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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

二 近代学校制度の発足

 明治四年(一八七一)廃藩置県の後、中央集権国家を目指す明治新政府は、翌五年学校制度の全国統一を計るため「学制」を頒布した。伊予の石鉄・神山両県(それぞれ松山県・宇和島県を改称)は、この制度に従い、小学校の設立にまい進し、同年一二月までにそれぞれ三六校・二八校を開設した。翌六年両県を合併して愛媛県となるが、同九年末には六四〇校を設立、ほぼ県内全域にわたって開校された。しかし、経済的負担が大きく、正規の教員は得難く、「学制」とともに制定された「小学教則」や、県独自で定めた明治九年の「愛媛県小学規則」にも従い得ず、多くは旧来の読書算を教えるに止まっていた。また、地方住民は学校の意義を十分認識できず、労働力を失うことや賦金や授業料を徴収されることにより、学校に対して嫌悪の情をいだく者も多く、児童も進級試験を恐れて学校を忌避する傾向があった。当時の就学率は三一~三二%に過ぎず、全国平均をはるかに下回っていた。児童の教育にあたる教員は、ほとんど士族層に依存していたので、新しい科目や教授法を講習させるため、諸種の施策を講じたが、古い知識しか持たない急造教員では、近代教育を担うことはできず、教員養成が急務となった。県では、明治九年愛媛県師範学校を創設、本格的に教員養成を図ることになった。
 同一二年(一八七九)、中央集権的な「学制」を廃止、地方分権的「教育令」を公布。翌一三年これを修正して「改正教育令」を公布。その翌一四年「小学校教則綱領」「小学校教員心得」を布達して、実施可能な近代教科目を定めた。県では、この基準に従い、明治一五年「愛媛県小学校教則」を定めた。
 これにより、明治一二年以来各郡・各学校で編成した小学校の教則・校則の独自性は失われたが、遅速区々であった小学校教育の進展状況は是正されることになった。教科書の入手は困難であったが、文部省刊行のものを県で翻刻したものや、外国の教科書の翻訳本などを使用していた。
 小学校教育の普及にひたすらであったこの時期は、中等教育はあまり発展せず、藩校以来の伝統を受け継ぎ地域ごとに自発的な英学舎あるいは英学所が設けられた。やがてそれらは、松山・南予・共済(大洲)中学校となるが、「学制」とともに公布された「中学教則略」には従わない変則中学校である。明治一一年「中学教則略」の廃止に伴い県立中学校となった。明治一二年「学制」は廃止され、同一四年布達された「中学校教則大綱」に従い、県では、翌一五年「愛媛県中学校教則」、同一六年「愛媛県中学校規則」を定めた。これらの規則制定、あるいは改正に伴って、伊予国に関する分(当時の愛媛県は讃岐分を含む)では、明治一三年西条、同一四年越智の両中学校が設立され、さきの松山・南予・共済(大洲)と合わせて、県立学校は五校となるが、県財政の困窮から、同一七年「中学校通則」を制定してこの五校を整理し、第一(旧松山、高等科と初等科)と第三(旧南予、初等科)の両中学校とした(第二中学校は高松)。
 私塾あるいは私立学校で存続しているものもあり、県では明治一五年「町村立私立学校設置廃止規則」によって統制している。当時、ドイツ人設計による近代的校舎を持ち、教育内容・方法ともに欧米風に行っていた私立学校もあった。反面、東洋道徳による徳性涵養の重視も私立学校に及んでいる。
 なお、明治一六年(一八八三)愛媛県師範学校に附属小学校を設立し、教員養成を次第に充実していくことになる。