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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

七 戦後の教育改革

 昭和二〇年八月一五日終戦。教育の戦時体制を解除し、軍国的思想を払しょくして平和国家建設を目指し、食糧をはじめ物資の極度に不足した中で、戦後の教育は出発した。同年一〇月、GHQ(連合軍総司令部)覚書「日本教育制度二対スル管理政策」をはじめ、相次ぐ通達や指令によって、厳しく軍国主義的・国家主義的思想及び教育が排除された。すなわち、不適格者の教職追放、修身・日本歴史・地理の授業停止、従来の教科書の省略・削除及び回収・破棄、銃剣道・教練・武道の禁止などを指示するとともに、「コース・オブ・スタディ」の編集、新教科書の作成を指令した。愛媛県には、占領軍の愛媛軍政府(同二四年から民事部と改称)が置かれ、最高司令部の指令実施の監視に当たった。
 昭和二一年、第一次米国教育使節団の報告書提出、文部省の「新教育指針」の発表、教育刷新委員会の発足など、新学制の準備が進められた。一方、「年頭の詔書」により天皇は神格を否定、「勅語及び詔書の取扱いについて」などの通達により、国体護持を基本にして新教育の基盤整備がなされ、同一一月、「日本国憲法」を公布、初めて憲法で教育に関する事項が定められ、翌二二年「教育基本法」と、形式・内容ともに画期的な「学校教育法」が公布施行せられた。
 六・三・三・四制の新学制は、昭和二二年四月一日、小学校・中学校から発足した。県下の新制小学校は、昭和二三年五月三一日の時点では私立二校、国立二校を含め本校四四二校、分校八九校、合計五三一校で、戦災を受けた小学校ではバラック建ての教室で二部授業を行った所もある。また、国民学校高等科と青年学校普通科は廃止され、新制中学校に編入、旧制中等学校の一・二年生は併設中学校の二・三年生となった。発足した新制中学校は同二三年五月三一日には市町村立二七七校、併設中学校・私立・国立の中学校をあわせて計三三四校で、教員組織・施設設備・教材・教科書・学用品などすべてが不備不足の中での教育は深刻であった。設立主体の市町村は、まず校舎の建築に意を注がなければならなかった。この昭和二二年度の中学校一年から学年進行で義務教育年限は九年となった。
 県下の中等学校は、戦後の開校・転換などを経て、昭和二二年四月には、公私立合わせて中学校一三、高等女学校二三、農業学校一二、工業学校四、商業学校五、水産学校一であったが、翌二三年四月一目これらの中等学校を移行して全日制の新制高等学校が発足した。高等学校設置の暫定基準によって新制に移行した高等学校(「愛媛県高等学校設置規則」による)は公立四八校、私立九校であるが、同二四年八月、総合制・学区制・男女共学制の三原則の基本方針によって県立高等学校を再編成、同年九月一日全日制の県立高等学校は、二九校一分校となった。翌二五年度から実質統合、そのための緊急を要する施設が逐次整備されていった。その後、職業課程については、分離独立させた方が効果があるとの気運が高まり、昭和三一年までに農業三、工業三、商業一、水産一の各高等学校が分離独立した。同二六年「産業教育振興法」が制定され、職業教育に対する関心も高まった。
 私立中等学校は、その半数以上が戦災に遭い、戦後の預金封鎖などの経済事情の中で、復興に涙ぐましい努力を払いながら、新制中学校を併設し、同二三年には、設備基準への完備を条件に新制高等学校として認可された。私立高等学校は、総合・学区・男女共学の三原則の強制を受けなかったので、それぞれの自主性を保ち、同二四年の「私立学校法」の制定によって学校法人を創設した。同法は、私学助成の道を開いた画期的なものであった。
 勤労青年に大きく門戸を開いた定時制・通信制の教育は、定時制については、昭和二三年九月二一日付愛媛県告示「愛媛県立高等学校(定時制課程)設置規程」により、独立校一一、併設校三一、分校三四計七六校と他に私立校一校が発足した。しかし、施設設備などの整備は地元負担によることとなっていたため、計画どおり進捗した学校は少なく、県教育委員会は同二六年「定時制課程運営基準」を設定した。
