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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 初等教育

 和算から洋算への転換期

明治の初期から中期にかけては、和算から洋算に移り変わったときであった。明治五年(一八七二)に「学制」が頒布され、文部省は「小学教則」を制定した。それによると、算術については、「九九数位加減乗除但洋算ヲ用フ」と規定し、洋算(筆算)専用とすることが定められた。しかし、教員には筆算を知らない者も多く、教科書が完備していない状態では実施に大きな無理があり、翌六年に文部省は早くも筆算専用を改正し、和算(珠算)の併用を認める方針を布達した。愛媛県は、郡市村落によって学業進歩の差が大きくなったため、同一一年には、下等小学教則を甲・乙・丙の三種(甲・乙とも八級まで、各級六か月、丙は四級、各級一か年)に分け、甲種は第五級、乙種は第七級から筆算に併せて珠算を導入し、丙種は珠算のみとした。次いで、同一三年の教育令改正に基づいて、愛媛県小学校則では小学校の修業年数を初等科及び中等科は各三か年、高等科は二か年、合計八か年とし、算術は初等科では珠算を用い、中等科で珠算に併せて筆算を導入し、高等科は筆算のみとした。
 明治一九年(一八八六)、初代文部大臣森有礼によって学校令が定められ、「小学校令」で小学校を尋常小学校四年・高等小学校四年とし、尋常小学校を義務教育とした。愛媛県は国の基準を参考にして小学校教則を制定したが、算術は尋常小学校では珠算、高等小学校では筆算を用い、筆算の導入が一年早められた。しかし、県は愛媛教育協会に諮問した結果、同二一年に教則を改定し、尋常小学校は第二学年から珠算・筆算を併用することとした。 明治二三年の「小学校令」改定によって、我が国の小学校制度は確立した。文部省は同二四年、「小学校教則大綱」を公布、愛媛県はそれに準拠して同二七年「小学校教則」を定めた。筆算については、文部省が「小学校二於テ筆算若クハ珠算ヲ用ヒ、又ハ筆算ヲ併セ用フルハ土地ノ情況二依ルヘシ」と規定しているのに対して、愛媛県は尋常小学校の低学年から高等小学校の高学年まで筆算だけとし、筆算重視の考え方をとっている。
 明治三三年(一九〇〇)、新しい「小学校令」と「小学校令施行規則」が定められ、算術の目的・内容・留意事項が明確に規定されて算術教育は国の統制のもとに一層整備されていった。このときの「算術八日常ノ計算二習熟セシメ、生活上必須ナル知識ヲ与へ、兼ネテ思考ヲ精確ナラシムルヲ以テ要旨トス」という目的は、昭和一六年に「国民学校令」が制定されるまで四一年間にわたって生き続け、我が国の算術教育の指導精神となった。算術の内容は、尋常小学校は通常の加減乗除、小数の簡易な加減、度量衡など、高等小学校は小数・分数・比例・百分率などであった。筆算と珠算については、「算術ハ筆算ヲ用フヘシ」と明示して、従来の筆算もしくは珠算、または筆算・珠算併用を改め、筆算専用に踏み切り、珠算は「土地ノ情況二依リテハ珠算ヲ併七用フルコトヲ得」程度にとどめた。この方針は、明治初年から問題となっていた和算を洋算に切り換える数学教育近代化の方策が、算術においてはようやく終局に達したことを示すものであった。

 黒表紙教科書の時代

 明治一九年の学制改革と同時に教科書の検定制度が始められたが、三六年には教科書の国定制度が実施され、三八年四月から我が国最初の国定教科書が全国の小学校に使用されることになった。この尋常小学校算術書は、表紙の色か黒かったので黒表紙教科書といわれるが、各学年とも教師用だけであった。第一・二学年で暗算を課して計算の基礎を確立し、第三・四学年では筆算を課して計算に熟達させるように定めて教材が編集してあり、暗算と計算でもって四年間の算術教授をするのであるから、児童用教科書は必要としないとされたのである。
 この教科書は、藤沢利喜太郎理学博士の影響が強く、直観主義・実験実測主義を排撃して数え主義に立脚し、計算教材の系統については細かい配慮をしているが、計算中心主義で、しかも形式陶冶説の立場から注入的訓練的な傾向を打ち出している。これは当時の数学教育改革の世界的動向には逆行するものであった。
 黒表紙教科書は、修正が三回行われている。第一次修正は明治四三年で、小学校の義務教育が六か年に延長されたため尋常第五、六学年用教科書と、従来は無かった児童用教科書第三、四学年が新たに編纂された。第二次の修正は、数学教育の改造運動が進むに伴い、時代に即応するため、大正七年から同一三年にかけて学年進行に従ってなされている。第一学年で実物観察や作業を取り入れたり、また児童用教科書を片仮名書きの口語文にして、絵図を入れたり、複雑困難な教材を削除したりして児童の負担軽減を図っている。第三次修正は、大正一四年にメートル法採用に伴って行われ、学年進行で昭和五年まで継続した。この間に「小学校令施行規則」が大正一五年に改正され、高等小学校では代数計算及び幾何図形が加えられ、珠算が必修とされた。また、教授の方法について「算術ヲ授クルニハ実験実測ヲ用ヒ」としたことは、数学教育改造運動の影響によるものとして注目される。

