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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

5 課外体育

明治前半における課外体育は、中等学校以上の学校において発達した。明治にはいり、各種スポーツが外人教師を通じて我が国の学校で指導されるようになった。開成学校においては、明治六年に野球、同八年には漕艇・陸上競技などの外来スポーツが指導されている。このように上級の学校に紹介されたスポーツは、明治一〇年代にはまだ未組織の段階であったが、それが運動部として活動するに至ったのは明治二
〇年代である。この時期、各種の運動部がつくられ、各学校に校友会が結成されるに至った。
 愛媛県で最も古い歴史を有する松山中学校(現松山東高等学校の前身)に校友会が結成されたのは明治二五年私立伊予尋常中学校が県立に移管され愛媛県尋常中学校となった際である。設立当時の運動部門の中には、柔道・撃剣・野球・遊戯が含まれていた。
 明治時代、早くから発達した漕艇は、当時は最も人気のあるスポーツとして全国に普及した。本県においては、愛媛県伊予尋常中学校(明治二五年)が松山に、東・南予分校(明治二九年)が西条と宇和島に設立されてから数年のうちに中古のカッター平和船型のボートを漕ぎはじめている。正式に学校行事として校内競漕大会を開催しだのは、松山中学校が明治三二年、西条・宇和島中学校がともに同三三年、今治中学校と北予中学校が同三九年である。また、同三四年には松山・宇和島・西条の三中学校の対抗レースが始められている。
 野球は、明治二二年一二月、当時大学予備門の選手であった正岡子規が、松山に帰った際、中学生であった河東碧梧桐に教えたのが最初であるとされている。これが契機となって松山中学校を中心にして愛媛の野球が普及発展して行くことになる。松山中学校では、同三二年に野球部が誕生し、この年師範学校と初めての対抗試合を行っている。その後、北予中学校・西条中学校に野球部が作られ、松山商業学校の創設は同三五年である。本県の野球は同三〇年代に松中・今中・西中・師範等の学校が対戦や遠征を行い、互いに親睦と技能の向上を目指し、野球の普及と野球熱をかり立てて行った。
 庭球は、明治二〇年代、野球に次いで流行していた。しかし、遊戯的性格が強く、部活動として捉えるにはあまりにも稚拙であった。部活動の形態を持つようになるのは、同三二年ころからであり、高等師範学校や大学を卒業した教師達によって始められ、次第に生徒間に広がって行った。松山中学校では、同三二年の校友会運動部門の中にテニス部が設けられており、同三六年には師範学校のテニス大会に十数名の選手が参加している。一方、宇和島中学校では、同三五年テニス道具二組を大阪市の運動具店から購入し、放課後の課外運動として実施しており、西条中学校今治分校でも同三七年ころテニスを始めている。

 高等女学校のスポーツ

 明治時代の高等女学校で行われていたスポーツらしいスポーツといえば、テニスとピンポンくらいのものであった。特にテニスは、女学生に人気があり、どこの学校でも好んで行われたようである。愛媛県の女学校にいつころからテニスが取り入れられたかははっきりしないが、明治三六年に松山高等女学校ではすでにテニスが行われていたようである。従って各女学校では設立当時からテニスが取り入れられたと考えられる。宇和島高等女学校では同三五年に初めて運動会が開かれているが、その中でテニスの試合が行われているのも一つの特徴である。このことからみても、明治時代の女子スポーツは、校内でのレクリエーション程度にしか行われていなかった。