 通信制の教育については、昭和二三年二月、旧制松山中学校(現松山東高等学校)及び新制松山市立勝山中学校に通信教育部を設置し、それぞれ中学校・高等学校の実施校とし、同二六年一月から県立宇和島東高等学校も実施校となった。当時の制度では、通信教育のみでは卒業資格を得ることが困難であったため、定時制との二重在籍が認められていた。
 以上の学制改革に伴う新学制への移行措置の詳細は、表1ー2のようになっている。
 新学制の実施に伴い、教育課程と教科書は大きく改められた。昭和二二年公布の学校教育法施行規則で教科を定め、教育課程の基準は学習指導要領によることとして「学習指導要領一般編(試案)」が同年発表になり、続いて「学習指導要領各教科編」が「試案」として発行された。小学校の教科の基準は、国語・社会・算数・理科・音楽・図画工作・家庭・体育及び自由研究と定められた。新しい社会科は特に注目され、県でも実験学校を中心に研究が進められた。また、同二四年には「学習指導要領に基づく単元学習」、が通達された。
 中学校は、必修科目として国語・社会・数学・理科・音楽・図画工作・体育、選択科目として外国語・習字・職業及び自由研究を定め、国語の中に習字、社会の中に国史が特記された。同二四年体育は保健体育、職業は職業家庭に改められ、自由研究は廃止されて、特別教育活動の時間が設けられた。同二六年教育課程審議会の答申に基づいて、戦後急いで作成されたこの学習指導要領の全面改訂を実施した。小学校では、教科に四つの大きな経験領域を示し、その時間配当の例示によって各学校が実情に応じて時間配当を行う目安とした。また、習字を国語の学習の一部として課すことができることとし、自由研究にかえて教科以外の活動の時間を設けた。中学校では、習字を国語科に、日本史を社会科に含ませることを明確にし、職業及び家庭を職業・家庭とした。また、特別教育活動の性格や目標を明確にした。
 高等学校の教育課程は、昭和二二年「新制高等学校の教科課程に関する件」で基準が定められ、同二三年から「高等学校学習指導要領(試案)」が教科ごとに発行され、その後逐次改正されて、同二六年「学習指導要領一般編(試案)」で修正された。その特色は、単位制と教科選択制である。教育形態としては、全日制・定時制・通信制の課程に分かれ、教育内容からは、普通教育を主とする学科(普通科)と専門教育を主とする学科(職業科)に分かれる。国語・社会・数学・理科及び保健体育の五教科をすべての生徒に共通に履修させ、卒業に必要な修得単位を八五単位以上と定め、そのうち三八単位を前記の共通必修教科とした。職業科については、その職業に関する教科・科目を学校が編成した計画に従って、合計三〇単位以上履修すべきものとした。発足当初設けられていた自由研究は、同二六年の改正によって、特別教育活動と称し、教科の学習と並んで教育課程の重要な内容を担うものとされた。また、定時制及び通信制の課程の修業年限は四年以上と規定された。
 戦後、停止された地理・日本歴史・修身の授業については、地理は昭和二一年八月、日本歴史は同年一〇月から暫定教科書の到着とともに再開され、学習指導要領の公布とともに社会科に組み入れられたが、修身は再開されず、学校全体で行う公民教育の中で指導することになる。やがて同二六年文部省から「道徳教育のための手びき要綱」が出され、県は翌年『道徳教育実施の手引き(草案)』を作成配布し、道徳教育研究大会を開催した。
 教科書については、同二二年教科書検定制度を発表、国定から検定制に移行。とりあえず文部省は規範となる教科書を急拠作成した。同二四年から民間の教科書が検定済みとなり、使用され始めた。
 教育課程の改革に伴い、学習指導法も急速に改善された。その一つが経験主義に立つ単元学習である。また、能力別グループ学習、その他の学習指導法、視聴覚教具教材の利用、学校図書館の利用などいろいろな研究や実践がなされ、更に学習評価の研究改善も行われた。また、昭和二三年「愛媛県教育研究所規定」が定められ、同研究所は翌二四年県下小・中学校児童生徒の基礎学力検査を実施、その結果を発表して、指導方法の改善に資した。
