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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

2 工業学校の設立

 明治・大正時代

わが国産業の発展に伴って、全国的に工業学校の設置が進められた。本県の第二次産業は後進的であったため、他県に遅れて日露戦争後の明治四二年(一九〇九)に松山市二番町の松山高等小学校内に松山市立工業徒弟学校が設立された。これが本県工業教育のはじまりである(写真2-49)。
 大正三年(一九一四)第一次世界大戦が勃発して交戦国となりながら、国土が戦域外であったためそれがかえってわが国工業の発展を促進する好機となった。かかる情勢のもとで戦後全国各県で多くの工業学校が設立されたが、本県では同四年砥部焼の発展には優秀な陶工の養成が必要であるとの見地から、村立砥部工業徒弟学校が設立されたにすぎなかった。

 昭和の初期から終戦まで

昭和年代にはいってわが国はきびしい不況に見舞われたが、昭和六年(一九三一)の満州事変、同一二年の日中戦争勃発を契機として軍需工業の拡大が急速に推進され、それに伴って工業教育の振興が必要になった。本県は同一二年に、住友系の工場がある新居郡新居浜村に工業学校を新設する計画をたて、とりあえず泉川町にあった県立新居農学校に工業科を増設して、県立新居農工学校と改称した。翌一三年に工業科は分離独立して県立新居浜工業学校となった(写真2-50)。そのころ南予地方でも工業教育振興の機運が高まり、同一三年には町立吉田中学校の生徒募集を停止して県に移管し、県立吉田工業学校と改称して新しく発足した(写真2-51)。
 同一六年に太平洋戦争が勃発するや、軍需工業は拡大の一途をたどり、技術者養成は一段と急を要するに至った。同一七年には市立愛媛県今治工業学校が開校し、翌一八年県に移管されて県立今治工業学校となった(写真2-52)。
 同年一〇月には「教育に関する戦時非常措置方策」が閣議決定し、それに基づき同一九年度から市立宇和島商業学校は県立宇和島工業学校となり、県立八幡浜商業学校は県立八幡浜工業学校に変更された。

 戦 後

昭和二〇年(一九四五)八月の戦争終結によって生徒は工場から学校へ復帰し、八幡浜工業学校は県立八幡浜商業学校に復活、宇和島工業学校は県立宇和島商工学校として再出発した。
 同二一年八月に設置された「教育刷新委員会」の建議に基づき、同二二年三月「教育基本法」および「学校教育法」が制定され、六・三・三制の新しい学校制度が確立された。それによって同二三年には各工業学校は工業高等学校と改称され、各学校にそれぞれ定時制課程が併置された。また、学校によっては学科の増設または学級増が行われた。
 次いで同二四年九月高校再編成が行われ、新居浜・今治・松山・吉田の各工業高等学校は総合制高等学校に改められた。その後総合制による工業教育に反省が加えられ、同二七年には新居浜西高等学校および今治西高等学校の工業科は分離独立して工業高等学校に復帰し、同二九年には松山南高等学校の工業科も分離独立して松山工業高等学校となった。また、同三二年には、私立高校として初めて、新田高等学校に電気科が増設された。
 一方において、わが国の「経済自立五か年計画」の実施に伴い、新しい技術を身につけた工業技術者を大量に養成する計画とともに、同三五年閣議決定の、「国民所得倍増計画」に基づく中堅技術者養成計画がたてられた。それによって本県では同三三年ないし三六年に、既設の工業高等学校に学科の増設および学級増が行われた。更に同三六年には私立松山聖陵高等学校が設立され、工業科が設置された。また同三七年には県立壬生川工業高等学校と県立八幡浜工業高等学校が新設され、県立松山南高等学校砥部分校に工業科が設置された。次いで同三八年には大洲市に私立帝京第五高等学校が設立され、工業科が設置された。
 このようにして本県の工業学校は、わが国産業の発展と技術の進歩に即応しながら設立され、工業教育は次第に拡充されて今日に至った。各学校の沿革を年表にまとめてみよう。

表2-57 愛媛県工業教育略年表1

表2-57 愛媛県工業教育略年表1


表2-57 愛媛県工業教育略年表2

表2-57 愛媛県工業教育略年表2


表2-57 愛媛県工業教育略年表3

表2-57 愛媛県工業教育略年表3


表2-57 愛媛県工業教育略年表4

表2-57 愛媛県工業教育略年表4


表2-57 愛媛県工業教育略年表5

表2-57 愛媛県工業教育略年表5