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愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

五 台本(演劇・放送)・映画・紙芝居・スライド

 戯曲のうちの児童ものは、児童文学としての要素を持つが、その台本は本来上演されることによって意味が全うされる戯曲の範疇である。しかし、その対象が子どもであるがゆえにあえてとりあげる。

 演劇・放送劇

 敗戦の虚脱から立ち上がりかけた昭和二四年、松山の劇団「ブランコ劇場」が菅不二男らにより発足。童話作家武田雪夫を招いて昭和二五年メーテルリンクの『青い鳥』で旗上げ公演。武智成彬らが応援、ZK(NHK松山)局長で詩人の多田不二も協力した。それが解散後、武智成彬を主宰者として昭和二五年「劇団仔じか座」(畑野稔の「こじか座」とは別)が結成された。舞台公演をあまり持たず、ZK放送劇団のかたちとなった。児童劇の放送脚本執筆者として、武智のほか、吉田センタ、藤木幸子などがいる。
 昭和二八年民放局「ラジオ南海」が放送を開始。前記三名の作家が一週間交替で、自由に書くリレードラマ「僕と私の青い鳥」を放送。地元作家を起用しての、子ども向け定時番組が放送された。『南海放送十年誌』に、「連続ドラマ山本享作」などとあるが、同じ作者名が続くのを避け、三名がさまざまなペンネームを使いわけていた。草創期の放送劇のエピソードの一駒である。『子供の劇場』が始まったのもこの前後であるが、台本は前述の作家のほか、駒敏郎・町野幸恒・高橋光子・天野祐吉らが書いていた。資料は未収集である。(放送脚本791参照)
 昭和三三年、浅井博の呼びかけで劇団「愛童」が結成され、三四年、台本武智成彬・舞踊構成神野寛による『百花村物語』が県民館で上演された。中国民話に材をとったものであった。
 南予では昭和二一年、八幡浜の財津静雲と中岡一茂らが中心となって「つぼみ児童文化研究会」が組織され、その演劇部門は昭和三九年「つぼみ少年劇場」と改組。劇団東童・人形劇団プークなどの後援も得て、高い水準の演劇活動を行った。中岡一茂の『由良の岬』は、旱魃と不漁に苦しむ南予漁民の不屈の生活を描いたもの。石森延男『コタンの口笛』を脚色上演(昭40)、舞台監督の岡野一は若い教員、演技者は高校生が中心。戦後、文化国家建設を夢見た若い情熱の所産であった。
 はたたかしの童話『月夜のはちどう山』『はちどう山あなほり商会』(上演に際して「海をわたったコンスタンチーこと改題)は、昭和五二年と昭和五六年に、それぞれ大阪の「劇団2月」によって、全国おやこ子ども劇場などの巡回公演で上演。脚色・演出のさねとうあきらは、劇団「仲間」文芸演出部に始まり児童劇の戯曲を多く書いている。
 畑野稔 東雲高校の教師。県高校演劇の孤塁を守って活躍。鈴木三郎作『路地の秋』で四国高校演劇コンクール第二位(昭57)となる。また日本アマチュア演劇連盟の創作脚本賞受賞。畑野の率いる児童劇団「こじか座」は全国児童演劇協議会加盟の本格的な劇団。レパートリーには劇団文芸部共同創作の『てしこび物語』(昭34 てしこびは川之江地方の方言で、山芋)『原子力潜水船アフラシア号』(昭36・子どもたちの国際的連帯をテーマにしたもの)『河童とこども』(昭33) 『三左衛門狸』(昭56)など、民話風のものから南極航路を往く原子力潜水船などアクチュアルなものまで変化に富んでいる。

 映画

 戦争中の昭和一五年、高須賀公正は、南旺映画(東宝系)の台本公募に入選、梅田国民学校(現三津小)の子どもたちをモデルにした『三太のラッパ』が映画化された。少国民の士気を鼓舞する時局映画であるが、音楽教師であった作者の細やかなセンスは詩情をも添えている。
 鴨田好史 早大在学中から日活の神代辰己監督のもと映画制作に参加、児童映画には『アフリカの鳥』の助監督。国際児童年(昭54)、日本綜合映画社作品『精霊たちの祭り』のシナリオと演出を担当、監督としてひとり立ちした。「映画的野心を持った人間ならば児童映画を作ることが最終的な夢だ」と言う。商業主義・偏狭な教育主義への反テーゼとしての志向がこの作品にも見られる。
 「虫プロダクション」制作部長として数々のアニメの名作を手がけてきた坂本雄作は現在、松山市在住。

 紙芝居・スライド

 関東大震災後から昭和にかけて紙芝居は街頭芸能として庶民に圧倒的に迎えられた。はじめ敵視していた教育界は、やがてその中にある本源的な想像力・創造力・倫理性への刺激こそ、教育が本来持つべき〝啓発〟の使命と一致することに気づく人々が出てきた。街頭紙芝居をも含めて、よりよい紙芝居を、という運動へと発展していく。
 宮野英也 文学教育・読書運動で著名であるが、また「教育紙芝居研究会」の脚本公募にも入選。この分野でも活動、その裾野は広い。『江戸から東京へ』(昭32・教育紙芝居研究会刊 歴史紙芝居シリーズ第一二巻・絵松山ふみを) 『びりじゃないの』(昭35・童心社・絵 久保雄勇)などが代表作。
 猪上達勇 スライドによる視聴覚教育歴は長く、県内コンテスト・四国コンテストでは最優秀賞・優秀賞などを受賞。昭和五〇年代を代表するひとりである。郷土に題材をとり『山之内仰西』『上黒岩の縄文人』『ぼくのわたしの二名小学校』『山の子』などを制作、着実に業績を重ねている。

 むすび

 児童文学が文学としてようやく市民権を得てきたといわれるが、相変わらず「お子さまランチ」にすぎないとする軽視も少なからず存在する。しかし、明治以来の先人の労苦の跡をたどってみるとき、児童文学に於ける本県人の積み上げてきた業績には驚嘆敬慕させられ、ひそかな誇りさえ覚える。わたしたちは、先人たちの業績と足跡を明らかにし、みずから歩みを確かなものにしたいと思う。散逸消失する資料を収集し、その史的展開を詳かにしておかねばならぬ。しかし、個人が集め得る資料には限りがあり、なお多くの貴重な業績を漏らしているにちがいないことを残念に思う。古田足日の重要な評論が謄写印刷の同人誌に発表されたように、ひそかにどこかで資料は眠りつづけているかもしれぬ。華やかに中央に登場しないままに埋れた作品の中に珠玉があるにちがいない。