 幼稚園は、学校教育法によって学校として位置づけられ、同二三年「保育要領」、同二六年「幼児指導要録」、同二七年「幼稚園基準」が公布され整備されていくが、県内の幼稚園数は同二三年一九園、同二七年には二九園とまだ少数にすぎなかった。
 特殊教育諸学校は、同二三年盲・聾学校が義務制となり、県立盲唖学校を分離して県立盲学校、同聾学校を設立し、同二九年宇和聾学校を設置した。
 新制大学は、同二四年発足。県内では国立愛媛大学(旧官立松山高等学校・愛媛師範学校・愛媛青年師範学校・新居浜工業専門学校を包含)、県立松山農科大学(旧愛媛県立農林専門学校を基盤)、私立松山商科大学(旧松山経済専門学校を基盤)の三大学が発足した。同二四年「学校教育法」の一部改正により認められた短期大学については、翌二五年私立松山外国語短期大学(旧私立松山語学専門学校を基盤)が発足した。
 教員養成については、愛媛大学に教育学部が置かれるとともに、同二四年「教育職員免許法」施行により開放制度となった。県教育委員会は同二五年以来、免許状及び上級免許状取得のため、認定講習を実施、同三一年度までに受講者は総数四万五、〇〇〇名を超えた。なお、資質向上のため各種現職教育も実施された。
 社会教育については、同二四年我が国では初めての「社会教育法」が公布され、続いて同二五年「図書館法」、同二六年「博物館法」が制定されて、社会教育活動の基礎が確立した。戦後の公民教育は、学校では社会科に、地域社会では公民館活動に発展していった。公民館は社会教育振興の拠点であるとの認識に立って、その設立に意が注がれ、同二七年には、六七二館となり、同三六年、県の公民館設置率は一〇〇%に達した。運営方法の確立のため実験公民館を指定し、定期講座に重点を置いた。婦人教育の振興も戦後の大きな特色で、各地で婦人学級が盛んに開設され、地域婦人団体、文化婦人団体など各種の婦人教育団体が結成された。
 戦後の新学制に伴って、学校PTAが新発足した。愛媛軍政府は、県下各地を巡回して、PTAの目的・運営などについて指導し、同二四年には各郡市PTA連合会、同二五年には愛媛県PTA連合会の結成をみた。また、高等学校PTA連合会も別に結成された。しかし、PTA本来の活動は低調で、県教育委員会は、研究指定校を委嘱したり、優良PTAを表彰するなど、その育成指導に当たった。同三七年から結成されはじめた愛護班活動は、青少年の健全な育成に貢献している。
 青年団についても、地域青年団を中心とする青年学級などが開設されるとともに、同二二年県連合青年団が結成された。
 学校体育の内容は大きく転換し、遊戯やスポーツが中心となり、部活動も各種のスポーツ活動中心へと移行した。武道は民主的なスポーツとなり、同二五年柔道、二六年弓道、二八年剣道がスポーツ教材として取り扱ってよいことになった。昭和二一年第一回愛媛県体育大会が開催され、同年第一回国民体育大会(第八回国民体育大会は愛媛県が主会場)も開催され、スポーツ振興に大きな役割を果たした。スポーツの急激な発展は、青少年の健全育成に大きく寄与したが、反面、対外試合について規制の必要も生じ、同二六年県教育委員会は「学校対外試合実施規程」を定めることになった。
 戦後の教育政策で大きな変革をみたものに教育行政制度がある。終戦時、県内政部社寺教学課にあった教育関係行政は、内務部教育課、教育民政部教育課、教育部などを経て、昭和二三年、画期的な教育の民主化といわれる制度「教育委員会法」の公布によって、同年一〇月第一回愛媛県教育委員選挙が行われ、同年一一月一日、愛媛県教育委員会示あわただしく発足し、教育委員、教育委員会事務局及び県下出先機関として一二教育事務所が設置された。なお、同二二年、従来の視学制度は廃止され、指導主事が設置されている。また、市町村教育委員会は同二七年一一月一日発足した。六市・三四町・一六三村であった。

表1ー2 新学制への移行措置

表1ー2 新学制への移行措置