データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

二 随筆

 随 筆

 筆にまかせて何くれとなく書き記す。又、記したもの。そぞろがき。漫録・漫筆。…と、諸橋『大漢和辞典』にある。洪邁の『容齋随筆』の序に、「予習懶、読書多不、意之之所、随即記録、其後先因、復詮次無、故之目随筆曰。」とあるを引いている。要するに、心の赴くままに、順序不同・系統もなく記録したものだから「随筆」という…ということであろうか。形式にとらわれることなく、筆のむくまま、気のむくままに、見聞や体験、あるいは意見や感想を書きしるしたものである。筆にまかせての、つれづれのうちに、著者の思想・信条や感受性がにじみでて、その感覚や考え方がそこはかとなく写し出される。著者の個性や人間性がもっとも端的に表わされるものである。豊かな人生経験を踏んだ著者のものした「随筆」には雅味溢れるものがあるのは当然であるが、未熟者のそれにはそれなりの気負いや偏見、独創に満ちていて興味深いものがある。読者は「随筆」によって著者たる先達識者を尊敬追慕し、あるいは同感しあるいは反駁する。
 「随筆」は、筆の赴くままに記したもので断片的な表現形態を採るが、内容的にみると、文学的随筆と学問的随筆に、仮に分類してみることもできよう。俳文や正岡子規の『病牀六尺』『仰臥漫録』は、まさに「文字的随筆」と呼ぶにふさわしい。創作意識が稀薄で、著者の経験や感想がなまのままで、事に邂い、物に触れ、人に接して発露される。そこに、われわれは著者の飾らざる人間性を見ることができる。歌論・俳論・能楽論の多くは学問的随筆の形態につらなるものであり、文学評論もまたこの系統に属するものが多くみられる。しかしながらこの両系には截然たる区別はない。政治家・経済人・芸術家などの随筆は述上の両系の外にあって、処世訓や卓見・芸術観にすぐれ、ある場合には秘録・噂の真相などをうかがい知る興味もある。さらに近時は生涯教育が提唱実践されることによって高年齢者の回顧追想、ふるさと意識による地域社会の掘りおこしが「随想」の形態をとって記述される。加うるに新聞の投書特定欄はそれぞれに愛称をもって読者の投稿を促し、女性の筆者をも歓迎し、ひいては親睦サークルを結成し、随筆集ともいうべき「文集」を発刊するに至っている。

 維新を生きる

 江戸期の末ごろに生まれ、明治のはじめころに没した人物たちの随筆がある。その活躍が維新前にあった人物については第四章第六節 随筆 に述べられている。城戸正竦(文化1~明治1 大洲随筆)、樵禅(寛政10~明治8 九江夜話)、三上是庵(文政9~明治9 雪遊雑話・恥かし草)、清家牧太(文化11~明治10)、武田斐三郎(文政10~明治13 洋貨考・黒龍江記事)、堀内匡平(文政7~明治16 良夜不見月之記)、宇都宮龍山(享和3~明治19 開港夜話問答)、武田熟軒(文政9~明治19 静余小録・異聞雑雑・駅窓雑録)、藤野海南(文政9~明治21 海南遺稿)、池内政忠(文政9~明治24 備忘録・座右録)服部嘉陳(天保5~明治24 よみぢのいへづと)、丹下逸翁(文政7~明治29 長夜のつれづれ・陸奥土産)、河東静渓(天保1~明治27 静渓随筆集・静渓雑記) 竹内信英(文化14~明治23 茶園閑話)などがそれである。

 明治の気骨

 幕末維新の動乱変革を生き明治の時代に活躍した俊豪、あるいは明治のはじめに生をうけ明治の気骨を身につけて大正・昭和の時代まで活躍した英傑のうち、主として政界・財界に身を処した人物の人間像を描出する随筆をいくつか挙げる。広瀬宰平(文政11~大正3 別子銅山総支配人 半世物語・偸間楽事・錬石余響)、長屋不二翁(天保14~大正9 衆議院議員 雑感録)、加藤拓川(安政6~大正12 松山市長 拓川集全六冊随筆篇上下)、鎌田隆一(弘化3~大正13 県会議員 O居余韻・硯塵集・磯野寓居集)、清家吉次郎(慶応2~昭和9衆議院議員 欧米独断)、村井保固(安政5~昭和11 日本陶器 太平洋月夜の記)井上要(慶応1~昭和18 伊予鉄道社長 伊予鉄電思い出ばなし・北予中学松山高商楽屋ばなし)、山下亀三郎(慶応3~昭和19 山下汽船社長 沈みつ浮きつ)、勝田宰洲(明2~昭23 大蔵・文部大臣 遇戦閑話・黒雲白雨・ところてん)、村上龍太郎(明25~昭39 国土緑化推進委員長 草かご)、武知勇記(明27~昭39 郵政大臣 日本の伊予人)布利秋(明20~昭44 衆議院議員 梅花一輪)、井谷正吉(明29~昭51 衆議院議員 ちんがらまんがら)、田坂輝敬(明41~昭52 新日本製鉄社長 田坂輝敬回想録)、法華津孝太(明36~ 極洋捕鯨社長 五十年の屑かご)、佐伯勇(明36~ 近鉄社長 運をつかむ)。なお、勝田宰洲の四男勝田龍夫(明45~ 日本債券信用銀行会長)に「みだれ箱」、同・続がある。高畠亀太郎(明16~昭47 宇和島市長・衆議院議員)は「渋柿」の俳人で、号は明皎々。高潔清廉の人であった。随筆的自叙伝に「七十七年の回顧」(昭35・11・23発行)がある。明治中期から昭和にいたる変貌いちじるしい宇和島の町のたたずまいや四季折々の行事が綴られている。期せずして人生観を語る数行を見出すことができる。随筆たるゆえんである。

 …放胆剛腹の形を学べば不慮失脚の危険を伴い、奇智謀略の行き方を追えば軽薄不信の誹りを招くの惧れがある。権道を行けば飛躍の興味とスリルは多分だが正道を歩むには地味と生真面目の範囲を出ない。仮令虎を描いて猫に類するとも学んで根本的の破綻を来さざるを本位として後進子弟に臨むことの出来る方法は自分の実践躬行した道ただ一つあるのみと堅き信念を披瀝し得るのがせめてもの自分の光栄であり老後の幸福である。…(「七十七年の回顧」)

 創作余情(文学者)

 小説・戯曲の創作挿話は随筆の形態をとって作家の発想・作品の構成などの本質的要件を明らかにする。ことに短詩型文学においてはその成立事情を物語る。さらに、正岡子規におけるがごとく随筆そのものが作者のかけがえのない文学領域を占める。
 大和田建樹(安政41明治44 宇和島出身)。建樹には紀行・日記が多い。涙の玉串(明11)は母の喪に服しての記と短歌が収められており随筆的色彩が濃い。相模紀行・木曽路紀行(明20)、一夜の旅(明24)、花見の旅・片瀬の波・滝めぐり・ぬけまゐり(明25)、富士川舟(明26)、望月日記・利根川舟(明27)、千里の春・戸隠詣・松風日記・秩父の雨(明28)、冬の信濃・かすめる富士・かすかべの藤・秋の信濃(明29)、かなしみの京都・麦わら笠(明30)、うからぬ旅・筑波詣・葉山の夏・南信濃路(明31)、千鳥日記・三社めぐり・遅桜日記・浦風山風(明32)、北ゆくかり・佐渡めぐり・名所の秋(明33)、つくも髪・初花日記・一夜のたび・初茸狩(明34)、節分詣・木曽路の旅・鄙の長路・夏ごもり・まにまに草(明35)、雪の日・物見車・花がつみ・乱舞漫録・歌まくら・虫の音・松の香(明36)、春梅日記・一夜どまり(明37)、思ひ出草(明38)、江戸川舟・雪の初橇・杉田の梅・江袋日記(明39)、花三十里・大沼小沼・土車・秋二百里(明40)、桃色切符・紀の路春・忍音の記・やどり蟹・旅ゆかた(明41)、北山里・波枕・夢の水海・其日其日(明42)、岩つばめ・秋の和泉・歌だより・初病院(明43)など、数多くの日記・紀行は雅文体で綴られ、時に応じ地に即した随想が随所に見うけられる。ふるさと日記(明30)・宇和島日記(明34)には故郷宇和島での、夏白波(明42)には松山での、日々の想いがある。また、蘆船日記・繭ごもり(明43)には故郷への追想がある。

 正岡子規(慶応3~明治35 松山出身)。
 病牀六尺、これが我世界である。しかも此六尺の病牀が余には廣過ぎるのである。僅に手を延ばして畳に觸れる事はあるが、布團の外へ迄足を延ばして體をくつろぐ事も出来ない。甚だしい時は極端の苦痛に苦しめられて五分も一寸も體の動けない事がある。苦痛、煩悶、號泣、麻痺剤、僅に一條の活路を死路の内に求めて少しの安楽を貧る果敢なさ、其でも生きて居ればいひたい事はいひたいもので、毎日見るものは新聞雑誌に限って居れど、其さへ読めないで苦しんで居る時も多いが、読めば腹の立つ事、癪にさはる事、たまには何となく嬉しくて爲に病苦を忘るゝ様な事が無いでもない。

 「病牀六尺」の冒頭である。子規の随筆といえば「松薙玉液」(明29・4・21~12・31)、「墨汁一滴」(明34・1・16~7・2)、「病牀六尺」(明35・5・5~9・17)、「仰臥漫録」が著名である。前の三編は新聞「日本」に( )内の期間に掲載されたものであるが、「仰臥漫録」は病床の手記で家人や親しい門弟たちにもほとんど見せようとしなかった。大江健三郎が〝子規の根源的主題系〟として前三編を挙げ「仰臥漫録」を挙げぬことは講談社『子規全集』第十一巻随筆一の「解説」601以下にくわしい。その執筆時期は明治三四年九月二日に始まり、日付の明らかな限りでいえば、病没の約半月前の三五年九月三日に及んでいる。子規の〝随筆〟は、全集の第十巻初期随筆(筆まかせ)、第十一巻随筆一(松薙玉液 墨汁一滴 病牀六尺 仰臥漫録)、第十二巻随筆二(前二巻収録以外の、残りのすべての随筆を発表年月順に収める)が充てられている。
 子規にとって、その初期随筆「筆まかせ」は、〈此随筆なる者は余の備忘録といはんか、出鱈目の書きはなしといはんか、心に一寸感じたることを其まゝに書きつけておくものなれば、杜撰の多きはいふ迄もなし、殊にこれは此頃始めし故書く事を續々と思ひ出して困る故、汽車も避けよといふ走り書きで文章も文法も何もかまはず…(略)…我思ふ儘を裸にて白粉もつけず、紅もつけず、衣裳もつけず舞臺へ出したるものなれば、其拙劣なる處、不揃ひなる處が日本の文章を改良すべきに付きて参考となることなしとせんや〉というものであった。俳句・俳論俳話・短歌・歌論・漢詩・新体詩・小説・紀行・評論・日記・俳諧研究・書簡など、広範にわたる正岡子規の文学活動において、子規随筆はいかなる位置を占めるのか、そしてそれは読者に何を与えるのか。大江健三郎は〝子規は、僕にとってそれこそ根源的主題系の一つだった〟とし、さらに次のように述べる。

