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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 中等教育

 (1) 明治期(明治五年~同四五年)

 高等女学校令と家事裁縫科

明治三二年(一八九九)、高等女学校令が公布され、同三四年には同施行規則により学科目構成が定められた。このうち裁縫は「運針法・縫方・裁方・繕方ヲ授ケ」、「実用ヲ旨トシ其技能二熟達セシムヘシ」とし各学年とも週四時間を配した。家事は「衣食住・看護・育児・家計簿記・其他一家ノ経済・衛生等二関スル事項ヲ授ケ」、「成ルヘク実習セシメ務メテ実用二適セシメン」ことを要旨として、第三・四学年に週二時間を割り当てた。最高学年では裁縫家事の占める割合が二一・四%、また全学年を通じて裁縫は家事の四倍であり、裁縫の偏重は著しかった。両者ともに、勤勉節倹秩序・周密清潔・節約利用等の徳目養成の教科でもあった。

 女学校発祥の事情

明治一九年(一八八六)、愛媛県では四国最古のミッションスクール松山女学校が誕生している。その欧化主義の教育に反発し、伝統的な良妻賢母主義を掲げて、同二四年発足したのが、私立愛媛高等女学校である。高等女学校令公布以後、同校は県立松山高等女学校となり、本県における最も基準的な教科課程をもつ女学校となった。両校はこの時代、いわば良家の子女を対象としたエリート養成校であった。
 他方、より庶民的な階層の実学的要請によって設立されたのが沢田裁縫女学校であり、週二〇時間(五〇%以上)を裁縫履習に充てている。同校は本県における実科女学校の先駆である。すなわち明治四三年、高等女学校令改正によって「主トシテ家政二関スル学科ヲ修メソトスル者ノタメニ実科ヲオキ……」の実科高等女学校は、発令後たちまちにして全国に普及し、本県においては明治末年の女学校一七校のうち、ミッションスクール一校・普通課程女学校七校・実科女学校七校となっている。当時いかに女子に実学的教育が要請されたかを示している。

 (2) 大正・昭和初期(大正元年~昭和六年)

 女学校教育の進展

 大正六年(一九一七)に設立された臨時教育会議は、同八年に女子教育についての答申を行い、一層家族制度に適合した良妻賢母主義の強調と、併せて家事の基礎教科としての理科教育を重視することを進言している。その結果、同九年の高等女学校令改正では、家事及び理科が増強され、裁縫が削減された。
 本県においては、大正期は全般的に女学校の増設発展が著しい時期であり、大正元年一七校であった女学校が大正末期には二六校となっている。初期には実科高等女学校が急増したが、同一〇年以後は女子の学力増進についての社会的要請が高まり、後期には実科高等女学校が改組されて高等女学校になった。この時期の家事・裁縫教育の実態は、校種の歴史的変遷や地域の実情によって相当の差が認められる。

 家事裁縫教育の内容

大正期に存在した県内二三校の卒業生四五三名の回想による調査結果(越智他『愛媛県における家庭科教育の歴史』)を概括すると、大正期の裁縫教育は次第に洋裁教材が増え、特に第一次世界大戦以後はその傾向が著しい。大正一一・一二年に新設した県立高等女学校が制服に洋服を採用したことから、順次大正末年までには県下の女学校がそれに続き、また教材として用いたところもあった。同一〇年以後メートル法使用が裁定になり教科書も和洋裁ともメートル法によっている。また、家事では、調理に西洋料理・中華料理が増えている。
 明治期の家事教科書にはいずれも「家事の管理」のなかに「僕婢の扱い」が存するのが一般であったが、本県で用いられた二種の教科書のうち、大正七年発行の大江スミ著『応用家事教科書』には「僕婢及び書生」として記載されている。しかし、同一五年発行の石沢吉磨著「家事新教科書」にはもはや記載がないのが、時代の趨勢を現している。
 しかし、同一五年においても本県の女学校進学率は一五%であり、その意味で実業学校・実業補習学校における裁縫中心の教育の役割も大であった。

 (3) 戦時体制期(昭和六年~同二二年)

 中等学校令家政科青年学校令家庭科

昭和一八年(一九四三)、中等学校令高等女学校規程により家事裁縫は「家政科」と改称され、初等教育におけると同様の線で国家主義的家政教育が家政・育児・保健・被服の四科にわけて実施されることとなり、家政科全体では週六~八時間となり、最重要教科とされた。しかし同一九年以後の非常体制によって、ほとんど実効を見ていない。また同一四年には青年学校令により勤労青年教育が義務制となり、男子は軍事教練、女子は家事裁縫を主とする教育が行われたが、初めて「家庭科」の呼称が用いられた。