 算術教育研究

 国定教科書の刊行と修正は、その趣旨や取り扱い方法などの研究を促し、明治三三年から大正八年までの間において愛媛教育協会の雑誌『愛媛教育』に発表された算術教育に関する論考の総数四八のうち、教授論・教授法に関するもの二四、教材研究一一となっている。それらの内容を見ると、「算術科に関する藤沢理学博士の講話」(明治三三年六月)をはじめ、国定教科書に基づく教授案や、教授の実際と批評、
教授要項録、教授細目、珠算と暗算の指導法など、国定教科書の受容と実践に努力がはらわれている一方で、数え主義や国定教科書に対する批判が早くから現れている。以下、それらを具体的に見てみよう。
 例えば、鈴木筆太郎は「思想上に於ける数の排列形式を論ず」(明治四三年三月)「算術教授法に関する研究報告」(明治四三年九月)で、数え主義と直観主義を共に批判し、新しい教法を提唱している。なお、鈴木は昭和五年三月号までに六編の論文を誌上に発表し、愛媛算術教育界の元老的存在であったようである。愛媛県女子師範学校附属小学校訓導木野内為次郎も大正二年一一月号から同四年五月号までの誌上に五編の論文を載せ、児童の心理を考慮した教材の具体的な取り扱いを論じ、国定教科書の修正使用法を述べている。それに続いて女子師範学校附属小学校研究部は「自立的学習態度養成に関する研究」(大正七年六月)で算術では実測を重んじることを説き、同校訓導山口久米助は「三度尋六の分数を教授して」(大正七年六月)で優れた成績をあげ得たのは、教科書が算法の理由を無視しているのに比して児童心理に適応した説明を導いたためだと述べている。愛媛県師範学校教諭大槻良三・関根文吉は「小学校算術科教授を参観して」(大正八年一月)で、国定教科書の無味乾燥、内容過多、献立周到に過ぎることをあげ、無二の良教科書と過信せず、一段高き見地に立ち自信力を以て教授するよう注意を促している。
 大正一〇年になると、愛媛県師範学校附属小学校訓導溝垣音治が「算術教授法の史的考案」(大正一〇年八月)において、同誌で初めてペリー、クラインによる数学教育改造運動にふれている。溝垣は、この他に実態調査法や、教授法、教案例、教科書考察など、算術教育に関しては同誌で最多の八編の論考を発表し、後に大正一三年宇和町小学校長となり、環境整理面にダルトン案を導入している。愛媛県女子師範学校附属小学校訓導高橋楚夫(昭和一五年~同一七年県視学)は「算術教授上の諸問題」(大正一一年一月)と題して、ペリー、クラインの主張を小学校でどのように生かすかを論じ、具体的指導法に及んでいる。
 以上のことから、両附属小学校の訓導たちが常に算術教育改善のリーダーシップをとっていたことがわかる。なお、このころには、中学校の入試の弊が増大し、算術教育がゆがめられている状況を取り上げた論考もみられる。
 大正末期から昭和初期にかけての同誌には、林鶴一の講演筆記「世界に於ける数学の現況」(大正一三年二一月、同一四年一月)が新しい数学に対する現場の関心を示し、また第三次国定算術書修正の反響は大きく、メートル法の取り扱いや、新しく採用された総九九の使用法、応用問題の指導に関する論考が目立っている。さらに、両附属小学校と余土代用附属小学校における個人差、能力差に応じた算術指導法、郷土に立脚した算術教育や、グラフ教授についての論考も掲載されており、新教育思潮と数学教育改造運動とが小学校現場では重なりながら展開していったことがうかがえる。

