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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

2 県外作家の小説

 放浪記  林 芙美子

 林芙美子(明治三六 一九〇三~昭和二六 一九五一)山口県下関市生まれ(福岡生まれの説もある)本名フミコ。実父は愛媛県人。『放浪記』は昭和三年八月創刊の『女人芸術』に、一〇月より「秋が来たんだ」の題で連載がはじまり、五年七月、新鋭文学叢書の一冊として改造社から刊行された。芙美子の二一歳(大正一三年)から二三歳(同一五年)ころまでの日記体自伝的小説である。その冒頭の一節。

   私は北九州の或る小学校で、こんな歌を習った事があった。
   更けゆく秋の夜 旅の空の 佗しき思ひに 一人なやむ 恋ひしや古里 なつかし父母
   私は宿命的に放浪者である。私は古里を持たない。父は四国の伊予の人間で、太物の行商人であった。母は、九州の桜島の温泉宿の娘である。母は他国者と一緒になったと云ふので、鹿児島を追放されて父と落ちつき場所を求めたところは、山口県の下関と云ふ処であった。私が生れたのはその下関の町である。-故郷に入れられなかった両親を持つ私は、したがって旅が古里であった。それ故、宿命的に旅人である私は、この恋ひしや古里の歌を、随分佗しい気持で習ったものであった。―八つの時、私の幼い人生にも、暴風が吹きつけてきたのだ。若松で、呉服物の糶売をして、かなりの財産をつくってゐた父は、長崎の沖の天草から逃げて来た浜と云ふ芸者を家に入れてゐた。雪の降る旧正月を最後として、私の母は、八つの私を連れて父の家を出てしまったのだ。若松と云ふところは、渡し船に乗らなければ行けないところだと覚えている。
   今の私の父は養父である。このひとは岡山の人間で、実直過ぎるほどの小心さと、アブノーマルな山ッ気とで、人生の半分は苦労で埋れてゐた人だ。私は母の連れ子になって、此の父と一緒になると、ほとんど住家と云ふものを持たないで暮して来た。

 「宿命的に旅人である」一九歳の芙美子は尾道高女を卒業後上京。因島出身の大学生と同棲するが破綻。関東大震災にあい、尾道に帰るがまた上京。職業を転々としながら、詩や童話を書き、多くの文学者たちとの交流がはじまった。その中には詩人高橋新吉もいた。愛媛県は『放浪記』と直接の関係はうすいが「父は四国の伊予の人間」である。芙美子は、父宮田麻太郎(二一歳)、母林キク(二五歳)の子として生まれた。麻太郎は周桑郡吉岡村の農業宮田惣助の長男(八人姉弟の二番目)で、漆器・伊予紙・呉服などの行商をしていたという。

 新選組始末記  子母沢 寛

 子母沢 寛(明治二五 一八九二~昭和四三 一九六八)は北海道石狩郡厚田村生まれ。本名梅谷松太郎。『新選組始末記』は、昭和三年八月に万里閣書房から刊行された。幕末維新の生き残りの人たちからの聞き書きの形式をとった独特の叙述方法で書かれている。
「死損ねの左之助」の話がある。その冒頭の一節。

  新選組副長助勤で、十番隊長を勤めていた原田左之助に「死損ね左之助」の綽名があった。まだ故郷の伊予の松山で、武家の若党をしていた時分、それがしの武士と喧嘩をして、
 「腹切る作法も知らぬ下司下郎」
  と罵られたのを憤慨し、
   「よし、それでは一つやって見せてやる」
  といって、いきなり素ッ裸になると、刀を抜いて左腹から右へかけて、すうーつと一文字にひいた。血は出たが、矢張り死ねなかった。
   そのうちに、武士の方が青くなって逃げてしまう。まアまアというのが出て来て、
   「俺の腸を喰らわしてやるんだ」
  と、血だらけになって威張っている左之助をなだめ、漸くこの切腹は終ったが、これ以来、死損ねの左之助の綽名と、腹の傷痕がついて廻った。
   原田は、後ちによくこの切腹の痕のある腹を出してぺちゃぺちゃ叩きながら、
   「てめえ達のような蚤にも食われねえようなのとァ違うんだ、俺の腹ァ金物の味を知ってるんだぜ」
  と啖呵を切った。そしておしまいには、定紋を丸の中に一文字にして、
   「俺の紋ァ伊達じゃねえぞ」
  と威張った。

 新選組が壬生から西本願寺の太鼓の番屋へ引移って間もなく、左之助は町人の娘まさ女と結婚。本願寺近くに家を借りてここから隊へ通った。まさ女一八、左之助二五歳のときである。このまさ女が八五歳となった昭和四年の談話によると、一緒になった翌年(慶応二年)男の子を産み、左之助も大変喜んで茂と名付ける。新選組が京を立退いた慶応三年(一八六七)一二月、まさ女は二度目の子供の出産直前に原田左之助と最後の別れをしたという。五日後出産した子は早世。左之助に知らせるすべもなかった。まさ女は明治の末ごろ新選組にいた丹波宮津の浪人岸島芳太郎から原田左之助の最後の様子をきく。左之助は、明治元年(一八六八)五月一七日、江戸の戦争(彰義隊)で鉄砲傷で死亡したという。正誉円入居士が左之助の戒名だと書付を渡してくれた。まさ女はその日を左之助の命日にしているが、何という寺に葬ったのかさえわからないという。二九歳で死んだ左之助は、新選組随一といわれた苦味走った美男であったという。作者子母沢寛はまさ女の懇望もあり、しきりに本所深川方面の墓所を探しまわったが、左之助の墓は発見出来ずにいると記している。

