データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 文 学(昭和59年3月31日発行)

三 伝記・自叙伝

 概 観

 愛媛県人の伝記・自叙伝は、すでに単行本として刊行されたものだけでも、明治以来、二百数十冊にのぼる。中に自伝あり、評伝あり、また軍人・学者・文人・政治家・実業家、その他さまざまの人について、さまざまの人が、それぞれに熱い思いをこめて書いている。そこに著者の切実なる心があり、時代の反映が読みとれる。
 明治期四五年間は、数も少なく、主に自叙伝で、変革と躍進の時代を生きた自らの痛切な思いを記し、後進に伝えようとする意志が見える。大正期以後は、先覚者をたたえ、その偉業に学ぼうとする伝記が多くなり、特に昭和期前半は、戦時色の時代を反映して軍人の伝記が多く、また『伊予二百偉人略伝』(昭8)・『愛媛県先哲偉人叢書』(昭8~18)・『伊予偉人録・先哲人名辞典』(昭11)・『愛媛先賢叢書』(昭16~I8)などの叢書類が次々に刊行され、県人の先哲たちが紹介された。
 戦後はやがて四〇年、経済的繁栄と情報化社会・大衆社会といわれる新時代を迎えて、伝記類も次々に刊行され、明治以来の伝記類の過半はこの時期のもので、政治家・実業家はもちろんのこと、お国ぶりを反映して、子規・虚子・碧梧桐・霽月・極堂・波郷・山頭火・朱鱗洞らの俳人の伝記も目立っている。またこの時期、『愛媛の先覚者』(昭40~41)・『現代愛媛の百人』(昭50)なども刊行された。

 第一期

 明治維新とそれに続く諸改革は、この愛媛の地にも天地を揺がす大変動をもたらしたが、この時代に三人の伝記がある。賢君の誉高い宇和島藩主伊達宗城の『筆林集』、宗城のもとで蒸気船建造に励んだ前原巧山の『前原一代記咄し』(稿本)、そして越智郡上浦町の宮大工藤井此蔵の『藤井此蔵一生記』である。
 宇和島藩八代藩主伊達宗城(一八一八~一八九二)は、幕臣山口相模守直勝の四男として生まれ、一二歳者宇和島藩主宗紀の世子に立てられ、弘化元年(一八四四)に八代藩主となった。宗城は早くから天下の大勢に通じ、慶永・容堂らと共に三賢侯と称され、幕政にも参画した。『筆林集』は、宗城が先代藩主伊達宗紀の事績をまとめた伝記である。また宗城の業績については、『鶴鳴余韻』(大3 伊達家家記編輯所)の下巻で「宗城公御事蹟」としてまとめられている。その中で、宗城は、武術・蘭学医学の奨励、国事奔走の賢君としての事績が記されている。更に、宗城については、愛媛県先哲偉人叢書第三巻『伊達宗城』(兵頭賢一 昭10)、愛媛先賢叢書第二輯第三巻『伊達宗城』(兵頭賢一 昭18)がある。
 同じく宇和島藩で、藩主伊達宗城に認められ、蒸気船建造に成功した前原巧山(一八一二~一八九二)は、もと煙火商であったが、生活に困って始めた細工物造りの器用がかわれ、村田蔵六らと共に長崎にも遊学して蒸気船の建造について学んだ。黒船来航に刺激されて急展開する幕末の動乱の中で、宗城の文明開化政策の一翼を担い、巧山は蒸気船建造の夢を追い、種々の困難を越えて実現する。時に安政六年であった。これによって巧山は、名字を許され、譜代に列することになった。その自伝が「前原一代記咄し」である。惜しむらくは、昭和二〇年の宇和島戦火のため、伊達図書館にあったこの本は焼失して、今はその原本を見ることができない。前原巧山については、愛媛の先覚者2『武田成章 三瀬周三 前原巧山』(高須賀康生 三好昌文 昭40)があり、また、司馬遼太郎『花神』に登場し、『伊達の黒船』のモデルにもなっている。
 宗城・巧山らとは対照的に、大三島の無名の宮大工として、幕末維新を生きた藤井此蔵が「藤井此蔵一生記」を残している。此蔵は、文化五年(一八〇八)に越智郡井口村(現上浦町井口)に生まれ、農業のかたわら宮大工として過ごした。此蔵の父園重郎は『藤井園重一生記』を残しているが、此蔵も五〇歳の時これにならい、半世紀の出来事を記憶や聞き書、記録等によってまとめ、以後六九歳、明治九年まで年ごとに身辺の出来事・物価・世評等を三番に分けて記している。此蔵は、少年時に寺和尚から五年間、手習いを受けた程度の教養であったが、努力して五人頭、組頭となって活躍し、知識欲旺盛で、後代への教訓の意味もこめて、広く幕末維新の政治・文化・経済・思想・生活等、見聞したさまざまのことを興味深く書き記している。この『藤井此蔵一生記』は、三一書房刊『日本庶民生活資料集成 第二巻』(昭47)に収められている。また、此蔵は、この他にも「藤井家神霊伝記」「位田浜屋敷記録」等も残している。

 第二期

 明治も後半期に入って、政治・経済の面で新体制が確立し、躍進の時代に入った。この時期に、こうした時代相を象徴するかに思える二人の自伝がある。すなわち、一人は盲目の青年村長・森盲天外であり、一人は別子銅山の総支配人・広瀬宰平である。二人はそれぞれに、自らの苦難の半生をいかに生きたかを記し、後進への教えにせんと意図している。
 森盲天外は、元治元年(一八六四)松山に生まれ、二七歳で県会議員となったが、明治二七年(一八九四)、突然左眼を病み、治療のかいもなく、やがて両眼を失明した。盲天外の自伝『一粒米』(明41)は、この失明から苦悩の日々、妻の離縁、自炊生活、そして指頭の一粒米によって迷妄を破り、再出発するまでの切々たる思いが記されている。盲天外は再起して後、三三歳で盲目ながら余土村村長となり、県会議員・道後町長をもつとめ、また内務省嘱託として全国を巡回講演すると共に、公民塾「天心園」を創設して青年教化に尽力した。盲天外については、愛媛の先覚者4『森盲天外 加藤恒忠』(伊藤義一 昭41)、石田伝吉著『世にも稀なる盲目村長と余土村の自治』(昭10)がある。
