データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 戯曲

 戦 争  藤野 古白

 明治の二〇年代において文学者のいずれもが新しく脚本の制作に苦悩した。新しい戯曲の世界に没頭し、功成らずして自殺した青年に北村透谷と藤野古白(明治四 一八七一~明治二八 一八九五 久万生、松山出身)とがある。透谷が縊死して一年余、明治二八年四月一二日、同じく劇作に熱中していた古白藤野潔のピストル自殺が報ぜられた。「人柱築島由来」五幕一二場の史劇を「早稲田文学」に連載した(明28・1~3)が、それがほとんど黙殺された文学上の失意と失恋の苦悩が死にいたらしめたといわれる。古白、時に二四歳。古白が俳句から戯曲に転じたのは演劇改良即脚本改良の気運と、坪内逍遥の演劇革新運動によるもので、戯曲の掲載も逍遥の支援があったと考えられる。「人柱築島由来」は、構成・台詞ともに整った新戯曲で、「日本に於ける近代浪漫主義戯曲の最初の・完成作品」(勝本清一郎)であるとされる。それは同時に発表された逍遥の「桐一葉」の評判に圧倒された不幸な誕生であった。「人柱築島由来」は『古白遺稿』に収録され、「現代日本戯曲選集」や「現代日本文学全集」にも収載されている。「戦争」は、その草稿末尾に「二十八年二月二十一日五時間急稿」とあるごとく日清戦争のさなかでの試作であった。武勲戦功をたたえる時流のなかで、戦争の本質を直視しようとしたもので、戦功なき故に自刃する悲劇であった。古白みずからは文学の功なきことを悩み、「戦争」を書いた翌々月に自殺する。古白の死を暗示予告した戯曲ともいえる。その終章部分を掲げる。

 ……與四郎 残り惜しきはよき敵の首を得とらで死ぬことなれど、とはいへ敵も同じく父母に受たる人の身をあやめて今更何かはせん、嬉しきは両君の御情廿四年の業執も今こそ晴るれ、エヽ嬉しや 澤 げに大功をえたてずして死にゆく心いかばかり 喬班 アイヤその大功のはしともならん、此の首とって手柄にせられよ 喬班むっくと起上り泥付たる防寒の外套を脱棄つれば絹綾の美々しき好の拵へなり 仁義彝倫の名に立たる中華人、今此の壮漢が物語りするを聴くにほとほと我身を辱ぢたるは、方々音にも聞かれつらん山東の總督に喬班字は宏伯とは我事、先程の戦脇腹に鐡丸を呑たるは此壮漢が筒先より迸出しと覚えたり、中國の人不義の郎党を養ひたりと言はんは恥、此處にある謂はれは申すまじ、イヤこれ壮漢身共が首をはねられよ 小富 こりゃ芳谷、父に酬いん其許の功名、流石健気な敵将の言葉、首討て、是ぞ好き土産、痛はしや其重傷にては、イヤ然らば小生其許に代て打落せば是其許が獲るも同前 小富剣を抜く 與四郎 いやいや成ませぬ其辱を與へては、此の懐剣の主其の喬班が先程此處にて既に自殺と見えたる所を駈寄てもぎ取たるが是 小富 然らば小生が此の剣を以て此喬班の胸を刺れよ、かくすれば両人刺違へたると一般 澤 敵ながらも喬班死して誉あり 小富が剣を渡さんとするを手をふり 與四郎 如何に喬班能ッく聴け、汝が國の兵士禽獣に似たれども是教なきに因てなり、我教ある國に生れ教を受て人とはなりぬ、今死期に蒞み我受たる教を伝へて汝に教ふべし、 そも教ある国の人仁義五常の辨有て、酷忍無道の敵兵なりとて捕はれたる者を辱めず些程も犯す所なし、汝親ありや父ありや妻ありや子ありや暫く忍べ、縲絏の中に有とも犯せる罪にあらざればやがて氷も凘けん春にも逢はんぞ、我は消行く雪の原、解けては元来の見ず識らず、罪業の汚れはなきものを、今は方々さらばさらば 喬班 あら情あり 三人 妙じき武夫 与四郎落入る、此見得引張の模様よろしく遠音の軍楽にて幕   (筑摩書房「明治文学全集」86所収)

