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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 童話・少年(少女)小説

 明治二四年(一八九一)博文館が『少年文学シリーズ』を企画、硯友社出身の巌谷小波は『こがね丸』を第一編として発表した。近代児童文学の出発をこのあたりに見る人が多い。小波は、メルヘン・少年文学・お伽噺を、ほぼ同義語に使用している。(「おとぎ話」という時は幼年文学的なものを指しているが。)明治は小波の主導による児童文学が主流であった。
 純児童文学・大衆児童文学といった観念は、大人の文壇と同様に存在していた。そして児童文学史家は、小波に始まり、大正期『赤い鳥』の鈴木三重吉、小川未明、坪田譲治、さらに昭和初期のプロレタリア童話、生活童話といった系譜を「純児童文学」として取り上げ、大衆児童文学はこれを黙殺されてきた。
 また、児童文学における「近代」と「現代」は、一九六〇年を以て区切られるのが一般の通説となっているが、大衆児童文学への評価が同じ時期に始まっていることは、戦後の児童観、児童文学観の変貌が伺えて興味ある現象である。

 押川春浪

 県出身者で明治を代表する春浪は、明治三三年(一九〇〇)二四歳にして処女作『海底軍艦』でデビュー、以後『武侠の日本』『新造軍艦』『武侠艦隊』『新日本島』『東洋武侠団』と、武侠六部作を以って、当時の青少年に熱狂的に迎えられ、作家としての地歩をたちまち確立した。
 早稲田大学在学中の春浪が「文学」の道に入った大きいきっかけは巌谷小波との出会いにあった。彼を小波にひきあわせたのは桜井鴎村(『肉弾』の桜井忠温の兄)である。その時携えた『海底軍艦』が小波の推挙で直ちに出版され、春浪の文名を高めることとなった。
 「お伽のおじさん」と呼ばれた小波は、博文館によって「少年世界」の主筆として活躍するなど明治期児童文学界の中心人物であった。時代の流れと共に「明治教学精神」に基づき、社会教化の役割を果さんとの意識が「富国強兵」の国是にそうようになっていったのは当然であった。春浪もまた時代の子として響きあうところがあった。
 春浪の武侠六部作のうち、『海底軍艦』など三作は、日清戦争から日露戦争に至る間に書かれた。日清戦争の結果得られるはずの遼東半島を、いわゆる「三国干渉」によって失った日本は官民ともに「臥薪嘗胆」をスローガンとする時代であった。春浪はそこに登場した。
 この三作の中で、単純明快に、露・仏・独人は驕慢・怯懦・軽薄・無能・図々しさ等々の下劣な性質を付与されて登場する。そして、謎の失踪をとげた海軍軍人たちは、絶海の孤島でひそかに新兵器を建造し、武侠団体をつくって日本のために起つ日を期している。
 明治一九年、実際に、フランスに発注建造された新鋭艦「畝傍」が日本回航の途中、台湾沖近辺海域で突如行方不明になるというできごとがあった。春浪は、それを桜木海軍大佐らと志を同じくする「海光国」(アフリカ東岸にひそかに作られた日本の植民地)の「うねび艦隊」として作中に蘇らせ、少年読者の血を湧き立たせた。
 新兵器海底戦闘艇が「世の常の蒸気力でも電気力でもなく、現世紀には未だ知られざる一種の化学的作用」を動力とする潜水艦であることは、ジュール・ヴェルヌの『海底二万哩』の原子力潜水艦ノーチラスが下敷きになっていることにすぐ気づく。日本の科学軍事冒険小説の一原型を見ることができる。
 後に、昭和六、七年から一一年にかけて、「少年倶楽部」に、山中峯太郎『亜細亜の曙』、平田晋作『昭和遊撃隊』・『新戦艦高千穂』など軍事冒険小説が輩出する。これらの作品にも共通するのは、主人公の武士道的愛国者像であり、世界に冠たる日本人像であり、日本の困難な状況を打開するための新兵器の発明である。春浪を原点とするナショナリズム児童文学は、かくて、少年冒険小説として昭和に花開く。
 この系譜は、戦後かなりの期間を経て「アニメ」という新しいメディアによって、たとえば、松本零士の『宇宙戦艦ヤマト』に至るまで延々と連なっているのである。
 太平洋戦争末期、米軍に撃沈された日本最強の戦艦大和は、宇宙戦争に於ける地球の危機に際して、地球防衛軍の切り札として南方海底より蘇り、最新の武装と武士道的乗組員を配することにより、「現代っ子」の熱狂的歓迎を得た。地球防衛というインターナショナルな設定にもかかわらず、古代進をはじめ沖田艦長などの賛美すべき人間像は、春浪の武侠六部作の人物像とぴったり重なりあう。かつての「うねび艦隊」は、そのまま『宇宙戦艦ヤマト』となって甦る。
 春浪は、日出雄少年を登場させながら「英雄としての少年少女像」確立という点ではお粗末であった。小波と接触しながら、児童文学の論理を学ばなかった。春浪が雑誌「武侠の世界」に書いたものの中に、「早稲田では一寸文科に居たことがあるが、文学なんかは屁の如しと思って政治法律科に転じた。」とある。武侠六部作以後春浪は、おびただしい作品は書いたものの、彼の短かった後半生は、文学の徒というよりは、ファナチックな国士風なものとして終っている。