 別子銅山の総支配人・広瀬宰平は、文政一一年(一八二八)近江国(滋賀県)に北脇景瑞の二男として生まれ、叔父治右衛門百録が別子銅山の支配人であった縁で、九歳から別子銅山に入った。山中の銅山にあって仕事の合間にも勉学に励み、長じて広瀬家の養子となり、三九歳(一八六五)で別子銅山の総支配人となった。幕末維新の難局を切り抜け、銅山事業を軌道にのせて明治二七年に隠退。翌二八年(一八九五)に『半世物語』を書いて、別子銅山支配人としての苦難の閲歴を述べ、知友に配った。その序に宰平は「此の書は、決して世間公衆に広く示さんがためのものにあらずして、全く我が住友家の家人に頒ちて参考に供し、其の子孫の戒と為さんとの微意に出てたるもの」と書いている。宰平については、世子広瀬満正は『宰平遺績』(大15)を書いて、別子銅山総支配人として、銅山を今日あらしめた宰平の業績をたたえている。

 第三期

 大正期一五年間は、外に大戦はあったが、国内的には一応の安定と余裕があり、個人主義・教養主義の時代であった。この時期に宇和島から三人の偉大な人物が出、多くの伝記が書かれた。すなわち、児島惟謙・土居通夫・須藤南翠である。この時期以後の伝記は、自伝よりむしろ、自己の敬愛する先人の業績をたたえ、その人物像を伝えんとする傾向を強めていったように見える。
 護法の神・護法の巨人と称される児島惟謙について、すでに数冊の伝記が書かれている。沼波武夫著『護法の神 児島惟謙』(大15)では、明治二四年、ロシア皇太子刃傷事件-大津事件にスポットをあて、惟謙は大審院長として、時の明治政府の介入、西郷内務大臣・青木外務大臣らの「犯人は死刑に処すべし」という高圧的な要求に対して、断固法に照らして処すという初志を貫き、近代国家の面目を保った点を強調している。惟謙は、天保八年(一八三七)宇和島市に生まれ、幕末には脱藩して坂本龍馬らと行動を共にして討幕運動に参加した。維新後は官界、のちに司法界に入って、大津事件の直前、大審院長となった。大津事件は、当時の日本にとって未曽有の国際的な大事件であったと共に、司法の独立にとって、その成否を問われる大事件でもあった。この難局を打開した児島惟謙のその後の運命は、必ずしもその業績に報いるものではなかったが、後人の敬慕する者跡を絶たず、原田光三郎の『児島惟謙伝』(昭15)同『児島惟謙と其時代 護法の巨人』(昭15)、愛媛先賢叢書第二輯第二巻『児島惟謙』(昭18 原田光三郎)、田畑忍の『児島惟謙』、青野暉の『児島惟謙小伝』、吉田繁の『新編 児島惟謙』(昭40)などが書かれた。
 児島惟謙が司法界で重責を果たしたと同様に、実業界にあって、その地位を築いたのが土居通夫である。土居通夫は、天保八年(一八三七)に宇和島の藩士大塚南平祐紀の六男として生まれた。幕末、坂本龍馬等と討幕に奔走し、維新後は司法界に入って兵庫裁判所長官等を勤めた。明治一七年、四八歳で官を辞し、鴻池の顧問となって実業界に投じた。以後、電燈会社・東洋拓殖会社等を経営して業績を上げると共に、大阪商工会議所をおこしてその初代会頭として二二年間、大阪の商工業の発展に尽した。また衆議院議員・大阪博覧会(明36)の主宰者としても活躍し、大正六年没した。半井桃水に『土居通夫君伝』(大13)がある。これは初め、須藤南翠が着手したものであったが、南翠は病のために果たせず、半井桃水に受け継がれたもので、土居の日記をもとに、年譜風に詳細にその活動が記されている。また宇和島文化協会会長高畠茂久に『土居通夫小伝』(昭58)がある。
 同じく宇和島出身の須藤南翠についてふれておかねばならない。南翠は、安政五年(一八五八)に宇和島藩士須藤但馬の二男として生まれ、藩校明倫館・松山師範学校を卒業して上京し、小説家となった。作品に毒婦物小説・政治小説があるが、晩年は高僧伝叢書の執筆に力を注いだ。『愚禿親鸞』(明42)・『法照上人』(明44)・『蓮如上人』・『日蓮上人』などがそれである。南翠の作家活動の最盛期は明治二〇年前後であったが、その作家生活は長く続いて大正期に及び、大正九年、前記「土井通夫伝」を執筆中に病のため六三歳で没した。古風な趣向と新しい風俗描写によって読者の心をとらえ、流行作家の名をほしいままにした。
 内藤鳴雪に『鳴雪自叙伝』(大11)がある。鳴雪は、弘化四年(一八四七)松山藩の江戸邸に生まれ、松山に帰って藩校明教館に学び、上京して昌平黌にも通って勉学に励んだ。維新後は県の公職にもついたが、退官後東京の寄宿舎常盤舎の舎監となり、舎生の正岡子規から俳句を学んだ。瓢逸な人物画を描き、俳句界の長老として多くの尊敬を集めた。柴田宵曲に『内藤鳴雪』(昭18)、寒川鼠骨『故人を語る 内藤鳴雪先生』(昭27)がある。また鳴雪には、『正岡子規』(明30)がある。

 第四期

 昭和前期の二〇年間は、恐慌から戦争への不幸な動乱の時代で、その時代相を反映して、伝記においても特に目につくのは、日清日露の両戦役に活躍した軍人たちのそれである。その中でも、とりわけ 伊予の三将たる秋山好古・真之兄弟と陸軍大臣白川義則がもてはやされた。大野香月は「伊予の三将」(昭8)で、この三将を郷土の誇る名将として紹介している。
 名作『肉弾』の著者・桜井忠温は、『秋山真之』(昭8)・『秋山好古』(昭11)を書いた。二人は忠温にとって、同じ松山の大先輩である。兄好古は、日清・日露の両戦役に騎兵を率いて従軍し、戦後は平和会議使節もつとめた。のち教育総監・陸軍大将にすすんで陸軍の中枢を占め、特に騎兵旅団の創始者として有名である。弟真之は、日露の海戦において連合艦隊参謀として従軍してT字型戦法を案出し、また旗艦三笠から、かの有名な「本日天気晴朗なれども波高し……」の名文を発した人である。兄弟共に陸海それぞれの中枢を占めて活躍した人であるが、桜井は、秋山兄弟を単にすぐれた軍人としてのみでなく、明治を代表する努力の人として、その克己勉励を賞揚し、その人物のすぐれた資質について書いている。