 出世作兵衛  岡田 禎子

 本名禎子(明35~ 松山市在住)。岡本綺堂主宰「舞台」同人、「女人芸術」に参加、「文学座」脚本部。戯曲「悪魔」(「改造」昭4・1)・「終列車」(「女人芸術」昭4・4)・「愛痴」(「思想」昭5・4)・戯曲集『正子とその職業』(昭5・6 改造社・愛痴、春日遅々、出世作兵衛、正子とその職業、悪魔 などを所収)・戯曲「生計の道」(「改造」昭5・5)・「着物」(「新潮」昭7・3)・「女給時代」(「舞台」昭7・4)・〔築地座により「田植」上演 昭7〕・〔築地座結成一周年記念、「正子とその職業」が飛行館で上演 演出伊藤基彦 配役田村秋子・杉村春子・毛利菊枝など昭8・2〕・〔創作座第一回公演、「数」が飛行館で上演 演出岡田禎子昭9・9〕・〈「文学座」(幹事岸田国士・久保田万太郎)脚本部に真船豊らと参加〉〔文学座により「クラス会」が飛行館で上演 演出久保田万太郎 配役東山千栄子・毛利菊枝・杉村春子など昭13・6〕・戯曲「暖かい冬」(「舞台」昭15・1)・戯曲集『祖国』(昭17・4拓南社・クラス会 猫ヒスマダム 生きた靖国神社 勇士愛 暖かい愛戦 地のたより 祖国 梅雨零れて更生の温泉などを所収)。『白い花』(昭17・11 全国書房・白い花、留守居、祝いの日、暖かい冬、ひそやかな感謝祭、田植、春ひらく、などを所収)。戦争苛烈、疎開帰郷(昭19・3)、以後松山市に定住。 共著『農村脚本集(一)』に戯曲「牛の仔」(昭21・9 農村文化協会長野支部)。「私は『正子とその職業』だけで、日本のどんな女流作家とでも拮抗すべき秀れた女流として推薦するのに躊躇しない」と菊池寛に推奨され(「サンデー毎日 秋季特別号」昭5・9・10)、「『数』には一種のテーマがある。即ち多数の力を侍んで、真実を押しつつんでしまふことを書いている。作者の狙い所は、相当面白く出てゐるやうだ」と舟橋聖一に評された(『新潮』「文芸時評」昭9・7)岡田禎子の戯曲に関心を持たねばならない。その作品の片貌が『岡田禎子作品集』(松山南高校同窓会代表大西貢・昭58・1・10)として刊行されたことは意義深い。なお、作品集に収録できなかったものは県立図書館に寄贈されていることが付記されている。とくに義農作兵衛を素材とした「出世作兵衛」は昭和初期の郷土先賢偉哲顕彰の時代相のなかでの戯曲家岡田の独自の視点が据えられていることに注目したい。
 その、とき・ところ・登場人物、第一幕の設定はつぎのとおりである。

 伊予松山藩、筒井村及松山城下』享保十七年夏から、翌早春にかけて』筒井村の百姓 作兵衛四十五歳 平太十五歳 その息子 三郎右衛門三十歳位 作兵衛の従弟 銀右衛門五十歳位 隣人 かね三十歳位 庄屋八兵衛 松山藩の家臣 奥平源左衛門五十歳位 家老 越智秀之進四十歳前後 郡奉行 伊藤伴之丞・岡野義平三十五六歳 巡察使 その他筒井村の村役・村民達多数・大法会参列の侍・僧侶等。』 第一幕 筒井村百姓作兵衛の住居。 花道から舞台の左端を奥に抜いて村の往来。一寸入って右手に住居あり、住居の更に右手は裏庭に当り小川が使い水に引き込まれて流れている。 住居の内部-右半は土間で、土間の右手は壁、真中に半間の出入口開き、裏庭に通ずる。出入口より奥の壁に二段許り棚が懸り、その下に塗りごめのへつっひ、鍋釜の類、一山の粗朶。棚には食器類が並んでゐる。土間の正面も又壁で、真中の柱に一着の蓑笠を掛け、その下あたりに折畳んだ筵の堆積。石の搗き臼、鋤鍬の農具類が、寧ろ土間一面に放り出されてゐる。左半は揚床の板間に筵が敷いてある。仕切りの障子で、奥と二部屋に分けられてゐる。 裏庭、小川の岸には葉の無い柿の木が一本立ち、その根頃に、川中へ石段を畳んだ野天の流し場が有る。小川を越えて、遥かに続く真白い野の様が見渡される。青い物、活きた感じのするものは眼の限りには無い。家の内外とも荒涼とした、惨ましい程の光景である。 照りの続く午近く。

