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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

五 戦後の小説(昭和後期)

 戦後の文学は、民主主義文学・新しい文学様式を追求する戦後派文学、それに既成文学の延長と見なされる文学の三派が鼎立した状態で進行し、言論の自由やジャーナリズムの活況によって文学は広く一般市民の間に迎えられるにいたった。また、純文学と大衆文学・通俗文学との領域が交錯し、中間小説が流行する。本県と関係のある小説全般に亘りこれを展望するとき、時代の反映を受けて実に多岐にわたる。その概観を年代を追い、本県出身作家・県外作家・県内在住作家に分ち、記述する。

 虹 高浜虚子

 写生文派の小説家高浜虚子は、昭和二二年から翌年にかけて、小説連作「虹」を発表した。「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」の連作である・はじめ三編は『虹』(二二年一二月・苦楽社)に収録されている。胸を病む女弟子に対する俳句の師の美しい愛情を描く。「虹」の愛子は、福井県三国町の銀行家と名妓の間に生まれた。胸を患い鎌倉で静養中、俳句のてほどきをしてもらった同病の柏翠と親しくなり、柏翠を介して虚子の門下生となる。旅中の虚子は三国の愛子を見舞う。以前、柏翠が愛子との結婚を虚子に相談したとき、虚子は「結婚してすぐ不幸な目に逢ふ人も多いやうだから、まあよく考へてからにしたまへ」と伝える。柏翠は結婚をあきらめる。虚子は惨酷とは思いながらもそれを取消す気にもなれない。金沢の俳句会のあと、虚子は柏翠・愛子・愛子の母と山中温泉に行く。温泉での句会のあと宴会がはじまる。愛子の母が唄を謡い踊りをはじめる。虚子は、覚えず耳を傾け踊りに昔の名妓の面影を見て涙を流す。愛子も踊りはじめる。虚子は声を放って泣き、愛子も泣き続ける。「虹」の題名は、汽車の窓から三国に立つ虹を見て、愛子が「あの虹の橋を渡って鎌倉へ行くことにしませう。今度虹がたった時に……」のことばによる。小諸に帰った虚子は、浅間山にかかる虹を見て愛子に葉書を書く。次の三句を添えて……。

    浅間かけて虹のたちたる君知るや
    虹たちて忽ち君の在る如し
    虹消えて忽ち君の無き如し

他の三編の連作も、愛子親子への愛情と他界した愛子をしのぶ情を綴る。

 潮の女・猩猩  高橋新吉

 高橋新古の戦後の小説について述べる。昭和三六年一〇月、小説集『潮の女』(竹葉屋書店)一一月には小説集『猩猩』(帖面舎)を刊行した。前者には、「潮の女」をはじめとして、「うちわ」「生命の端緒」「鼠」「水溜り」「或日の妄想」「静寂工場」「二つの死」「朝もよし」「潮風に吹かれて」「としゆき」「須佐之男命」の一二編を収録。後者には、「猩猩」をはじめとして、「あひる」「かぐつち」「ドン・ボスコ修道院のデュポン神父さん」「なめとこ」「大雪」「伊曽野神社」「うなぎ」「だそく」「一遍上人」の一〇編が収録されている。
 「潮の女」は昭和三一年の「新潮」八月号に発表された。その冒頭の一節。

  未一は游いでいる魚を手で掴んだことがある。四つぐらいの時である。石段がきずいてあって、斜めに間隔をおいて、石が突き出ていた。それを踏んで降りると、広い砂浜であった。潮が満ちて来ると、その石段は潮に浸された。未一は海の中で眼を開けて、青い魚が游いでいるのを見た。未一の頭の上や足の下にも游いでいるのであった。彼は手を伸ばして、素早く魚の胴体を握った。それは四五寸の青い縞のある魚であった。彼は、がんぎの上の道路に匍い上って魚を持つたまま家へ帰った。

 新吉の自伝「海の中より」に〝私は海の中で生れた。一九〇一年一月二十八日。一枚の鱗にさう書いてあった。伊予の西南の、象の鼻のやうに突き出た半島の中程の漁村である。(中略)私の幼年期の友人は魚だった。岸辺に打ち寄する波に乗って遊びに来た魚を、手で掴んだものである〟とある。自伝的要素の濃い作品といえよう。平野謙は「独得の美意識という点では、高橋新吉の『潮の女』(新潮)は今月もっとも印象に残った作である。年上の初恋の女にまつわる半生の思い出みたいなものが題材だが、その題材を処理する作者の手つきは、ある点ではスキマだらけともいえよう。だが一般の小説作法上スキマだらけという点を、この作者は一向に気にしていない。ウナギを食いかけて精神分裂する状態の描写や、最後の結びで魚になった主人公たちの幻想的な描写などにうかがえるこの作者の美意識はやはり読者の心を、その深部においてとらえる力をもっている」(毎日新聞・文芸時評)と批評している。
 「猩猩」は日常的な世界を描きながら、現実と非現実の境を往来するものとして注目された作品である。天稟と体験によって構成された「猩猩」の世界は「小説も詩もポエジイそのものであるということを、もっともよく具現した作品」(一柳喜久子)といわれている。
 昭和五七年一〇月、小説集『女釣り』(集英社)を刊行。「女釣り」をはじめとして、「くぐつ師」「アナンタ(千の頭を持って大地を支えている龍王)」「いちぢくの分裂」「鹿を食う虎」「錨」の六編が収録されている。これらは昭和五四年から五七年にかけて文芸誌「すばる(昴)」(集英社)に発表された作品である。「女釣り」には〈強盗亀のこと〉という副題があり、強盗池田亀五郎の行跡が、「錨」は八幡浜市で起きた人妻殺人事件が素材となっている。