 愛媛県における非常体制下教育

 昭和一六年ころより学校報国団が組織され、各種の勤労奉仕が行われたが、同一九年には戦局のか烈化により遂に学徒動員実施。県内一七校の女生徒が県内外の軍需工場に出動した。また、今治高等女学校をはじめ七校が学校工場を開設し、校内で陣中蚊張・軍服等の製作に当たった。女生徒に看護教育の実施をして戦時救護の効率を図り、学校に保育所を付設して生徒が保母を勤め、家庭婦人の勤労進出を容易にするなど、銃後の国民生活に直接関与する戦う家政科教育を展開した。青年学校・国民学校でも食糧増産への奉仕が行われた。しかし同二〇年三月以後、教職員や生徒の殉死、学校施設の焼失等、教育環境は壊滅状態におちいり、やがて終戦になり、すべての教育体制と共に家事裁縫教育は終わりを遂げたのである。
 戦時体制下の家庭科教育は、系統学習は行われず、正規の学校教育としてはマイナス面もあったが、勤労動員や学校工場において、戦争目的遂行のために、国家的・社会的価値を発揮し、生徒たちは、消費節約・資源愛護・労力や時間の配分などに実践的体験的学習をしたのであった。それは悲劇的な終えんではあったが、明治以来の閉ざされた家庭生活から、女性が社会的進出に目覚め、またそれを要請される時代であって、高等女学校の家政科もその社会的重要性を期待されたのである。それはやがて戦後の民主的社会と新家庭科の幕あけにつながったといえる。

 (4) 昭和戦後期(昭和二二年~同六〇年)

 高校新家庭科の成立と変遷

新制高校は昭和二三年(一九四八)から発足した。新家庭科は同二四年に発足したが、ここでは次頁の表2ー52によりその成立と内容の変遷を、学習指導要領改訂にしたがって示してみよう。
 新家庭科は、その総目標において小・中・高等学校共通であり、よりよい家庭建設者の育成をめざし、「幸福な家庭生活を営む助けになるような経験を与える教科」であるとされている。表2ー52に見るように、当初、家庭生活に重点をおく「家庭科」と職業生活を目ざす「家庭技芸」に分けられており、いずれも自由選択であったところに特色があった。同三一年からは両者を一本化させ、「家庭科」と呼び、その基礎教科を「一般家庭」から「家庭一般」と改めた。その「家庭一般」が女子必修とされたのは同三五年以来である。同五三年には「家庭一般」の内容がより具体的に示され、体験学習が重んじられ実践力の育成をねらって、内容の十分の五を実践的学習で行うように、また、小・中・高等学校の一貫性を重視することなどが示されている。

 ホームプロジェクトと家庭クラブ活動

戦後の家庭科学習法のなかで最もユニークなのはホームプロジェクトと家庭クラブ活動である。前者は生徒が学校で学習したことを自らの家庭生活に応用し担任と家族の協力によって自分の家庭生活を向上しようとするものであり、後者はそれを社会的活動によって自他の相互の家庭生活並びに地域社会に寄与しようとするもので、いずれも生徒が自ら目的をもち、計画をたて、実行し評価する。両者は家庭科教育推進の車の両輪であるといわれる。いずれもアメリカの家庭科教育からもたらされたものである。
愛媛県では昭和二三・二四年度に松山南高等学校が、同二五年度には松山北高等学校がホームプロジェクト実践校として研究に取り組んだ。松山北高等学校は「ホームプロジェクト法による家庭科教育を一層効果的ならしめる施設の研究」によって、同二七年度にユニットキッチンを含む家庭科教棟が新設された。同二五年度からは県教育委員会が指定校を組み研究を指導している。
 家庭クラブは同二六年、ホームプロジェクトの指導者ミス・ウイリアムソンが来県したのを機に、松山市の全高等学校に設置され、翌年県下の連盟が誕生した。同二八年には全国組織に加入している。同年機関誌『しらはた』を創刊し、現在すでに三三号を発刊している。同三三年には家庭クラブ一○周年記念式典と研究発表を県民会館で行い、新生活運動の一端として県民にも感銘を与えた。同四七年には済美高等学校が「高校生によるフライパン運動」、同五七年には小松高等学校の「八〇年代の食生活を考えよう
―マーガリンで豊かな食生活を―」が文部大臣賞を受けている。また小松高等学校は永年のボランティア活動に対して、同五九年国際ソロプチミスト青年ボランティア賞をも受賞した。