 秋山真之については、更に松田秀太郎の『世界的偉人秋山真之将軍』(昭6)、秋山真之会編{提督秋山真之}(昭9)、大和杢衛の『海軍兵学の父秋山真之提督』(昭18)、島田謹二の『アメリカにおける秋山真之将軍明治期日本人の一肖像』(昭44)などがある。真之は正岡子規より一歳若いが、少年時代は共に遊び、真棹の蓬園吟社で一緒に和歌を学んだ間柄で、真之は、「子規君を送りておもふことあり蚊帳に泣く」の句を残している。
 伊予の三将の一人白川義則には、桜井忠温の『大将白川』(昭8)がある。白川は、秋山真之と同じく、明治元年(一八六八)松山市に生まれた。日清・日露の両戦役に従軍し、昭和二年、陸軍大臣となった。上海事変のとき、派遣軍司令官として従軍し、昭和七年、現地で没した。著者桜井もまた、自身日露戦争に連隊旗手として従軍し、旅順攻略戦で重傷を負った軍人であるが、郷土の大先輩の死をいたんで執筆した。
 同じく松山出身の軍人佐々木到一(明19生)に『ある軍人の自伝』(昭14)がある。佐々木は、陸軍大学を卒業し、中国通の軍人として知られた人で、明治四四年から約三〇年間にわたり、中国各地で活動した半生の回想記である。
 この時期、事業に成功して財をなし、晩年にいたってその刻苦のあとを記す自伝もいくつかある。中でも、会社経営の成功を土台に私立学校を創設した三人の人がいる。新田学園の新田長次郎、女学校設立の山下亀三郎、吉田中学校の村井保固の三人で、更に馬越育英会創設の馬越文太郎もいる。
 新田長次郎は、安政四年(一八五七)松山市に生まれ、新田帯革製造所を興して財をなした。松山の新田学園の創始者であり、『回顧七十有七年』(昭10)は、その自伝である。また、山下汽船の創設者山下亀三郎は、慶応三年(一八六七)北宇和郡吉田町に生まれ、宇和島中学中退、苦辛の末にその事業に成功し、海運王と称された。晩年、郷里の吉田・三瓶にそれぞれ女学校を創設した。その一生の思い出が自伝『沈みつ浮きつ』(昭18)としてつづられている。亀三郎は翌昭和一九年、七七歳で没した。同じく吉田町出身の村井保固は、安政五年(一八五四)に生まれ、慶応義塾に学んだ。福沢諭吉の町人教育に影響を受け、日本陶器の設立にかかわった財界人であるが、晩年、郷里に吉田中学校・村井幼稚園を創設した。保固は昭和一一年に没したが、その後に、大西理平が『村井保固伝』(昭18)を書いている。
 今治に馬越育英会を設立して教育事業にも貢献した馬越文太郎は、安政六年(一八五九)今治市に生まれた。米殼取引や金融業を営み、明治三〇年、今治商業銀行を設立して専務取締役となった。昭和一六年没。没後二年、渡辺鬼子松の手によって『馬越文太郎翁』(昭18)が書かれた。
 この他、事業家として成功した人々の伝記として、東予市に生まれ、山下汽船副社長・台湾電力社長等になった松木幹一郎に『松木幹一郎』(昭16 松木幹一郎伝記編纂会編)、松山市出身で、大正二年、中外アスファルト社長になった皆川広量について、その日記をつづった「皆川広量君追想録」(昭8)、また、上浮穴郡小田町出身で、伊予新報設立・三津浜港湾の修築に業績を残した久松定夫には、『久松定夫・大野助直伝』(昭17 曽我鍛)がある。
 伊予絣(今出絣)の考案者・鍵谷カナについても忘れることはできない。カナは、天明二年(一七八二)松山に生まれ、小野山藤八に嫁して伊予結城の生産に従事していたが、藍染により伊予絣を考案、成功した。垣生の三島神社に頌功碑が建てられているが、伊予織物同業組合がその業をたたえて、『鍵谷カナ女小伝』(昭4)をまとめた。
 一方、この時期には政治家の伝記も多く書かれている。山下亀三郎の一年後輩で、同じく吉田町に生まれた清家吉次郎は、愛媛師範を卒業後、教職にあって校長・視学となったが、政界に入って町長・県議・代議士として活躍した。俳句をよくし、その俳号を「無逸」といったところから、没後にその業績をたたえて、『無逸清家吉次郎伝』(昭11 無逸刊行会)が出た。
 松山市出身の加藤彰廉は、文久元年(一八六一)に生まれ、東京帝国大学を卒業して大阪市立商業高校長・衆議院議員となったが、大正五年、郷里の人々の強い要請によって、任期途中で松山に帰り、北予中学校長、続いて新設の松山商業高校長となって活躍し、郷土の期待に応えた。没後に『加藤彰廉先生』(昭12 加藤彰廉事業会編)が出た。この他にも、代議士をつとめた大洲の高山孤竹に、自伝『孤竹 高山長幸』(昭13)があり、また立憲民主党の衆議院議員で今治出身の武内作平には『武内作平君伝』(昭7 武内作平君伝編纂委員会編)がある。
 文人・学者についての伝記も多く書かれた。正岡子規没後四〇年余、昭和一〇年代後半に子規の伝記が相次いで出た。昭和一七年、曽我正堂の『正岡子規伝』(愛媛先賢叢書8)、高浜虚子の『正岡子規』(昭18)、柳原極堂の『友人子規』(昭18)、河東碧梧桐の『子規の回想』(昭19)がそれである。子規の俳句に対する情熱が描かれている。高浜虚子には、自伝『俳句の五十年』(昭17)がある。虚子の兄事した子規・碧梧桐・漱石らとの交友が描かれている。池内たけしには『叔父虚子』(昭9)がある。また、曽我部松亭は、酒造業のかたわら、伊予史談会にあって地方史の研究に努め、「伊予俳人録」「伊予歌人録」(昭17)をまとめた。