 …子規は、日記風の小文をつみかさねながら、『松蘿玉液』『墨汁一滴』『病牀六尺』において、まことに全面的に他者の眼をひきうけている。子規はすべての他者の前に立つ。かれはすべての他者に、かれ自身の綜合的な全体像をあきらかに示す。他者を綜合的、全体的にとらえうる者のみが、かれ自身を綜合的、全体的に他者へ呈示できるのだ。子規は他者をそのように把握する能力を持っていた。この他者とは、日本人の精神史全体をもおおうものだと考えていただきたい。しかも子規は、かれ自身を綜合的、全体的に呈示するにあたって、独自な態度を示す。かれは自分の綜合像、全体像を苦労してきざみだすようなことをしない。そこにおいてかれは現代の全体小説の書き手にいたる、すべての客観小説の書き手とことなっている。だからといって、子規はいかなる私小説の書き手ともことなっている。私小説の作家は、子規のように全体的、綜合的であったことはなかった。ごくまれにそれに近かったのみだ。子規はまたいかなる私小説の作家よりも勇敢にかれの全体を見せている。細部にわたって克明に。その細部の選びかたにおいて、子規はおそるべくデモクラティックだ。…(略)…子規が死生のまぎわに苦しみつつ横たわって、しかもかれの世界に対する態度がデモクラティックだというのは、子規の言葉にもどせば、かれがあきらめる以上の事をやっているということにほかならない。そしてあきらめる以上の事をやるというのは、自分の主体がかれ自身の精神と肉体をもふくめて、あらゆることどもを相対化する、ということであろう。すなわち、かれは世界のありとあることどもについてデモクラティックになる。そのような人間の眼に世界はその全体的、綜合的なかたちをあらわす。かれ自身も世界に対して、あらゆる他者たちに対して、その全体的、綜合的な姿をいかにも自然にあらわすことができる。

 吟詠余情

 短詩型文学、ことに短歌・俳句は四季の往来の断面を切りとって万象を把握し、あるいはそれに感懐を託して諷詠する。川柳はことさらに人間の喜怒哀楽の浄化をもとめて世情人態を鋭く切り、詩は韻文であれ散文であれ志操を述べておのれに帰ろうとする。これらのうた人たちは牢固たる表現形態を持つが、ある時、ふと息を抜いて散文叙事を楽しみ、余業としての随筆が生まれる。

 短歌の人たち

 後藤守衛(安政7~昭和7 伊予市 酒仙随筆)、菊池正行(明22~昭48 長浜町 出海の二十士)、宮内守三(明25~ 松山市 管中窺豹)、大野静(明25~ 松山市 にぎたづ主宰 古径遍歴 短歌随想)、古茂田君子(明37~ 松山市 にぎたづ 追憶)、砂田清哉(明38~ 今治市 星雲 老境の拾い物・蕗の家日記)、見谷将志(大6~ 宇和島市 泉脈主宰) 真鍋充親(大3~ 新居浜市 心の花同人・千亦講主宰 村の地蔵さん)。佐伯秀雄(明33~ 松山市 若鮎主宰・蒼穹同人)に「流草集」がある。忘れ得ぬ人々・さまざまの時・流草集・二月のことば・学園紙の場合・作詞餘詩を収録する。「あとがき」に…昭和六、七年頃に、郷里で書籍店を開いていた久保健君が、「愛媛歌人」つづいて、「愛媛短歌」という冊子を出していた。今も、私は手元に相当冊数持っている。その何号かに私は「流草集」という見出しで、短文を寄稿したが、久保君は「流草集とは好い名称ですな。」といってくれた。私は当時、八幡浜高女に勤め、「流草堂用箋」なる便箋を作らせていた具合である。さて、その名の由来はとなると、至極単純だったように思う。「差当り心うごきのあれこれを草し流そうという訳」と前書きなどしているのを見ると、その辺が着想の元だったのである。また水面に浮いて草の葉などが流れる、自然の姿から、そのおのずからなるおもむき、という程の心でもあったにちがいない。…とある。

 俳句の人たち

 高浜虚子・松根東洋城・石田波郷にはそれぞれに全集があって文集随筆に接することができる。なかでも波郷の文集「俳句愛惜」・「清瀬村」・「俳句哀歓」は波郷俳句の軌跡を示す。中村草田男の急逝(昭58)は惜しまれるがやがて全集が編まれその随筆に接することができるであろう。虚子の長男高浜年尾(明33~昭54)に「父・虚子とともに」、次女星野立子(明36~昭59)に「玉藻俳話」・「俳小屋」・「一日一話」・「大和の石仏」、姪今井つる女に「生い立ち」がある。松高で松高俳句会を結成した俳人教授林原未生(明20~昭50 福井県)に「芭蕉を超ゆるもの」・「漱石山房の人々」などがある。松山市出身俳人教授では、永野孫柳(明43~東北大学名誉教授・野間叟柳の孫)に科学随筆が多く、一色蕗村(大5~ 神戸外大教授)には「スペインの周辺」・「スペインの小話」がある。愚陀仏庵の家主上野義方の孫娘久保より江(明17~昭16 嫁ぬすみ)、尾崎足(明28~昭56 御荘町出身・我孫子市 さへづり・さち主宰 凡九郎)、立花豊子(明37~ 松山市出身・所沢市 万蕾創立同人 四季随筆)も忘れられない。
 県内在住俳人随筆に、酒井黙禅(明16~昭47 柿・峠創刊、ホトトギス選者 道後温泉話題・松山城と道後温泉)、五十崎古郷(明29~昭10 松山市 渦潮主宰 探梅志録・葉上黙語)、富田狸通(明34~昭52 松山市 たぬきざんまい・狸のれん)、得能路刀(明34~昭58 松山市 椿句会主宰 芝不器男の想出・富沢赤黄男の想出・山草抄)、阿部里雪(明26~昭48 伯方町 島創刊 お夏よ清十郎よ・子規門下の人々・伯方八景案内)、能仁一之(明37~昭20 城川町 能仁一之遺文集)、久保水々(明30~ 伊予市 峠 落葉籠)、門田一貴(明42~昭43 伊予市 若葉・糸瓜 思いつき随想・狸人生・狸伝説)、大山澄太(明32~ 岡山県出身松山市 層雲誌友禅のすがた静思録山頭火の宿人間好時節)石崎冬介(大5~ 宇和島市 渋柿三季録)、空月庵三雨(北林成道 大6~ 三瓶町 一如会選者 子供歳時記・狸小屋)、菊池鶏栖子(大8~ 保内町 馬酔木 暁光余話)菱田正基(明20~昭27 花桔梗)がある。

   愛狸ハチのこと  富田狸通
 ハチは、昭和二十年十二月十八日、砥部の友人坪内兄の仲介にて、同町の山奥椋の窪部落で狸わなにかかったものを送り付けられたもの、生後五ヶ月の仔狸だった。以来追々馴れて来て、猫や犬のように可愛がられて、近所の子供達のいい玩具だった。ところが、昭和二十三年の春ごろから急に食欲が減じ、卵とか牛乳・牛肉等々とぜいたくに飼い立て、成松獣医の診療を受けたり(病名腹水)していたが、弱る一方で、急に子供等は気にしはじめた。ちょうどそのころ、キーという男猫を飼って、それと遊ばせると仲よしであった。ところが、今年(昭和二十三年)の十月十五日、豆明月の宵、急に容態がかわり、遂に往生してしまった。丸々三年を大勢の人たちに可愛がられて逝ったハチは幸せであった。亡くなった朝は、鶏卵とリンゴとドジョウを食べてなかなかの元気を見せてくれたのに。子供たちは、横になった狸を抱いて「医者へ連れて行くか」「注射はなかろうか」「何とかしてよ」と騒いだが、仕方もなく泣いていた。ハチは小生には至極温順で、よく言うことを聞きわけ、また頗る内気な性質であった。人なつこい愛矯顔は思い出してもたまらなく淋しい。翌十月十六日、市隠軒の関谷吹笛所が導師となり、家内で盛大に葬儀を執行した。子供等はなかなか入棺しようとしない。入棺には、小さな箱を作り、いつもハチが寝る時のかっこうそのままに足を枕にして静かに納めてやった。棺の中には、常に好んでいた柿・油揚・小豆・栗・餅等を入れてやり、六文銭の代わりには木ノ葉を六枚と狸まつりに使用する般若心経と、小石に法名を書いたものを納めて行かせた。法名 八豊雲陀申女(ハチと呼んだ狸の意)。葬儀は、裏庭に祭壇を設け、芒と野菊を生けて、柿・蜜柑・油揚・菓子等を供え、テン茶・テン湯・射水・飯を配し、関家導師は、読経、入棺式、引導と人間と同じ型の如く執行し、家族は順次焼香し、万事滞りなくすませた。翌十七日は、家族相談の上、屍は祝谷松山神社の麓へ埋葬し、裏の一角へ遺髪塔を作って狸霊を祀ることにした。死亡通知先、別記の通り三十四軒。  八の葬送句 死柿落葉狸寝入ってしまいけり 入棺 柿と栗持って申女は逝きにけり 埋葬 秋風の中掘り返し狸埋む  かくて、ハチは天涯、芝の野に帰って行った。悼 芒野の土へ還れよ八申女   「狸のれん」-俳画と句文昭53(松山子規会) 所収

 川柳の人たち

 窪田而笑子・二宮蛙念・安井翠坊・村上雁来紅・前田伍健・村上源氏・安波半我・三浦秋無草・茅田五風・魚成華村などに川柳文芸にかかわる随筆・随想がある。合田伍郎(大4~ 伊予三島市 紙川柳会編集長・窓主宰)に「詩人の国」・「病床散歩」・「人間の勲章」・「芭蕉と寿貞」・「川柳どんぐり学校」があり、川柳・創作・画集のほか随筆を収録する。ことに、病床散歩には随筆(マリの日記・駒鳥・破れた日記・散歩・扇子のひと言・白い花咲く・娑婆の風・孤独と退屈)を収めている。見開き右頁に随筆、左頁に一句が載っているところもある。例えば右頁の随筆後半3分の1…正月は祭と違って全国津々浦々同じ日だから日本中が静かになる。その中でことこと妻の厨の音が聞えてくると、それは何とも清らかで、日本列島の眠りを揺りおこす様な、これから世界が動き出すんだ、そういう感じがしてくる。正月の厨の音である。それは汚れた世界を美しくする、すがすがしい女の音である。左頁にはただ一句    初水を汲んで厨の妻の音