 緑表紙教科書の時代

 昭和八・九年ころは、児童中心主義・個性中心主義・作業主義算術・郷土算術・生活算術など、各種新主義教育実践の反省期にあたり、現場では安定した一般的な進歩的な方策を希望する声が強かったようである。この要望にこたえたのが、緑表紙教科書の出現であった。
 昭和五年に黒表紙教科書の第三次修正が完了したが、その五年後の昭和一〇年に『尋常小学算術』が新しく発行された。(実際には逐年登場し完成したのは昭和一五年で、その間は黒表紙教科書も併用されていたここの教科書は、児童中心主義の教育思潮と、世界的な数学教育改造運動の精神とを積極的に取り入れた画期的なもので、「児童の数理思想を開発し、日常生活を数理的に正しくするように指導すること」を目的として編纂されている。傍点の箇所が黒表紙のねらいと異なる点てある。内容には、関数関係や空間観念、実験実測を重視して、黒表紙教科書には見られなかった目測・ダイヤグラム・作間・立式・場合の数・確率の考え、不定方程式の考え、統計的処理、数列などの新教材が導入された。内容の提示の仕方は、児童の心理の発達に応ずるよう、特に日常の生活に必要と思われる問題場面を提示し、その解決方法として、数理的な計算方法をはじめ、概念や原理を導くようにした。三〇余年来の黒表紙が緑色になったのみならず、尋常第三学年用まで色刷りとなり、さらに注目すべきことは第一学年用上巻は文字がなく絵本となったことである。
 なお、昭和一一年には『小学校令施行規則』が改正され、従来の筆算万能主義を否定して筆算・珠算・暗算が対等に扱われるようになった。緑表紙算術書では第四学年から珠算が取り入れられ、従来の五珠にかえて四珠が使われ、除法には掛算九九を使用する商除法を採用し、古い珠算から新しい珠算への転換が行われた。
 緑表紙算術書は、教育界に新鮮な驚きをもって歓迎されたが、現場ではこれをいかに理解し、実践に移すかが大きな問題であった。その当時、気鋭の青年教師であり、『愛媛教育』誌に算術教育に関する論文を発表している森岡正雄(愛教研数学部長)は、往時を回想して、「現場人にとっては、昭和四〇年代の数学教育現代化よりも大きな変革であり、ショックであった」と語っている。当時の資料は、今のところ『愛媛教育』しかないので、これによってその後の状況を太平洋戦争が終わるころまでたどってみよう。
 新教科書の編纂の趣旨や取り扱いを理解するために、まず文部省国定教科書編纂委員を招いて指導を受け、その講演筆記を掲載している。それが東京小松第二小学校長岩下吉衞「国民教育としての算術教育」(昭和一〇年二月)と、東京高等師範学校教授安東寿郎「新算術書の精神」(昭和一〇年一一月)及び「新算術書編纂の精神と其の取扱い」(昭和一一年一月)である。
 また、新居郡角野小学校訓導白川芳松は、昭和一〇年三月二・三日東京文理科大学講堂において開催された新教科書講習会を受講し、その速記の要約と、他に三日間を費やして著名の実践家を自邸に訪問し、親しくその意見を拝聴したものの要約を、「小学算術(尋一上)編纂趣旨と取扱上の諸注意を聴く」(昭和一〇年一〇月)で報告している。内容は、文部省図書局長、緑表紙算術書編纂の中心人物であった塩野直道、前記編纂委員の安東寿郎の講話と、京都市小学校長の「新算術書礼讃論」であるが、新教科書出現による現場の熱気のようなものが感じられる。
 同誌には、昭和一〇年から同一五年にかけて、愛媛師範学校教諭、及び同附属小学校訓導などによる新算術教科書に関する論説・解説・教材研究・教授案・公開授業案内・研究会記録などが数多く見られる。
 昭和一二年一一月一二・一三日に開催された第一七回愛媛教育研究大会は、第一目に算術教育を取り上げている。(『愛媛教育』昭和一二年一二月)日程は、新教科書を使った尋三算術・尋四珠算・高一算術の研究授業四〇分、教授批評会五〇分、研究発表九件が昼食をはさんで二時間、意見交換一時間となっている。このときの研究発表と意見交換は次のような題目で行われ、新教科書に関するものが多いが、実践上の地味な問題も取り上げられている点が注目される。
  ○研究発表の題目 「新教科書に現われたるグラフ教材」「小学算術に於ける統計思想の養成と其の実際」「新算術書の活用について」「珠算教育の実際」「珠算教育の経験から」「算術学習具は如何に統制すべきか」「私の算術教育実践姿態」「力の計算指導」「算術的態度の陶冶」
  O意見交換のための問題点 「新算術書に於ける児童の立式の取扱い」「新算法として暗算・筆算・暗算の配合と取扱い」『算術教授上記号・用語・記載形式に関する取扱い』「尋一算術練習帖の種類と其の有効な取扱い」「算術教授上構図の技術陶冶と図画手工との連絡」「遅進児に対する特別学級や特別施設の状況」
 この「日程」の後で、女子師範学校附属小学校訓導越智 操が「算術的態度の陶冶」を論じ、新教科書の取り扱いにおいては児童の算術的態度を馴致練習を目指すのでなければ到底その目的が達せられないと主張して、教科書の改訂に極めて主体的な態度を示している。
 ところで、新教科書の出現で全国的に小学校の算術教育は活気を呈したが、内容が難しく、大部分の教師はこれをもてあまし、計算能力低下の声が盛んに起こったという。(塩野直道著『数学教育論』河出書房・昭和二二年刊)