 曽我正堂には、『正岡子規伝』のほか、『伊予の松山と俳聖子規と文豪漱石』(昭14)、『伊予文人小伝集』『郷土伊予と伊予人』(昭17)がある。正堂は、明治一二年、西宇和郡三瓶町に生まれ、早大を出て東大史料編纂所・三井家史料編纂係等に勤めたが、病のため帰り、柳原極堂の伊予日日新聞に入った。大正三年の伊予史談会創立に参加し、伊予史談の編集をも担当した。正堂は、県人の伝記を次々と書いた。『上田久太郎翁』(昭15)、『久松定夫・大野助直伝』(昭17)・『不及翁余影』(昭18)・『井上要翁伝』(昭28)・『中江種造伝』(昭16)がそれである。
 学者では『文学博士原秀四郎君略伝』(昭4)がある。原秀四郎は明治五年(一八七三)今治市に生まれ、東京帝国大学文学部大学院を卒業した地理学者である。「越智郡郷土誌材」「本邦城郭の変遷発達史」などを残しているが、その没後に、原真十郎の手によって略伝がまとめられた。
 この他、松山市に生まれ、幕末維新に国事に奔走した堀内匡平について、景浦稚桃は『堀内匡平伝』(昭12)を書いている。堀内は、興居島の庄屋に生まれた郷土で、勤王の志深く、また国学・和歌にも通じて、「源氏物語比母鏡」、歌文集「花のしがらみ」などを残している。
 異色の自伝として、森律子の『女優生活二十年』(昭5)がある。森は、明治二二年(一八八九)松山市に生まれた。弁護士・代議士森肇の次女で、明治四四年、帝劇女優第一期生として初舞台をふみ、以後三五年間歌舞伎・新劇・ミュージカル・映画に、多彩な活躍をし、新派女優の第一人者と言われた。
 さて、この時期に、数多くの人物名鑑・偉人叢書の類が出た。大正期には、この種の本は、『日本の伊予人』(大8 武智勇記)、『海南之新人物』(大12 岩泉泰)、『愛媛県人物名鑑』(大12 海南新聞社)があるが、昭和に入って『南予人物名鑑』(昭4 宇和島南予人物名鑑刊行会)、『今治郷土人物誌』(昭7 愛媛県教育会今治部会)、『伊予人は躍る』(昭8 中山逸美)、『伊予二百偉人略伝』(昭8 伊予史談会)、『愛媛県先哲偉人叢書』(昭8~18 愛媛県教育会)、『宇和郡先賢概伝』(昭9 吉田繁)、『愛媛及愛媛人』(昭9~11 伊予春秋社)、『愛媛紳士録』(昭9 愛媛新報)、『県下第一線に躍る人々』(昭10 林満繁)、『越智郡郷土人物小伝』(昭10 愛媛県教育会越智部会)、『西予人物誌』(昭10~15 村田吉右衛門)、『伊予偉人録 先哲人名辞典』(昭11 城戸八洲)、『東予人物誌 新居郡の巻』(昭11 秋山英一)、『伊予先哲言行録』(昭14 須田武男)、『愛媛県先賢叢書』(昭16~18 大政翼賛会愛媛県支部)、『郷土伊予と伊予人』(昭17 曽我鍛)などが次々と刊行された。
 この中で、『愛媛県先哲偉人叢書』全六巻は、第一巻『矢野玄道』(矢野常道著)、第二巻『二宮敬作・三瀬諸渕』(長井音次郎著)、第三巻『伊達宗城』(兵頭賢一著)、第四巻『堀内匡平・三輪田元綱・香渡晋』(景浦稚桃著)、第五巻『尾藤二洲』(大西林五郎著)、『上甲師文』(兵頭賢一著)、第六巻『松浦宗案』(菅菊太郎著)で、以上一〇名、江戸時代から明治にかけて活躍した愛媛の、文字通り先哲偉人たちである。
 また、大政翼賛会愛媛支部が刊行した『愛媛先賢叢書』一五巻は、第一巻『義農作兵衛伝』(景浦勉著)、第二巻『神野信一伝』(森光繁著)、第三巻『二宮敬作伝』(長井音次郎著)、第四巻『中江藤樹伝』(近藤佶著)、第五巻『三瀬諸渕伝』(住谷悦治著)、第六巻『山之内仰西伝』(菅菊太郎著)、第七巻『烈女松江伝』(景浦稚桃著)、第八巻『正岡子規伝』(曽我正堂著)、第九巻『凝然大徳伝』(白石芳瑙著)、第一〇巻『一遍上人伝』(北川淳一郎著)、第二巻『近藤篤山伝』(渡辺盛義著)、特別号『菅源三郎』(森光繁著)、第二輯第一巻『盤珪禅師』(坂本石創著)、第二巻『児島惟謙』(原田光三郎著)、第三巻『伊達宗城』(兵頭賢一著)である。
 この二つの叢書の中で、重複するのは二宮敬作と伊達宗城の二人で、江戸末期から昭和までの各界の多彩な人物を取り上げて、先哲のすぐれた業績とその人柄を紹介している。この中で、唯一人昭和の人物たる菅源三郎は、明治一六年(一八八三)越智郡菊間町に生まれ、西条中学・高等商船に学んで、長崎丸船長として活躍した。長崎丸は昭和一七年、長崎港口において機雷にふれ、沈没したが、船客救助に献身して遂に船と運命を共にした人である。その壮烈な死は、特に戦時下の船員魂の模範として賞揚され『海の守護神菅源三郎』(昭19 言瀬睦夫)、『菅船長伝』などが書かれた。
 古人の偉業をしのび、その徳をたたえる時流の中で、中近世の人々についての伝記がいくつか書かれた。白石友治著『金子備後守元宅』(昭9)がある。白石は、明治二一年、新居浜に生まれ、新聞記者・石炭商などの後晩年は郷土史研究に打ち込んだ。天正一三年(一五八五)豊臣秀吉の指図で小早川隆景が東予地方に攻め入り、東予一円は忽ちに戦火に見舞われ、劣勢でなお対抗した土着武士団は、次々に敗れ、全滅していった。金子備後守元宅は、新居浜地方の雄として戦ったが、遂に敗れて金子山で戦死、いま麓の寺にまつられている。
 この他、旧制今治中学に三八年間在職した玉田栄三郎の「贈正五位村上義弘公伝」(昭9)、東京出身の一柳貞吉が西条初代藩主を書いた『一柳監物武功記』(昭4)、伊予史談会副会長・子規会長・県立図書館長などを勤めた菅菊太郎の『山之内仰西伝』(昭17)などがある。

 第五期

 日本の敗戦は、既成の価値観を根底から揺り動かす混乱を生んだが、一方また、束縛を解かれた自由な眼で見直そうとする気運を醸成し、伝記の分野においても百花りょう乱の観を呈した。こうした中で、特に伝記について活躍した二人の人がいる。西条市の秋山英一と松山市の鶴村松一である。