 詩人たち

 服部嘉香(明19~昭50 松山市出身 早稲田の半世紀)、高橋新吉(明34~ 伊方町出身 虚無・参禅随筆)、田中鉄繁(明39~ 今治市来島・鴻の瀬燈台ものがたり)、篠永哲一(昭16 伊予三島市出身・高松市在住 遍路宿)、宗教詩人坂村真民(明42~ 熊本県出身・砥部町 念ずれば花ひらく・生きてゆく力がなくなる時・茜の雲流るゝとき)など。香川紘子(昭10~ 松山市)に随筆的自叙伝「足のない旅」。この書物につけられた帯には…著者は幼児のころから脳性麻痺で、幼稚園にも学校にも行けなかった。体は不自由だったが、人一倍鋭い頭脳と豊かな感受性をもって育った。この女流詩人の人生は、まさに〝足のない旅〟だった。重度身障というハンデをのりこえて、精神の自由と自立、美への飛翔をもとめる感動的なドラマがここにある。父や母や兄たちや友人が彼女の〝旅〟の日の手となり、足となった。この連帯の喜びと悲しみ。……とある。

 小説家たち

 大江健三郎(昭10~ 内子町出身)に随筆的評論があり、戦記文学者桜井忠温(明21~昭40)、水野広徳(明8~昭20)に自叙伝的随筆がある。坂本石創(明20~昭24 保内町 風の小品・爆音の中から・三瓶たより・砂風呂縁起・お国自慢)、八幡政男(大14~ 土居町出身・東京都旅・文学・社会、現代の差別と偏見)がある。

 戯曲の人たち

 岡田禎子(明35~ 松山市 ながれ)、光田稔(明41~ 松山市 三人集)、伊丹万作(明33~昭21 松山市出身)に「影面雑記」・「静臥雑記」がある。伊丹万作エッセイ集(昭46 筑摩叢書180)に収められた「カタカナ随筆」。

 自分ガカタカナヲ書クヨウニナッテ今サラ気ガツイタコトデアルガ、子規ナドモ盛ンニカタカナヲ用イテイル。『仰臥漫録』ダッタカ、一冊全部カタカナデ書イタ本モアルシ、ロンドンノ漱石二宛テタ、例ノ「ボクハモウダメニナッテシマッタ」トイウ手紙モカタカナデアル。ソレカラ宮沢賢治ノ有名ナ「雨ニモマケズ」ノ詩モカタカナデ書イテアルノデ、私ハ、オソラク病床ノ作ダロウト思イ、コノアイダ伝記ヲ調ベテミタラハタシテ予想ドオリデアッタ。子規モ宮沢賢治モオソラク理由ナドハ考エズニ無意識ノウチニカタカナヲ用イタノデアロウガ、ソノ理由ガ私ノ場合ト共通デアッタコトハ疑ウ余地ハナイ。コノ問題ノカ学的理論ヅケハ寺田博士ガ生キテオラレタラ好個ノ随筆ニナリソウナテーマデアルガ、我々シロウトニモオオヨソノ見当ナラツカナイコトモナイ。スナワチ、ヒラガナノ構成単位ハ曲線デアリ、カタカナノ構成単位ハ直線デアル。シカルニ、曲線ニ動ク仕事ト、直線ニ動ク仕事トデハ、後者ノホウガエネルギーノ消費過程が簡単デ、ロスガ少ナイコトハ我々ニモ実感的ニワカル。ソコデツマリハ、ヒラガナノ場合ヨリモカタカナノ場合のホウガ、ヨリ少ナイエネルギーデ、ヨリ多クノ線ガ引ケルトイウコトニナルノダロウ。

 児童文学の人たち

 久保喬(明39~ 宇和島市出身)、古田足日(昭2~ 川之江市出身)、はたたかし(大10~ 西条市)、大西伝一郎(昭10~ 西条市)、阿部真人(昭5~ 島根県出身・松山市)に児童文学についての随筆がある。なお、宮野英也(大14~ 伊予市)に紙芝居・スライドに関する随想があるのは注目される。童話雑誌「プリズム」(はたたかし主宰)同人富海叔子(大8~ 松山市)は独居老人・身障児奉仕員としての経験を「天使の靴」に綴って自費出版した。…自分も老いを目前にして、汚いとかいやだとかいっていられないのです。変なようでも下の世話でもさせてくれると、うれしいんです。同じ人間同志の連帯感ができたようで…今の世の中はともすれば国の役に立つものばかりを重んじるような気がするけど、そんな人間そのもののいたわりあいを忘れることが何よりも怖い…と新聞記者に語っている(日刊新愛媛昭56・12・31)。

 指南役・二人

 時と所、およびこれに関連して周囲を正しく認識する機能を指南力という。中国古代、上に仙人木像を載せ、その手指が常に南を指すように装置した指南車に由来するという。文学の指南役と呼ぶにふさわしい二人を挙げる。小山久二郎(明38~昭58 重信町出身)。「ひとつの時代―小山書店私史―」(昭57六興出版)は随筆要素が濃い自伝的文化論でもある。戦前より文学者を柱に数多くの美本を送り出し、愛書家にその名を知られた小山書店主による出版回想記で、自ら造った愛着深い本の生まれた経緯や著者との親交を語りつつ、当時の出版界の動きと激しい時代の流れのなかで、自らの出版信念をどう貫ぎ通したかを綴った貴重な証言である。宮尾登美子は「手とぼしの記」(週刊朝日 昭58・3・4号 連載エッセー 24)につぎのように書いている。

 小山さんは以前、五十年の長きにわたって多くの良書を世に送り出した小山書店を経営された方で、そして一時、私の 社長だった方である。チャタレイ裁判といってももう若い方はご存知あるまいが、D・H・ロレンス作「チャタレイ夫人の恋人」を伊藤整さんが訳した上下本が小山書店から出版され、それがわいせつとされて裁判で争われたもので、これが小山書店倒産のきっかけとなったといわれている。私が小山さんを知ったのは、昭和四十一年、無一文で上京した直後で、新聞広告の求人欄で「赤ちゃんとママ社」というところが編集者を募集しているのを見、応募して採用されたあとで、社長があの小山書店の小山さんだと知ったのだった。…(略)…何故「赤ちゃんとママ」かというと、小山さんのお嬢さんがアメリカで出産した経験から、日本に育児雑誌のないところに目をつけ、これを思い立つたという。ちょっと変わったシステムで、この雑誌を産院に配っておき、産婦に見せて、一年間の契約をしてもらうというかたちなのだが、私が入社した頃はまだ十分軌道に乗っているとはいい難く、経営は火の車のように見えた。それでも私の初任給はたしか、当時としては高額の四万五千円だったから、こんな私でも社長はよく遇してくれたと思う。昔の小山書店はずいぷんと人を育てており、ここの編集者から野田宇太郎、江崎誠致、広池秋子その他の諸氏が巣立って行ったという。会社は最初原宿にあり、のち白山の社長宅に隣接したマンションに移ったが、倉庫に行くと小山書店時代の本がまだたくさん残っていて、私は許しを得て「次郎物語」や野田さんの文学散歩の本をもらってむさぼり読んだものだった。私はこの社には一年半しかいなかったが、ここで得た見聞や知識によって大いに目を開かれた感がある。
 いまひとりは、ふるさと愛媛にあって松山子規会長 越智二良(明24~松山市出身・北条市在住 県教育文化賞・愛媛放送賞受賞)。瀟洒明哲温情篤実鋭意玲瓏。「たれゆえ草―越智二良随筆集―」(昭52 松山子規会発行)には、はるかなる春・子規をめぐりて・忘れ得ぬ人びと・人と芸能・回想のふるさとを収める。巻末「回想のふるさと」に「忘れられた町」がある。その一節、ヤロヤロ会社。

 奥田の隣りに小早川というしもたやがあった。気むつかしげな老人と切髪姿の老女が住み、老女は三味が上手でよく私の祖母の胡弓と合奏していた。昔の双六盤・投扇興を私はこの家ではじめて見た。のち大街道で小早川楽器店を開いた清さんはこの家の孫か、私の幼ななじみ。その隣りは福島という旅館、寿座にかかる一座の俳優がよく泊った。以前は森川とかいう漬物屋だったが、さらにその以前ここにヤロヤロ会社があったという。ヤロヤロ会社というのは、士族の還禄金などを集めて高利に回すというふれ込みの金融会社ででもあったのだろうか。加入者を勧誘するのに、ナニをやろカニをやろと景品で釣ったらしく、破綻して旧士族や商家など大被害を受けたのであろう。ヤロヤロ会社の正体はよく知らない。その東隣りが私の生まれた家。薬舗といったが、主として衛戌病院・県病院・医院への納品でホウタイ・ガーゼ・油紙の類も製造し、ガーゼはアメリカの博覧会に出品して褒状をもらっていたが、麝香・犀角・泊芙蘭から洋酒・煉乳(コンデンスミルクなどいった)、漢方薬はもとより森田宝丹・岸田精錡水・堀内浅田飴、大阪四ッ橋本林丁子堂、近江日野橋田日進堂の順血湯などの板看板を軒下に吊し、朝夕の出し入れが小僧さんのひと仕事であった。昔の富田屋は酒造業であったがいつ薬屋に変わったものか、県に残っている明治二十年の海南新聞には私の家の広告が載っている。

 なお、鶴村松一(昭7~57山口県出身・松山市)は商業を営むかたわら愛媛の文学研究に志し「伊予路の正岡子規文学碑遺跡散歩」(昭50)をはじめとして、子規・漱石・碧梧桐・山頭火・朱燐洞・雷死久など俳人たちの、あわせて四国編路・木喰仏海上人の「伊予文学シリーズ」25冊をわずか七年間で刊行し、光芒一閃、惜しくも逝った。随筆集に「伊予の細道」がある。

 美神微笑(芸術家)

 絵画・書・写真は平面において色彩・濃淡、形姿を通じて美を追求する。演劇は舞台・役者・観客が渾然一体となって虚を真たらしめる陶酔の場を醸成する。〔画家〕に野間仁根(明34~昭54 吉海町出身呑馬先生釣日記)、畔地梅太郎(明35~ 三間町出身・東京都山の絵本・山の目玉・せつなさの山・北と南の話)、真鍋博(昭7~ 新居浜市出身・東京都 二〇〇一年の日本・西暦二〇〇〇年の世界と人間)、石井南放(大1~ 北条市出身・松山市 南放随想)、鞍懸吉人(大6~ 松山市 戦争と人間・戯作坊っちゃん・山河ありき・鞍懸吉人画集失はれゆくものへの挽歌)子規物語があり、〔書家〕 三輪田米山(文政4~明41 久米日尾八幡神官三輪田日記)、林克山(明33~ 松山市 雲は流れる 人生と書と雑炊)、浅海蘇山(明44~ 伯方町出身・砥部町 蘇山ノート(1)~(3))、鴻池楽斎(大4~ 松山市 四季録)、沢田大暁(大4~ 今治市出身・松山市 河東碧梧桐俳句と書)、真鍋士鴻(大6~ 今治市出身・松山市 「書界」随想)、〔写真家〕 上田雅一 (大5~ 松山市 愚眼連想・愚眼遍路・ひとの顔まちの顔・風の凡語)、新田好(大11~ 八幡浜市 日々の断想)、佐々木忍(大15~ 松山市 松山有情) 周はじめ(吉田元 昭5~ 今治市出身・東京都 草の中の伝説・牧人小屋だより)が、〔舞台人〕に井上正夫(明14~ 昭25 砥部町出身 化け損ねた狸)、森律子(明22~昭36 松山市出身 わらはの自由)、丸山定夫(明34~昭20 松山市出身丸山定夫役者の一生)、伊丹十三(昭8~ 松山南高卒・神奈川県 女たちよ・日本世間噺大系・自分たちよ 他)の随筆がある。十三の「女たちよ」の序文。