 立川文庫

 ちょうど春浪の没した頃、大正期の(特に勤労者)青少年に愛読された少年読物『立川文庫』が、今治市出身の一家族の手によって生まれている。明治四四年、大阪の立川文明堂から『立川文庫』の第一編が発行された。作者は雪花山人こと講釈師玉田玉秀斎といわれるが、大正一四年ころまで発行された二百余編のほとんどは、玉秀斎とその家族集団の制作になるものである。縦一三センチ横九センチの袖珍本で豆本とも呼ばれ定価は二五銭。猿飛佐助、三好清海入道ら真田十勇士をはじめ、後藤又兵衛、岩見重太郎らの豪傑も続々登場、たちまち青少年の大人気を博した。
 強きをくじき弱きを助ける英雄・豪傑・忍者の活躍は庶民的正義感を満足させ、あわせて、忠孝を柱とする武士道的道徳を賛美し、「一休禅師」などの笑いを誘い、あるいは屍山血河の日露戦争「血染の連隊旗」(橘中佐)を語るなど、素朴な国民感情に大いにアピールした。
 しかし、立川文庫は、当時の学校や知識人の家庭では俗悪な悪書として、多くの子どもたちは読むことを禁じられた。講談社の「少年倶楽部」が代表するその後の大衆児童文学と同様に、その荒唐無稽性・反動的教化性のゆえに、文学史家からも排除され、正当に論じられることがなかった。それにもかかわらず、日本の第一人者となった人々は、口を揃えて、大正期の『立川文庫』に熱中した少年時代を語り、昭和戦前の「少年倶楽部」を懐かしむ。清水幾太郎は、箱一ぱいの『立川文庫』を、小川の橋の上で友人に譲ってやった時、少年としての一つの節目を越えて精神的に成長を自覚したことを随筆で語り、『立川文庫』にひたった日を懐かしんでいる。

 池田蘭子

 昭和三五年、河出書房新社から『女紋』が発刊された。『立川文庫』のできたいきさつを実録ふうに書いた自伝小説で、作者池田蘭子は六二歳。今治の回船問屋日吉屋のひとり娘が夫と子供五人を残し、旅回りの講釈師と大阪に出奔する。蘭子の祖母と玉秀斎である。その後蘭子は七歳の時母と共に大阪へ呼び寄せられる。明治十年代ころから「速記本講談」が出版されており、蘭子の母の再婚相手も講談速記者であった。母は、再び離婚し速記者を失った玉秀斎の講談本は行き詰まろうとした。そこで当初より文章で書き下された「書き講談」を試みることとなる。
 長男の阿鉄は歯科医だったが文才も豊かで、玉秀斎から話のあらすじを聞いては、あとは自分で創作して講談本をつくった。やがて兄弟すべてが参加、一家が創作工房のようになる。高等小学校から女学校に転じた蘭子も「ふりがな」を担当した。
 ふりがなといっても簡単ではない。たとえば雲助が交わしている次の会話。
-兄貴、武士(ぶし)が来たぞ。
-兄弟(きょうだい)、抜かるな。
では落第である。「武士」は(さんぴん)、「兄弟」は(きょうでい)としなければ読み手は納得しない。
 やがて『立川文庫』の事実上の責任者となった蘭子は「武鑑」などを参考に新しいキャラクターを創造していった。それらは、後の少年時代小説の系譜として受け継がれ、今も、映画・テレビ・漫画の主人公として生きている。たとえば「猿飛佐助」など、まるで歴史上に実在人物であるかの如く、時代小説や映画などに登場してきたが、それは石鎚山のふもとにあった猿飛橋から名をとったともいわれる、全く空想の人物である。
 なお、『立川文庫』の表紙に押された模様の「揚げ羽蝶」は、今治日吉屋の「女紋」である。
 明治の押川春浪、大正の池田蘭子は、近代日本大衆児童文学の始祖ともいうべき大きい位置を占めている。
 昭和の戦後、児童文学にエポックを画し「現代児童文学」の確立に影響を与えた児童文学者が、愛媛県人から現われる。