 秋山は、明治二八年(一八九五)西条市に生まれ、伊予教員養成所を卒業後、東予の小中学校・青年学校の教諭となり、更に西条市立郷土博物館嘱託として、西条市誌の編集にあたり、また郷土史研究に没頭して、東予の近世史・維新史の発掘に努めた。伝記については、古く『東予人物誌新居郡の巻』(昭11)、『贈従三位脇屋義助伝』(昭16)などを書いたが、戦後には、『一柳因幡守直郷伝』(昭25)、『東予義人伝』(昭27)、『南明禅師伝』(昭29)、『田中大祐翁小伝』(昭30)、『画人山本雲渓』(昭30)、『半井梧菴伝(付東予歌人群像)』(昭32)、『小児科の名医猿画の大家山本雲渓』(昭36)、『近代日本の夜明け(伊予勤皇史)』(昭43)などを次々に発表した。昭和五六年、八六歳で没した。
 一方、鶴村松一は、昭和七年、山口県に生まれ、松山に来て商業のかたわら、松山郷土史文学研究会長を勤めた。伝記には、『大喰仏海上人・日本廻国遊行僧の生涯』(昭52)、『四国遍路二百八十回中務茂兵衛義教』(昭53)、『秋山好古・真之将軍』(昭53)などがあるが、鶴村の業績の主たるものは、松山の俳人についての伝記である。「伊予路の正岡子規 文学遺跡散歩」(昭50)、「伊予路の種田山頭火 一草庵時代文学遺跡散歩」(昭51)、「正岡子規 故郷松山平野の文学風景」(昭52)、「流浪の俳人山頭火 松山時代の俳人と柿の会」(昭52)、「野村朱燐洞」(昭53)、「伊予路の河東碧梧桐 文学遺跡散歩」(昭53)、「伊予路の高浜虚子 文学遺跡散歩」(昭53)、「伊予路の野村朱燐洞 文学遺跡散歩」(昭54)、「野村朱燐洞拾遺」(昭54)、「柳原極堂 伊予路の文学遺跡散歩」(昭55)などを次々に発表して、俳都松山の代表的俳人たちを紹介している。惜しむらくは、鶴村は、昭和五七年、五〇歳の若さで、秋山の後を追うように、業半ばにして病没した。
 文人の伝記についても、この時期やはり、お国柄を反映して俳人のものが圧倒的に多い。中でも正岡子規については、影山昇の『少年正岡子規 人間形成と学校教育』(昭49)、坪内稔典の『正岡子規ー俳句の出立』(昭51)があり、少年時代の子規の精進ぶりが伺える。更に子規の全体像については、楠本憲吉の『正岡子規』(昭41)、久保田正文の『正岡子規』(昭42)、柳原極堂『子規の話』(昭50)、山本健吉『子規と虚子』(昭51)、愛媛新聞社『子規と漱石』(昭51)、松山市教育委員会『伝記正岡子規』(昭54)、天岸太郎『思い出の子規』(昭54)、畠中淳『子規の青春時代の一面、野球との出合いを中心に』(昭54)、粟津則雄『正岡子規』(昭54)、越智通敏『子規の夢』(昭57)、越智二良『伝記正岡子規』などが出て、まさに子規ブームの観があった。
 高浜虚子には、真下五一の『虚子 花鳥風詠の俳人』上下(昭51)、富士正晴の『高浜虚子』(昭57)があり、石田波郷には、楠本憲吉の『石田波郷』(昭37)、村上古郷の『石田波郷伝』(昭48)が出た。
 山口県出身の放浪の俳人種田山頭火は、昭和一五年、松山の一草庵で亡くなったが、その特異な生涯と俳句は戦後に見直され、多くの人々の関心を引くところとなった。伝記には、晩年の山頭火を最も身近かで世話をし、その没後、山頭火を世に紹介した大山澄太に『俳人山頭火』(昭24)、『俳人山頭火の生涯』(昭46)があり、上田都史に『俳人山頭火』(昭42)、『俳人山頭火 その泥酔と流転の生涯』(昭47)、『山頭火』(昭52)、斉藤清衛の『種田山頭火』(昭39)、金子兜太の『種田山頭火』(昭51)、『種田山頭火 漂泊の俳人』(昭55)、また愛媛大学を卒業後、高校教諭を経て上京し、いま著述に専念している村上護にも『放浪の俳人山頭火 行乞境涯の足跡を辿って』(昭47)、『山頭火-境涯と俳句』(昭53)、『山頭火の世界』(昭55)、『山頭火放浪記』(昭56)があるなど多くの人々に取り上げられ、山頭火ブームを現出した。
 俳人については、この他、越智郡伯方島で戦後を過ごした俳人阿部里雪に『柳原極堂』(昭32)、柳原極堂会編『柳原極堂』(昭33)があり。また阿部喜三男の『河東碧梧桐』(昭39)、霽月会編『恩師霧月哲人』(昭25)などもある。
 歌人については、宇摩郡土居町の山上次郎に『斉藤茂吉の生涯』(昭49)、『斉藤茂吉の恋と歌』(昭41)がある。山上は、戦後に県会議員を三期つとめ、のち農業のかたわら文筆にいそしみ、またアララギ派歌人として広く活動している。
 山上はまた、土居町の生んだ特異な政治家安藤正楽について、「非戦論者安藤正楽の生涯」(昭53)を書いている。正楽は、慶応三年(一八六六)、宇摩郡土居町の郷士の家に生まれた。長じて京都・東京に遊学し、末広鉄腸とも親しく交わって、鉄腸の衆議院議員立候補に際しては、応援演説を行ったりしている。政治を志した正楽は、後に家庭の都合で故郷に帰って郡会議員となり、また明治三六年から県会議員を一期つとめた。この正楽について、山上は、日露戦役の戦死者墓碑銘、日露戦役記念碑銘を取り上げ、非戦論者正楽の姿を詳述している。この二つの碑は、昭和五一年一二月、NHKテレビが「碑のある風景」として紹介しているが、日露戦役の戦死者高石音吉の墓碑銘を請われた正楽は、戦勝に意気あがる世情に背を向けて、音吉らの死は、「一大背理たる徴兵と一大惨毒たる戦争」の結果であると嘆いた一文を漢文で書き記した。更に翌四〇年には、再び日露戦役記念碑銘を請われて、戦争の惨禍は真にいたましい、これを無くするには、「世界人類の為に忠君愛国の四字を滅する」以外にないと書いた。非戦論者正楽の真情あふれた碑文ではあったが、さすがにこれは官憲の知るところとなり、碑面の文字はすべて削り取られて、今は全く読むことができない。この正楽の遺稿については、山上次郎篇「人間讃歌非戦論者安藤正楽遺稿」(昭58)がある。