 水色表紙教科書の時代

 緑表紙教科書の刊行が第六学年用をもって完結した翌昭和二(年に「国民学校令」が公布され、小学校は国民学校となり、教科は国民科・理数科・体錬科・芸能科に分けられた。「算術科」は、「理数科算数」と改称され、算数科の名称は戦後にも継承された。算数とは算術と数学との中間的な用語で、これに変えたのは、黒表紙時代の算術は計算の習熟が主目標であったのに対し、緑表紙以来は図形や関数関係、統
計グラフなど、児童の当該年齢に可能な限り数学的な考えを広く取り入れるようにしたからである。教科書は、一・二年用『カズノホン』、三~六年用『初等科算数』と、『高等科算数』が昭和一六年から毎年二学年分ずつ刊行された。この教科書は表紙が水色だったので、水色表紙教科書と略称されている。編纂にあたっては緑表紙の精神は受けつがれているが、戦時色を強め、理科と統合したために国防・産業・理科に関する素材が多くなっている。例えば力学的内容として、力の合成・分解の問題を作図によって解かせるようにした。
 文部省図書監修官塩野直道(今回は専ら理科教科書に力を注いだ)は、昭和二(年五月六日、愛媛教育会館で「国民学校教科書編纂の趣旨」について講演している(『愛媛教育』昭和二(年六月)。その中で、「一昨々年の五月頃、教則等の研究当時、私は国民学校案に大反対であった。理科と算数を一緒にしなければ何故できないのかという疑念であった。(中略)爾来、半年熟慮した。自分の考えの誤っていたことがはっきりわかった。教科がどうこういうよりも、ただあるものは皇国の道を如何にして修得するかということのみ。何科があろうとかまんのである。」と述べ、最後に「末事に拘泥せぬように魂をうんとすえて、おほらかな気持ちで、たくましい人間をつくってもらいたい。のびのびと子供と共に自然の観察をやってもらいたい。」と結んでいる。
 『愛媛教育』は、『第二一回愛媛教育研究大会号』(昭和一六年一二月)で、理数科算数の第一期(初等科一・二年)の指導についての研究を載せている。さらに『第二三回愛媛教育研究大会号』(昭和一八年一一月)では、愛媛師範学校女子部訓導古谷 清が「必勝の根基に培ふ科学教育の実際(其の一)効率的授業の建設(理数科算数)」で、軍部及び五大産業に於て、どの方面に力を注いで欲しいかをたずねた結果から、方策の一つとして「授業案には児童の如何なる働き或は力を錬るのかの錬成意図を必ず明記することとし、授業にのぞんでは、この意図を達せずんば断じて教壇を下らじの気魄で邁進せねばならない。」と述べている。「働きを錬る」ことは水色表紙教科書編纂官前田隆一が強調していたところで、その精神に沿った指導の徹底を説くとともに、戦時下の緊張した現場のふんい気を伝えている。

 『愛媛教育』誌では、この他に高等小学校算数教授用参考書(昭和一八年四月)や「日本数学教育への道」(昭和一八年一一月)といった時局講演を紹介しているが、それ以降は昭和一九年六月の最終号まで算数教育に関する記事を見ることができない。昭和一九年二月「国民学校令等戦時特例」が公布され、同年八月国民学校高等科児童の勤労動員によって、平常のような授業を行うことは不可能となっていったのである。