 久保 喬

 松山商業在学中、窪田空穂主宰の短歌雑誌「国民文学」に入り、やがて同人となる。白秋の「近代風景」に詩を投稿、本欄に掲載されるなど詩形文学に才能を見せたが、東洋大学に入る前、川端康成の推薦で雑誌「今日の文学」に小説「白い時間」を発表。すでに少年の幻想を描いている。この頃、古谷綱武の紹介で太宰治との親交が始まり、太宰らと同人誌「青い花」に参加した。(久保喬 『太宰治の青春像』昭58・六興出版)
 昭和一五年、児童文学同人誌「少年文学」に参加したころから児童文学を志向し、昭和一八年、長編童話『光の国』(三省堂)を出版した。後の「ネロネロの子ら」(東都書房)の原型である。
 戦後、児童文学者として活発な活動が始まる。四〇歳にさしかかる遅い出発であった。しかも、つねに独自の立場を持ち、流派の枠組の中にあてはめこむことのできない作風、児童文学観をもっている。
 昭和四八年、六六歳にして『赤い帆の舟』(偕成社)が日本児童文学者協会賞となった時、受賞のことばとして、「文学をやる者はつねに新人でありたいし、最後まで土俵をおりることはできないのがこの世界である」と述べている。
 久保が生まれた宇和島の生家は時計宝石店である。幼少の頃から、周囲にある精密な機械・貴金属の美しさに囲まれ、いわば都会的な雰囲気に触れながら育った。また、すぐ背後が山で港も近い。南予の陽光の下、漁師の子らと共に碧い宇和海の中で育った。
 彼はエッセイの中で次のように述べている。
「自分の中には、いつも二人の子どもが生きている。一人は近代的な感覚や考えや夢を背負った都会っ子であり、もう一人は野性的、自然的な山の子である。私の中では、この二人がいつも融け合ったり、離れたり、衝突し合ったりしている。」
「昨日のメルヘンは夢を通して見た現実を描いたが、新しいメルヘンは現実を通過して、その現実を抽象化し、再構成する夢を描く。」
 古田足日は、久保の特徴を三つあげている。
「第一は素材の新しさです。車とか、ビルとか、現代文明の産物が久保さんの作品の構成材料になっています。第二は時間感覚です。人間の持つ長い時間、過去と未来から現在というものの意味が考えられます。第三は文明批判と、人間とはどういうものかということの追求です。」(『ビルの山ねこ』昭和四一年、盛光社、解説)
 多くの著書(資941)の中で、文学賞受賞作は、昭和四〇年『ビルの山ねこ』で小学館賞、昭和四八年 『赤い帆の舟』で日本児童文学者協会賞、昭和四九年 『火の海の貝』(国土社)でサンケイ出版文化賞推薦。
 また亀の子の形の石が原始時代まで子供達と生きつづける物語「少年の石」も代表作の一つである。

 古田足日

 彼は評論家として出発した。鳥越信らとの「少年文学宣言」以後、その歩いた道はほとんどそのまま日本の現代児童文学が追求する道であった。リアリズムの確立、状況の認識、「連帯」を、少年文学の手法で成しとげようとする。しかも、それが硬直した公式主義ではなかったことは、その創作を見れば明らかである。
 昭和三六年、『ぬすまれた町』(理論社)は、シュールレアリズムと映像的な方法をとり、人間の画一化により、町全体がうばわれてしまう人間解体の世界を描いて、日本の一つの状況を提示した。
 昭和三七年、『うずしお丸の少年たち』(講談社)は故郷川之江市の戦国時代を素材をとり入れている。
 大西備中守に滅ぼされた仏殿城主川上但馬守の遺児小太郎を中心に三人の少年が、村上水軍の「うずしお丸」に乗りこみネーデルラントの少年ハンスと出会う。この地球上に武士と異なった社会があることを知った小太郎は海外に旅立って行く。古田のいう「状況の認識」を具象化したもので、ここには一九六〇年代に入ったころの世界、あるいは日本の状況が反映している。
 昭和四一年、『宿題ひきうけ株式会社』(理論社)は児童文学の外にまで大きい反響をまき起し、社会的なアピールともなりえている。従来の「大人が与える」児童文学ではなく、まさに、現代っ子の視点からの大人へのプロテストである。同年の日本児童文学者協会賞を受賞、代表作の一つともなった。
 昭和四三年『モグラ原っぱのなかまたち』(あかね書房)、昭和四五年『ぽんこつロボット』(岩崎書店)、『ロボット・カミイ』(福音館書店)、『大きい一年生と小さな二年生』(偕成社)など、小学校低・中学年向きの作品が続き、彼のもう一面の資質を見せている。尖鋭な理論とは対照的に、ふくらみのある、きめ細かな、抒情性すら感じさせる文章は「子どもの目」によるユーモアがあふれ、作家としての完熟を感じさせる。
 昭和五八年、雑誌「日本児童文学」に連載中の「甲賀三郎・根の国の物語」は、彼の評論の中に用いた「原始心性」の内容を明らかにするものとしても注目すべき作品である。自らは消耗品を書く〝読物書き〟を以て任じているが、それは作品の質を低めていることではない。彼の創作のいくつかは、彼の評論とともに児童文学の古典となって残るであろう。
 久保喬、古田足日を持ったことで、愛媛は、現代児童文学に大きい発言をなしえたこととなった。