 さて、この時期にも、いくつかの略伝集・叢書の類が出た。『愛媛を織る人々』(昭23)、『四国人物夜話』(昭26)、『教育文化賞に輝く人々』(昭28~31)、『故人を語る』(昭33)、『南予の山河と人々』(昭36)、『四国開発の先覚者とその偉業』全五集(昭39~42)、『愛媛の先覚者』全五冊(昭41~42)、『明治百年 愛媛の先覚者たち』(昭43)、『越智郡郷土人物伝』(昭43)、『愛媛篤農伝』(昭44)、『宇和島郷土叢書』 一〇冊(昭31~46)、『上浮穴郡に光をかかげた人々』(昭49)、『現代愛媛の百人』(昭50)、『著名人物伝』(昭50)、『伊予文人墨客略伝』(昭54)などがそれである。これらは、郷土の先達の偉業をしのび、その業績を顕彰しようとする面と同時に、それらを通して、われらの郷土のすばらしさ、伝統を再発見し、そこに生きることの意味を再認識しようとするものであった。
 学者の伝記では、学習院長になった安倍能成、東大総長の矢内原忠雄、東大医学部で物療内科を始めた真鍋嘉一郎、英文学者の中野好夫にそれぞれ秀れた伝記がある。安倍は、明治一六年(一八八三)松山に生まれ、東京帝大哲学科を卒業して、大学教授・文部大臣・帝室博物館長となり、また学習院長として皇太子殿下・浩宮さまの御教育に努めた漱石門下のカント学者であるが、伝記に、読売文学賞を受賞した『岩波茂雄伝』(昭32)のほか自伝として、『私の歩み』(昭24)、『戦後の自叙伝』(昭34)、『我が生ひ立ち』(昭41)などを書いている。
 矢内原忠雄は、明治二六年(一八九三)、今治市に生まれ、東京帝大法学部を卒業して東大教授となり、また戦後には東大総長にもなった人である。新渡戸稲造・内村鑑三・吉野作造の感化を受けたクリスチャンで、昭和一二年、政府・軍部を批判して東大教授の職を棄てた信念の人であるが、一貫してそれを支えていたものは、信仰の力であり、信仰と科学がより合わされた力が戦中戦後の矢内原の活動の原動力であったことがわかる。自伝には『私の歩んで来た道』(昭33)があるが、この他にも『私は如何にして基督信者となったか』(昭9)、『大学辞職の日』(昭12)、『思い出』(昭14)、『戦の跡』(昭20)、『おのれを語る』(昭27)、『私の伝道生涯』(昭31)などがあり、また『矢内原忠雄―信仰・学問・生涯』もある。
 真鍋嘉一郎は、明治一一年(一八七八)西条市に生まれ、東京帝大医科大学を卒業した。独米に留学後、東京帝大に内科物理療法学講座を開いて主任教授となった。没後に真鍋先生伝記編纂会によって、伝記「真鍋嘉一郎」(三五年)が出た。
 中野好夫は、明治三六年(一九〇三)松山市に生まれ、東京帝国大学文学部を卒業して東大教授となり、英文学を講じた。昭和二八年、大学の在り方に対する不満と大学教授の経済的不遇を理由に、四九歳で東大教授を辞任し専門分野のみならず、日本の近代文学評論をはじめ、文化・政治・社会評論にいたる幅広い評論活動を展開している。伝記については、名作『アラビアのロレンス』(昭和一五年)があり、また最近の力作『蘆花徳冨健次郎』三巻(四七~四九年)がある。『アラビアのロレンス』では、イギリスの青年考古学者ロレンスが数奇な運命からアラビアの救世主と慕われるようになる次第を、資料に基づいて描いているが、『蘆花徳冨健次郎』においても、蘆花に関するあらゆる資料を集め、検討して、人間蘆花の真の姿を捉えようとしている。『アラビアのロレンス』の終章は「この人を見よ」であったが、『蘆花徳冨健次郎』では、「この人を見よ」の序で始まる。しかし同じ表題ながら、ここでは、功成り名遂げて天寿を完うした叔母矢島揖子に対して、没後にすぐ、叔母の過去の秘密を暴露して、その非を糾弾するすさまじい蘆花の生きざまを紹介し、自伝作家蘆花の真の姿は何か、その真実を捉えようとする決意を述べている。
 教育界に活躍した三人の伝記も忘れることはできない。今治明徳高の山本徳行、済美高の船田操、宇和島実科女学校の土谷フデの三人である。山本は、明治三〇年(一八九七)越智郡大西町に生まれ、日大師範を出て教職につき、戦後、今治明徳高校長、短大学長となり、また私立高校連盟理事長として、私学振興に努め、文部大臣賞を受賞した。自伝『坂』(昭41)を残している。
 船田操は、明治五年(一八七二)松山市に生まれ、済美高等女学校専務理事として済美学園の発展に尽し、文部大臣賞、県教育文化賞を受賞し、また藍綬褒章を受章した人であるが、伝記に牧野龍夫著『船田操伝』(昭43)、船田彰、中村まみの『母を語る』がある。また土谷フデは、明治八年(一八〇五)宇和島市に生まれ東京女高師を出て、福岡・奈良で教壇に立った後、宇和島に帰って宇和島高女に勤め、県下最初の女性として宇和島実科女学校校長となった。伝記に『土谷フデ伝』があり、その記念碑が宇和島南高校の校庭に建てられている。
 愛媛の生んだ偉大な演劇人井上正夫(明14~昭25)は、伊予郡砥部町出身で、新派から出発して中間演劇を樹立し、その業績によって芸術院会員にまで選ばれた。自伝に『新派に生きる半生記』、『化け損ねた狸』(昭55)がある。また、井上については、『愛媛の先覚者1』で、越智二良が、『伝記井上正夫』(昭40)を書き、神田泰雄が『永遠の演劇青年井上正夫』を書いている。
 また同じく、大正昭和にわたって新築地劇団・苦楽座を結成して活躍した丸山定夫は、松山市出身で、昭和二〇年八月六日、広島の原爆で没した(四四歳)が、その最後は、江津萩江『桜隊全滅―ある劇団の原爆殉難記』に記されており、その活躍は、同じく丸山定夫遺稿集刊行委員会編『丸山定夫 役者の一生』(昭45)、神田泰雄の『評伝丸山定夫』に詳述されている。
