朝報」を購読、その金的を射とめたのである。「焔をかかぐ」は、エル・グレコの絵を題材にして、その絵を眺めながら連想する心象風景を描いている。その心象には、寂しい人生と強い愛の匂い、単調な生と絶望感、自然の静寂・無為・休止への希求など、人生へのさまざまな思いがベースとなって流れている。その後の新吉の美術への関心、宗教的志向が予見されて興味深いものがある。この受賞後半月たった八月一五日、新吉は「万朝報」文芸欄で〝ダダイズム〟に関する記事を読み、強烈な衝撃を受ける。
 大正一〇年二月、金山出石寺の小僧となり仏教書を読む。九月退山し三度目の上京。坂本石創を訪ねる。石創の世話で埼玉県栗橋の利根川堤防下の小舎を借り、自炊生活を始める。一二月、『まくはうり詩集』DAIを発表。一二年、『ダダイスト新吉の詩』を中央美術社より出版。一三年、小説『ダダ』を内外書房より出版した。新吉の妻一柳喜久子は次のように書いている。

 内容は極度の神経症を病んだ大正十一年秋から十三年冬までの、ダダイスト新吉の行動・精神の状態を時を追って自ら追跡して書いたものである。書くこと自体がまた、ダダの行動ともいえたと著者は述懐する。したがって、この著作を文学作品として必らずしも著者が好んでいたものではなかった。また作中に登場して迷惑を蒙った時代同伴者によって黙殺され、著者自身永く冷遇をうける根源ともなったものである。あまつさえ時代の背景を叙すること極めて稀れであり、当時青年の内奥でせめぎ合っていた仏教とダダイズムについての説明もなかったことから読書子の理解をさまたげ、著者の単独行の奇異・粗暴のみを印象づけることとなった。

 大正一一年は、現代詩の輝かしい金字塔となった「ダガバジ断言」「ダダの詩三つ」「皿」など、『ダダイスト新吉の詩』に含まれるほとんどの作品が書かれた時期であり、まさに疾風怒濤の時代であった。一四年には、「菜切庖丁」「四国遍路抄」「宇和島の闘牛」「馬とピアノ」「温泉の漁師」「ともぐひ」「青い松葉」など、さまざまな短編小説を「週刊朝日」や「文芸日本」に発表した。これらの大部分は、『発狂』(昭和一一年)に収録されている。この年三月、近衛館に下宿、翌一五年には早大裏の吉春館に移った。そして、草野心平、壷井繁治、林芙美子、土方定一、三好十郎、黒島伝治、中原中也等々の人々との交遊がはじまった。この年、「彼等」を雑誌「中央公論」三月号に発表。佐藤春夫が高く評価した。
 昭和二年八月、八幡浜の万松寺で、足利紫山老師「無門関」の提唱をきく。その後、紫山は、著者の生涯の師となった。三年七月、「予言者ヨナ」を雑誌「大調和」に、七年三月、「精神病者の多い町」を、四月に「没」を、雑誌「古東多万」(編集責任者・佐藤春夫)に発表した。ともに『発狂』に収録。「精神病者の多い町」は、「四国の南端に位する、Y町」-八幡浜を舞台にした作品で、そこに生きる昭和初期の人々の前近代的な体質と拝金主義的生活を批判的に描いている。この年、新吉は、東京牛込の法身寺と芝の金地院で、紫山老師の碧巌録と臨済録の提唱を隔月毎に聞きに行っている。一〇年四月、足利紫山老師に初めて参禅した。一一月、雑誌「コスモス」に「狂人息子」を発表。一一年四月、長編小説『狂人』を学而書院より出版。六月、短編小説集『発狂』を同書院より出版。『狂人』は、序文と長編小説「狂人」、短編「桔梗」と付録としての短文とから成っている。「狂人」は「心静かに死ぬべかりける日」「壁土の中に塗り込められた虫」の二部から構成されている。この作品について、一柳喜久子は「真理は把握するものでなくして悟るものであると云う著者の信念への転機となった記念のノートでもある。就中、この自著によせた作者の平静明快な序文をよめば、「狂」とは如何なることをいうのであるか深く考えざるをえない」と述べている。なお『狂人』は、安岡章太郎が『海辺の光景』(昭和三四年)を書く契機となった作品ともいわれている。
 昭和一五年六月、雑誌「若草」に「エア・ガール」を、七月には「知性」に「ドン・ボスコ修道院のデュポン神父さん」を発表。このころより日中戦争は拡大し、出版物統制令や検閲がきびしくなったため、小説はほとんど発表できず、一六年からは、日本諸国の神々の起源を問うべく、全国の古社参拝の旅に出た。一七年九月に出版された『神社参拝』には、島崎藤村・高村光太郎が序文をよせている。

 護持院原の敵討

 森鴎外(文久二 一八六二~大正一一 一九二二)島根県津和野町生まれ。本名林太郎。大正二年一〇月、「ホトトギス」に「護持院原の敵討」を発表した。『天保物語』に収録。天保四年一二月二六日、酒井雅楽頭忠実の家臣で大金奉行山本三右衛門は、表小使の亀蔵に背後から襲われ、倅の宇平に敵を討ってくれるようにと遺言して翌日絶命する。宇平は、叔父九郎右衛門の助太刀を得、母と姉りよを他家に預け、敵の見識人である表小使の文吉を伴って出立する。三人は関東から関西へと探しまわり、四国へ渡って丸亀でそれらしい人物に会うが別人であった。そして三人は次のように伊予へ入る。

   伊予国の銅山は諸国の悪者の集まる所だと聞いて、一行は銅山を二日捜した。それから西条に二日、小春、今治に二日ゐて、松山から道後の温泉に出た。ここへ来るまでに、暑を侵して旅行をした宇平は留飲疝痛に悩み、文吉も下痢して、食事が進まぬので、湯町で五十日の間保養した。大分体が好くなったと云って、中大洲を二日捜して、八幡浜に出ると、病気を押して歩いた宇平が、力抜けがして煩った。そこで五日間滞留して、やうやう九州行の舟に乗ることが出来た。四国の旅は空しく過ぎたのである。

 三人は八幡浜から九州佐賀関へ渡る。
 敵討に疑問を持ち行方をくらます宇平、対照的に一念に生きる姉りよ、人間味に富む九郎右衛門、忠実な下僕文吉、それぞれの人物の性格や言動を鴎外は丹念に描きわけている。特に、女らしさのなかに堅固な気性をあわせ持つりよの姿が印象に残る。