データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

4 昭和期―戦後の体育

 終戦直後の体育

昭和二〇年八月一五日の終戦は、我が国のあらゆる面に大変革をもたらした。戦争教育体制の廃止とともに、新教育の方向を打ち立てることが必要であった。同二〇年九月一五日文部省は「新日本建設の教育方針」を発表した。文部省が戦後の教育について初めて明らかにした基本方針であった。
 それによると、戦争遂行の教育施策を排除し、文化国家・平和国家の建設を目途とし諸施策の実行に努めるべきことを強調している。そのうち、体育については次のような方針を示している。

  戦時勤労動員ヤ疎開二依リ心身共二疲労シテヰル学徒モ相当多イノデ、衛生養護二カヲ注ギ体位ノ回復向上ヲ図ルト共ニ、勤労卜教育ノ調整二重点ヲ置キ、食糧増産、戦災地復旧等国民生活二関係深キ作業ヲ教育的二実施スル外、明朗濶達ナル精神ヲ涵養スル為メ大イニ運動競技ヲ奨励シ、純正ナスポーツノ復活二努メ、之ガ学徒ノ日常生活化ヲ図リ、以テ公明正大ノ風尚ヲ作興シ、将来国際競技ニモ参加スルノ機会二備へ、運動競技ヲ通ジテ世界各国ノ青年間二友好ヲ深メ理解増進ニモ資セシメソトシテイル

 体育は、戦時中軍事訓練と最も深く関わりを持っていたので終戦の年には、戦時的色彩を払拭することに最大の努力が払われた。昭和二〇年九月に「軍事的教育払拭の具体的事項」、同年一一月に「終戦に伴う体錬科教授要項の取扱いに関する件」その他戦時色を払拭する通牒が相次いで出された。これによって、軍事的色彩を持つ教材の削除、武道(剣道・柔道・薙刀・弓道)の授業が中止された。武道の授業中止によって生じる余剰時間は体操に充当することとなった。また、教授要目に示されている以外の籠球・排球等の教材を適宜実施し得ることを指示し、体錬科においては「体操及び遊戯競技を選び、画一的・形式的訓練を避け、児童生徒の個性、発育・栄養の状態、運動能力などを考慮し、自発的活動を中心として、明朗濶達な気風を盛んにする」ことを強調している。
 愛媛県では、昭和二一年七月に「秩序、行進、徒手体操等実施についての留意事項」が通達された。そのうち、徒手体操については、命令・号令・合図はさしつかえないが、軍隊式口調、態度をとらないようにするなど、非軍事的態度で行うよう指示された。その他、操転器・回転器など、航空適正強化を目的として使用していた器具類を学校の施設内で使用しないなど、軍事色を学校から払拭する措置がとられた。その結果、各学校においては、肋木・平行棒などが取り除かれた。体育は児童生徒が遊ぶ時間となり、その中にあって球技が盛んに行われるようになった。
 戦争直後の学校体育の混乱を防ぐため愛媛県では、昭和二〇年一〇月一八日伊予郡北伊予国民学校で、中予地区体育担当教員一七〇人を集めて、戦後第一回の体育指導者連絡会を開催した。引き続き東・南予地区でも開催した。翌二一年二月一五日には、郡市の体育指導員を県庁に集めて戦後の体育指導方針を示した。内容は、従来の画一的な指導を打破し、自発能力性の尊重、明朗濶達な気性の高揚、道徳心の高揚を目標にしたものであった。実技面では、従来の直線的徒手体操から、律動的な体操へ、集団的画一的な体育から、明朗で自由奔放、しかも責任あるスポーツへ、転換するよう指導者の協力を要望した。同二一年七月には、愛媛県学徒体育会主催で県下東・中・南予三か所で教職員球技講習会を開催した。講習会には、中等学校体錬科教員全員、国民学校・青年学校教員中各郡市男女各五名を集め、籠球・排球・避球・ワンアウトベースボール・プレイグランドボールと新ラジオ体操の指導を行い民主体育振興の情勢に即応した指導者づくりに乗り出した。

