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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 明治期の農業教育

 農業学校教育の発祥

 明治一六年(一八八三)四月一一目、農学校通則が公布され、わが国の農業教育制度が発足したが、当
時は普通教育の整備が急がれ、農業教育には力が及ばず、この制度は制定後わずか三年で廃止された。しかしながら、この制度による農学校が同二六年に全国で一二校存続していて、低度の農業教育の必要性が叫ばれ、翌二七年に簡易農学校規程が公布された。更に、実業教育国庫補助法も同年判定された。このような推移の中で、ようやく農学校設立の気運が全国的に高まり、文部省は明治三二年(一八九九)に実業学校令を制定し、これに基づき農業学校規程が同年二月二五日公布された。愛媛県においても、同三〇年ころから農学校設立の議論が急速に高まり、翌三一年一一月、県会議員河村菊次郎・武田徳太郎・杉甚三郎によって「農学校二関スル予算発布ノ儀」の建議案が県議会に提出され、同年一二月可決された。県は早速設立の準備を進め、同三三年三月一四日文部省の認可を得て知事大庭寛一が同年三月二四日愛媛県農業学校規則を公布し、温泉郡持田に愛媛県農業学校を設立する運びとなった。同年四月一日付で初代校長野村豊常が大分県立農業学校から転補され、翌年四月一三日開校式を挙行した。これが愛媛県の農業学校教育の発祥である。
 同規則によると、「農業学校規程甲種ノ程度二従ヒ農業二必須ナル学理卜技術トヲ授ケ最良ノ農業者ヲ養成スルヲ以テ目的トス」と農業教育の目的が明記され、修業年限=本科三か年・専攻科一か年以内。生徒定員=本科一二〇名・専攻科二〇名。学科目=修身・読書作文(読書・作文・漢文)・数学(算術・代数・幾何・三角・測量)・物理・化学・博物・経済(経済学大意・農業経済)・図画・土壌肥料・園芸・農産製造・畜産・養蚕・作物・病虫害・気候・獣医学大意・水産学大意・法規(法学大意・農学法令)・外国語・体操。毎週時間数=第一学年二八時間、第二学年と第三学年各二七時間、実習は無定時となっている。なお、明治三五年一月九日の実習課程は、第一学年=普通作物栽培法・農具使用法・肥料調整法・害虫駆除法・蚕児飼育法・農用手工、第二学年=普通作物及び特用作物栽培法・農具使用法・害虫駆除法・蚕児飼育法・農用手工・蔬菜栽培法・病害予防法・牛馬使役法・家畜飼養法、第三学年=普通作物及び特用作物栽培法・病害予防法・農産物製造法・農芸化学実験・顕微鏡用法・農場管理法となっている。

 東予における郡立農業学校の開校

農業の盛んな宇摩・新居・周桑の各郡では、農業教育に関心が強く、明治三〇年(一八九七)ころから地元に農業学校設立の要望が高まっていたが、これにこたえて宇摩郡長三浦一志・新居郡長浅野長道・周桑郡長山下与作・同後任郡長小松文五郎らが、県及び文部省の認可を得て、それぞれの郡立農業学校が次のように設立された。〈郡立宇摩農業学校〉明治三四年五月二日設立、初代校長斉藤吉夫、生徒定員一二○名、修業年限三か年、乙種。〈新居郡立農学校〉明治三四年一一月八日設立、初代校長廣瀬次郎、生徒定員一二○名、修業年限三か年、乙種。〈周桑郡立農業学校〉明治三四年四月九日郡立農業補習学校設置を経て明治三六年三月二五日設立、初代校置戸上信次、生徒定員一〇〇名、三か年、乙種。(校名は『愛媛県教育史第一巻』による)

 郡立校の学科実習課程

新居郡立農学校の学科課程=修身・読書・習字・作文・算術・理科・土壌・肥料・作物・農産製造・畜
産・養蚕・病虫害・気象・獣医学・林業・経済・法令・体操、毎週授業時数=二七時間、実習は各学年無定時。郡立宇摩農業学校の実習課程=第一学年ー普通作物栽培法・栽桑・農具使用法・家畜飼養法・わら加工・立毛及び生産物鑑定。第二学年―特用作物栽培法・冬作物栽培法・病虫害駆除法・家畜飼養及び管理法・養蚕実習・わら加工・澱粉製造・生産物及び家畜審査。第三学年―園芸作物栽培法・肥料調整法・夏作物栽培法・土地改良・農場管理法・家畜飼養法及び管理法・蚕体検査・わら加工・澱粉製造・畜産物製造・醸造・農産物製造・立毛検査・生産物及び家畜審査。特別実習は第二学年―昆虫採集・標本製造・養蚕。第三学年―病虫害培養・作物促成栽培・測量製図である。

 公立学校補助規程制定

明治三四年(一九〇一)に郡立三校が設立されたが、いずれの郡も財政的には恵まれず、学校経営は困
難であった。同三九年の県会に議員青野岩平らが郡立・町立・組合立の農業学校その他を県立に移管するよう建議案を提出した。県はこれにこたえて、郡立学校等の経営を補助する学校補助規程を制定した。
その結果、郡立宇摩農業学校は同年四月一日、甲種の農林学校に、周桑郡立農業学校は、翌四〇年四月一日に甲種の農蚕学校に改組された。当時は、日露戦争後で、全国的に一郡一校主義で農業学校設立運動か行われた。同四一年、全国には一八四校の農業学校が設立されていた。

 南予における郡立農業学校の開校

中等教育機関に恵まれない南宇和・東宇和郡においても、実業学校設立の要望が明治三五年前後から急激に高まり、南宇和郡長植田延太郎、東宇和郡長相葉陽の努力によりそれでれ次のように設立された。〈南宇和郡立水産農業学校〉明治四〇年一月二五日設立、初代校置戸上信次、生徒定員一五〇名、乙種。〈東宇和郡立農蚕学校〉同四一年三月二日設立認可、初代校長尾見五郎、生徒定員一五〇名、甲種。両校ともに、学校設置の位置問題では紛議を生じ、南宇和では東西両郡民が対立したが、双方が調停の結果妥協した。東宇和においては、野村町外一〇か町村と宇和町外一〇か町村が対立し、郡会で双方同数のため結着 がつかず議長採決で宇和町に決定した。南宇和水産農業学校の学科及び実習評定は「各学科目ノ評定ハ一○点満点トシ実習評定ハ各農業科目最高評点ノ合計ヲ以ッテ最高トス」と定められている。これは、明治・大正を経て昭和二二年まで実施されたが、県下の農業学校はこれに準じた評定法によって学業成績が決められたので、農業学校では実習が一番重視されたといえるのである。東宇和郡立農蚕学校の学科課程は表2ー54のとおりであるが、養蚕に関する科目が重視されていることがわかる。