 大正期の課外体育

 学校におけるスポーツは、明治後期の校友会の結成によって、これまで校内競技を中心として活動していたものから、対外試合に発展する傾向を示し、正課体育と並んで課外体育が重要な教育的意義を持つようになる。大正年間は、オリンピック大会への参加を契機として、スポーツは次第に隆盛の一途をたどるとともに、学校におけるスポーツも対外試合が盛んになっていった。
 大正時代の愛媛県では、相原正一郎ら小学校有志教師によって、体操遊戯や陸上競技の研究と実践が続けられた。彼等の啓蒙と指導によって大正一〇年一二月四日に温泉郡小学校教員陸上競技大会、同一一年に県下男子陸上競技選手権大会を開くまでになった。同一一年八月松山高等学校に迎えられ名実ともに県下体育界の指導者となった相原は、この年陸軍戸山学校官、バスケットボールの講習会を受げ、これを愛媛県に移入した。バスケットボールヤ、バレーボールなどの新しい球技を県下に普及したのは、相原正一郎(松山高等学校)・金井滋雄(松山高等女学校)・竹田直一(済美高等女学校)等であった。このうち、相原と金井は、昭和二年に池内正則・福井寛・堀新一郎等の師範学校出身の体育教師と「Rクラブ」を結成し、野球を除く一般スポーツの普及と指導者の研修に努めた。当時、各種の近代スポーツは、このクラブを通して県下に紹介されるなど、本県体育・スポーツの普及発展に大きな役割を果たした。
 一方、大正八年(一九一九)九月に開校された松山高等学校では、全国から集まった学生達によって陸上競技をはじめ、近代泳法による水泳・サッカー・庭球など、新しい各種のスポーツが次々と紹介された。また、同校主催のもとに各種競技大会が相次いで開催された。本県ではこうした良好な環境に恵まれ、スポーツは中等学校はもとより、高等女学校や小学校にも急速に普及して行った。
 大正時代は、多種のスポーツが高等女学校に取り入れられ奨励された。特に松山高等女学校と済美高等女学校が互いに競い合い、本県女子スポーツのレベルアップに貢献した。中でも済美高等女学校は、陸上競技・軟式庭球・バスケットボールなどで頭角を現し、大正一三年の第一回女子オリンピック大会の軟式庭球で渡辺・田中組が優勝、同一四年の第二回大会では、陸上競技の走り高跳びで伊多美代子、砲丸投げで清水文子が優勝し、「スポーツ済美」として全国に名が知られた。その他、卓球・登山などが高等女学校に普及したのも大正時代であった。

 昭和期―終戦までの課外体育

大正時代のスポーツの隆盛は、そのまま昭和時代に引き継がれ、我が国スポーツの全盛時代を迎えるに至った。本県では、県下の中等学校が各種競技大会で覇を競い合い、また、大正一五年から始まった明治神宮大会などの県外大会で優秀選手・強力チームが活躍した。昭和八年には、日本女子オリンピック大会のバスケットボールにおいて済美高等女学校が優勝し、日本代表として朝鮮に遠征したのを始め、軟式庭球においては、同一四年の第一〇回明治神宮大会で済美高等女学校の相原・池田組が優勝、同一六年の第二一回大会でも白方・中村組が優勝するなど、スポーツ界各種目における本県女子の活躍が目立った。また、松山・宇和島・今治中学校の端艇部は全国中等端艇競漕に出場し、常に上位の成績を収めた。
 一方、中等学校の野球は、明治四〇年代には野球部を持たない学校はないまでに普及した。大正四年八月に第一回全国中等学校野球大会が大阪府豊中で開催された。当時県内は沈滞期に当たり、四国大会には一校も参加していない。四国大会に出場したのは大正五年の松山中学校が最初である。大正七年には、第一回愛媛県中等野球大会が開催され、松山商業学校が野球部創設以来初優勝を遂げた。これ以後、松山商業は、愛媛県の雄となり、大正一四年春甲子園の第二回選抜大会で念願の全国優勝を達成した。また、昭和一〇年の第二一回全国中等学校野球大会において夏の大会初制覇を遂げ、真紅の大優勝旗を愛媛に持ち帰った。
 昭和の初期は、スポーツの全盛期であった。野球を始めとする競技会示盛んになるにつれて、勝敗に固執する傾向が強くなり、教育を逸脱する弊害が生じてきた。このことを重視した文部省は、大正一五年三月八日「体育運動ノ振興二関スル件」(文部省訓令第三号)を定め、健全なる国民体育運動の普及発展のよりどころとなる基準を示した。愛媛県では、これに準拠して、運動競技会・選手・応援団についての注意や競技者の服装、小学校と女学校生徒の競技種目を明記した通牒を県内の学校に発した。
 昭和七年三月には、当時最も弊害が多かった野球に対し、文部省は「野球ノ統制並施行二関スル件」(文部省訓令第四号)を公布した。これが、いわゆる「野球統制令」である。内容は、①小学校の野球に関する事項 ②中等学校の野球に関する事項 ③大学及高等学校の野球に関する事項 ④入場料に関する事項 ⑤試合・褒賞等に関する特殊事項 ⑥応援に関する事項、及び附則からなっている。この訓令は、中央統制的傾向も強くみられたが、学校スポーツの健全な発展のために、管理面から取られた適切な措置であった。
 昭和一一年には、学校体操教授要目の第二次改化が行われ、スポーツ教材も相当体操科に取り入れられる段階になっている。しかし、日中戦争の勃発を機にそれまで全盛を極めていた西欧スポーツは、国防競技の台頭など、時代の流れに圧されて急速に凋落して行った。同一五年の第一二回東京オリンピック返上に伴い、目ぼしい国際試合は終戦に至るまで跡を絶った。それに伴い国内大会も縮小の一途をたどり、僅かに明治神宮大会や学徒体育振興会が主催する全国大会が実施されるにとどまった。それも、同一八年の「戦時学徒体育訓練に関する通牒」によって学徒の体育大会はすべて中止、学園における公式スポーツ試合は命脈を断たれた。