 県出身の新人群

 本県出身の作家で、戦後、中央に出て活躍している新人たちについて、年代を追いながら述べる。
 峰雪栄(大正六 一九一七)松山市生まれ。松山高女卒。丹羽文雄に師事する。古谷綱武の紹介モ昭和二一年八月「三田文学」に「麦秋」を発表、戦後の新人として注目された。続いて同誌に「青春」「霧の朝あけ」「煩悩の果て」(昭24・芥川賞候補)を発表。『群像』に「妄執」を、『文学会議』に「雄花」などを発表した。のち中間小説に転じ「春寒」(直木賞候補)などを発表した。「新鋭文学選書」(昭24・講談社)の一冊『煩悩の果て』がある。
 洲之内徹(大正二 一九一三~)松山市生まれ。東京美術学校中退。昭和六年、日本プロレタリア美術家同盟に加入。のち帰郷して左翼運動を続け検挙される。釈放後、松山で同人雑誌「記録」を創刊。ドストエフスキー・に変貌。特務機関員として中国に渡る。戦後、小説を書きはじめ、「鳶」(昭23・横光利一賞候補)、「棗の木の下」(昭25)「砂」(昭25)「終りの夏」などを発表、いずれも芥川賞候補となった。昭和四一年四月『棗の木の下』を現代書房より刊行。「砂」「棗の木の下」「鳶」「流氓」の四編が収録されている。これらの作品は昭和一三年から二〇年まで、中国大陸で軍の情報関係に従っていた体験を素材とする。中共軍のゲリラと戦う特務工作員の実態を克明に描き、極限状況における人間の愛と非情を追求している。作品の主題は、「いずれも、思想的にどうしても容認できない日本軍の内部にいて、思想的にはあくまで真実だと思われる共産軍を敵にして戦わねばならなかった、私のジレンマと苦悩、そのための人間的退廃や、精神と心理とのさまざまな屈折などである」と洲之内は述べている。昭和三三年、戦友であった作家田村泰次郎経営の現代画廊に入社、引継ぎ経営。『絵の中の散歩』『気まぐれ美術館』など、美術随想集がある。
 川上宗薫(大正一三 一九二四~)東宇和郡宇和町生まれ・プロテスタントの牧師であった父が九州に転勤するまでの幼児期三歳を卯之町で過ごした。九州大学英文科卒。長崎海星・千葉東葛飾高校などに英語教師として勤務し、かたわら小説を書く。「その掟」(昭29)、「初心」(昭29)、「或る眼覚め」(昭30)、「シルエット」(昭34)、「憂鬱な獣」(昭35)など、豊かな感受性ときめの細かい文章で描かれたこれらの作品はすべて芥川賞候補となった。「もし受賞していれば、失神派(情痴)作家とは別のコースを歩いていたかもしれない」(小松伸六)。その後、純文学から離れハイティーン向きの少女小説を書いてのち、大胆な官能描写による小説で流行作家となった。宇和島を素材とした小説に「真夜中の声」(昭47・「オール読物」)がある。
 小田武雄(大正二 一九一三~)松山市生まれ。九州大学経済学部卒。会社員・教員などを経て、戦後文筆業に専念する。「絵葉書」(昭29)、「うぐいす」(昭30・千葉亀雄賞受賞)、「北冥日記」(昭31)、「窯談」(昭32・サンデー毎日大衆文芸賞)、「紙漉風土記」(昭32・オール読物新人賞)、「舟形光背」(昭32・小説新潮賞)などの作品がある。「紙漉風土記」と短編集『うぐいす』(昭33)は直木賞候補となった。
 大江健三郎(昭和一〇 一九三五~)喜多郡内子町大瀬生まれ。戦後最初の新制中学一回生として大瀬中学校に入学。新憲法の精神は、モラルの原点となる。二五年内子高校に入学、翌年松山東高校に転校。二九年、東京大学文科二類に入学。渡辺一夫教授に師事。三二年「東京大学新聞」に小説「奇妙な仕事」を投稿、五月祭賞を受ける。ついで文芸誌に「他人の足」「死者の奢り」を発表し作家として出発した。翌三三年、山村に墜落したアメリカ軍用機の黒人兵捕虜を描いた「飼育」で第三九回芥川賞を受賞。六月、処女長編『芽むしり仔撃ち』(講談社)を刊行し。
 〝新しい文学(江藤淳)の旗手〟としての位置が確定した。この年、短編集『死者の奢り』『見るまえに跳べ』を刊行。前者について著者は「監禁されている状態、閉ざされた壁のなかに生きる状態を考えることが、一貫した僕の主題」と述べ、後者については「強者としての外国人と、多かれ少なかれ屈辱的な立場にある日本人、それにその中間者としての存在(外国人相手の娼婦や通訳など)、この三者の相関をえがくことが、すべての作品においてくりかえされた主題」と述べている。そして、これらの作品を横にむすびつけるものとしてセクシュアルなイメージを固執している。