 周桑郡小松町出身の書家織田子青(明治一九年生)は、小学校教員・今治実科女学校教頭等を歴任したあと、聖芸書道会(現「書神会」)を興し、活発な活動を行っているが、書家としての閲歴を『書家偽庵先生伝』正・続(昭31・48)に、ユーモアをまじえて面白くつづっている。
 重度の身体障害にもかゝわらず、困難を克服して努力している二人がいる。一人はサリドマイド禍で両手を持たず、努力して新居浜の桃山学院短大に学び、自立の道を模索している山口県出身の吉森こずえである。吉森の体験は、昭和五六年の国際障害者年に、NHKドキュメントとして放映され、全国の視聴者に多大の感銘を与えたが、更に『旅立とういまーこずえ20歳の青春』(五六年)として刊行された。また姫路市出身で、松山市に住む香川紘子(昭和一〇年生)は、その重度身体障害のため就学できなかったが、日本現代詩人会に属して詩作に励み、時間新人賞・愛媛新聞文化賞を受け、H賞候補・地球賞候補にも推された。詩集『方舟』をはじめ数冊の詩集を出版すると共に、自伝『足のない旅』を書いている。
 宇摩郡土居町の江口いと(大正一年生)は、戦後の同和教育の広がりの中で、地域にあって先進的な活動を続けて来た人であるが、その苦難の半生をふり返って『荊を越えて』(「私の歩んだ道」を含む)を書いた。夫を戦争で失い、戦後の物心両面にわたる苦しい生活の中で、子育てと労働に追われながら、同和・人権ー人間の美しさを求めつづけた苦闘の記録である。
 戦後の民主的諸改革の結果、民衆の政治参加が急速に進み、政治家が身近かな存在として映るようになった。この傾向を反映して、政治家の伝記もこの時期に急増した。大洲出身の井上要(慶応元年生)は、伊予鉄道社長・県会議長などをつとめて衆議院議員となり、『伊予鉄電思い出ばなし』『北予中学・松山高商楽屋ばなし』などを書いているが、昭和一八年に七八歳で没した。その業績は、曽我正堂の手で『井上要翁伝』(昭28)にまとめられている。東予市出身の衆議院議員河上哲太(明治一四年生)は、国民新聞経済部長を経て国会に出た。短歌俳句をよくし、小松の子安中学校長にもなったが、昭和二七年没した。その伝記は、佐山繁行の手で『河上哲太翁伝』(昭39)として刊行された。越智郡大西町出身の衆議院議員越智茂(明治三九年生)は、国会で厚生政務次官・文教委員長などを勤めたが、昭和三二年に没した。伝記に、桧垣義信著『越智茂ー丙午破竹の政治家ー』(昭50)がある。また北宇和郡日吉村出身の社会党衆議院議員井谷正吉(明治二九年生)は、戦前からの社会主義者であったが、昭和五一年没した。自らの苦闘の半生をふり返って、自伝『ちんがらまんだら』(昭25)を書いたが、伝記に『風雪の碑明星ヶ丘』(昭55)がある。
 松山市出身の外交官加藤拓川(安政六年生)は、ベルギー公使・特命全権大使などを歴任したあと、衆議院議員・貴族院議員として活躍し、更にまた地元に請われて松山市長をも勤めた異彩の人物である。加藤には、随筆日記等を集めた『拓川集』全六冊(昭5~8)があるが、伝記に、『愛媛の先覚者4』で、島津豊幸著『加藤恒忠』(昭41)があり、また畠中淳編著『加藤拓川』(昭57)がある。他に衆議院議員を勤めた人について、小野孟父著『小野寛吉』、重岡忠之編『重岡薫五郎小伝』(昭29)などがあり、また、新居浜市長を勤めた白石誉二郎に、白石誉二郎翁伝記刊行協賛会編『白石誉二郎翁伝』(昭50)、初代宇和島市長の山村豊次郎に、井上雄馬著『山村豊次郎伝』(昭25)がある。
 戦前の任命制県知事として明治四二年七月から大正元年一〇月まで愛媛県知事を勤めた伊沢多喜男(明治二年生)は、長野県出身で東大法科卒業、昭和二四年に没したが、伝記に伝記編纂委員会編『伊沢多喜男』(昭26)がある。同じく喜多郡内子町出身の宇都宮孝平(明治三〇年生)は、昭和一八年青森県知事となり、戦後は松山市長をも勤めたが、自伝に『わたくしの生涯』(昭55)を書いている。国鉄新幹線が準備されつつあった時代に、国鉄総裁としてその手腕を発揮した十河信二(明治一七年生)は西条市出身で、伝記に中島幸三郎著『十河信二伝』(昭30)がある。
 松山市出身の脚本作家長尾広生(大正九年生)には、伝記『高橋是清伝』がある。長尾は、北京興亜学院を卒業後、軍隊に入ったが、戦後は愛媛新聞社に勤め、のち独立してテレビドラマの脚本を書き、また「銭形平次」その他多くの作品を書いている。
 愛媛出身の代表的経営者としてこの時期に伝記を残しているのは、三井の宮崎清、三菱の船田如風、新日本製鉄の田坂輝敬、近鉄の佐伯勇、来島ドックの坪内寿夫などである。宮崎は、明治二七年、今治市に生まれ、東京高商卒業後、三井物産に入り、社長となる。更にリッカーミシン会長・日本ユニバック会長等を歴任し、昭和四五年没、追想録に『三井の誇り、人間宮崎清追想録』がある。三菱の船田如風は、本名一雄、明治一〇年、上浮穴郡久万町に生まれ、東京帝大法科卒、検事から実業界に転じ、三菱合資会社・三菱鉱業・三菱商事の取締役会長を経て、三菱本社取締役理事長を勤めた。短歌・俳句をよくし、号は如風。伝記に船田一雄氏記念刊行会編『船田一雄』(昭28)がある。新日本製鉄の田坂輝敬は、明治四一年、今治市に生まれ、東京帝大法科を卒業、新日本製鉄代表取締役社長になったが、昭和五二年没、『田坂輝敬回想録』がある。近鉄会長として関西経済界の重鎮となった佐伯勇は、明治三六年、周桑郡丹原町の生まれ、自伝に『運をつかむ』がある。
 造船業界の風雲児坪内寿夫は、大正三年、伊予郡松前町に生まれた。戦後松山での映画館経営から身をおこし来島ドック社長をはじめ奥道後観光開発、日刊新愛媛、佐世保重工などの経営に当たっている。自伝に『裸の報告書』(昭53)、『坪内寿夫の経営独学』(昭53)があり、伝記に藤本義一 『天井知らず』(昭53)、今井琉璃男『来島ドック物語』(昭46)、竹村健一著『坪内寿夫奇跡の経営力 企業再建王の人と哲学を探る』(昭57)などがある。