 新体育の成立と学習指導要領

昭和二二年「教育基本法」が公布され、新しい教育理念が掲げられた。この中で「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期する」ことが宣言された。この趣旨を貫くために学制の根本的改革が行われ、六・三・三・四制という新しい学校制度が同二二年四月一日から発足した。これによって従来の「体操」という教科名を「体育科」と改め、スポーツマンシップと協力の精神とが有する固有の価値をスポーツ教材に求めながら、民主社会の要求する人間教育の一環として再出発することとなった。
 戦後における学校体育の基本的方向を示すものとして、昭和二二年(一九四七)八月に「学校体育指導要綱」が公布された。この要綱は、戦後の新体育誕生を告げたものとして、また、その後の体育科教育の方向を決める役割を果たした点において歴史的意義を有するものであった。この要綱では、教科の名称を戦時中の体錬科から体育科に改めるとともに、体育を「運動と衛生の実践をとおして人間性の発展を企図する教育である」と規定した。また、この要綱は、戦時中の教授要目における「体操中心」の体育から「遊戯・スポーツ中心」の体育へと転換したことをはっきり示した。
 昭和二四年には、学校体育指導要綱を発展させ、教師の指導の一般的よりどころを示した「学習指導要領小学校体育編(試案)」が公布された。同二六年に中・高等学校の指導要領が公布され、ここに戦後の新体育の在り方が固められた。このころの体育は、終戦の混乱から立ち上がり、平和的で民主的な国家建設のためにその新しい社会の形成者育成が急務とされた時代であり、体育科の目標も究極的にそこを目ざしていた。