 大江文学には、しばしば性的なシーンが描かれている。著者は「ある作品の中に、性的なシーンが多く、セックスについて、いっぱい書いてあっても、人間とはどういうものか、新しい人間とはどうあるべきものか、誠実に生きるとはどういうものなのか……などを、真剣に考えるヒントを与えてくれたならば、その作品は、純粋に立派な文学としての価値をもっている」「単に性的な好奇心や感情をかきたてるだけで、新しい人間が発見できない、あるいは考えるチャンスをよびおこさないものは、悪い作品である」と述べている。三四年、長編『われらの時代』を刊行。三五年、訪中日本文学代表団の一員として上海で毛沢東の会見に列席。三六年、ソ連・東欧・西欧を旅行しパリでサルトルに会う。この年、前年の浅沼社会党委員長刺殺事件に素材を求めた二部作「セヴンティーン」「政治少年死す」を発表。右翼の脅迫を受ける。三七年、自伝的長編『遅れてきた青年』を刊行。三八年六月、長男光誕生。頭蓋骨異常のため最初の手術をする。夏、広島に旅行。広島調査ノートを書くことを始める。この二つの体験はその創作活動に大きく影響する。その後の代表的な作品・著書を挙げてみよう。
 昭和三八年『叫び声』『性的人間』、三九年『日常生活の冒険』『個人的な体験』(新潮社文学賞)、四〇年『厳粛な綱渡り』『ヒロシマ・ノート』、四一年『大江健三郎全作品』(全六巻)、四二年『万延元年のフットボール』(谷崎潤一郎賞)、四四年『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』、四五年『壊れものとしての人間』『核時代の想像力』『沖繩ノート』、四六年『対話・原爆後の人間』、四七年『鯨の死滅する日』『みずから我が涙をぬぐいたまう日』、四八年『同時代としての戦後』『洪水はわが魂に及び』(野間文芸賞)、四九年『状況へ』『文学ノート』、五一年『ピンチランナー調書』、五二年『大江健三郎全作品』(第二期全六巻)、五三年『小説の方法』『表現する者』、五四年『同時代ゲーム』、五五年『現代伝奇集』、五七年『「雨の木」を聴く女たち』。なお、『同時代ゲーム』は、郷里の内子町大瀬を舞台としている。なお、五八年、二〇歳になった脳障害児との共生を描く優しく美しい旋律『新しい人よ眼ざめよ』(大佛次郎賞)を刊行した。
 高橋光子(昭和三 一九二八~)宇摩郡土居町生まれ。川之江高女卒。住友化学(新居浜)勤務の後、上京。俳優座戯曲研究会・NHK台本研究会に入り、ラジオ・テレビドラマを創作。昭和四〇年四月、「蝶の季節」で文学界新人賞受賞、第五三回芥川賞候補となる。ついで四八年「遺る罪は在らじと」が第六八回同賞の候補となった。上条由紀のペンネームで、少女雑誌に数多くの作品を発表。『とし子さん』(昭41)、『先生泣いてたまるか』(昭43)、『遺る罪は在らじと』(昭56)のほか、上条由紀名の作品が多い。
 石川喬司(昭和五 一九三〇~)伊予三島市生まれ。東京大学文学部卒(フランス文学専攻)。毎日新聞社に勤務のち、SFの創作活動に入る。『魔法つかいの夏』(昭43)、『走れホース紳士』(昭49)、『競馬聖書』(昭50)、『アリスの不思議な旅』(昭50)、『世界から言葉を引けば』(昭53)、『エーゲ海の殺人』(昭55)、『彗星伝説』(昭57)などのほか評論も多く『SFの時代』(昭52)は、日本推理作家協会賞を受賞した。日本推理作家協会常任理事。日本SF大賞・横溝正史賞選考委員。東京大学講師として「SF・文学と時間」のテーマで講義をし話題となった。また、TV放送脚「二十手物語」(フジテレビ放映)を書く。
 梅原稜子(昭和一七 一九四二~)八幡浜市生まれ。早稲田大学文学部国文科卒。中央公論社に勤務の間に「婦人公論」を担当、「円い旗の河床」(文学界新人賞佳作)を書く。「夏の家」(昭49)は第七二回芥川賞候補、「掌の風景」(昭50)。「蔓の実」(昭51)が、それぞれ第七三回、第七五回同賞候補となった。豊かな感性と女性の精緻な心理描写には定評があり、将来を期待される女流新人である。作品集に『掌の光景』(昭50)、『夕凪の河口』(昭53)、『渚には風もなくて』(昭55)がある。なお、「四国山」は五九年の第九〇回芥川賞候補作(第12回平林たい子文学賞)となった。
 伴野朗(昭和一一 一九三六~)松山市生まれ。東京外国語大学中国語学科卒。朝日新聞記者。中国・ベトナム問題担当記者として現地取材した。北京原人の化石骨消失の謎をめぐる『五十万年の死角』(昭51)で、第二二回江戸川乱歩賞受賞、推理小説界の大型新人として登場。元陸軍参謀辻政信の行方を追う『陽はメコンに沈む』や、『顔写真』『九頭の龍』は日本推理作家協会賞候補となる。歴史的事件を素材とし、豊かな創作力によって推理を展開している。
主な作品として『殺意の複合』(昭52) 『三十三時間』(昭53) 『Kファイル38』(昭54) 『復讐の鎮魂歌』(昭55) 『六人目の裏切者』(昭55) 『蒋介石の黄金』(昭55) 『ゾルゲの遺言』(昭56) 『野獣の罠』(昭56) 『密室球場』 (昭57) 『ハリマオ』(昭57) 『必殺者 軍神・広瀬中佐の秘密』(昭58)『香港から来た男』(昭58)などがある。
なお、これらの他に、『大航海上・下』(昭59) 連続長編『傷ついた野獣』(昭59 推理作家協会賞) 『通り魔』(昭59)がある。