 生活単元学習と愛数教

昭和二〇年(一九四五)八月の終戦を迎えて、これまでの国民学校の教育課程は全面的に改訂された。
同二二年に六・三・三・四制が正式に発足し、学習指導要領の制定とともに、いわゆる新教育、生活単元学習が始まった。社会科と理科が中心教科として重視され、算数・数学は国語とともに用具教科として位置づけられた。文部省は制度に合わせて最後の国定教科書『中等数学』を同二二年に出版したが、数学的な内容は断片的な知識としてしか導入できず、翌年に「算数・数学の指導一覧表」を、また二四年には模範的単元学習による教科書として小学校四年用と中学校一年用を作っている。さらに単元学習の総まとめという形で同二六年に学習指導要領(試案)を発表した。小数及び分数の乗除は中学へ移され、旧制の小学校の内容が新制中学の一年まで、旧制中学校の一年半までが新制中学校卒業までという形になっている。
 ところで、愛媛県では、昭和二二年九月、愛媛県教職員組合文化部数学部門が組織を拡大して「愛媛県数学教育会」(以下、愛数教とよぶ)が発会し、初代会長に愛媛師範学校教授越智政雄が就任した。この会は、その後、会誌の発行、研究会・研修会の開催、問題集やテキストなどの発行の事業を行っている。
 会誌から本県における算数・数学教育の推移を見てみると、まず創刊号(昭和二三年二月二五日)は、全紙面が単元学習で埋められている。そのうち、愛媛師範学校附属小学校第三学年の学習指導計画(九月の一断面)では、中心単元「松山市の交通運輸」、学習単元「伊予鉄しらべ」、学習活動①乗物あつめ(六時間)②松山市の乗物についての相談(一時間)③伊予鉄見学の準備(五時間)④見学(一八時間)⑤見学による研究発表会(三時間)⑥電車ごっこをしよう(一五時間)⑦乗物に乗っておつかいにいこう(一七時間)以下略となっている。そして算数的内容は⑥「電車ごっこをしよう」のなかで、切符売りごっこの際、既習の二倍数・三倍数の加減の練習をさせるだけとなっている。附属中学校の実際例では、二年生の九月中旬から一〇月中旬までの単元で、研究課題は「運動会はどうすれば楽しくやれるか」である。その数学的な内容は、運動場設計グループの平板測量二年生の一一月に指導済み)しか見当たらない。この二例は、どちらも社会科中心の生活単元学習であることが歴然としている。
 愛数教は、同二四年九月に、『私たちの数学』 一・二・三年生用を編集、発行している。苦心の跡はうかがえるが、社会科のための数学という弱さは免れない。
 『愛媛数学』は、同二五年に第三号を発行して休刊したが、愛数教が県教組文化部から独立した二八年に復巻した。その第四巻第二号(昭和二八年一一月)で、副会長の愛媛県教育委員会指導主事山口亀吉は「数学教育よ、どこへいく」と題して、およそ次のように述べている。
 「単元学習は子供の生活経験に基礎をおき、子供の自発的活動を推進力として、自らの生活を改善していくための数理を自ら作りあげていくことをねらう高尚な着眼によるものであった。しかし、実践の結果は、算数科か社会科か弁別に苦しむ学習指導が多く現れ、計算など処理技術が不徹底に終わるとの欠陥を露呈してきた。最近は、数学の論理体系を重視しようとする傾向が著しく目立つようになり、教科書の重視、理解事項の系列の研究、誤算の研究、反復練習の強調、個人差に応ずる指導法の研究など、この傾向の注目すべき現れと思われる」
 単元学習については、同二四年ころから全国的に批判が起こり始めているが、愛数教主催の県下数学教育研究大会の研究主題も、同二五年「単元学習の反省」、同二七年「理解と問題解決」、同二八年「理解段階の分析、問題解決過程の分析、新しい文章題など」、同二九年「課題解決学習の確立、構造図による指導系統」となっている。この研究主題の推移は、その後の本県における算数・数学教育の研究が大きく次の二つの流れで展開していくことを示唆している。すなわち、次の(1)と(2)である。
 単元学習→課題解決学習→(1)構造図による文章題指導、(2)理解構造図と方法分析による「主体的学習」

 構造図による文章題の指導

愛数教会長越智政雄は、会誌第五巻第二号(昭和三九年一〇月)の「算数・数学科と課題解決学習」において、単元学習を広義の課題解決学習に拡張すべきこと、そして課題は、「①個人が明確な目標を持ち、その達成を願望すること②目標への道に障壁(抵抗)が現れ、従来のやり方や習慣的応答では障壁突破(抵抗克服)ができないこと③熟考が行われること」が満たされれば成り立つ。だから課題解決学習は、生活問題や生活単元の問題を用いるとか、予め作られた問題を用いるとかは関係のないことであり、この三つの条件を満たすような文章題を用いればよいと主張した。
 こうした考え方のもとに、愛数教は同二九年に『生活を中心とした問題集』小六年用、中二・三年用を刊行している。そして越智は、広島大学教授戸田 清からヒントを得て文章題の指導に構造図の利用を始めた。
 構造図による文章題指導の研究は、越智を指導者として県内で次第にエスカレートし、日数教全国数学教育研究大会において昭和二九年第三六回(東京)大会以来、研究発表を行い、一時期には全国的な注目
を浴びた。越智は、構造図を文章題だけでなく、図形の論証指導や、プログラム学習、構造的板書にまで発展させ、日数教全国大会で毎年、発表し続けた。しかしながら、構造図は教材研究の一つの方法としては有効であるが、指導法としては越智個人の色彩が強く、次第に受け入れられなくなった。また、その間に愛数教の小・中学部会は、同三七年度から愛媛県教育研究協議会(以下愛教研)数学部に組織替えをし、越智は会長の座を離れた。

 方法分析による 「主体的学習」

 昭和三〇年から同三五年にかけて、愛媛県立教育研究所の所員十川美正・勝田利雄は、所長村上芳夫が提唱する理解構造と方法分析による「主体的学習」を算数・数学科で具体化した。
 理解構造図というのは、理解の対象となる数理内容について、理解要素(その理解事項が理解されるために必要な理解事項。図中の□の部分)を論理的に分析し、それらを関係づけて図的に表現したものである。方法分析は、理解構造図の媒介的理解事項(いくつかの理解要素を結びつけて新しく見出す理解事項。図中点線枠内の部分)を見出すための学習活動を子供の言葉で表現したもので、「学習の仕方」を示すものである。これを予習的課題とする。学校では、各自の予習結果から困難点・疑問点を発表させて共通課題を設定し、協力学習によって問題解決を図り、さらに教師指導で要点をおさえるという授業形態をとる。これを「主体的学習」と呼び、その繰り返し(学習方法訓練)によって、自ら学ぶ力を身につけさせようとするのである。(図2ー3は愛媛県教育研究所手引シリーズ40による)
 「主体的学習」は、教育研究所の協力学校で実践研究が積み重ねられ、その成果は愛数教会誌第五巻第三号(一九五五)年三月)から第一〇巻第二号一九五二年一二月)にわたって掲載され、県大会、日数教全国大会でも発表されている。この研究は所員山本 登、加地義夫に引き継がれ、『主体的学習方法訓練細案』(明治図書、昭和三七年二月刊行)の算数・数学編としてまとめられた。「主体的学習」は「学習方法訓練」という言葉を現場に定着させたが、予習を前提とする点に特色がある反面、それが支障にもなっている。