 戦後の課外体育

 終戦直後の社会的混迷の中で青少年に明るい希望を持たせ、その生活を健全なものとするためにスポーツが果たした役割は、極めて大きいものがあった。愛媛県では、昭和二〇年九月一七日付けの県内政部長通達「秋季体育大会に関する件」(社第一八四一号)、同年一〇月二三日「野球大会開催に関する件」(社第二〇四二号)を発し、敗戦によって失った青少年の意気と健康のばん回のためにスポーツを奨励している。翌二一年六月文部省は「校友会運動部の組織運営に関する件」の通達によって、課外運動としての校友会運動の適正な組織運営は民主主義体育振興の原動力であるから組織運営を誤らないようにしてその振興を図るようにとの指示を行っている。愛媛県では、同二二年に戦中の学徒体育振興会組織によって第一回体育大会が開催され、同二四年から愛媛県学校体育会が発足し、体育大会の企画運営はこの組織にゆだねられた。同二六年高等学校体育連盟が結成され、同年の第五回大会から愛媛県高等学校総合体育大会として開催されることとなった。なお、中学校体育連盟、小学校体育連盟が結成され独自の大会運営を始めたのは同四〇年からであった。
 戦後におけるスポーツの急激な発展は、一方において「ややもすると勝負にとらわれ、心身の発展を阻害し、限られた施設や用具が特定の選手に独占され、非教育的な動機によって教育の自主性がそこなわれ、練習や試合のために不当に多額の経費が当てられたりする等」(体育局長通達)教育上望ましくない結果を招来する恐れがあるとして、児童生徒を対象とする対外競技の在り方について検討が要望された。
 そこで文部省においては、学校体育の健全な発展を期するために、主として競技会の範囲や主催者の問題を中心として同二三年三月に体育局長から「学徒の対外試合について」通牒が出された。これは、戦前の「野球統制令」に代わるものであるが、対外試合が教育関係機関・スポーツ団体の自主的協力によって教育的に行われることを要望するものであった。しかし、スポーツが普及するにつれ、スポーツ団体の選手養成の立場からの要求が次第に高まり、時代の趨勢を見守りながら若干の改訂が行われ今日に至っている。
 学徒の対外運動競技の基準については、昭和二三年(一九四八)三月に文部省体育局長通牒「学徒の対外試合について」が発せられて以来、昭和二九年四月、同三二年五月、同三六年六月、同四四年七月、同五四年四月と五回にわたり改訂されてきた。これら一連の改訂は、青少年の体力の低下や国際的な日本スポーツ界の不振の反省等を含めながら、対外試合の枠を拡大する方向での改訂であった。昭和五四年四月の改訂により、中学校の全国大会への参加が学校教育活動として認められた。
  「児童・生徒の運動競技の基準」昭和五四年四月五日文体体第八一号(抄)
   1、学校教育活動としての対外運動競技について
     小学校……原則として対外競技は行わない。
          同一市町村または隣接市町村程度の地域内の対外運動競技は実施しても差し支えない。
     中学校……対外運動競技の行われる地域の範囲は、都道府県内を原則とする、なお、地万ブロック大会及び全国
          大会への参加の回数は、各競技について、それぞれ年一回とする。
     高等学校…対外運動競技の行われる地域の範囲は、都道府県内を原則とする。なお、地方ブロック大会及び全国
          大会への参加の回数は、各競技について、それぞれ年二回とする。
   2、学校教育活動以外の運動競技について(略)
 愛媛県においては、昭和二三年の文部省通牒「学徒の対外試合について」に基づいて、同二六年五月「学徒対外試合実施規程」(県数委告示第一八号)を定めた。その後、文部省の基準の改訂を受けて、同三二年八月「中学校対外競技実施要領」(教体第三三号)、同三八年五月「愛媛県学校対外競技実施要領の改正」、同四七年三月「愛媛県県立学校の教育活動としての対外運動競技に関する実施要領」(教育委員会訓令第一号)を制定し、各市町村教育委員会においても、対外運動競技の定めを整備するように通知した。同五四年には実施要領の一部改正が行われた。