 また、住友別子鉱業所支配人として、新居浜市の発展にも意を用いた鷲尾勘解治(明治一四年生)は、兵庫県の人、京都帝大法科を卒業。別子銅山の争議など困難な問題を解決すると共に、地域と一体となった発展を考えた人である。自伝に『鷲尾勘解治自伝』があり、また伝記に、新居浜市編『鷲尾勘解治』(昭39)がある。
 県内企業経営者の伝記には、戦後の経済発展の中で自らの努力が実を結んだ半生を回想したものも多い。白方興業社長で、全国中小企業団体中央評議員・県中央会会長の白方大三郎(明治二六年生)には『私の歩み』(昭45)、昭和二六年に岡部呉服店を設立して、戦後の松山商店街の復興に尽力した岡部綾太郎(明治一八年生)には『私の足あと』(昭38)、松山で酒造業のかたわら自動車・映画・温泉開発などの事業に取り組み、また久米商工会議所会長などを勤めた後藤信正(明治二六年生)には『新生史』(昭45)、愛媛県立試験場に勤め、タオル製織法を指導して、今治タオル産業の発展に尽した中川苔石(明治二二年生)には『和多志能多和古登』(昭43)、また今治市出身で三和木材社長村上元紀(明治二三年生)には、『一技術家の生涯』(昭41)などがある。
 一方、産業人として地域の振興に努めた業績をたたえて書かれた伝記も多い。上浮穴郡久万町出身で、松山の関印刷の創業者関定(明治一二年生)は、俳句をよくし、晩年は社会事業にも貢献して勲四等瑞宝章・文部大臣賞・県教育文化賞などを受賞した。昭和四七年に没したが、伝記には、関定翁をしのぶ冊子刊行会編『積善ー関定さんー』(昭48)、大野盛直・景浦勉・伊藤義一著『関定の生涯』(昭49)がある。香川県出身の田中大祐(明治五年生)は、煙火師として煙火製造・販売を業として西条市に住んだが、鉱石蒐集家としても知られた人である。加藤正
善の手で『田中大祐翁小伝』(昭30)が出された。松山市で明星書店を興した安藤明には、田中治男著『踏んでもけっても 書店の道を求めて』(昭50)がある。松山市の松山信用組合理事長松岡貞市(明治二〇年生)には、狩野明石著『松岡貞市』(昭41)、松山市出身で伊予鉄取締役会長を勤めた新野伊三郎(明治七年生)には、新野伊三郎著・新野良隆編『新野伊三郎伝』(昭35)、宇和島の小児科医で歌人の中井謙吉(明治一四年生 号コッフ)には、中井鐸平著『中井コッフ伝』などがある。
 愛媛師範を卒業して県下各地の小学校に勤め、松山市荏原小学校長で退職した井上坤に『愛媛の将軍』(昭50)、『愛媛の佐官』(昭53)がある。日露戦役に活躍した騎兵の秋山好古、海軍の秋山真之、水野広徳、陸軍大臣白川義則をはじめ、愛媛の生んだ将軍・佐官の人々を紹介している。
 『肉弾』の著者桜井忠温は、松山出身の先輩知友である秋山好古・秋山真之・大将白川らの伝記をはじめ、軍人・戦争を扱った多くの作品を残しているが、この時期、桜井は、明治・大正・昭和の三代にわたる思い出を記して『哀しきものの記録』(昭32)を出した。乃木大将やステッセル将軍、夏目漱石のことなど、更に戦争によって運命をほんろうされた無名の多くの人々への鎮魂をこめて書いている。また、桜井については、「愛媛の先覚者6」に『桜井忠温』があり、永富映次郎が三百通の手紙によってまとめた『肉弾将軍 桜井忠温』(昭51)がある。
 『肉弾』と共に戦記文学の双璧と称された『此一戦』の作者水野広徳は、明治八年、松山市に生まれた。日露の日本海海戦には水雷艇長として参加し、大正期に入っては二度渡欧、第一次大戦の惨状をつぶさに視察した。この折、特に独仏の激戦地ベルダンの廃虚に目を開かれたという。大正一〇年、四七歳で軍職を退き、軍事・社会評論に筆をふるったが、第二次大戦に際しては、「日米戦ふべからず」と不戦論を主張し、昭和二〇年、越智郡吉海町で没した。自伝『剣を吊るまで』『剣を解くまで』は、昭和一三年頃に書かれたが、公にされず、戦後五三年に『反骨の軍人・水野広徳』として刊行された。水野については更に、松下芳男著『水野広徳』(昭25)がある。
 戦後復興が一段落した時期、人々は、物質的な充足と同時に精神的な充実を求めて、広く目を開き、われわれの伝統の再発見に心を向けた。その一つが先達への敬慕である。川之江の尾藤二洲、小松の近藤篤山、松山の三上是庵、書家三輪田米山、儒者宇都宮龍山、西山禾山らの伝記が書かれた。
 尾藤二洲は、延喜二年(一七四五)川之江に生まれ、朱子学を学んで寛政の三博士の一人と称された。昭和一七年愛媛県先哲偉人叢書第五巻『尾藤二洲』(大西林五郎著)があるが、更にこの時期、川之江ライオンズクラブ編『尾藤二洲先生』(昭51)、白木豊著『尾藤二洲伝』(昭54)、森実善四郎著『尾藤二洲先生略伝』(昭和四四年)、芥川正次郎著『尾藤二洲先生略伝』などが相次いで出た。
 まな、近藤篤山は、明治三年(一七六六)周桑郡小松町に生まれ、昌平黌に学んだ後、藩公に仕えた。丹原町教育委員会教育長を勤めた渡辺盛義に『近藤篤山』(昭43)がある。漢学者三上是庵は、文政元年(一八一八)松山に生まれ、江戸に出て山崎闇斉の学をきわめ、幕末に奔走して松山藩を恭順に導いて兵火から救った人であるが、愛媛の先覚者3に『三上是庵』(景浦勉)がある。
 伊予の三筆と称された三輪田米山(一八二一~一九〇八)には、河野如風著『三輪田米山』(昭35)、浅海蘇山著『米山-人と書』(昭44)があり、幕末明治の儒者宇都宮龍山(一八〇三~一八八七)には、宮元数美著『宇都宮龍山』(昭和五六年)、八幡浜出身で京都妙心寺派の僧西山禾山(一八三七~一九一七)には、坂本石創著『西山禾山』(昭22)、田鍋幸信編『伝記資料 西山禾山』(昭52)などがある。