 …レモンを八つに割る場合、縦に割るのは誤りである。レモンというものは蜜柑と同じく、中は袋に分れているわけだが、縦に割った場合、包丁のはいっていない袋が残る可能性がある。これを避けるためにフランス人は、まず横にX型に包丁をいれ、その一つ一つを更に二つに割るという。このことを私は福田蘭堂さんにならった。…(略)…女に対しては、力強く、かつ素早く。これを私はすべての女友達から学んだ。そうして女の肋骨は、男のものより太く丸く短く、かつ、より彎曲している。歯列もまた男のそれよりも、よく彎曲している。このことを私は、高校の生物科の教科書、およびすべての女友達から学んだ。と、いうようなわけで、私は役に立つことをいろいろと知っている。そうしてその役に立つことを普及もしている。がしかし、これらはすべて人から教わったことばかりだ。私自身は―ほとんどまったく無内容な、空っぽの容れ物にすぎない。
 〔声楽家〕には随筆に今井久仁恵(昭8~ 今治市出身・東京都 日本スペイン歌の協会長)の「ある晴れた日に」がある。

 象牙の塔(学者)

 青雲の志を抱いて笈を負い、学に励み業成ってさらに研鑽を積み、請われて母校の講筵に立ち、或は招かれて県下の大学で講座を担当する学者にも随筆がある。それぞれの専門分野・研究領域は学者の個性を特異なものとし、その発想提言は傾聴に価する。
 〔県外の大学で〕 穂積陳重(安政3~大正15 宇和島市出身 東大法学部長・学士院々長・枢密院議長民法)に「法窓夜話 正・続」(岩波文庫147-1・2)がある。古今東西の法律に関連ある事象を随筆的に摘記し、集成して書物にした。その一項。

 竹内柳右衛門の新法、賭博を撲滅す 伊予の西条領に賭博が大いに流行して、厳重なる禁令も何の効力も見なかったことがあった。時に竹内柳右衛門という郡奉行があって、大いにその撲滅に苦心し、種々工夫の末、新令を発して、全く賭博の禁を解き、ただ負けた者から訴え出た時には、相手方を呼出して対審の上、賭博をなした証迹明白な場合には、被告より原告に対して贏ち得た金銭を残らず返戻させるという掟にした。こういう事になって見ると、賭博をして勝ったところで一向得が行かず、かえって汚名を世上に晒す結果となるので、さしも盛んであった袁彦道(ばくちのこと)の流行も、次第に衰えて、民皆その業を励むに至った。この竹内柳右衛門の新法は、中々奇抜な工夫で、その人の才幹の程も推測られることではあるが、深く考えてみれば、この新法の如きは根本的に誤れる悪立法といわねばならぬ。法律は固より道徳法その物とは異なるけれども、立法者は片時も道徳を度外視してはならない。竹内の新法は、同意の上にて悪事を倶にしながら、己れが不利な時には、直ちに相手方を訴えて損失を免れようとする如き不徳を人民に教うるものであって、善良の風俗に反すること賭博その物よりも甚だしいのである。これけだし結果にのみ重きを措き過ぎて、手段の如何を顧みなかった過失であって、古えの立法家のしばしば陥ったところである。立法は須らく堂々たるべし。竹内の新法の如き小刀細工は、将来の立法者の心して避くべきところであろう。

 憲法の穂積八束は陳重の弟。長男の穂積重遠(明16~昭26 東宮大夫侍従長・最高裁判事)に「判例百話」・「離縁状と縁切寺」がある。明治啓蒙期政治小説家末広鉄腸の長男末広重雄(明7~昭21 京都大学法学部長 北米の日本人)、孫末広恭雄(明37~ 本籍宇和島市東大名誉教授 魚類学 魚くさくない魚の話・魚の四季・尾鰭をつけない魚の話・食卓の魚など随筆多数)。「魚の履歴書(上)(下)」(昭58 講談社)についての書評(朝日新聞昭58・7・31 新刊人と本)。

 …末広恭雄は日本を代表するお魚博士である。かつて北太平洋漁業会議が開かれたとき、日本やアメリカ大陸やソ連で生まれたサケが太平洋のどの辺まで回游していくかが問題になったことがある。人間どもが、サケの〝国籍〟を漁業水域の目安にしようと考えたのだ。しかし、太平洋を泳いでいるサケに「お国はどちら?」ときいても答えてくれない。サケの国籍調査はむずかしいのだ。各国の学者が提案した方法は、サケのうろこや寄生虫を調べるといった従来からあるものだった。この会議に日本を代表して参加していた末広博士は、サケの血清によるざん新な判別法を提案した。そして、結局、この方法が採用されることに決まったのである。いまは京急油壷マリーンパークの館長さん。著書はざっと七十冊。お魚を主人公にした童話まで書いている。『魚の履歴書』は魚の常識百科。面白クイズに出てきそうな「魚の年齢を調べるには?」などの質問に博士が回答する。〈Q&A〉欄、百三十余種の日本の魚、外国の魚、珍魚、怪魚が精密なイラストつきで紹介され、生態、伝説、料理や釣りのコツまでまとめてある。本文中にちりばめられた数々のエピソードは、〝水魚の交わり〟ならぬ〝人・魚の交わり〟から生み出された博士の人柄の楽しさとしかいいようがない。末広博士は、『魚わが友』のあとがきでこう書いている。「青い水底をかいくぐりっつ、生まれ、育ち、そして死んでゆく魚たちを長年の友としているうちに、いつの間にやら、自然の中に浮び出た生きものとしての自分を認識するようになったー魚は何を私にささやいたのだろうか?」…

 村井知至(文久1~昭19 松山市出身 東京外語教授 蛙の一生・閃光録・無絃琴)、水木十五堂(慶応1~昭13 伊予市出身 奈良女高師教授 大和巡り・吉野精草)、後藤朝太郎(明14~昭20 松山市出身 東京帝大講師 支那趣味の話・面白い支那風俗)、安倍能成(明16~昭41 松山市出身 文部大臣 静夜集・朝暮抄・巷塵抄・戦中戦後・槿域抄 などのほか「涓涓集」、なお、我が生ひ立ちは随想的自伝で松山の想い出が語られている。田中秀央(明19~昭49 宇和島市出身 京都大学名誉教授 言語学 思い出の記)、城戸幡太郎(明26~ 松山市出身 北海道大学名誉教授 教育学 生活技術と教育文化)矢内原忠雄(明26~昭36 今治市出身 東大総長 余の尊敬する人物)、忠雄の息矢内原伊作(大7~ 法政大学文学部長 室生寺・京都の庭・石との対話・歩きながら考える)、村上喜一(明28~ 西条市出身 東京都 日大教授 飛燕草)、斎藤晌(明31~ 宇和島市出身 明治大学教授 死ぬる前に)、清水亘(明33~ 城辺町在住 京都大学教授 水産学 かまぽこの話)、穂積文雄(明35~昭54 宇和島市出身 京都大学名誉教授 ユートピア西と東)、古田拡(明29~ 東予市出身 和光大学名誉教授 教師一代・青鷺集)、中平解(明37~ 一本松町出身 東京教育大学教授 フランス語源漫筆・郭公のパン・風流鳥譚・鰻のなかのフランス)、藤原与一(明42~ 大三島町出身 広島大学名誉教授 方言の山野・ことばのさとをたずねて・私の国語教育)、菅原傅(明33 宇和町出身 日本体育専門学校教授 お年玉)、村上四男(大3~ 今治市和歌山大学教育学部長 春秋)。なお、ドナルド・キーン(Donald Keene)大11~ 米国)「碧い眼の太郎冠者」所収 四国さかさ巡礼記は愛媛の随筆的紀行。
 愛媛大学に赴任して業績をのこし、他県の大学に転じた学者はひきつづき研究実績を積み重ねる。吉田金彦(大12~ 香川県出身 国語学 大阪外大教授 ことばのカルテ 昭42 愛媛新聞連載) 土田衛(大15~ 大阪府出身 大阪女子大学教授 近世文学)、守屋毅(昭18~ 京都府出身 民俗学 国立民族学博物館助教授)、糸井通浩(昭13~ 京都市出身 京都教育大学助教授 十さいの赤ちゃん・ことばのファイル)。長士川孝士(大15~ 広島県出身)は昭和四一年愛大に赴任、五四年三月兵庫教育大学に転ずるまで教育学部にあって国語教育に専心、あわせて子規を研究し地域に根ざした国語教育の充実推進に尽力、かねて講談社版「子規全集」の編集に任じた。随筆に「つわぶきの花」「かたつむりのことば」がある。
 〔県内の大学で〕 戦前、県下の最高学府は松山高等高校・松山高等商業学校であり、新居浜工専・松山農専があった。学制改革により新制度による愛媛大学・松山商科大学が発足し、商大に短期大学部が併設され、松山東雲・今治明徳・聖カタリナ女子・大和女子・桃山学院の短期大学が設立された。新居浜工業高等専門学校・弓削商船高等専門学校の、いわゆる高専校が時代の要請によって開校した。松高は新設愛大の基幹となり松高教授は愛大教授に移る。北川淳一郎(明24~昭47 川内町出身 山の話・いしづちー松高山岳史・熊野山石手寺・読書彷徨)は弁護士に転じたが、橋本吉郎(明29~ 随筆化学閑談)、大植登志夫(明35~ 松山市出身 血液・日日の中のラジオ)、大野盛直(明39~ 久万町出身 俳号・岬歩 雑陶往来)、武智雅一(明38~ 松山市出身 万葉学者)はそれぞれ愛大の学的基盤確立のために尽力した。愛大発足にともない愛媛師範・女子師範・新居浜工専・松山農専教授が教官となり、地域大学として渾然融合の陣容をととのえる。仲田庸幸(明35~ 双海町出身 星はさびしく・文芸の残照・夕映と文芸・人生と文学) 山内浩(明36~昭57 美川村出身 エヒメの山と渓谷・地底の神秘を探る)、永井浩三(明40~ 宇和島市出身 宇和島町広小路裁判所界隈・落合直文先生の原稿料)、村上節太郎(明42~ 五十崎町出身からたち)、和田茂樹(明44~ 松山市出身 愛媛文学の史的研究)たちは愛大発足後三五年、それぞれ退官後も倦むことなく活躍をつづける。これら教授退官後、新進気鋭の教授が学の伝統を継ぐ。森本憲夫(大6~ 松山市出身 エヒタ日曜画会会長・野獣同人 俳句解体・残照)、石原保(大7~ 静岡県出身 四国の野鳥誌)、唐八景(山畑一善 大11~ 長崎市生まれ 太郎の暮・紫匂う)、白方勝(昭7~ 松山市出身 白水雑記・いたどり)である。