 系統学習の時代

 文部省は単元学習に対する厳しい批判にこたえる形で、昭和三三年に小学校・中学校の学習指導要領を官報で告示し(〝試案〟の二字は削除され、法的拘束性をもつものになった)、小学校は昭和三六年度、中学校は同三七年度から実施された。
 この学習指導要領の特色は、単元学習から系統学習に切り換えられ、内容が充実したことである。すなわち、小数・分数の四則は小学校で一応完成させることになり、比の三用法、比例・反比例と図形に関する用語は中学校から小学校へ移された。中学校は高校から分数式、二次方程式、簡単な二次関数、図形の論証などが移されることになった。特記すべき点は目標の第一に「数学的な考え方」が掲げられたことである。
 現場での移行は、内容が戦前からよく知られたものであり、学習指導要領の改訂前から、すでにその枠を越えた中学校教科書が出版され使用されていたこともあって支障はなかった。ただ、「数学的な考え方」の意味理解は、数学教育者の間でもまちまちで、現場の実践者には戸惑いがあった。なお、中学校数学は必修と選択制とになったが、本県では同四二年五月の調査(『愛媛数学』第一八巻部報二号)で八九%の中学校が学校選択をしており、高校進学率の上昇に伴い選択制は有名無実の状況であった。また授業時数は、一・二・三年生かそれぞれ四・四・三(プラス選択二)の標準時数に対して、先の調査で五時間以上が一年六九%、二年九一%、三年九六%と大きく上まわっていた。
 一方、文部省は、全国学力調査を、小学校は昭和三一年度から、中学校は三六年度から、それぞれ四一年度まで実施した。
 本県の算数・数学の成績は、次第に向上し高い水準にあることを示した。それらの調査結果は学習指導改善の資料として大いに活用され、特に数学的な考え方の指導に役立った。このころから、県内各地では算数・数学教育の同好会が結成されて研究活動が盛んとなり、研究内容も幅の広いものになっていった。同好会には、例えば今治(代表、桑原農夫)、伊予(代表、森岡正雄)、宇和島(代表、山口亀吉)、北宇和(代表、高田義馬・薬師神健治郎)があり、今日でも伝統が継承され、算数・数学教育の推進力となっている。