 松浦理英子(昭和三三 一九五八~)松山市生まれ。青山学院大学仏文科卒・在学中に書いた「葬儀の日」に第四七回文学界新人賞を受賞、第八〇回(五三年下半期)芥川賞候補となる。また八二回(五四年下半期)にも「乾く夏」が候補に選ばれた。「火のリズム」「肥満体恐怖症」「セバスチャン」などの作品がある。
 このほか、石崎晴央(松山市)は愛媛大学在学中に「焼絵玻璃」で第一回新潮賞を受け、大江健三郎が「飼育」で受賞した第三九回芥川賞の候補作として「日々の戯れ」も書いた。岡上哲夫(昭和二 一九二七~・八幡浜市)は東京都新宿区役所に勤務。詩を書き「荒地」(新人賞候補)、小説『海溟』(昭57)を書く。昭和四八年「金魚を飼う女」で第一二回オール読物推理小説新人賞を受賞した弘田静憲(昭和一二 一九三七~・東宇和郡野村町・愛媛大学卒)は金大中事件にヒントを得て長編推理「海の呪縛」(昭53)を書き、背景に坂石・鹿野川ダムを点描する。県立周桑高女卒の井口美代子(芦屋市大東町15~3)は大阪文学学校を卒業し、関西大学同人、五五年『落日』 五六年『風雪』 五八年『長屋物語』を出版した。