 中学校総合体育大会

昭和二二年度すでに体育大会を開催しているが、新制中学としての整備も十分でないままの大会であった。同二四年に愛媛県学校体育会が創設され、各郡市に学校体育会が設置されるに至って、郡市学校体育会主催の体育大会において選抜された生徒の参加によって同年八月に第一回中学校総合体育大会夏季大会、同年一一月に秋季大介が開催された。この大会を第一回として今日まで回を重ねている。同三七年の第
一四回大会から夏季大会と秋季大会を合わせて夏期休業中に総合体育大会として開催することとなった。
 当初は、郡市別対抗として行われていたが、同四〇年愛媛県中学校体育連盟が結成され大会を主催するようになっだのを機会に学校対抗となった。その後犬会は年々盛大となり、同六〇年の第三七回大会には一五競技に五、六〇〇人の中学生が参加した。
 また、同三八年には四国中学校総合体育大会が持たれるようになり、同四六年ころから中学生の全国大会が社会体育として開催されるようになった。同五四年の「児童・生徒の運動競技の基準」の改訂によって、中学校の全国大会が学校教育として位置づけられた。
 愛媛県における全国大会は、昭和四九年(一九七四)に第一四回全国選抜水泳大会が松山市で開催された。また、同五七年には「燃えあがれ力と技とふれ合う心」の大会スローガンのもとに、全国中学校体育大会松山大会(第九回全日本中学校陸上競技選手権大会、第一三回全国中学校サッカー大会)が松山市で開催された。
 中学校の全国大会における本県の優勝種目は次のとおりである。
  昭和四五年 本田弘子(愛大附属中) 全日本中学校放送陸上大会 一〇〇米 第一位
        雄新中(松山)(女子)   第二一回全国中学生。バレーボール大会
        三島中    (男子)   第一三回全国中学生バレーボール大会
   〃五〇年 桧垣 毅(今治西中)  第二回全日本中学生陸上選手権大会 八〇〇米
   〃五三年 曲渕千裕(上浦中)   第五回全日本中学生陸上選手権大会 八〇米ハードル
   〃五四年 柳田順子(道後中)   第一九回全国中学校選抜水泳選手権大会 一〇〇米・二〇〇米バタフライ
    〃   苗田益彦(川之江南中) 第六回日本中学生陸上選手権大会 三種競技A・走り高跳び