 数学教育現代化の時代

 昭和三五年(一九六〇)ころから、数学教育の現代化が世界的に広がり、我が国でもこの方向に沿って学習指導要領の改訂が行われることになった。本県でも昭和四〇年に雄郡小学校教諭宇治勝久を代表とする松山市算数グループの「小学校における集合の考え方を伸ばすための実践的研究」が、文部省科学奨励研究費と財団法人教育振興会研究奨励金を交付されるなど、現代化への取り組みが始められた。四国四県では、同三八年度から中学生用『数学演習』を共同編集発行していたが、日本数学教育会教育課程研究四国地区委員会が設置され、同四二年二月に小学校算数科・中学校数学科の学習指導要領改訂四国案を発表した。
 同四三年に小学校、翌四四年に中学校の新学習指導要領が改正公布されたが、算数・数学の内容は四国案の域をはるかに越えるものであった。小学校算数においては、集合の考え・文字の使用・負の数・確からしさ・包摂関係・式の形など、中学校数学では、集合・数の構造・不等式・確率・図形の変換の考えや位相的な見方など、新しい概念の導入、及び関数概念の明確化、論理の強化が図られており、現場の教師にとっては晴天のへきれきに似て、当時の流行語を借りれば正に「アッと驚く現代化」であった。
 しかしながら、新学習指導要領は小学校は同四六年度から、中学校は同四七年度から実施されるので、県教育委員会はいくつかの対応策を講ずると共に、愛教研数学部との協力をいっそう密にして、数学教育現代化の推進を図った。
 〈数学教育現代化講座〉 数学教育の現代化を推進していくために教師の現職教育は急を要した。文部省は中・高校の数学教育現代化講座を昭和四四年から五年計画で、二期にわたって都道府県教育委員会主催のもとに開催し、テキストとして『新しい数学教育(中学校用)』を昭和四三年六月に発行した。本県では、愛媛県教育センターが講座を担当し、中学校数学担当教員約六〇〇人を五か年に分けて夏休み中五日間受講させた。また、昭和四四年度から県単独事業として小学校の現代化講座も実施し、同四五、四六年度は五つの教育事務所毎に一五〇名ずつ受講させたので、受講者は五年間で一、二四五名にものぼった。教育センターでは、所員吉田敏夫、ついで深沼 力が中心となり、講座の指導資料として『小学校新しい算数教育』を作成利用した。これらの講座は第二次五か年計画を終えると、五四年度からは総合数学教育講座と名称を改め、現在も継続実施されている。
 〈指導資料・参考資料〉 県教育委員会は、数学教育現代化の趣旨と内容の取り扱いについて、基本的な理解を図るための指導資料を作成配布するとともに、参考図書などの紹介に努めた。昭和四四年度小学校、同四五年度中学校の移行措置要領と指導資料、同四六年度には『算数を楽しく学ばせよう』(算数科の教具・学習具と指導のアイデアを県内全小学校から収録し編集したもの)、同四七年度にはその中学校版、更に『教材の精選と指導の重点化の手引』を同四九年度小学校用、同五〇年度中学校用を作成配布した。愛教研数学部は、昭和四九年度に県内で使用中の二社の小学校算数教科書について、県教委の手引きと対応する形で各学年毎の具体的な『精選と重点化』の手引書を作成刊行した。
 当時の参考図書としては、まず文部省算数指導資料『集合の考えの指導』(昭和四六年刊)と、『関数の考えの指導』(昭和四八年刊)があった。後者は、本県義務教育課指導主事加地義夫も作成委員となり、原案について県内各地の指導的立場の小学校教員約一〇名余りが実際に授業をし、その結果と意見とを作成委員会に提供するといった組織的な協力を通して本県の研究成果と現場の声が反映するよう努めた。同四九年度には、中学校数学指導資料『集合と論理』の作成について同様の協力を行ったが、現代化の検討期に入り、刊行はされなかった。
 参考図書の一つに、東予市立壬生川小学校著『自ら学ぶ力を育てる算数教育』(明治図書、昭和五一年刊)がある。昭和五〇・五一年度文部省教育課程(算数)研究指定校として、数学的な考え方を生み出す原動力となる考え方に着目し、児童の発想を生かしながら児童に算数をつくっていかせようとした実践研究をまとめたものである。算数科における「関心・態度」育成の着眼点を明らかにしたものといえる。壬生川小教諭乗松俊武・桑原 敏が中心となり、西条教育事務所指導主事山本進敏、東予周桑算数同好会(代表真田政之助)が助言や協力にあたった。本県指定校の研究成果が全国出版されたのはこれが初めてであった。
 〈研究会・研修会・講演会〉 算数・数学教育研究会は、県教育委員会と愛教研数学部が協力して開催した。
 ところが、愛媛県教育研究大会は、表2ー32のように昭和四七年度から教科分科会は隔年開催、同四九年度からは大会が総合実践課題方式となり教科研究会は開かれなくなった。このため、愛教研数学部主催の算数・数学教育研修会、講演会が果たす役割は極めて重要となり、その開催に特に意を用いた。例えば、昭和四七年度に実施した講演会は計八回で、講師・期日・会場は次のとおりであった。
  ○文部省中学校教育課教科調査官植芝 力 三月 北条市・松山市・今治市(三会場)
  ○千葉大学教授杉岡司馬 八月 丹原町・松山市(二会場)
  ○文部省小学校教育課教科調査官片桐重男 一二月 伊予三島市・野村町二一会場)
  ○東京学芸大学教授中島健三 一二月 松山市(一会場)
 〈テレビの活用〉 NHK教育テレビは、昭和四三年度小学校、四四年度中学校、四五年度小・中学校を対象に「教師の時間」で数学教育の現代化についてわかり易く解説した。この放送を利用するため、県教委・愛教研数学部・附属中学校がビデオテープを出し合って六六本分を録画し、県内各地に貸し出して研修に役立てた。昭和四六年の愛教研調査では視聴率は生放送も含めて小学校教員の二三%、中学校数学教員の四五%に達していた。
 〈研究紀要と授業事例集〉 愛教研数学部(昭和四七年度からは数学委員会)は、会誌『愛媛数学』を昭和四一年度から研究紀要と部報に変え、授業研究事例集も毎年刊行している。郡市の研究成果を広く詳しく残していこうとするもので、個々の研究報告には必ず指導主事のコメントがつけられた。現代化は昭和五二年度の学習指導要領改訂で大きく後退するが、昭和四〇年ころからそれまでの間、特に指導的立場にある者は厳しい課題と懸命に取り組んだのであった。当時の各教育事務所・地教委の指導主事と愛教研数学部主任幹事は次のとおりであった。
 (年次順)

 ○教育事務所・市教委指導主事 (西条)村上権一、山内秀敏、山本進敏、鈴木孝博 (新居浜市)新見賢雄 (今治) 桑原農夫、真鍋龍一、藤上逸志 (今治市)山本正弘 (松山)上岡義明、久米知典、白形重男、勝田 昇 (松山市)
   安永真敏、井上志郎 八幡浜)美野石吉、藤田利計、佐藤岩雄 (宇和島)狩野喜三郎、高田義馬、二宮 一、白石正郎
 ○愛教研数学部主任幹事 (小学校)西岡 豊、宇治勝久、五十崎朗、林 雅孝、横田信男、武内恒夫、田中元、長野 南、上野 亮、岡田武博 (中学校)由井大助、福島直行、松崎俊彦、菅田 顕、山田 進、青井 勇、高橋保則、渡部義正