 道後湯の華  大野 釣月

 扉に「西郷南洲翁秘話 戯曲 道後湯の華 一幕三場」とある。著者は松山市湊町四丁目三一ノニ大野悌、発行者は松山市東一万町八一番地越智虎吉。序文井上要。昭和一一年三月一九日発行。「あらすじ」…(第一場)明治の元勲井上馨が明治一六年一二月二三日、病気静養のため道後温泉に来遊した。酔余、義太夫弾きを所望し、いろは楼の寿吉(二六歳ぐらいの美人)が呼ばれる。井上はその三味線箱に書かれた「鄭聲亂雅 君休喚 蕩盡五洲 英傑心 代道後玉亭之妓島吉 南海隠士」を読み、箱を床の間に置き端座し平伏する。寿吉が三味線をいろは楼女将から借りて来ていることを知り女将を呼ぶ。 (第二場)第一場より約八年前の明治八年新緑の頃、西郷隆盛(五〇歳)、桐野利秋(三八歳)、別府晋介(三七歳)、芸妓島吉(後の いろは楼女将 二四、五歳)。丸く肥えた飛白の着物を着た馬喰のような人物、埃にまみれたシャツを着た壮士風の男二人が鮒屋に泊り、壮士風の男達は林有造・板垣退助を「けしからぬやつ」と罵るが、馬喰のような人物は「そう愚痴を言うな」となだめる。酔った西郷が三味線箱に墨痕淋漓と書き、桐野・別府は襖に大書する。汚し料として西郷は過分の金を包んだ。 (第三場)再び第一場に続く。井上はこの三人が西南の役を前にして土佐に諒解を求めに行き不調に終ったその旅の途次のことであること知り、鮒屋の女将のために「山根蟠屈繞孤樓 枝上幽禽皙私喉 水冷金魚浮沈重 半枯梅影蘸沖流 題魚府樓 世外無郷居士」の書を与え、いろは楼女将タネ(もと島吉)に保存料として金包を渡す。

 夕 凪  矢野  喬

 矢野喬(昭6~ 長浜町生 明治大学卒・税務署員 東京都)。綜合演劇雑誌「テアトロ」(№171 昭32・12)に「夕凪一幕-昭和二十年七月ー」を発表。舞台は終戦直前の瀬戸内海沿いの漁村。そこに疎開してきた皇族に鯛を献上させるために軍と地方ボスが、白痴の青年を艦載機の攻撃にさらされた海に死の漁にかりたてる。老母のお兼は二児を戦争で奪われ、最後に残った白痴の青年を何とかかばい抜こうとする。この母親の苦しみを、方言を駆使しながら素直に一幕構成で描いている。その舞台設定はつぎのとおりである。

 時…昭和二十年夏 場所…瀬戸内海の或る漁村 人物…お兼婆さん(67歳) 五郎(24歳その末子・白痴) トメ(38歳 隣家の女房) 町長 在郷軍人分会長消防団員1(28歳やせ型の青年)消防団員2(35歳中年の男) 憲兵 その他中学生・子供達  お兼婆さんの家の内部ー土間と居間の二手に分れていて、土間にはへっついや水瓶、男手を失った漁具等が積んである。居間には不相応に大きい仏壇、皇太神宮の額等。ほとんどバラックに近い荒ら屋で、黒ずんだ所々の板の隙間から強烈な夏の光が射し込んでいる。開いた戸口の向うに拡がっている海が、それだけが眼にしみるように青い。幕があがると舞台には誰も居ない。静まった空気に、どことなく荒廃と飢餓の気配がある。遠く蜂のうなり声のようなものが聞えている。(沖合を旋回しているアメリカ艦載機の編隊)何処かでラジオがわめいている。鈍い爆発音一発、二発。再び遠いうなり声。突然、裏山の、監視哨からの切迫した叫び声が切れぎれに聞える。「おうィ、おうィ、そこにいるのは誰だァ。おうィ、逃げろゥ」その声が終らぬうちに、うなり声は空気を引き裂く金属音に急変し、機銃掃射の音が雷のように頭上をこだまして遠ざかる。間 消防団員1・2.五郎を引っ立てて登場。後に続いて子供達。

※村田修子(本名篠原雪枝 佐賀県出身 明41~昭51、篠原梵の夫人)昭和19~23年、梵の疏開帰省にともない松山在住、この間NHK松山の放送脚本を執筆。戦前、処女戯曲「のし餅」の上演等によって劇作の道に入り、戦後は東宝現代劇・前進座の上演台本の脚色をする。創作劇に 生れた家・埋火・天使の部屋・三メートル平方・はじめはみんな子どもだった・夏のすみれ・昼の月・おばあちゃんの木蔭・土筆などがある。
戯曲習作として奥田盛善の「決心」(「奥田盛善詩集」所収)、岩崎英二の「珍版父帰る」(「追悼岩崎英二」劇作2時会通信106号)などのほか長岡道夫(西海町)の未発表草稿がある。