 南国抄 丹羽文雄

 丹羽文雄(明治三七 一九〇四~)三重県四日市市生まれ。『南国抄』は昭和一四年八月新潮社より刊行された。前年七月、宇和町出身の評論家古谷綱武にともなわれ、北宇和郡吉田町に来町。町内の文人たちと交歓し、そのときの談話を作品化したのが『南国抄』である。モデル問題を惹起したが、著者は「モデルに迷惑を及ぼさぬやうにいくらも書きやうはある筈である。しかし私にはこの現実面を歪曲するだけの傲慢な態度がとれなかった。また、歪曲しないではゐられないだけの弱い気持にもなれなかった。私は真正面から吹きつける吹雪を覚悟してそれらを書いた」と述べている。

   午後の二時頃、旧武家屋敷のあたりは真夜中のやうに静かになる。陽の照ってゐることが、何か途方もない錯覚のやうに思はれた。蘇鉄の葉先がびくとも動かない。春の陽は庭一面に落ちてゐる。石畳も薄い茶色に変色してゐるのだが、おそらく明暦三年宇和島藩主の五子宗純公が、三万石でこの淀橋町に分知された時からのものであらう。摺り減らされるだけ、踏石は摺れてゐる。南国の豊穣な土地の割には地面一体がへんに白けて、乾いた感じであるのは、古びた町の言訳であり、歴史がその上の柔くて黒い地層を掃き捨てたせゐであらうか。淀橋町は昔から、平坦な土地の恩恵をそれ程必要としてゐないのであろう。それに代るものに、豊かな海岸線を持ってゐる。西伊豆に似た海岸線である。魚族も豊富だ。数量では三津浜につぐと言はれる。しかし、蜜柑だけは忘れてはならない。生糸は愛媛県下でも発祥の地と聞くが、缶詰業の盛んなのは海岸町にふさはしい。(後略)
   淀橋町は相変らず巡礼の鈴の音と、御詠歌にふさはしい城下街である。松橋を境に川下と川上に分れてゐるのだが、城下街の感じは川上に濃い。現在もなほ、風霜に痛められて木目を晒した表札には、士族何某と書かれてゐる。川下と川上とでは、言葉つきも違った。(中略)気候温和、人情純朴といふのが誇張であるならば、こすっからい人間にならうとしても、歴史と風土に抑へられて、思ひ切った悪党にはなりかねるところである。生活が烈しく動いてゐないのだ。まるで文字を持ってゐない人のやうに野心の宿る場所がない。

 吉田町はこのように「淀橋町」として紹介されている。小説の主人公は、町一番の金持ちで、四人の妾を持つ滝田剛平とその弟卯之助である。この二人をとりまく妻・未亡人・妾などを中心に、人間の物欲と情痴の世界がけだるい南国の城下町を背景に繰り広げられる。

 ここに泉湧く  和田 伝

 和田 伝(明治三三 一九〇〇~)神奈川県厚木市生まれ。農民文学作家。『ここに泉湧く』は、昭和二(年一二月、海南書房より出版された。モデルは伊予郡南山崎村(現伊予市)の篤農家吉沢武久である。

 南山崎村は、松山から三里ほど南、郡中港から二里ほど南東にある農村であるが、その長崎谷という部落は、山々の峡間にまるで〝蟹の穴〟みたいに細く深く入ってゆく部落、わづか二十三戸の小聚落である。調査書に従えば、長崎谷部落は、役場及産業組合所在地より東南に向い県道を離るゝこと約一里の山峡にあり、田地四町歩、畑一町三反七畝、宅地二千九百三十坪、山林九十三町八反、果樹園十八町二反五畝を以て構成されている部落にして、地味肥沃、気候は良好なるを以て、枇杷園九町六反六畝、蜜柑園八町五反九畝の収穫高は県下に比類なし。但し交通の便に至っては上りは徒歩、下りは自転車が利用出来得るのみーとある。
   大川はこの調査書をたんねんに読んだ。何度も繰返して読んだ。そして、吉沢に手紙を書いて、出掛けて行ってもよいかということを言ってやったのであった。

 大正七年和田と吉沢は、早稲田大学予科のころに知り合った。夏休みに帰省したまま、伊予の山村から姿をあらわして来なかった吉沢の手紙から物語は展開する。住みよいよそを求めて飛び出して行くよりも、いっそこの部落を住みよいところに造り変えるべきだーと決心した吉沢武久の地域再建の苦闘物語といえる。

