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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 工業教育関係制度

 明治時代

明治初年の日本には、工業に関する工場は全くなかった。欧州ではすでに機械工業・化学工業を中心とする産業は進んでおり、必要な技術者を工業学校で養成して工場の需要に供給していた。政府は日本の工業化を急ぐため、明治三年(一八七〇)、イギリス人の鉄道技師モレルの建議に基づき工部省を設立した。翌四年に、その管轄下に工学寮(工部大学校)を作り、技術者の養成に当たった。これがわが国工業教育の始まりである。
 同五年八月に学制が頒布され、これによって同六年に、工業学校として最初に設立されたのが東京開成学校である。同一〇年には、東京開成学校と東京医学校とを合併して東京大学が発足し、また、同一五年には東京職工学校が開校した。同一八年には工部大学校は文部省に移管され、東京大学に合併された。
 同二七年六月には、工業教育に補助することを主とした「実業教育費国庫補助法」が制定され、同年七月には「徒弟学校規程」が公布された。更に、同三二年二月には従来の「中学校令」を改定して、公私立実業学校を対象とした「実業学校令」が公布された。それに基づき、同年「工業学校規程」が制定された。次いで同三七年三月には、実業学校令に基づく「徒弟学校規程」が改定された。これら一連の改正で工業教育に関する規程は完成したので、工業教育はこの時代に飛躍的に発展した。

 大正時代

この時代の工業教育は、第一次世界大戦中の好景気、戦後の恐慌の中から産業は急速に拡大し、教育についてのさまざまな要請が出されて量的に大いに発展した。
 大正六年(一九一七)九月「臨時教育会議官制」が公布され、同九年一二月臨時教育会議の答申の趣旨に沿って「実業学校令」が改定された。それに基づき、同一〇年一月「工業学校規程」が改定され、工業学校・徒弟学校の種別は廃止されて単に工業学校の一制度とし、修業年限を尋常科卒業後三年ないし五年、高等科卒業後二年ないし三年とした。

 昭和の初期から終戦まで

時代の進歩に即応して、昭和五年四月に「工業学校規程」が改定された。それによって尋常卒を入学資格とする工業学校の修業年限を二年ないし五年に改めて、二年制の乙種工業学校をも認め、甲種工業学校に第二部を設けることを認めた。
 同一二年の日中戦争後は学校教育も戦時体制に切り替えられ、同年一二月「教育審議会官制」が公布されて、戦時下における教育改革の基本方策を審議して重要な答申が行われた。それに基づいて同一八年一月には、「中学校令」「高等女学校令」「実業学校令」を廃止して、「中等学校令」で統一された。主要な改正点は、修業年限を一年短縮して四年とすること、国定教料書を使用させることなどであった。同一八年一〇月には「教育に関する戦時非常措置方策」が閣議決定し、男子商業学校は同一九年度において工業学校・農業学校・女子商業学校に転換すること、及び中等学校四年制施行期を繰り上げて、同二〇年三月より実施することなどの措置がとられた。戦局は極度に緊迫して同一九年二月には「決戦非常措置要綱」が、また三月にはその要項に基づく「学徒動員実施要項」が閣議決定された。更に同年八月には「学徒勤労令」が公布され、「学徒勤労令施行規則」が制定されて、三・四年生学徒は軍需工場に出動した。
 昭和二〇年(一九四五)一月にはアメリカ空軍の日本本土空襲があり、戦局はますますか烈さを加え三月には「決戦教育措置要綱」が閣議決定され、四月から一年間学校の授業を停止する措置がとられた。更に同年四月には連合軍の沖縄本島上陸があり、戦局はいよいよ決戦の様相を呈し、同年五月には「戦時教育令」が公布された。中等学校はついに教育の機能を失い、同年八月に「終戦の詔書」が下って戦時体制下の工業教育は終結した。

 戦後

終戦とともに戦時中の法令は順次廃止され、教育は戦時体制から平時体制にもどって学校の授業は再開
された。同二〇年九月には文部省より「新日本建設の教育方針」が発表され、同年一一月には『終戦に伴う中等学校措置に関する件」が地方長官あてに通達され、航空工業学校の名称変更、航空機科等の学科名の変更が指示された。同二二年三月、教育刷新委員会の建議に基づき「教育基本法」「学校教育法及び施行規則」が公布され、六・三・三制が実施されることになった。同二三年四月新制高等学校が発足し、工業学校は工業高等学校と改称された。新制高等学校の教育が一般教養を重視し、学区制・男女共学制・総合制をとったため、普通教育への関心が高まり、工業教育への関心は低下した。また、戦災で荒廃した工業教育関係施設設備の復興は進まず、明治二七年に制定された「実業教育費国庫補助法」による補助も昭和二五年度から打ち切られたため、工業教育は不振の傾向をたどった。そのため同二六年六月議員立法による「産業教育振興法」が公布され、それによって工業高等学校の施設設備の復興が急速に進み、わが国産業・経済の発展、国民生活の向上に大いに貢献した。