 県外作家の小説

 県外作家の小説で、本県関係人物を主人公にしたり、本県を舞台として描いた小説は戦後に多い。
 『てんやわんや』(昭23)獅子文六(明治二六 一八九二~昭和四四 一九六九・本名岩田豊雄・神奈川県)は、昭和二〇年一二月から約二年間、妻シヅ子の郷里北宇和郡津島町岩松に疎開。その見聞・経験などを素材にしてこの作品を書いた。南国の風土を「冬は暖かいし、物資はあるし、桃源境と云ふべき所」「町の人々は私を旅の者として扱はず、まるで生え抜きの相生郷人のやうに、心置きない態度を見せるのである。これは、土地の気風が寛闊なためである」「この土地の青年は、一体に温和で、関東地方のやうに、虚勢を張ることがない代りに、一度激発したとなると、南国の血は争はれぬものがある」と主人公犬丸順吉に語らせている。昭和二三年一一月より翌年四月まで「毎日新聞」に連載、二四年に新潮社より刊行、二五年には映画化された。河盛好蔵は、「犬丸順吉には、敗戦当時の正直で善良で、そのため一層、戦後の混乱した社会に生きてゆくことの自信を失った一部の国民の姿がよく象徴化されている」「この作品は終戦直後の日本の精神的風景としても珍重さるべきもの」と述べている。ほか、父性愛を語った自伝小説『娘と私』(二八年より「主婦之友」に連載・三二年新潮社より刊行)、合同証券社長の佐藤和三郎をモデルに南伊予出身、ギュウちゃんこと赤羽丑之助を造型し、カブト町に生涯を賭けた株屋一代記「大番」(三一年より「週刊朝日」に連載・のち全三巻を刊行)、南予の農村に取材したコント集ともいうべき『南国滑稽譚』(昭26)、戦中戦後の混乱期に生きる少年を主人公にした長編少年小説「広い天」(昭23)などがある。また、『二階の女』(昭21・愛媛新聞社連載22回)は岩松での執筆。五七年、文六の一三回忌追憶として公演された(脚色飯沢匡・特別主演黒柳徹子)。
 『闘牛』(昭25)井上靖(明治四〇 一九〇七~・北海道)は、二四年一二月「文学界」に発表され、翌年二月、芥川賞を受賞した。敗戦直後の混乱期、伊予のW市(宇和島市)から闘牛を運び、西宮球場で闘牛大会を興行する話である。大会の主催・大阪新夕刊のインテリやくざ的編集局長津上、押しの強いしたたかな興行師田代(宇和島市中畑数一がモデルであるといわれる)、その愛人さき子の動きを中心に、小説は闘牛大会へと焦点がしぼられる。津上は新聞社員であるが、作者もまた、大阪毎日新聞学芸部の美術記者であった。山本健吉は「第一作『闘牛』と第二作『猟銃』とは、氏の作品における二つの傾向の原型をなしている。(中略)おおざっぱにいって、『猟銃』が氏の抒情的作品の原型をなし、『闘牛』は氏の叙事的作品の原型をなしている」と解説している。なお、歴史小説『額田女王』(昭44)では、熟田津(松山)を描いている。
 『虎松日誌』(昭24)井伏鱒二(明治三一 一八九八~・本名満寿二・広島県)。二四年一月、雑誌「苦楽」に発表された短編小説。寛政一一年(一七九九)八月、四国遍路の旅に出、その帰途病死した安芸国大田村の百姓、虎松の日誌を素材にした形式。百姓たちは地主に年貢を立てかえてもらい、冬の農閑期三か月ばかりを他国に出歩き乞食をしながら食いつなぐ。同村の若六と共に村を出た虎松もその一人で、約二か月間書き残した日誌に「去る二月十日より今月一日まで八幡浜にて若六病気つかまつり、観音堂に伏せをり候節、このぶんにては行くとも帰るとも、三月上旬に帰国のこと覚束なしと、若六こと相嘆き候」「三月十三日。一昨夜、若六行方しれずに相成り候。私こと、丑の刻に小用に起き候節、手さぐりにて見るに若六の寝床、藻抜けの殼に御座候」と、病身の若六が宇和島の遍路宿で逐電したことなどが記されている。虎松は宇和島・三瓶・八幡浜・今治へと若六を捜して歩きまわり、備後小畠代官支配下の二森村で病死する。後日、代官所から虎松の遺品を太田村へ送り返したが、虎松はすでに「帳外」の人になっていた。
 『日本捕虜志』(昭24・5~25・5「大衆文芸」連載)長谷川伸(明治一七 一八八四~昭和三八 一九六三・本名伸二郎・神奈川県)。前編・本編(一)~(四)・後編から成る。前編は天智天皇二年の白村江の戦から一二〇〇余年にわたる間の、本編では日清・日露戦争・第二次世界大戦までの彼我の捕虜について、後編では国内国外の捕虜拾遺について述べている。戦史資料をもとに捕虜待遇を通して日本人のヒューマニズムを探ろうとした史伝体の作品である。三〇年に単行本となり、翌三一年菊池寛賞を受賞した。松山ロシア捕虜収容所についても詳細に記述している。
 『花と龍』(昭27・6~「読売新聞」連載)火野葦平(明治四〇 一九〇七~昭和三五 一九六〇・本名勝則・福岡県)・明治三五年から昭和に及ぶ年代記な小説。作者の父と母の庶民的で生活力たくましい生涯を実録風に描いている。作者の父玉井金五郎は松山市姫原出身。北九州若松市の石炭仲仕玉井組の親方で、作者はその長男。昭和一三年三月、第六回芥川賞を受賞した「糞尿譚」は、松山から小倉への帰途船中での執筆と言われている。ほかに、松山取材小説として「街の灯台」「天国遠征」などがある。
 『夕日と拳銃』(昭30・5~「読売新聞」連載)檀一雄(明治四五 一九一二~昭和五一 一九七六・山梨県)。宇和島藩主伊達宗城の孫伊達順之助をモデルとする長編小説。余談で、作者は「…今度の小説ほど、書き進めながら愉快を感じたことはない。それは一つには、私自身久しぶりに、満州や中国の各地をうろつき回っているような気持…」「…モデルは伊達順之助氏の伝説によった。が、私はなるべく愉快な小説を書きたかったわけで、伊達順之助氏の正しい伝記をつくろうというつもりははじめから毛頭なかったから、その根本の思想に関しても、行動に関しても、私の自分勝手な妄想に従った。…」と述べている。作者は東京帝大卒業後、満鉄への就職依頼という口実で、大連・奉天・ハルビンを放浪しておりその体験の裏付が随所に見られる。
 『人間の壁』(昭32・8~34・4「朝日新聞」連載。三四年新潮社刊、三冊)石川達三(明治三八 一九〇五~・秋田県)。昭和三二年、佐賀県が財政再建を理由に教職員定数削減を行ったことに対する、県教組の休暇闘争事件を中心に、共稼ぎ教師夫婦の離反をからませ、戦後教育界の動向を巨視的な視野からとらえた。取材のために各地を旅行、教職員組合・警察・裁判所・独房のなかまで出かけたという。作中人物、日教組の活動家青山は伊予三島市出身で日教組副委員長をつとめた今村彰がモデルといわれる。
 『婆じゃとて』(昭40「小説新潮」)。五味康裕(大正一〇 一九二一~昭和五五 一九八〇 ・大阪府)。短編時代小説。「婆」とは、伊予松山藩士根津嘉六の老妻さち、もと大淀という吉原の華魁。さちを妻とした嘉六は、江戸に居づらく国詰めとして松山に帰った。二人に子供がなく、友人の三男で二〇歳をすぎた幸之進を養子とする。幸之進は中上伝兵衛の持つ刀の切っ先四寸ばかりの焼きはずれを見つける。伝兵衛の仲間たちは、幸之進に火傷をさせようと番所の大火鉢に熱い火箸を置く。番所を訪れた藩主松平隠岐守定英がその火ばしを手にする。幸之進をかばって藩主自ら火傷をされた話は、隠居嘉六の耳に入る。嘉六は、藩主幼少のころの急病を八股榎の狸さんに祈願して一命を救ったことがある。嘉六は、母子とも永別の杯をさせ幸之進に自刃させる。老婆は気持ちがおさまらず、幸之進の刀の鑑定が証明されるなら本望と伝兵衛の屋敷へ乗り込む。伝兵衛の刀は老婆の首を切り落とすが刃こぼれ一つ残らなかった。切っ先でなく鍔元で老婆を切ったのであった。華魁であったとはいえ武士の妻として生きた女の意気地を描いている。
 『草の陰刻』(昭40)松本清張(明治四二 一九〇九~・福岡県)。犯罪推理小説。松山地方検察庁杉江支部の倉庫と宿直室の火災により事務官が焼死し、泥酔していたもう一人の事務員は、杉江から約四〇キロ離れた小洲町の旅館に軟禁される。転任して来たばかりの独身青年検事瀬川良一は、火災の原因を調べていくうち、焼け残った「刑事事件簿」(六冊)の第二冊が足りないのに気づく。昭和二五年四月から二六年三月にかけての部分である。瀬川は当時の在任者で、東京で弁護士をしている大賀元検事に問い合わせる。大賀は、そっけない返事をよこした直後、交通事故で急死する。大賀の娘冴子は瀬川に父の死を知らせるとともに、一五年前、杉江支部管内で起きたある島の信用金庫殺人事件の有力容疑者がいま名士になっているとほのめかす。瀬川は事件を追っていくうち、保守党の佐々木代議士がその有力容疑者であり、前歴暴露を恐れて、暴力団を使い関係書類を焼かせたことが明らかになる。警察・検察は、代議士佐々木を逮捕することができない。瀬川は検察の限界を感じ、弁護士になろうと決意する。その間、政治家・暴力団・資本家のくされ縁が暴露されていく。次は作品の一節である。