    太郎の〝暮〟  唐八景
 その日、オバチャンは朝から買物に出て行った。ニイチャンやネエチャンは、何処かに遊びに行ってしまった。オジサンが一人、居間で新聞を読んでいた。オジサンは死亡記事から本の広告まで、隅から隅まで読むんだから、時間がかゝる。ボクだって、遊びに行って、思いきり走り回りたい。小屋から出てウンコをして、ワンワンさわいでやった。そしたら、オジサンが出てきて「そうか、そうか、お前も遊びたいんじやろ、今日も暑いけんノー」と言って、珍しく、ボクを解き放ってくれた。さあ、久し振りの一人遊びだ。ボクは一散に走り出したものだ。正円寺町から東野町にかけて、思いきり遊んだ。オジサンもオバチャンも知らんけど、ボクだって彼女があるんだ。彼女とも、久方ぶりに首を寄せ合って散歩したものだ。エヘン! いい加減、遊び疲れて、喉がかわいた。ボクは田んぼから流れてくる水をゴクゴク飲んだんだ。ところが、ところがである。一分もせぬうちに、なんとなく気分がわるくなった。食道から胃にかけて、灼けつく熱さと激痛が来た。ボクは必死の思いで家に帰ったが、もう呼吸も苦しくなっていた。「オジサーン助けてーッ! ボク苦しいよーッ!」。声を限りに叫んだなァ。オジサンが走って来てくれたよナ。「太郎、どうした? 苦しいのか? 痛いのか?どうしたんだ」。そう言って、ボクを胸に抱いて、身体検査をしてくれたなァ。ボクは、あの時ほど、オジサンの胸を〝暖かく〟感じたことはなかったッけ。ボクは遂にグルグル舞いを始め、寒くて仕方がなかった。オジサンは、ボクに水をぶっかけ、ホッペタを叩き、〝正露丸〟を噛みくだいて、口移しに飲ませてくれたなア。でも、駄目だったんだ。ボクは、どうも農薬にやられたんだ。意識を失いながら、ボクも泣いたが、オジサンは、もっと大きな涙を、ボクの顔の上にポトポト落していたなァ。「オジサン、オバチャン、ありがとう、長い間、ほんとにオーキニ!」。ボクは死んだんだ。もともとボクは、親に捨てられたミナシ児、オバチャンとこの床下で泣いていたんだ。ある日、オバチャンの〝花かつを〟に誘われて、チョコチョコ出てきて、山畑家の一員になったんだ。オバチャンは優しかったけど、オジサンは、実に厳しかったなァ。大学の防火用水池に投げ込まれた時は、ホントに怖ろしかった。でも、ボクが溺れかけたら、オジサンが着物のまゝ飛び込んで来て、助けてくれたもんなァ。やっぱり、ボクをきたえて、〝一犬前〟の男に育てたかったんだろうなァ。ボクは未だ、その気がないのにサ、野犬の、変な女性のとこに連れてって、「太郎、お前も良か男じゃろ、やってみい」なんか言って、首を引っ張ったりしてサ。ボクは「オジサンの前でなんか」と思って、むろん、絶対に動かんかったけど…。エッチなオジサン!フフフ…。ボクが死んだら、オジサンはオロオロして、ボクの硬直した身体を濡れ縁の上に安置して、ローソクを立て、線香をくゆらせて、合掌してくれた。そのうち、オバチャンも帰宅して、驚き嘆いて下さった。ボクは、こうして静安の内に、永い眠りにつくことができたのだ。短い一生だったが、悔いはない。葬式のあと、ボクは官舎の裏の草むらの中に、埋葬してもらった。翌日は、立派な〝墓板〟も立てゝもらった。オバチャンが、カマボコ板を利用して、作って下さったんだ。その表にはこう書いてあった。〈太郎の暮〉 オジサンは苦笑しながら合掌していなさった。ボクの命日は、昭和三十九年八月二十九日である。

 松山商大に星野通(明33~昭51 松山市出身 民法学・筆のすさび)古茂田虎生(明35~ 松山市出身 つれづれの記)八木亀太郎(明41~ 松山市出身 言語学 起承転結管見寒来暑往) 望月清人(昭7~ 経済学 清人獨語)、松山東雲短大に初代学長二宮源兵(明29~昭49 小田町出身 永遠なるものへの思慕)、今治明徳短大に山本徳行(明30~昭53大西町出身 心理学 坂) 二名五良(明27~ 東予市出身 死と生の探求) 永田政章(明40~ 吉田町出身 図書館学 えひめ美し)、曽我静雄(明44~ 上浦町出身 家庭教育・親と子・職場の人生論)、薦田道子(昭2~ 今治市出身 調理実習 四季録のあと)、聖カタリナ女子短大に三好保徳(明42~ 広見町出身 生物学 南予俳徊・樹木方言集)桜井武男(明41~ 東京都出身 児童心理・母と子供)、大和女子短大に橋村寿(明34~ 大洲市出身 音楽 大和田建樹歌曲)がある。なお方言学の武智正人(明38 松山市出身 愛大名誉教授)、岡野久胤(松山市出身)、国村三郎(明38~昭55 宇和島市 県議)、杉山正世(明32~昭55 埼玉県出身 高校教頭)、森田虎雄(明35~昭56 宇和島市 高校教諭)、阿部秋信(明43~ 伯方町)に方言随筆がある。植物随筆には八木繁一(明36~昭55 波方町出身)、岡田慎吾(大1~ 松山市出身 土の思想)、福岡正信(大2~ 伊予市 無の哲学・わら一本の革命・地湧きの思想)があり、昆虫随筆に楠博幸(大11~ 松山市 愛媛の昆虫歳事記)がある。

 四 季 録

 (愛媛新聞)民主主義の基調である盛んな世論の喚起という観点から愛媛新聞は「四季録」欄を設け、世相随感、あるいは時事問題に対する地元学者のそれぞれの専門分野の立場からの評言を掲載しはじめた(昭41・4・2~)。地元大学で活躍している先生方の、思想・生活・文化・経済その他あらゆる分野での思索の指針(昭42・4~)、学者による時事随想(昭42・9~)と若干の変貌をとげつつ、学者・知識人の随筆」として現在に至る。毎年度を前期(4~9月)、後期(10~3月)に分かち、七人の執筆者が特定曜日を担当する。

昭和41年度 〈前半期〉石川康二(愛大農学・農業経済学)井上幸一(商大・マーケティング)永井浩三(愛大教育・地質学)中島千秋(愛大文理・中国文学)吉田金彦(愛大文理・国語学)森川国康(東雲・生物学)古茂田虎生(商大・英語学)
〈後半期〉岩谷三四郎(愛大農学・農業経済)小林登(愛大文理・哲学)森本憲夫(愛大文理・経済学)星野陽(商大経営・歴史)大西義英(愛大工学・機械工学)越智俊夫(商大経済・商法、労働法学)

昭和42年度 〈前半期〉松野五郎(商大経済・統計学)石原保(愛大農学・昆虫学)重見辰馬(愛大文理・日本古代史)高津寿雄(愛大文理・化学)清家嘉寿恵(愛大教育・音楽)石丸義夫(東雲・食品学)大鳥居蕃(商大経済・国際経済学)
 〈後半期〉石井南放(愛大教育・美術)森田勝美(愛大文理・英文学)里田幸弘(愛大教育・教育学)清水栄盛(東雲・動物学)藤田貞一郎(商大経済・日本経済史)浅田泰次(愛大農学・植物病理学)井出正(商大経営・心理学)

昭和43年度 〈前半期〉三好保徳(聖力・動物学)大植登志夫(前愛大文理・生物学)伊達功(商大経済・社会思想史)広田直憲(明徳・植物学)松島良雄(愛大農学・林政学)滝沢新三郎(東雲・色染化学)土田衛(愛大文理・近世文学)
 〈後半期〉森義孝(愛大教育・臨床心理学)高橋信之(愛大教養・ドイツ文学)長岡達也(聖力・国文学)中川公一郎(商大経営・企業形態論)塚本三朗(愛大教養・心理学)山本キワヨ(聖力・体育)小原一雄(商大経済・中国語)

昭和44年度 〈前半期〉永田政章(明徳・図書館学)片岡恒(愛大工学・電気基礎工学)八木亀太郎(商大・言語学)浅海蘇山(愛大 教育・書道)酒井康弘(聖力・美術)田辺茂治(商大経営・体育)江口三(角の頭が刀)(商大経済・教育・社会学)
 〈後半期〉伊藤恒夫(商大経済・教育・社会学)大鋸徹久(帝京・営栄指導)牧野修二(愛大法文・東洋史学)品川孝雄(愛大農学・農産物流通学)杉村絹子(東雲・家庭経営)神野寛(愛大教育・舞踊学)

昭和45年度 〈前半期〉二名五良(明徳・哲学、道徳)小泉政孝(愛大教育・美術)稲生晴(商大経済・経済原論)篠崎敏雄(愛大法文・経済学)筒井雅緒(聖力・調理学)西田栄(愛大教養・西洋史)山下正善(商大経営・簿記、会計学)
 〈後半期〉山本四郎(明徳・生物学)大給正夫(愛大教育・音楽)望月清人(商大経済・経済政策)山口裕(愛大法文・ドイツ文学)小沼大八(愛大教養・哲学)河村昭夫(商大経営・英文学)渡部春子(東雲・文学)

昭和46年度 〈前半期〉須賀正夫(愛大理学・化学)津野幸人(愛大農学・作物学)辻悟(商大経営・経済地理)日高武邦(愛大・保健管理)宮崎満(商大経済・交通論)小島是(聖力・声楽)大内優徳(帝京・西洋史)
 〈後半期〉曽我静雄(明徳・教育学)小泉道(愛大法文・国語学)岩田裕(商大経済・経済学)池内純衛(東雲・小児体育)安山信雄(愛大工学・交通工学)門前貞三(商大経営・教育行政学)小池平八郎(愛大教育・哲学)

昭和47年度 〈前半期〉白川雅之(新工専・英語)宇和川武男(聖カ・法学)長谷川孝士(愛大教育・国語教育学)岩橋勝(商大経済・日本経済史)二階堂要(愛大理学・生態学)小松聡(商大経済・世界経済論)倉岡唯行(愛大農学・園芸学)
 〈後半期〉沢田允明(愛大教養・動物生理学)丹下ナホヱ(明徳・調理学)比嘉清松(商大経済・西洋経済史)徳田美智子(東雲・キリスト教学)荒木博之(愛大教養・英語、民俗学)山口卓志(商大経済・財政学)藤井高美(愛大法文・政治史)

昭和48年度 〈前半期〉山田宗睦(桃山・哲学、現代思想)船引真吾(愛大農学・土壌学)水地宗明(商大経済・倫理学)五十嵐寧(愛大工学・交通工学)三原寿(聖力・声楽)高橋久弥(商大経済・金融論)
 〈後半期〉小西永倫(愛大教養・英文学)渡植彦太郎(商大経済・経済政策概論)武田正浩(明徳・教育学)木村五郎(愛大法文・労働法)松崎宗雄(東雲・日本史)宮久三千年(愛大理学・鉱物学)森田邦夫(商大経済・商法、経済法)