 若き洋学者  藤森成吉

 藤森成吉(明治二五 一八九二~昭和五二 一九七七)長野県諏訪郡上諏訪町生まれ。『若き洋学者』は、幕末から明治初年の大変革期に独得な生きかたをした洋学者三瀬周三(諸淵)を主人公とした小説で、昭和一七年三月、日新書院より出版された。三瀬周三は天保一〇年(一八三九)大洲の中町一丁目に塩問屋麓屋半兵衛の子として生まれ、明治一〇年(一八七七)、三九歳の若さで他界。周三の学問は、厳戈常磐井中衛について国学を学ぶことから始まる。和魂洋才型の人物といわれた周三の和魂の根がここで培われた。安政二年(一八五五)より、叔父二宮敬作について蘭学を学ぶことになり卯之町に移る。そのときの一節。

  「おう、よく来たな」
 やがて卯の町の医者構への家に着くと「狆がクシャミしたやうな」といはれる顔をゆがめながら、叔父は二人を迎へ入れた。
 まだ五十を越して間もないのに六十くらゐにふけた赭顔。頑丈な体格。かがやく眼。……その姿には、昔貧農の小倅として苦労し、その後もいろいろの風雪を凌いだ鍛錬を偲ばせる重みと落ちつきがあり、美ごとな羅漢の彫刻のやうな感じがあった。
 大洲の家では、松こそ取れてもまだ正月の気分が漂ってゐたのを、この家にはもうそんな匂ひは微塵もなかった。壁に懸ってゐる「オランダごよみ」どほり、もう二月だった。普通の家ではまだ暮にもならないうち、「オランダ正月」がギヤマンの杯と赤酒で祝はれたのである。
 暦のなかにも、オランダ渡りのいろいろな珍しい調度や飾り物や機械類があった。なくなった父や母に連れられて、前にも来たことのある弁次郎には、それらは一種のなつかしい古馴染だった。が、初めての珍しいものもあちこちにー。
 「去年長崎から持っておいでなさったものか?」
 少年の夢と好奇心をそそるに充分な道具を、彼は見まはした。

 この少年弁次郎は幼き日の三瀬周三である。この年、二宮敬作は準藩医として宇和島に移ったので、周三も同行し村田蔵六(大村益次郎)に入門した。翌年、敬作・蔵六・伊弥(シーボルトの娘)に従って長崎に行き、川島再助(シーボルトの高弟)に入門し蘭学を深める。五年、大洲に帰省。肱川川原で電信の実験に成功。安政六年(一八五九)三月、再度長崎へ行き、七月来朝したシーボルトに従学する。文久元年(一八六一)一〇月、シーボルトが幕府から解雇されるまでの二年余りの間に、日本文典の蘭訳、日蘭英仏対辞典、日本歴史の蘭訳その他多くの訳書を著し洋学界に貢献した。シーボルトが日本を去り、周三は外交機密をもらしたと讒言され約四年間佃島の獄に投ぜられた。慶応元年(一八六五)八月出獄。大洲で静養した周三は一一月、宇和島藩主伊達宗城の招きにより出仕。翌二年三月、シーボルトの孫高子(石井宗謙と伊弥との間に生まれた)と結婚する。明治に入り、大阪の医科大学の創設に尽力、大阪病院の一等医となったが、一〇年、三九歳の若さでその生涯を閉じた。大村益次郎の治療を担当してその最後を見とった。

 人形師天狗屋久吉    宇野千代

 宇野千代(明治三〇 一八九七~)山口県玖珂郡横山村(現・岩国市)生まれ。岩国高女卒。「人形師天狗屋久吉」は、「中央公論」(昭和一七年・一一~一二号)に発表。のち単行本(昭18・文体社)。著者は前年の四月、人形師初代天狗屋久吉(吉岡久吉)に会うため徳島市国府町和田に来る。知人の家で見た人形――『傾城阿波の鳴門』の登場人物お弓に心を奪われ、その作者を訪ねて来たのである。人形お弓の顔はただ眼が開いたり閉じたりするだけであったが、どうかしたはずみにその眼が閉じたまま動かなくなる。著者はその開こうとしない眼に生きている人の眼ざしなど遠く及ばないような、言いようのない深い気持ちを感じた。「まあ、こちらへお上りなされ。東京からおいでたお方やと思わず、うちの方のお人のように思わんとお話ができません。」八六歳の天狗久はそう言って著者を迎え入れ、人形作り一筋に生きて来た芸の生涯を淡々と語り始めるのである。話の中で、久吉は八幡浜に来たことに触れる。その一節である。

   あれはいつ時分のことでござりましたやら。家内とここにをります姉娘のしげりと三人で、活人形つくるのに大阪へいったこともござります。地獄極楽の見世物にする人形をつくりますのでな、まあ、そのやうなものをつくりに、旅をせんならなんだと申しますのも、世の中の変って了うた証拠でもござりませうなア。ほんにあの時分は、味気ないことが多うござりました。日露の戦争のすんだ時分でござりましたが、家内と二人で、伊予へ半年くらゐも行ってゐたこともござります。八幡浜で座が焼けましてな、日露の新作物で、火薬をつかうて芝居してましたのが、その火薬を合せそこなうて火事になったのでござります。もう何も彼も焼けて了うて困るけに、どうでも来てくれと申してまゐったのでござります。