 高等学校総合体育大会

昭和二二年に第一回県中学校(現在の高校)総合体育大会が開催されている。同二四年には戦時中に組織されていた学徒体育振興会を発展的に解消し、小・中・高等学校の児童生徒教職員で構成する愛媛県学校体育会が創設され、各種運動競技の運営は、この組織にゆだねられた。同二三年全国高等学校体育連盟が結成され高校体育の正しい発展が叫ばれるようになるにつれて、本県においても学校体育からの独立の気運が高まり、同二六年愛媛県高等学校体育連盟が結成された。同年の第五回大会から高等学校総合体育大会は高体連主催となった。この時の開催種目は一四種目であったが、その後、年々規模が大きくなり、同六〇年には二五種目に約七、〇〇〇人の高校生が参加している。県大会あるいは四国大会において代表権を得たチーム又は個人は全国高等学校総合体育大会に出場する。定時制の大会は同二七年から行われた。
 本県では、全国高等学校総合体育大会を昭和四六年と同五五年に開催した。四六年は、徳島県が主会場となり、本県における開催種目は、バレーボール(女子)・ハンドボール・柔道・ボクシング・庭球・漕艇の六種目であった。五五年の大会は五五総体と愛称され、本県が主会場となり、陸上競技・体操競技(新体操)・サッ力I・庭球・軟式庭球・ボクシング・ウエイトリフティング・ソフトボール(女子)・漕艇・ハンドボールの一〇種目が開催された。「四国路を駆けろ若人 意気と熱」の大会スローガンのもとに、新設された愛媛県総合運動公園陸上競技場に皇太子・同妃殿下をお迎えし、全国四七都道府県から役員・選手約八、〇〇〇人の参加を得て盛大な開会式が挙行された。開会式における応援演技は参加者に深い感銘を与えた。競技は、強化策も実り、地元の声援を受けて健闘し、好成績を収め盛会のうちに終了した。
 全国高等学校各種競技大会における愛媛県の年度別優勝種目は表2-48のとおりである。

 高等学校野球大会

 第二次大戦のため中断していた中等学校野球は、戦後の学制改革によって高等学校野球として復活、愛媛県高等学校野球連盟を組織し、春・夏・秋に大会を開催している。このうち、春の大会の勝者は、四国地区高等学校野球大会に出場し、夏の大会の勝者は全国高等学校野球選手権大会に出場する。また秋の大会は上位二校が四国地区高等学校野球大会に出場する。特に秋季大会は翌春の選抜大会の有力な参考資料となっている。
 全国高等学校野球選手権大会における本県の優勝校は次のとおりである。
  昭和二五年  松山東高等学校
  昭和二八年  松山商業高等学校
  昭和三四年  西条高等学校
  昭和四四年  松山商業高等学校
 本県の野球はレベルが高く、「野球王国」と呼ばれた時期があった。昭和六〇年現在、全国高等学校野球選手権大会愛媛県予選会への参加校は五九校にのぼっている。

 小学校通信競技記録会

 小学校児童の対外競技は、昭和二六年県教育委員会告示の「学徒対外試合実施規程」により、校内競技に重点が置かれてきた。同三六年の文部事務次官通達「親睦を目的とする連合運動会は行ってもさしつかえない」の主旨から、愛媛県小学校体育連盟にあっては、県下の児童の陸上並びに水泳における各種目の記録の向上発展を目指して通信競技会を実践した。同四〇年、学校体育会から小体連が独立した年から事業の一環として各郡市ごとの記録を集計し、第一回通信競技会として入賞者にメダルが贈られることとなった。同五四年、文部省通達により学徒の対外試合が大幅に緩和されたのを機会に、各郡市単位で水泳・陸上競技大会を実施している。

表2-48 高等学校全国大会優勝者・団体

表2-48 高等学校全国大会優勝者・団体