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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 大正期の図画教育・工作教育

 自由画教育時代(芸術教育)

 この時期(大正初年~同一五年)の図画教育は、大正デモクラシーの思想を反映して、小学校国定教科書の発行にもかかわらず、民間教育運動であった自由画教育の影響を大きく受けた。それは、新定画帖の精神を生かせず、単なる臨画的模写技術を中心とした教育に対する反動的な主張によるものであった。
 自由画教育運動の指導者は山本鼎である。大正一〇年、山本は『自由画教育』を発刊して、児童の図画表現の本質は芸術性であり、教科書の臨画模写、課題を排して、自由選題とすべしと主張した。この自由画教育の主張は、わが国美術教育史の上に特記すべきことであり、共鳴者も多く全国に波及した。
 本県においても、徐々にその影響を受け、『新定画帖』を使用しながらも、教科書を離れて、静物や風景を写生したり、自由な構想で表現したりした。
 しかし、自由画教育の説く精神は曲げられて、その指導計画はあいまいになり、ただ、自由気ままに描けばよいという放任主義となった。したがって、この論者の主張する芸術性・自由性よりも、思いつき・教師の趣味・放任無指導という混乱した状況を見るに至った。

 大正期の手工教育(芸術的手工)

 明治末期に実業科として課せられていた高等小学校・中学校の手工は、大正八年、再び実業科から分離した。大正一一年ころから、自由教育思潮の影響を受け、自由手工・創作手工・芸術手工等が隆昌の気運に向かい、従来の教材であった紙細工・竹細工・木工・金工等の外に、彫塑・木彫・染色・刺繍・編物等が加えられた。
 大正一五年、高等小学校令が改正され、手工科の要旨が次のように定められた。

  手エハ簡易ナル物品ヲ製作スルノ能ヲ得シメ、工業ノ趣味ヲ長シ、勤労ヲ好ムノ習慣ヲ養フヲ以テ要旨トス

 この要旨のもと、高等小学校の手工科は、初めて純然たる必修教科となり、全国に普及実施されるようになった。本県においても、高等科では必須教科として実施されたが、学校の施設・設備、指導教師等により、かなりの差があった。