   瀬川は松山から帰りの汽車に乗った。
   落日の瀬戸内海は、油を浮かしたように重くどろりとなっている。瀬川は、町や村に遮られて断続する内海の夕凪を窓から見ていた。島が黒く昏れて、家々の灯が輝いてくる。線路沿いの国道にはヘッドライトをつけたトラックが頻繁に通っていた。
   検事正はとっくに大阪に着き、今ごろは別な機に乗継いで東京へ向っている途中であろう。松山に帰ってくるのは五日のちだった。進退伺いを受理するか、戻されるか、処分の決定はそのときになる。
   瀬川は、それはもう思わないことにした。とにかく、夜の公舎の一室で書いた一片の書きものがいま宙に漂っていることだけはたしかであった。それがどんなかたちで落ちてくるか、考えてみたところで詮ないことである。瀬川は窓に向けた眼を、鞄から取出した雑誌に変えた。
   その雑誌を大半読み終ったころ、海岸が無くなり、代りに黒い川が流れていた。肱川だった。
   次が八幡浜だと思ったとき、瀬川はふとこの町は竹内事務員が映画を見にきた土地だと思い出した。これから杉江の公舎に帰ったところで別に用事はない。映画でも見ようかなと考えた裏には、一応、竹内事務員の足跡を見る気持が動いていた。今ごろそんなところに行っても仕方がないが、ついでだし、どんな映画館だか確かめてみたい。
   八幡浜は瀬川には初めてである。いつも松山と杉江との往復の途中駅として構内を見過していた。駅の前は思ったより賑かだった。広場をよぎると、角が大衆食堂になっている。竹内がうどんを取ったのはここだなと思い、中をのぞくと、五、六人の客が椅子に坐っていた。
   瀬川は、竹内の言った通りの道をたどった。少し歩いたところで映画館の看板が大きく見えてきた。前には二十台ばかりの自転車がならんでいる。
   建物はかなり大きいほうだが、古びていた。それを絵看板や、派手なポスターが飾り立てている。竹内が見たという同じ映画をまだ上映していた。

 小説の地名杉江の町は宇和島、小洲の町は大洲と思われる。

 『笹まくら』(昭41)丸谷才一(大正一四 一九二五~・山形県)。徴兵忌避を主題とした作品。題名は「これもまたかりそめ臥しのさゝ枕一夜の夢の契りばかりに」(俊成卿女家集)による。浜田庄吉は題名にかさかさする音の不安を感じ、徴兵忌避の不安な旅を連想していた。主人公浜田は大学の庶務課長補佐、四五歳。妻陽子はおとなしくて美人。一見平和な暮らしである。昔の恋人で、命の恩人でもある女の死を告げる、黒枠のはがきがくる。女は宇和島の結城阿貴子。戦前、人妻だったが離婚していた。この女と浜田は「男めかけ」のような生活を続けながら徴兵忌避の旅を続けていた「自分が殺されるのがこわかったんじゃなく、敵を殺すのが厭だったのだ。戦争というものが、それから兵隊というものが生れつき大嫌い」であった。浜田は忌避の間、杉浦健次という変名で通し、日本全国をラジオや時計の修理、砂絵などの商売をしながら命がけで逃げまわっていた。母は自殺、医者で中気の父は看護婦と関係し弟の信二は、憲兵につけまわされたり配属将校になぐられたりした。杉浦(浜田)が阿貴子に出会ったのは山陰の皆生温泉で砂絵屋をしていたときだ。縁談をきらって家出していた女と急速に親密になる。放浪の旅の途中、宇和島へやってくる。その一節。