 〈人材養成・研究奨励〉 算数・数学教育の全国大会、中四国大会(本県開催は昭和三八・四六・五四年度)への参加を奨励し、昭和四四年度から県教育委員会と愛教研数学部とが研究発表者をそれぞれ派遣するシステムを確立した。今後の課題は共同研究の育成開発であろう。なお、県教育委員会は昭和四九~五一年度に、東京教育大教授和田義信教室へ宇都宮誉、東京学芸大教授中島健三教室へ池田孝許・岡原 春・高井正昭をそれぞれ三か月、内地留学させている。
 〈数学免許状取得講習会〉 算数・数学の現職教育の特殊なケースとして、数学免許状取得のための講習会があった。
 数学担当指導主事会は、愛教研数学部の協力を得て、昭和四一年度から数学教育実態調査を毎年実施した。それによると、中学校数学担当教諭の数学免許状所有率は、表2-33のように低く、特に南予の低率が目立った。このため、県教育委員会は愛媛大学の協力を得て、昭和五〇年度から県単独事業で「中学校数学教諭資格付与講習」を実施した。中学校の他教科の免許状所有者は、数学一九単位修得で資格が付与される。一単位四日間(講義一六時間、予習復習三二時間、計四八時間)として、毎年三単位、一二日間を七月・八月に実施し、五九年度まで六か年にわたって継続した。当初は七八名が受講し、最終的には約四〇名が免許状を手にしたようである。県外からの受講者もあり、全国に例を見ないユニークな事業であった。
 この講座が実現し、成果をあげ得たのは、当時の義務教育課学事係長木村 功の尽力と、左記の愛媛大学数学関係者(かっこ内は担当講座の単位数)の好意によるところが大きいが、受講者の真摯な態度、資格取得への熱意が講座を支えたことも見逃せない。受講者達は兵頭清見、越智司郎らを世話役として愛数クラブを作り、互いに励まし合って研修にいそしんだのである。
・解析学 教養部白城高教(一)・教育学部藤方邦久(三)  ・代数学 教養部三好武徳(四)
・幾何学 教育学部永田幸令(四)   ・教科教育法 教育学部林  昭(三)
・測 量 農学部桜井雄二(二)   ・統計学 教育学部大森博之(二)
 〈現代化への不安傾向〉 昭和四六年度から小学校で新学習指導要領が実施された。現代化への対応は次第に進みつつあったが、同年五月、本県の学校教員四、五二九名・中学校数学担当教員六二一名を対象にした調査では、表2-34のように現代化に伴って導入された新内容に不安を持つ者が小学校六〇・九%、中学校七五・二%を占めていた。(昭和四六年度愛教研数学部紀要)
 こうした状況では、現代化の精神を生かした指導は難しい。文部省は早くも同四八年に教育課程審議会に教育課程の改善を諮問し、その答申を待って小・中学校の学習指導要領の全面改訂を行い、同五二年七月に公布した。現代化の行き過ぎの是正が図られたとされているが、数学的な考え方の育成を目指す方向には変わりがなく、算数・数学教育は量から質への転換の時代を迎えることになったといえよう。

 算数・数学教育の伝統と発展

 愛媛県の算数・数学教育の変遷は、全国的な変遷とほぼ動きを一つにしている。そのような前提のもとで、特色としては、明治に入って新しい筆算教育に積極的であったこと、国定教科書の受け止め方に主体性が見られること、戦後の生活単元学習を課題解決学習に発展させたこと、数学教育の現代化に行政と現場・関係機関が協力して取り組み、その姿勢が伝統として定着していることなどをあげることができる。表2ー35の森岡以下歴代部長OBを長老とする最近の愛教研数学委員会は、昭和五八年に『愛媛の算数ものがたり』を編集刊行(日本標準出版)し、『算数・数学教育のポイント』も近く刊行の予定である。同六五年には、愛媛で初めて日数教全国犬会が開催の予定で、これらを契機として今後の発展が期待される。

図2-2 代数的構造の文章題の構造図

図2-2 代数的構造の文章題の構造図


図2-3 「(2位数)÷(1位数)の計算方法」(3年)

図2-3 「(2位数)÷(1位数)の計算方法」(3年)


表2-32 愛媛県教育研究大会算数・数学分科会研究目標(概要)

表2-32 愛媛県教育研究大会算数・数学分科会研究目標(概要)


表2-33 中学校数学担当教員の数学免許状所有率(%)

表2-33 中学校数学担当教員の数学免許状所有率(%)


表2-34 現代化の新内容についての不安(%)

表2-34 現代化の新内容についての不安(%)