昭和49年度 〈前半期〉木村忠司(愛大附病・外科)大田雅夫(桃山・政治思想史)渡部孝(商大人文・英語学)船田周(愛大農学・農業環境工学)桜井武男(聖力・児童心理学)新町真策(愛大教育・デザイン)神森智(商大経営・会計学)
 〈後半期〉小崎喜太郎(愛大法文・英文学)山上ユリ子(東雲・調理学)四宮孝昭(愛大医学・法医学)清水茂良(商大経営・会計学)奥田尊睦(明徳・米文学)見沢繁光(愛大工学・構造工学)八木功治(商大経営・貿易論)

昭和50年度 〈前半期〉久保マサ子(聖力・美術)瀬川富士(愛大教養・統計力学)増田豊(商大人文・英語学)山畑一善(愛大農学・森林計画)門奈直樹(桃山・新聞学)中島晃(愛大医学・産婦人科)三好和夫(商大経営・経営組織論)
 〈後半期〉山田頼子(明徳・被服デザイン)樋口明生(愛大工学・海洋開発学)物部正(東雲・時事英語)奥田拓道(愛大医学・生化学)向井康雄(愛大教育・環境保健)大道安次郎(商大人文・社会学史)池田忠生(愛大教養・歴史学)

昭和51年度 〈前半期〉村山徹郎(愛大理学・生理学)白方勝(愛大教育・国語学)横山知玄(商大人文・組織、集団論)福西亮(愛大医学・腫瘍病理学)宮本七郎(聖力・教育学)野上鉄夫(愛大法文・商法、海法、空法)西崎京子(桃山・英文学)
 〈後半期〉秦敬(西条南中・児童文学)梶原正男(商大経済・国際金融)山田千代子(東雲・公衆営養)浜本研(愛大医学・放射線医学)塚本三朗(再、愛大教養・臨床心理学)松田宏(北条高・中国文学)下田正(明徳・社会福祉)

昭和52年度 〈前半期〉高橋丈雄(劇作家)門間都喜朗(桃山・社会思想史)西田シマ(聖力・調理学)竹内正文(愛大医学・沁尿器科)大本邦夫(今治西高・国語、内海文学)中村勝(愛大教養・心理学)宍戸邦彦(商大経済・経済統計学)
 〈後半期〉坂村真民(詩人)影山昇(愛大教育・教育学)古谷直康(東雲高校・近代史文庫)前田繁一(商大経済・憲法、政治学)田中チカ子(東雲・社会福祉)伊藤隆明(明徳・食品衛生)猪原照夫(愛大医学・産婦人科)

昭和53年度 〈前半期〉坂本忠士(劇作家)佐藤哲哉(東温高・日本史)飛弾知法(商大人文・米文学)松岡健三(愛大医学・脳神経外科)脇功(桃山・イタリア文学)美山靖(愛大法文・国文学)野瀬清水(松山精神病院長)
 〈後半期〉金沢彰(愛大医学・神経精神医学)中原茂夫(商大経済・ドイツ文学)出木浦住子(東雲・アメリカ文学)成瀬誠(松山北高・英語)岩井正浩(愛大教育・音楽教育)小笠原一郎(明徳・法学)大江昭太郎(歌人・「にぎたづ」編集人)

昭和54年度 〈前半期〉林俊(俳人・「炎昼」同人)片岡喜由(愛大医学・生理学)村中正助(国立大洲青年の家所長)奥定一孝(愛大教育・絵画)香川紘子(詩人・「日本現代詩人」会員)森田邦夫(再、商大経済・商法、金融法)黒田満一(松山西高・英語)
 〈後半期〉大山澄太(著述業・「大耕」主宰)山畑一善(再、愛大農学・森林計画)采女節子(東雲・秘書学)稲葉峯雄(ガリラヤ荘園長)石戸谷武(愛大医学・外科)玉置栄一郎(宇和島東高・英語)山口弘光(商大人文・社会学)

昭和55年度 〈前半期〉工藤省治(陶芸家)薦田道子(明徳・調理学)坂上英(愛大医学・眼科)鴻池楽斎(書家)鹿島愛彦(愛大教養・地質学)菊池啓泰(宇和高・国語)三好登(愛大経済・民法)
 〈後半期〉藤田基(牧師・愛隣保育園長)菊池佐紀(作家・「原点」同人)鈴木陽一(商大経済・中国語)太田康幸(愛大医学・内科)白石方子(聖力・被服構成学)名本栄一(放送作家)深石一夫(愛大法文・気候学)

昭和56年度 〈前半期〉井門敬二(画家)和田良誉(県民俗文化調査委員)宮武睦夫(愛大農学・応用昆虫学)小池源吾(明徳・教育学)関岡武太郎(あゆみ学園長)吉田美津(商大経営・英語)千田保蔵(東雲・倫理学)
 〈後半期〉大沢自聚(西山興隆寺院家)田中昭男(愛大教育・生物学)木内佳市(商大経営・管理会計論)八田正信(桃山・社会学)林正徳(元共同通信社海外支局長)冨谷良子(聖カ・声楽)百々太郎(愛大理学・物理学)

昭和57年度 〈前半期〉西岡千頭(愛媛星の会会長)原田満範(商大経営・会計学)曲田清維(愛大教育・住居学)青野勝広(商大経済・理論経済学)関亨道(明徳・心理学)真下道子(東雲・家族関係)垂井不二男(愛大農学・農業労働科学)
 〈後半期〉手東妙絹(鎌大師堂庵主)館野日出男(商大経済・ドイツ文学)小室輝昌(愛大医学・解剖学)石崎忠八(俳人)永見啓応(愛大理学・位相数学)加茂陽(桃山・社会福祉)高田昭二(愛大法文・中国文学)

昭和58年度 〈前半期〉中安ちか子(愛大教養・フランス文学)石川和男(東雲・食品衛生学)松岡進(県文化財巡視員)戸田芙三夫(愛大工学・有機化学)塩次喜代明(商大経営・経営管理論)平井和光(愛大医学・寄生虫学)川中一幸(松葉学園学園長)
 〈後半期〉三木昇(詩人・「日本現代詩人会」会員)横山詔八(愛大教育・作曲)今井洋子(松山逓信病院産婦人科医長)國崎敬一(商大人文・社会学)斎藤昌之(愛大医学・生化学)神山諦仁(金山出石寺住職) 一ノ瀬篤(愛大法文・金融論)

昭和59年度 〈前半期〉松尾秀邦(愛大理学・古植物学)千石好郎(商大人文・社会学)宇都宮真由美(弁護士)鞠子英雄(桃山・科学思想史)伊藤武俊(愛大医学・内科学)増本盛喜(詩人・「新風土」同人)高桑正義(愛名農学・生物化学)……(予定)

 郷土史の人たち

 伊予史談会の発足を期に地域史研究が活発となり、昭和初期の小学校郷土教育のなかから教員が身のまわりの資料発掘に目をむけた。高度経済成長期のあと、ふるさと指向が強まり県下各地に史談会などが結成され、あるいは市町村誌が発刊され、あるいはそれぞれ専門領域での研究者が地域に根ざした活動をはじめる。いわゆる郷土研究者は特定のテーマを追求するが、この間、研究にかかわる随筆的文章を発表する。宮脇通赫(天保6~大3 大洲市)、西園寺源透(元治1~昭22 野村町生 伊予の俚諺・伊予の奇談伝説 大洲妖怪談)、兵頭賢一(明5~昭25 津島町生 郷土資料牛鬼 八つ鹿 闘牛)菅菊太郎(明8~昭25 大三島町出身 田園清話・面子の旅)、曽我鍛(明12~昭34 三瓶町出身 曽我正堂文集)久保盛丸(明25~昭31 宇和島市凸凹・十字曼陀羅 桃源)、ついで森光繁(明26~昭51 波方町 森光繁追悼文集春光・野火)、森実善四郎(明26~昭47 川之江市 川之江郷土物語)、黒河健一(明32~ 丹原町 生きている民俗探訪)、山本冨次郎(明32~昭56 松山市 ふるさと歳時記)、三宅千代二(明33~昭58 土居町出身 生命とその反省)がつづく。三宅は県立図書館長を退職後、研究随想誌「愛媛」を刊行する(昭36・4~昭43・31~84号 編集同人 伊藤義一・越智二良・北川淳一郎・星加宗一・三宅代二・村上節太郎)。久門範政(明34~ 西条市 西条市誌編纂余録)、大内優徳(明36~ 砥部町 風物誌・美意延年)、森本定満(明37~ 大洲市 大洲の民謡)、桜井久次郎(明37 東京都出身 しき石一つ)、尾上悟楼庵(明38~昭54 八幡浜市 いしぶみ物語)、合田正良(明39~ 新居浜市 伊予路の伝説・伊予の民話・私の旅日記)、宮元数美(明40~ 大洲市 ふるさと歳時記)、伊藤義一(明44~ 美川村出身・松山市 雪の夜ばなし)、宇都宮功(大3~ 宇和町 宇和のよもやま第1~2集)、古川雅山(大4~ 佐賀県出身・松山市 一遍研究)、越智通敏(大4~ 沖縄県出身・松山市 子規の夢)、久保高一(大7~ 明浜町 大野ヶ原こぼれ話・明浜町こぼれ話)、日下部正盛(大11~ 伊予市 伊予のあしあと)などにも好随筆がある。民話研究に和田良誉(昭4~ 松山市出身・保内町 赤陣太物語・すねぐろ物語・おんだらいだら物語・だいろくてん物語・からすのすこっぺ物語・女の腕まくり)がある。なお、高井政生(明37~昭45 大洲市)は郷土館を建て研究随記機関記「郷土」(昭37・3~昭51・1)を発刊した。

 木鐸の人たち(新聞人)

 滝本誠一(安政4~昭7 宇和島出身 東京公論主筆 乞食袋)、村松恒一郎(元治1~昭15 宇和島出身 朝日新聞記者)、寒山鼠骨(明8~昭28 進水式・犬と余・美哉山林)、相原熊太郎(明16~昭54 東京出身 都新聞記者 久谷戦歿者陶器碑銘・地方雑考)、首藤一(明39~ 東予市 朝日新聞記者 関西古寺巡礼・新聞記者世紀)、古谷綱正(明45~ 宇和町出身 毎日新聞論説委員・TBS解説者 余録)は東京にあって随筆をのこす。県内では、小林儀衛(明9~大8 宇和島市 南予時事創刊 南予案内)、西村秋羅(明33~松前町 海南新聞編集局員 曼陀羅華・わが良寛記飄々の賦)、松本享(明43~昭55 北条市 愛媛新聞社編集局長・南海放送取締役 新版伊予名所)、平田陽一郎(明41~八幡浜市愛媛新聞社・南海放送社長会長あめりか附ヨーロッパ回想・新聞記者)、野口光敏(大10~ 松山市 愛媛新聞編集局長 民具再見 女の民俗)、松久敬(京都府出身・松山市愛媛新聞記者 古城をゆく)、山田明(昭3~ 八幡浜市出身・松山市 ゾロくんありがとう)が地域的主題をとりあげており、宮武章三(大13~ 松山市出身・横浜市在住 シベリヤ)は県立高校教諭を経てNHK放送記者。四国本部長となり番組の地域性向上につとめた。

 教え導く(教育者)