   今朝、宇和島から近くの吉田という町へ、阿貴子の家の疎開荷物を運ぶ馬車に付添って行っての帰りである。宇和島は夏にはいってから何度も空襲され、街は七分どおり焼けた。阿貴子の家-結城質店は、主として杉浦の努力のせいで残って、焼け出された二組の世帯を住まわせている。しかしこれからも、黒い大きな万年筆のような焼夷弾の雨は、たぶん一週間くらいの間隔で、あるいはもっと短い間隔で落ちて来て、残る三分を確実に焼くだろう。もちろん城山公園の天守閣も燃えあがり、結城質店も焼けてしまうにちがいない。阿貴子の母と阿貴子と杉浦の三人は、相談の上、衣類その他のなかの上等なものを(ただし質入品はそのままにして)遠縁の家へあずけることにしたのである。いくら何でも誇張だろうと思っていた、疎開用の馬車一台百円という噂が正しいことは、三人を仰天させた。
   彼が宇和島にいるのは、倉敷の町で黒い詰襟の口入屋と出会った事件が阿貴子を怯えさせたためである。彼女はもちろん杉浦の秘密を知っていた。二人は翌日すぐに倉敷を去り、それから二ヵ月、夫婦者の砂絵屋は、岡山、赤穂、姫路、明石と渡り歩いた。明石では旧暦七月二十、二十一日の大師のタカマチで、これが一人旅のときならばすこしのんびりできるほどのよい稼ぎをしてから、憲兵が多いにちがいない神戸へゆくことは避けて淡路島へ渡る。その二ヵ月のあいた阿貴子は毎日のように、と言うよりも、むしろ二人きりになるとかならず、四国の自分の家に来て身をひそめるようにすすめつづけたのである。
 課長補佐である浜田は、戦後の時勢の変化につれて徴兵忌避者が烙印となってくる。課長昇進もおぼつかなくなり、関連高校へ左遷されそうになる。そんなある日、妻の陽子が万引きで警察につかまってしまう。小説は、杉浦の忌避行の過去の時間と、戦後平凡なサラリーマンとして生きる現在時間とを重ね合わせながら展開する。そのため読者は、焦燥感を感ずるが、それが丸谷文学の一つの特性でもある。丸谷はジョイスの心理主義の影響を受けているといわれる。『笹まくら』は私小説ではなく「徴兵忌避者が自己を正当化するために書いた小説ではなく、一度は軍服を着た丸谷氏が、そのにがい経験をかみしめながら、いはば〝ありうべかりし自己〟の姿を小説という虚構のうちに定着し、歴史のなかでの個人の運命をくっきりと浮かびあがらせた小説である。」(磯田光一)。
 『坂の上の雲』(昭43・4~48・8「サンケイ新聞」連載)司馬遼太郎(大正一二 一九二三~・大阪府)。正岡子規、秋山好古、真之兄弟の三人の青春人物像を描くことによって、明治維新後、日露戦争に至る近代日本の激動の時代を、ダイナミックに描いた長編である。好古は陸軍大学卒業後フランスに留学、日清・日露の戦争に従軍、陸軍騎兵の創設者。真之は海軍兵学校を卒業、日本海々戦の参謀として活躍、「本日天気晴朗なれども波高し」の名文とT字戦法の献策者。子規は俳句革新を唱えて近代俳句の基礎を確立。司馬は「あとがき」に……たえずあたまにおいているばく然とした主題は、日本人とはなにかということであり、それも、この作品の登場人物たちがおかれている条件下で考えてみたかった。…このながい物語は、その日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。やがてかれらは日露戦争というとほうもない大仕事に無我夢中でくびをつっこんでゆく。最終的には、このつまり百姓国家がもったこっけいなほどに楽天的な連中が、ヨーロッパにおけるもっともふるい大国の一つと対決し、どのようにふるまったかということを書こうとおもっている。楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前をのみ見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一柔の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう……と記している。
 他に、本県と関係あるものに、宇和島藩における村田蔵六こと大村益次郎を描いた『鬼謀の人』(昭39)、『花神』(昭44・10~46・11「朝日新聞」連載)、宇和島藩主伊達宗城に認められ、蒸気船建造に成功した八幡浜出身の前原巧山を描く「伊達の黒船」(昭39)、慶応三年一二月七日亥の刻、京都油小路花屋下ル天満屋惣兵衛の旅館に陸奥宗光らと新選組を襲撃した居合の名人、のち大阪商業会議所会頭、宇和島出身土居通夫らを主人公とした「花屋町の襲撃」、伊予吉田藩の山田騒動を描く「重庵の転々」(昭45)。正岡子規家を嗣いだ正岡正三郎とその周辺の人たちに温かい眼をそそぐ『ひとびとの跫音』などがある。
  『虹の翼』(昭55)吉村昭(昭和二 一九二七~・東京都)。飛行原理の考案者二宮忠八の生涯を描く伝記的作品。

   明治十二年春-
   愛媛県西宇和郡八幡浜浦は、明るい陽光を浴びていた。
   佐田岬半島の付け根にある八幡浜浦は、深く陸地に食いこんだ湾をいだく港町で、豊後水道をへだてて九州との重要な連絡港にもなっている。湾の南方に諏訪崎が海上に鋭く突き出し、湾口には佐島が浮び、風光は美しい。町は、湾の奥から丘陵に這い上るようにひろがっている。海の色と丘陵一帯をおおう緑の色が、鮮やかな対照をなしていた。

 冒頭の文である。忠八は慶応二年(一八六六)六月九日、八幡浜浦で生まれた。幼年のころより発明工夫の才能に恵まれる。明治二〇年(一八八七)丸亀歩兵連隊に入隊。二二年一一月、秋季機動演習の帰途、香川県仲多度郡十郷村の樅の木峠で昼食をとりながらカラスの群れ飛ぶのを見て航空力学の原理を発見し発明のヒントを得る。昆虫・鳥・飛魚などの飛行状態を観察し研究を進める。二四年(一八九一)四月二九日の夕刻、丸亀練兵場で模型飛行機(ゴム線を動力としプロペラは四枚羽根)の飛行実験に成功。五間余(約一〇メートル)の距離を飛んだ。ライト兄弟の世界最初の飛行より一二年前のことである。物語は、人を乗せて飛ぶ飛行機の作製に挑む男の孤独な戦いを描く。
 他に、昭和一九年、伊予灘で急速潜航訓練中に沈没した伊号第33潜水艦の悲劇をめぐるドキュメンタリー小説『総員起シ』(昭47)宇和海の島々におけるネズミの異常繁殖を描く『海の鼠』(昭48)、二宮敬作(西宇和郡磯崎浦生まれ。シーボルトに医学を学び、卯之町で開業。高野長英をかくまう。)が養育した日本最初の女医お稲の生涯を素材にした『ふぉん・しいほるとの娘』(昭53)などがある。
 『於雪-土佐一條家の崩壊-』(昭45)大原富枝(大正元 一九一二~・高知県)。戦国末の土佐国守一條兼定の生涯(長曽我部元親のため逐われ、外戚関係と同じキリシタン信仰の理由で豊後大友氏のもとに走り、天正九年受洗。霊名パウロ。やがて土佐に戻ったが元親により攻略され、宇和島の戸島で部下のため殺された)を側室お雪を通して描く。同じ素材の小説に『かげろうの館』(昭46・田岡典夫・高知県)がある。
 以上の作品のほかに、大津事件に関連して宇和島出身の司法官児島惟謙を描く『凶徒津田三蔵』(昭36・藤枝静男)松山出身の河崎広光伍長の回想よりはじまる特攻基地を描く『知覧』(昭40・高木俊朗)日振島を根拠に宇和海・瀬戸内海を支配した藤原純友を描く『海と風と虹と』(昭42・海音寺潮五郎)内子町出身で第三高等学校野球部投手として活躍し、鬼菊池と呼ばれた菊池秀次郎を描く『疲れ旅鴉』(昭43・山口瞳)川之江出身で江戸後期の朱子学者尾藤二洲を描く「学問浪人」(昭44・柴田錬三郎)伊予郡松前町出身の実業家坪内寿夫を主人公にした『大将』(昭45・同) 児島惟謙を描く「裁判官花札事件」(昭47・三好徹)と政治小説家末広鉄腸を描く『近世ジャーナリズム列伝』(同)、八幡浜市出身の初代朝汐太郎を描く「江戸前の風」(昭48・石井代蔵)と保内町出身の前田山を描く「豪傑」(同) 愛媛の俳人たちを語る『俳人仲間』(昭48・瀧井孝作)宇和島藩における高野長英を描く『崋山と長英』(昭50・山手樹一郎) 吉田藩一揆を素材とする歴史小説「重い雨」(昭53・三木一郎)、伊達家の家臣を描く『宇和島藩家老山家清兵衛』(昭55・石川淳)「桁打武左衛門」(南条範夫)・戯曲『武左衛門一揆』(中西伊之助)などがある。
 伊予路を舞台とし、伊予人にかかわる小説には他に、小説『おはなはん』(小野田勇)、『自日没』(五味康祐)『新吾十番勝負』(川口松太郎) 『梟示抄』(松本清張) 『女紋』(池田蘭子) 『日本剣客伝』第六番堀部安兵衛(吉行淳之介) 『戦国狸・剣道亡者』(村上元三) 『旅の重さ』(素九鬼子) 『凶年の梟雄』(新田次郎) 『戦国惨殺』(南条範夫) 『花隠密』(岩井護) 『一つだけの椅子』横断歩道第五話(黒岩重吾) 『最後の撃墜王』(豊田穣) 「悪霊」(小松左京) 「おっぱんぱん」(野坂昭如) 『蘆火野』(船山馨) 『遠い岬の物語』(伊藤桂一) 「松山城の石垣」(南条範夫) 『燃える怒濤』(豊田穣) 『北針』(大野芳)などを挙げることができる。