 文学の一形式としての童話

 児童文学としての童話ではない作品が存在する。中村草田男に、メルヘン集『風船の使者』(みすず書房)があり昭和五二年度芸術選奨文部大臣賞を受けている。山本健吉が「草田男の本質はメルヘンの世界だ、彼の俳句においても、その童心の持続は驚異に値する」と言い、彼の俳句が常にある可能性をはらんで若々しいのは「彼が根底においてメルヘンの世界を内に蔵しているからである」と述べているが、これは草田男の資質に触れた俳句論であって、草田男のメルヘン集に児童文学としてのそれを求めても見当違いとなる。小川未明の「今後を童話作家に」という宣言にも「……むしろおとなに読んでもらったほうが、かえって意の存するところが分かると思います。」という一節がある。草田男の場合は、ジャンルとしての童話の形をとりながらも、児童文学としての意識は薄かったのではないだろうか。
 二部に分かれた前半は、昭和七年から九年ころの作八編で、虚子らホトトギスの「山会」に出席するための小品、短編である。後半の第二部は昭和二一年『万緑』を創刊後の最初の童話「ドラの薔薇」以後、昭和二四年までの作六編。この間、『万緑』に、童話についての創作体験を四回にわたって掲載している。要するに草田男にとって「俳句も童話も等しく詩人の業」なのであった。
 素九鬼子 『旅の重さ』で文壇にデビューした純文学の作家であるが、昭和五一年雑誌「子どもの館」(福音館)に三回連載の創作『鬼の子ろろ』を書いている。若い時、茅の先で目を突いて片目となってから「見えないもの」が見えるようになったという拝み屋のばあさんが、その山の里芋畑に捨てられていたという「鬼の子」(実は里の有力者の、ゆえあっての子)を育てる設定で、昭和一二、三年ころの四国の山奥を舞台として、天狗や化かし狸や山伏、山火事などと、土俗的な道具立てで一つの世界を展開する。筆者自身は子どもを読者にとは考えていないだろう。
 大嶽洋子 昭和四九年「子どもの館」に短編「ぎょろむの海」、昭和五〇年中編「旅ぎつねの親方は」を同誌に発表。昭和五六年長編『黒森へ』(福音館)によって作家としての力倆を見せている。この作品は、神沢利子の『ヌーチェのぼうけん』などのような壮大な遍歴、泉鏡花の『高野聖』などのような魔性の者の跳梁を描きながら、小学校高学年から大人までを読者とするメルヘンの世界を創造している。なお、三部作の構想を持ち、トールキンをめざす大型の作となるかもしれない。素・大嶽とも西条市出身である。