 県下の小中高校に教鞭をとり、教科生徒指導・部活動などで成果を挙げ、あるいは学校経営・教育行政にたずさわった先生が随想随筆を書いている。自伝・遺稿集・追悼集などにも随筆がふくまれている。
 東予では、星田敏男(明42~ 土居町 足の教育)、加地風露(明18~昭52 伊予三島市 木の葉・筆のすさび)、伊藤角一 (明34~昭18伊予三島市柏陰家言・静寄集・伊藤角一先生遺稿集)、一色豪(大2~昭46 西条市 言語三題ばなし)、川上数視(明39~ 東予市 県議・県教育会理事長 礼俗の間)、秋山道子(昭17~ 小松町 下萌えのうた)、真木正具(大12~ 丹原町 花と虫)、波頭夕子(明30~ 今治市出身・横浜市全国教育女性連盟会長 うち海物語)、矢野竹治(明32~ 今治市 市議 蒔いた種は生える・杖ことば)、梅本新吉(明33~昭53 今治市 県教育会長 遺稿集梅本新吉先生)、飯塚芳夫(明40~ 今治市 学習塾 田舎教師)、近藤福太郎(明43~ 大西町 町教育長 古きに学ぶ)、田名後敬(大5~岩城村出身・東京都 日本教職員連盟委員長 春秋百話・陋村教師の手記・若き日の想い)、木村三千人(大11~ 大三島町 東に咲く花・青いそら豆と教育)。中予に、中村華亭(俊明 安政3~大12 松山市 華亭随筆)、井手桑州(正鄰 安政4~昭2 松山市 酔亭雑話・江後日記)、鞍懸琢磨(明26~昭36 兵庫県出身・松山市 松商野球部監督・全国優勝2回ノックバットは語る)、八代昌一(明39~ 宇和町出身 生きること愛すること)、栗原稔(大2~ 松山市 ふるさと)、藤内勲(大6~ 松山市 ほうろく人生)、篠木重徳(大6~ 松山市 ママお耳をちょうだい たとえ歩けなくても)、玉井通孝(大7~ 松山市 日々のことば・「おかめ」と人生)、楠橋猪之助(大8~ 今治市出身・松山翼の下に塔の街々・残された教育課題 国語生活学習の構図)、門屋忠孝(大9~ 松山市 体育漫歩・海行けば・ともにあったかく)、西岡千頭(大10~北条市出身・松山市星と宇宙の話)、中川貴好(大13~ 宇和島市出身・松山市 舟たで・桜木さま)、石川石造(大14~ 青森県出身・松山市 センセイとコドモ)、坂本礼子(昭6~ 松山市 心の晴着)、大森光三(昭11~ 肱川町出身・松山市 じんあいの記録)、森幸子(昭16~ 松山市 共著ホームルーム百話)、増野萱吉(明12~昭35 回顧七十年・冨士と亀)、重松紀彦(昭5~ 台北市生・伊予市 わが道)、丹生谷百合(昭2~ 重信町出身・東京都 おもひ草)、大島笹一 (明38~ 中島町 町教育長 潮騒の里)、金杢房夫(昭17~  中島町ふるさとをみつめ自分をみつめ・であいー平凡の充実)、名智禾之(昭36~ 久万町 畑野川年代記)、小椋秀雄(明40~ 松山市出身・久万町 町教育長 教育つれづれ草)、石田精二(大8~ 久万町 某月某日・教室の前後)、山之内均(明32~ 美川村 時事随想)、森岡俊一(大10~ 小田町 ただひとみちに)、喜安璡太郎(明9~昭38 松前町 鵠沼通信)、井伊磯子(大15~ 野村町出身・砥部町 共働き女教師の記録)。また南予では、新盛己(大8~昭53 長浜町 町議 一年生はただひとり)、尾崎正教(大11~ 大洲市出身・東京都 わたくし学校)、佐川敬(昭8~ 大洲市 印刷工房蛍翔出版倶楽部を持ち随想集を出版。)、仲木照義(明36~ 八幡浜市 山椒の木)、中平周三郎(明39~ 宇和町 野草)、大塚久恵(大10~ 宇和町 一会集)、河野素(大12~昭56 遺稿集ぬくもり)、黒田定雄(明41~昭58 宇和島市出身・松山南高校長 高体連会長 豊旗雲)、今岡睦(大4~昭52 広見町出身・宇和島市 遺稿集汝によからざるはなし)、安藤為継(元治1~昭6 吉田町 追想録)、大塚光涯(駔太郎 慶応3~昭22 吉田町 零に生きよ)に随筆・随想録がある。

 刀圭の人たち(医師)

 薬を盛るさじを刀圭という。医術の総称である。「医者の物書き」…ということばがある。つねに人間の苦痛・苦悩に直面し、その死と対面することを職業とする医師は、たしかにひとつの哲学をもたねばならない。ものを書くことが想念の錬磨であり結昌化であるなれば、医師はものを書くべきである。
 花岡光男(明39~ 長野県出身・宇和町で外科医院・千葉 閻魔の電話・風天どくとる行状記・視界零)、夫人千枝子(明44~ 静岡県出身 みかんの花咲く国へ・随筆十二か月)、村上治郎(明42~ 弓削町出身・岐阜歯科大教授 四つのテストまで)、二宮秀夫(歌号冬鳥 大洲市出身・福岡県 久留米医大教授・医師試験審議会委員・国語問題協議会評議員高嶺主宰 睡眠の書・坂本繁二郎画談)、笠置夢想樹(大正8~ 夢)、天岸太郎(大9~ 松山市出身・東京都 思い出の子規)、岩村昇(昭2~ 宇和島市出身・兵庫県 日本キリスト教海外医療協力会ネパール派遣医師・神戸大医学部教授夫人史子と共著 山の上にある病院・わがふるさとネパール・ネパールの一粒の麦・著書 ネパールのあおい空・ヒマラヤから祖国へ・ネパールから祖国へ)は県外にある人たちの随筆である。県内では、中井コッフ(謙吉 明14~昭37 宇和島市 小児科医・歌人 宮本武蔵)、杉浦清(明20~昭47 愛知県出身・今治市・小松町 産婦人科医 月刊パンフ妙口通信・讃花遊釣)、仙波嘉清(明21~昭51 松山市 外科病院 無影灯の傍らで)、永野真平(明25~ 小松町 内科医・周桑郡医師会長 随筆)、山内正(明33~ 土居町出身・新居浜市 医師生活61年 にしき木・一老医の回顧録・寒梅・老医晩年日記)、小野基道(号孟父 明37~ 新居浜市 県教育委員・市医師会長・市文化協会長 よもくり伝・いよのあじ・伊予の雑魚・ゆうもあ交友録・工場医三十年・別嬪・伊予の味)、玉貫寛(眞平 大5~ 松山市 外科医院 芥川賞候補作者・天浪同人)、本吉晴夫(正晴 大12~ 外科病院 文脈・アミーゴ同人)、奥島団四郎(大11~ 松山市 外科病院 県漕艇協会長・県スキー連盟会長セコチャン物語り)、前田尚久(大12~ 松山市 皮膚科医院 歩道同人 そぞろ歩き・さじかげん) 西本忠治(昭5~ 高知県出身・久万町 外科医 開業医作戦要務令・第三のカルテ・南瞑・いざなおさん・地政学・名将論・石楠花 随想)、清水弘一(昭8~ 大洲市出身 群馬大学教授 眼科学 べらどんな)などがある。外科医にもの書きが多いのは肉体執刀による緊迫感の余韻を文章に託することによるものか。

 病魔と闘う(闘病記)

 病魔と闘うのは医師のみではない。患者およびその家族は切実に苦しみと痛みをともにする。
 朝山新一(明41~ 京都生 大阪市立大学名誉教授 妻さとるは砥 部町出身 癌と闘った夫婦の記録さよなら・ありがとう・みんな)、真鍋竹広(大7~ 土居町 脳性マヒ 生きがいは足下に)、星野富弘(風の旅)、西江英樹(昭42~松山市 筋萎縮症 漫画Uエモン1~2)、岡田真美(筋萎縮症 もっと生きたい)、西方美智子(昭24~ 中山町 膠原病 野あざみは生きるーいのちを見つめて)、森忠正(昭19~55 今治市 愛媛共和物産常務 胃癌 遺稿集幸せな人生ありがとう)、野間博文(昭38~ 心身障害 ぼくが歩いた道)、川口武久(昭15~ 三重県出身 松山ベテル病院 筋萎縮症しんぼう)は患者自身の苦闘と勇気と希望の記録である。片仮タイプに触れるのみの筋力によって川口武久は…あなたにさずけていただいたこのからだを やまいにあけわたしたことが あなたのもとにきえすることになろうとは おもいもかけない さいわいとなりました。おそらくこのかんなんが にんたいが きぼうがなければ まずしいこころのままに くちはてたじんせいをおくったのではないでしょうか…と信仰に支えられる自分を語る。三浦綾子はその序文を…川口さん、ありがとう。私たちもまた、たった一度の人生を、本気で生きていくことをあなたに誓いたい。本当にありがとう。ーと結ぶ。筋萎縮症の夫難波紘一の妻幸矢(昭18 松山市出身・岡山市)は夫妻で闘病記「生まれてきてよかった」を刊行した。守谷幸弘(昭9川之江市)は悪性リンパ腫で夭折した長男貴志の闘病日記「報われぬ青春」を印刷し恩師級友に呈した。県警機関誌「かがりび」に連載された「黄色いリンゴ」は文芸春秋に掲載され(昭53・6月号)、単行本として発刊(昭53・9・1)された。七歳七か月、小学一年生の長女ゆかりを膠原症で失った横江平吉(昭10~ 丹原町出身・松山市 県警)の手記である。随想随筆の領域に入るべきではないかもしれぬが痛恨の書として挙げたい。「お父さん、黄色いリンゴがほしい」-七歳の少女はこんな小さな夢もかなえられぬまま、その短かい生涯を閉じる。…ゆかりの病気が治ったら、すぐ東京へ行こうね。はとバスの中でアグネス・チャンの歌を歌って、渋谷公会堂で紅白歌のベストテンを見よう」「ああ、うれしいなあ。ゆかり早よう治りたい。東京に行きたい…。アグネス・チャンに会いたい…」蒼白のゆかりの頬が一瞬、ぼっと紅がさしたように紅潮した。〈ゆかりの夢は絶対に実現しないであろう〉許されるはずの嘘がとても哀しかった。-本文の一節である。