 技術検定

生活技術の実力養成のために、昭和三五年(一九六〇)から全国的に技術検定が実施されている。被服・食物の各領域で四級より一級までの段階があり、基準が明確なために学習者が自主的に目標をもち、研修できるところに利点かおる。全国的にも実施校は増加しているが、本県の状況は表2-53の通り、同五九年度は同三七年度に比して四倍半以上に達する。

 産業教育としての家庭科

新制高等学校発足時、家庭技芸科加設置されていたのは県内一一の定時制高校のみであった。本県の職業課程は全国的にみて、その設置数が少ない。同二六年の産業教育振興法制定以来、産業教育の充実と振興が大きく取り上げられるようになり、農業三校・工業二校・商業一校が職業高等学校として独立したが、家庭課程のみは依然として普通高校には設置されていなかった。ただ同二八年には農村家庭科三校(伊予農業・大洲農業・野村高等学校)が新設されたことは特筆される。産業教育振興法による国費補助は普通課程の家庭科にもゆき渡り、順次施設面でも増改築等の施設充実がほぼ同三〇年ころまでに行われた。
 その後同三七年には新居浜西高等学校と小松高等学校に全日制家政科が設置され、他方、当初設置されていた定時制の家庭技芸科は、順次定時制か廃止され、全日制になるに伴って廃されている。種々曲折はあるが、現在では、農村家庭科は生活科と改称され、国立一校を含めて四校、私立全日制課程四校に家政科・食物科・調理科が設置されている。家政科・生活科ともに純然たる職業教育とはいい難いが、ホームプロジェクト・家庭クラブ・技術検定等においても、本県家庭科教育の推進的役割を担っている。今治精華高等学校の食物科と松山城南高等学校の調理科は調理師の職業教育で、調理科は男女共学である。
 昭和五九年は産業教育一〇〇周年であり、全国的にも愛媛県でも記念式典や記念事業が行われた。

 家庭科教育推進の活動

 本県の高校家庭科教育研究会は、既に昭和一〇年にはじまっていた。新制高校家庭科発足時にはホームプロジェクト・家庭クラブ活動が問題であったが、同三七年に愛媛県高等学校教育研究会家庭科部会として活動を開始し、毎年研究会を開いている。その主な研究テーマは次のようである。
  昭和四〇年~四七年 この時期は主要テーマは定まっていない。
  〃 四八年~五〇年 家庭科教育の近代化(家庭一般における自主的な学習の進め方)
  〃 五一年     家庭科教育を通した女子教育
  〃 五二年~五九年 豊かな人間性を培う家庭科教育の推進
            (五七年より新学習指導要領実施、ホームプロジェクトの強化等)
  他に技術検定の被服・食物の実施、家庭科学習ノートの発行、家庭クラブ活動の活発化等がある。
 家庭科教育が女子教育としてとらえられているところに本県の特色があるといえよう。近代化の問題を超えて「豊かな人間性を培う」ことに焦点があてられているのは、小学校家庭科の場合と同様である。それは本県全体の教育が今日目指しているところでもある。普通高校における大学進学率が高まるにつれ、選択教科の選択率が減って、家庭一般は基礎教科というよりも、むしろ女子の完成教育の観を呈してきている現状に対し、家庭一般を女子必修として重視しようとする姿勢は全般に強い。

 以上、戦後における本県の高等学校家庭科の歴史を概観してきた。ホームプロジェクトや家庭クラブ活動にみられる自主的・実践的活動に裏づけられた社会的学習、家庭一般を貫く総合的経営的な観点など、戦前の家事裁縫期には見られなかった特質が定着してきており、民主的家庭建設者養成の教科として着実な歩みを続けている。
 昭和五〇年(一九七五)の国際婦人年、同五五年の婦人差別撤廃条約調印、同六〇年の批准に向けて、高等学校家庭一般の女子のみ必修の問題が大きく浮上し、政府は一応女子のみ必修を解くこととし、具体的な決定は次期の学習指導要領改訂期を待つこととなった。今後、この問題は、本県においてもなお一層論議を尽くされるところとなろう。

表2-52 高等学校における家庭科教育課程の変遷

表2-52 高等学校における家庭科教育課程の変遷


表2-53 技術検定受験者数

表2-53 技術検定受験者数