 県内の創作活動

 戦後、県下で発行された小説主体の同人雑誌に、東予の「内海文学」(新居浜)、「うちぬき」(西条)、中予の「文脈」「原点」「アミーゴ」(いずれも松山)、南予の「南海文学」(八幡浜)などがある。これらに発表の作品は、作者の内的欲求として結晶したものが多く作者の地道な歩みを示している。
 「内海文学」は、二九年創刊。同人には勤労者・教員・主婦など。小説に『夜道』『広島暮色』(真鍋鱗二郎)、「椿」「大陸の灯」(杉山キクノ)、『小児マヒ』『足の骨』(久保玄人)、「鹿のような男」「バードマンのくる海」(斧文雄)などがある。「うちぬき」には、「赤い星は暗かった」(高橋数一)がある。
 二七年創刊の「文脈」は、一〇年ころ洲之内徹・光田稔・長坂一雄によってつくられた『松山文芸倶楽部』が母体である。その後、「記録」「四国文化」「四国文学」と移り「文脈」となった。小説に『遠景』(藤原誠一)、「逃げて行く帝国」「海辺の歳月」(木藤冨士男)、『罪業』『潮の道草』『濁水』(玉貫寛)などがある。どの作者にも、生きるささえとしての文学する態度がみられる。玉貫の〝老人の性〟をテーマとした「蘭の跡」(季刊芸術)は、五四年上半期、第八一回芥川賞候補作となった。作者は外科医、俳誌「天狼」同人。
 「原点」は、四〇年に創刊。若い作家たちの同人誌として注目される。リアリズムを基調にイデオロギーに左右されない作品を発表している。作品に「滲血」「白い闇」「唖の声」「眼帯の譜」(図子英雄) 『求める鳥』『声』(久保斉)などがある。二人とも愛媛新聞社勤務。図子の作品は、いずれも作家賞や文学界新人賞・文芸賞などの候補となった。
 「アミーゴ」は五五年創刊。劇作家高橋丈雄らを中心に〝文章のアンデパンダン展〟をめざす。作品に『小さな島のデコ芝居』『鳥と詩人』(高橋丈雄) 「灯り」「暗い廊下」「鼬の子ら」(名本栄一) 「棺の中」「雪の来訪者」「恐い男」(本吉晴夫) 「霧の中」「喪章のある魚」「海の柩」(菊池佐紀)、「青い鳥」(中村勝)などがある。中村の作品は、第三回石坂文学奨励賞を受賞した。
 「南海文学」は三二年の創刊。後期戦中派を標榜しその立場からの作品が多い。草創期の愛媛大学の青春を描く「憎めない奴」や「銀貨」「石の柩」(菊池啓泰)、「忍草」(赤松襄一)などがある。四九年に終刊。
 「あなしの吹く頃」(田中健三・松山)は、第五四回文学界新人賞受賞作。第八七回芥川賞候補作となる。郷土に生活の拠点を置き、海と人間をテーマに意欲的な創作活動をつづけている。
 これらのほかに、中予では「ある一つの恋の物語」(長野浩)「大観園」「地の声」(加藤豊隆)「狸の戦場」(オール読物新人賞・山口四郎) 「生き残り」(宇高秀雄) 「ダミアンズ・私の獲物」(華城文子 本名 玉井文子・「群像」新人文学賞)、南予では「宝くじ挽歌」(オール読物新人賞) 「黒い菊」「影鉄砲」「吉良首異聞」(松浦幸男) 『南国史夜話』『草の都は花紅』(南城多磨夫) 『れんげ咲く町』(菊池繁弘) 『小さな町の散歩』(佐川敬) 「白い鳥赤い月」(大善公寛) 『命の枯れるとき』(谷本広一郎)などがある。