 学校体育の改善

 昭和二八年(一九五三)に小学校の学習指導要領が改訂された。日本独立後の最初の改訂であった。この指導要領は、戦後の「体育の生活化」をめざした体育研究・実践の成果を最も強く反映させたものであり、戦後の体育は、この段階において「生活体育論」として確立された。特にこの指導要領では体育科における技術主義の克服ということがいかれ、更に、体育を通しての民主的人間関係の育成ということが強調され、生徒中心・生活中心の体育へと転換が図られた。このことにかかわって指導法では「グループ学習」が強調される契機となった。指導計画構成の単位として生活単元、コア・カリキュラムによる実践研究が盛んに行われた。
 昭和三一年「高等学校学習指導要領体育科編」の改訂は、同二八年の小学校学習指導要領と基本線を同じくしており、これまでの高等学校の教材単元方式のカリキュラムをいかにして小学校の生活単元方式に合致させるかという点にあった。その後、小・中学校の学習指導要領が同三三年、高等学校の学習指導要領が同三五年にそれぞれ改訂された。
 特に昭和三三年の学習指導要領は、これまでの学習指導要領が「試案・手引き」であったのに対し「国家基準性」が打ち出された。形式面では、学年目標が設けられ、また「基礎的運動能力を養う」「運動のしかたや技能を身につける」にみられるように、基礎的学習に注目し、運動技能の習得が強調されるようになった。これまでの人間形成を目指しての多面的な目標の列挙から、次第に体育科としての独自な目標にしぼられ、その目標が「社会性の育成」から「活動力」へ移行していく過程である。
 これら小・中・高等学校にわたる一連の改訂は、生活体育に対する批判として台頭してきた文化主義・科学主義の体育を要望する声を反映しての改訂であり、教育水準の維持向上という観点から小・中・高等学校教育の一貫性を図ったものである。昭和三〇年代は、教育全般に基礎学力の充実要求が高まった時期であった。体育科では基礎的な運動能力・運動技能の重視となって現れ、系統学習への傾斜を生み出して行った。この時期は、運動技能重視時期、あるいは文化主義の体育論に基づく実践期ともいわれる。
 昭和三九年の東京オリンピックは成功裏に終わり、国民一般のスポーツへの関心は高まるとともに、国民の体力づくりが注目されるようになった。また、オリンピック参加選手のトレーニングに関連して、体力づくりについての科学的成果も蓄積されるにっれ、学校体育においても「体力づくり」に考慮が払われるべきことが指摘されるようになった。特に、体格の細長化、成長の加速化現象への対応として、学校体育に「体力づくり」をどう位置づけるかが真剣に考慮されるようになった。児童生徒の体力の科学的把握に資するため、昭和四〇年にスポーツテストが文部省によって判定された。
 昭和四三年(一九六八)に小学校、同四四年に中学校、同四五年に高等学校の学習指導要領が改訂された。これら一連の改訂は、望ましい人間形成の上から調和と統一のある教育課程の実現を基本方針としたものであり、体育科では、特に「体力の向上」が強調された。
 そのため、総則の第三に新たに「体育」の項を加え、「体育に関する指導については学校教育活動全体を通じて適切に行う」ことが明示された。これによって体育科は、単に教科としての立場からだけでなく、学校におけるカリキュラム編成の柱として重要な意味を持つようになった。また、体力の向上を図るため運動領域の再構成が行われ、新しく「体操」領域が設けられ、体操・スポーツ・ダンスという分類に基づく運動の本質的特性を学習指導に生かすことを強調した。
 このように体力づくりが重視された背景には、昭和三八年の東京オリンピック開催による国民の体育・スポーツへの急激な関心の高まり、同四一年の「青少年の健康と体力」という体力自書によって明らかにされた児童生徒の体力低下現象、国際競技大会での躍進を期待するスポーツからの要請、更には、高度経済成長期の豊かな労働力への要求などを反映したものであった。ともかく、昭和四〇年代の体育は体力づくりが際立って強調された時期であった。
 昭和五二年(一九七七)小・中学校、同五三年高等学校の学習指導要領が改訂された。これら一連の改訂は、これまでの科学主義・文化主義の教育から、人間主義の教育(調和的に発達した人間を育成する)への転換を図ったものであった。健康や体力目標は、前回の指導要領を踏襲しながらも、生涯にわたって運動に親しむ必要性を意識して目標を見直しているし、子供の立場を重視して教材の精選や見直しに注意が払われている。
 これまでの学習指導要領との違いは、「からだの教育・人間形成」といった目標に加えて、運動の楽しさ・喜びを味わわせること、つまり、運動自体が学習目標であるという考え方を打ち出したことである。この背景には、健康や体力を守らなければならない社会の状況が深刻化しており、一方ではレジャー時代の到来を控えて、レジャー活動としての運動需要が増大しており、運動を生涯スポーツとして生活の中に位置づける必要に迫られていること、などがある。つまり、昭和三〇年代から昭和四〇年代の体育が技術の系統や体力を重視していたのに対し、同五二年の小・中学校、同五三年の高等学校の学習指導要領では、運動を日常生活の中に取り入れて行こうとする考え方が大きく打ち出された。
 学習内容構成の視点は、運動を子供の立場・子供の欲求との関係から見直し、特に運動の機能的特性を重視し、子供の発達段階と対応させながら再構成している。中でも、小学校の内容は、低・中学年でこれまでの運動分類にみられる、体操・器械運動・陸上運動・水泳・ボール運動・ダンスの六領域が、「基本の運動」と「ゲーム」の二領域に整理統合されている。
 一方、中・高等学校における運動領域は、体操・個人的スポーツ・集団的スポーツ・格技・ダンスの五領域に整理された。これは、従来の学習指導要領が各運動種目ごとに運動領域を構成したのに対し、「ゆとりと充実」の学習を意図して、内容を精選したものである。現行の学習指導要領は、これからの学校体育を生涯スポーツに位置づけようとしているところに特徴がみられる。

表2-47 愛媛県中学校体力・運動能力調査結果

表2-47 愛媛県中学校体力・運動能力調査結果