 雑誌「ぷりずむ」の人々

 昭和四〇年、西条市からはたたかし・平井辰夫・岡村徹の三人の同人で創刊された「ぷりずむ」は、昭和五八年六月までに二五号を発行。その間に日本児童文学者協会会員大西伝一郎、阿部雅子、日本童話会会員井上潮や、すでに中央で単行本を出した蒲池恵美子らも参加、東中南予から県外にもわたる同人数三〇名を擁する世帯となった。地域誌として現代児童文学の普及と創造を目ざしての活動が続けられ、中央でも、まず評論家横谷輝が注目、「日本児童文学」誌などでもしばしばとりあげられ、四国の「ぷりずむ」として評価されるようになった。
 はたたかし 昭和四七年『月夜のはちどう山』『フじいさんのペンキ』を理論社より同時に発刊。昭和五七年、『くえびこさまと行った山』(小学館)にいたるまで、ポプラ社・小峰書店・国土社などから単行本一〇冊を出し、共著もほぼ一〇冊。雑誌、新聞などにも作品を発表するなど、郷里西条に定着して活動を続けている。昭和五四年『日本児童文学一〇〇選』(偕成社)にも彼の代表作『月夜のはちどう山』がとりあげられている。もちろん、すべてフィクションであるが、西条市に実在する「はちどう山」を舞台にした、たぬきなどの動物を主人公にした作品が多い。評論家は、はたが敗戦前の青少年期を松山、東京と他郷で過ごし、大正デモクラシーの名残りの時期の文化に触れ、苛烈な戦中を見つめてきた眼で、故郷に回帰したことが、複眼的に郷土を見つめる一風変わった作風を生んだと指摘している。
 蒲池恵美子 昭和四七年『どようびのともだち』(金の星社)を発表。マクラーさんと呼ばれるイギリス人の英語教師と、ルイコという幼い女の児との交友を描いた善意にあふれるスマートな作品である。のびやかな筆づかいで淡々と日常を描きながら、じんわりと胸に迫る感動を伝えている。どぎつい作品の横行する中で、めずらしく、ほんとうのさわやかなユーモアの滋味を感じさせてくれる。
 阿部雅子 昭和四九年 『おじいちゃんのひざ』(岩崎書店・共著)から昭和五八年『ひみつの墓地』(偕成社・共著)に至るまで、主として日本児童文学者協会の企画する短編集に一〇作近い作品を書き続け、自宅には子ども文庫を設けるなど読書運動にも活躍している。
 井上潮 口演童話のベテランであるが、後藤楢根の「日本童話会」の「童話」誌や「文芸広場」などに多数の短編を発表。主著は昭和三八年 『毛小僧一代』(日本童話会)ヒューマニスティックな発想と年季の入った描写力で着実な作風を示している。
 川上寿美子 昭和五六年 「ぷりずむ叢書1」として童話集『人形のうた』を刊行。詩的な作風である。「ぷりずむ」には、ほかに、「いじめられっ子」を書き続け鋭い感覚を示す岡村徹をはじめ、河野美保・佐伯美与子・下田美代子・高田澄・古川鶴・松江みどり・真鍋タヨ子らが各号に作品を発表、宇和川喬子は昭和五八年日本児童文学者協会会員となり今後が期待される。

 その他の作家群像

 サークルに加わっていない人では、渡辺淳。今治市の小学校長退職後、昭和五五年、童話集『レオンの花』を自費出版。在職中主として福田清人の指導を受け「文芸広場」に発表した短編が収められている。
 楢崎通元 大学在学中から夏季巡回などで童話・劇・スライド等を研究。瑞応寺の僧侶となってから、正しい生き方を示そうと、昭和五二年創作童話『眼は横鼻はまっすぐ』、昭和五七年『としよりをすてたくに』(瑞雲会銀杏編集室発行)を発行。いずれも仏典童話である。
 ほかに、正岡勇『あひるの学校』、佐川敬『びっくりタコエモン』など県内各地に地味な活動をしている作家も少なくない。
 大衆児童文学では、上条由起が少女小説を数多く発表している。昭和四八年『心に愛の鐘が鳴る』(偕成社)をはじめ昭和五〇年 『奇跡の詩』、五一年『美しく燃える炎を見た』(ともに集英社)さらに、昭和五八年までに集英社のコバルト文庫で一二冊など、華麗な活動を続けている。これらは土居町出身の純文学作家、劇作家として著名な高橋光子のペンネームによる作品である。彼女については小説・脚本の項で触れられよう。
 松山で戦後の昭和二〇年代、放送劇脚本を書いた伊賀允美は、それ以前在京中に藤木蹉千子のペンネームで「少女画報」などに多数の少女小説を書いている。
 公募に応じて多くの可能性ある人々も登場している。愛媛新聞社の「ママが作ったお話」、日刊新愛媛の童話特集欄、南海放送、県立図書館など、県内にも新しい作家のための場が多く提供され、児童文学は花盛りのようにも見える。しかし一般的には「童話」についての混乱した概念がそのまま存在し、大正期の童心主義童話観から一歩も出ず自己満足に終わっているものが少なくない。現代児童文学が「文学」であり、読者である子どもを、ほんとうに大切だと思うなら、現代を生きる子どもたちへのもっとアクチュアルな理解がほしい。安易で甘ったるいお子さまランチ的な作品や、いたずらに教訓をむき出しにしたような制作を排し、他の文学ジャンル以上の厳しい姿勢が必要なのではないだろうか。