 宗教の人たち

 神仏に帰依し、安心立命を求める。人間が人間である限り悟入と信仰は人間のものである。西山禾山(天保8~大6 八幡浜市)、高橋新吉(明34~ 伊方町出身)、照峰馨山(明32~昭18 上浦町出身 転身一路・夢中に道あり)、楢崎一光(大7~ 新居浜市瑞応寺住職 雲・心・水・意―禅つれづれ) 越智廓明(明44~ 北条市大通寺住職 田舎和尚園長日記)、日多義恭(昭2~ 宇和島市来応寺住職 赤く乾いた大地 赤い大地の子供たち)は曹洞・臨済の禅味のある随筆である。神山諦鑁(明22~昭48 松前町出身 真言宗大僧正・大洲市名誉市民 常侍四十年)、大沢自聚(大11~ 丹原町 西山興隆寺院家 親と子)、石田颯々子(佐々雄 久万町 松山市教育長 黒住教 信の落穂集・遺稿集颯々子集)、御木徳近(明33~ 松山市出身・大阪府PL教団立教 捨てて勝つ 大もの小もの・徳近談叢・老春謳歌他)、キリスト教に吉田清太郎(松山市見た人聞いた人)、松本良之助(明16~昭53 宇和島市松本良之助詩文集)、岡田碧空(修一明22~大11 吉海町 碧空の彼方に)、渡部悦太郎(松山市 たましいの郷愁)、万代恒雄(昭5~ 松山市 人生を三倍に生きる)があり、郡徳行(大11~ 松山市 真宗丘南山円光寺住職)は銀天街を行く人たちへの呼びかけとして小さな黒板に短文を書く。編集し「門」と題して出版。児玉延一(明27~昭50 松山市)に「仏教は生き抜き勝ち抜き成しとげる道を教えるものである」がある。

 常民の心・市井の声

 町や村にあって、毎日の生活の苦楽が喜怒哀楽を生む。書くことはもはや学者有識者の専有ではなく、一般市民が常に周囲に発表の場を持つようになった。門・ヤング落書き帳・いよなまり・てかがみ・ゆうかん手鏡(愛媛新聞)広場・風ぐるま(日刊新愛媛)など地域新聞紙は市民の投稿をうながし、自治体弘報・公民館報も住民の投稿を無視しては編集がなり立だなくなった。伝統をもっ「松山百店」(季刊・昭20創刊・59・5現在106号)「えひめの女性通信」(昭35創刊月刊59・1現在250号)のほか、タウン情報「まつやま」(昭50創刊・月刊59・1現在105号)などのタウン誌、読書グループ「早春」(久万町)などのサークル誌なども執筆者としての読者を持つ。こうした投稿は横の組織を持ち「てかがみの会」「風ぐるまの会」が結成され、文集が刊行される。環暦・古稀・米寿の記念に、あるいは追悼に自叙・随想・追悼遺稿集が刊行されるのはもはやめずらしいことではない。このような環境のなかから生まれた随筆を市町村ごとに列記する。
 伊予三島市 前谷房子(大6 高松市 冬の薔薇)。 土居町 松本星山(明30~ 農協組合長 苔の花)、江口いと(大1~ 町同対協議会婦人部長 荊を越えて)、真鍋鱗二郎(八千代 大5~ 内海文学編集 ぼくの瀬戸内海遍歴)。 新居浜市 岩崎三郎(大3~住化工勤務 生涯教育 六十の手習い七十の手習)、井上省市(大4~ 新居浜酒販KK取締役 慟哭)、星加正幸(大7~ 住友エンジニアリングKK会長 うめくさ)、大橋喜代子(大10~ 日本生命新居浜西支部営業主任槿の花)、三浦覚(大13~ 住化勤務 みちのくの春を訪ねて)、佐藤重敏(一徹者・青春の渦)、宮本エイ子(旧姓日野 京都市在住・宮本正清夫人 パリの小さな窓から)。 西条市 伊藤一(明40~ 市長 波に乗って)、尊那骨茶(十亀忠義 香川県在住 浮世絵蒐集 駐在巡査一年生)、上野敏恵(大8~ 加茂公民館 加茂郷新居の幸)。 丹原町寺内朴美(主婦朴の花)。 今治市 柳瀬義之(明27~大9 綿練製造興行舎社長 柳瀬義之遺稿集)、原田末一(明29~ 盲目滅法記・道一筋・声杖)、増田初子(明35~ ささやき)、村上人声(明36~ 日本郵船 船と人生 わが航海一五〇万浬)。 朝倉村 白石渓月(~昭56 主婦 花に生きて)。 菊間町 津田騰三(明29~ 東京都在住 剣尖はあがる)。 宮窪町 富永佳(明40~昭46 住化勤務・市議 佳さんの思い出)、村上笹一(大8~ 柏市在住 文具店主 来島海峡)。 生名村 池本芳藤(明45~ 村選管委員長 青春は狭霧の中に)、森本正勝(大6~ 村収入役 いきなじまというところ)。上浦町 曽我梶松(明29~昭43 町名誉町民 会うことと別れ)。  久万町 小倉くめ(昭21 ミニコミ誌にめだるま)。 北条市 堀井一郎(明41~ わが道)、手束妙絹(明38~ 静岡県出身 鎌大師庵主 風の足跡一尼僧の遍歴)。 松山市 武林文子(明21~昭41 武林無想庵と結婚・旧姓中平 七十三歳の青春 わたしの白書)、村上順市(明24~昭56 吉海町出身 御国の為めに)、宮本武之輔(明25~昭16 企画院次長 宮本武之輔日記22巻)、渡部重子(明30~ 歩みなさい)、久松定武(明32~ 知事 南北米だより)、清水藤平(昭34~ 岐阜県出身 おりおりの心正・続)、牧野龍夫(明36~ 松山坊っちゃん会長 食道楽)、本田九郎(明37~ 余土村長 郷土愛)、泉節太郎(明39~ 双海町出身・愛媛電友会長心のあしおと)、亀井邦一(明40~ 市役所民生部長 幻の記録)、村上寿子(明40~ 女性通信発行 日々是好日)、松長晴利(明42~ 県山岳連盟名誉会長 四国路の旅)、山田サワヱ(明42~ 東京都在住 四国と東京そのおもいで)、村瀬重行(明43 県立図書館 草ほうき)、佐伯喜代松(明43~田舎っぺの綴り方1~5)、岡田寿満子(本名スマ子 明43~ 茶販売 檜の家寿満女覚書・花扇)、野本茂(明45~ 松前町出身・EBC社長 父の文箱より)、白石達次郎(大3~ 幸せはクコからくる)、吉岡清風(依雄清吟堂吟友会宗家綜宰ひと筋の道)、藤岡勇(大6 県職員 独鴨念)、関谷明(大8~ 陸士54期・EBC専務 禿筆乱筆・えにし触れ合いわが宝・続禿筆乱筆)、土岐坤(大9~ 甘ったれるな・続甘ったれるな)、脇水成子(大10~ 長浜町出身 被爆者は夜も眠れず・夏日・閃光)、住田正行(大11~ 伊予市出身・松田ビル社長 望郷)、伊達和子(大12~ 野村町出身・伊達クッキングスタジオ主宰 書いておきたかったこと)、吉田擴(大14~ 久万町出身・重信清愛園長 換気扇)、岸郁男(昭3~ 市役所職員 山草編集同人)、日吉光美(昭6~ 主婦 糸ぐるま)、志摩なぎさ(昭7~ たんぽぽIⅡ)、阿部雅子(昭12~ 主婦・日本児童文学者協会員 主婦の暦)、今井由紀子(昭16~ 福岡県出身・主婦・女性史サークル会員 ぶらんこI~Ⅳ)、三好克代(昭24 主婦 紫遠里)、随筆集四季の組曲(春の章赤松紀代子 夏の章中嶋美代子 秋の章梶原照子 冬の章木村幸子)、田坂正(大12~ 長男正樹追悼集風花)。一色節恵(芙蓉・春の泉・郷愁・こころの灯)、大岡富子(あざみI~Ⅲ)、松原尚子(追憶)、王井トシ子(ふれあいI~Ⅱ)、鹿島正子(背のびしないで)、高須賀千賀子(ほたる草)、明比文(~昭56 遺稿集きくまくら)、平田歳子(あしあと)、小林喜美子(ゆすら梅)。 川内町 小倉元一(明32~ 町教育委員・日本農民文学会員 一日一想)、樋口幹(本名・妙子大10~ 山口県出身・町婦人会長 ひとりぼっちの誕生日)。 柳谷村 高岸勝繁(~昭56 村長 耳目八十年)。 伊予市 松田亀次郎(明36~ 米湊ものがたり)、田中金重(明25 蚕玉藻屑集)、木村幸子(昭6~ 広島県出身 雪わり草)。 双海町 向井シゲミ(大2~ 私の生涯記)。 大洲市 村上光(春の嵐)、大塚道廣(大4~ 埼玉県在住・大洲陶器社長 道)、日々の断想(大野照夫 明36~ 家裁調停委員、新田好 大11~ 八幡浜市・二科写真部会友 新田宏樹 昭28~ 八幡浜市)。 八幡浜市 山本嘉三郎(明31~昭54 市商工会議所会頭 ひらがな処世巷談)、宇都宮一雄(明34~ 岩清水)、岩本ヨシ子(大3~ 潮騒)。 保内町 玉木大弘(昭2~ 愛知県在住 恩師に導かれて)、和田美佐保(昭11~ 主婦 クレヨン画 ごきげんよう・ごきげんようPartⅡ・いばるな亭主・おんぶにだっこ)。 明浜町 牧野徳松(明39~昭56 私の歩いた道)、「ちょっと退屈な日々」(原田義徳他30名)。 宇和町 渡辺謙二(昭3~ 座間市在住・経営コンサルタント もぐらのささやき一~三巻 思い出と夕日・若さの若い若いものに・未来人の社会) 平田マサ子(昭17~ 道くさ) ゲール・バーンスタイン(アリゾナ大学東洋学部教授)。野村町 丸山波路(明38~昭20 工員橋)、兵頭カヲル(大13~ かおり)、森照子(昭3~ 松本市在住 なっちゃんへいきだよ)、 宇和島市 宮本吉太郎(明23~昭37 海王丸初代船長・宇和島運輸社長 回航雑感)、薬師神栄七(明35~昭56 市水道局長自叙伝前・後篇)、兵頭三明(明41~ 埼玉県在住・東日本交通取締役 風雪七十年思い出の記正・続・完結篇)、沢田宏重(大12~ 東京都在住・白光学院(沢田塾) 私塾の心この爽やかな真実)、渡辺一正(大12~ 高校教諭 道は開ける第一集)、井上宗和(大13~ 東京都在住 城郭研究家 日本国際ワイン協会代表世話人 古城をたずねて・ワインへの優雅な誘い)、兵頭宣昭(昭7~ 東京都在住・昭苑興業代表取締役 コミュニティ・エンジニアリング)〝コミュニテイ・エンジニアリング構想〟に寄せて  江崎玲於奈(IBMワトソン研究所主任研究員)未来は現在の延長ではない。未来は人間が知恵を出し合って築き上げるものだ。街もそこに住む人々が知恵を出し、創っていくものだと思う。国や企業が創るものではない。私は知的資本の蓄積が独創技術を生むものと考える。生活する人々の心、自然、そして高度な科学技術を複合的に組み合わせることによって、人間性豊かな街を創るという兵頭宣昭氏の〝コミュニティ・エンジニアリング構想〟は、新しい都市創造技術として高く評価されよう。
  三間町 竹葉秀雄(明35~昭51 県教育秀員長 青年に告ぐ)。 御荘町 本田南城(大6~ 町議 南宇和史と民俗)。西海町 吉岡忠(大8~ 町公民館長 公民館運営論)。