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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

6 終戦後の特別活動・生徒指導

 学校儀式

温泉郡北古井国民学校の沿革誌によると、敗戦直後の学校の動きがよく分かる。
   八月一五目 ポツダム宣言受諾、無条件降伏、大東亜戦争終戦の詔勅下り、万事終れり
   九月二八日 終戦奉告祭に全校児童参拝
  一一月 三日 (明治節の儀式差し止められる)
   一月 七日 午前九時御真影奉還、職員児童校門に整列し、無言の奉送をなす
   二月    奉安殿は命により跡かたもなく破壊
   三月    校内の神殿・英霊殿の奉祭を移譲す
 昭和二〇年(一九四五)一二月一五日連合国軍最高司令部の発した「神道指令」に基づいて、奉安殿・英霊室・校内における神社・神棚等の撤去、更には御真影の奉還が指示された。また昭和二一年一月一日には、いわゆる「天皇の人間宣言」がなされるなど、学校儀式において明治以来続いてきた天皇礼拝がなくなり、国家神道的性格からの脱却が強行された。

 自由研究と自治活動

昭和二二年(一九四七)国民学校に代わって新学制による小学校、更に新制中学校の発足をみた。同時に、小学校では各教科と並んで、中学校では選択教科の一つとして、「自由研究」が設定された。学習指導要領(試案)では第四学年以上に週二~四時間、中学校は週一~四時間が配当され、「児童生徒の個性の赴くところに従って、それを伸ばして行くことにこの時間を用いて行きたい」として、①個人の興味と能力に応じた教科の発展としての自由な学習、②学年の区別を去った同好のものが集まってするクラブ活動、③児童生徒が学校や学級の全体に対して負うている責任を果たす活動(当番や学級委員など)の内容を予想した新しい試みである。

 教科以外の活動の一つとして自由研究が毎週一時間実施された。五・六年全体の児童を希望別に集め、科学・珠算・リズムなどに分かれて活動するのであるが、個人の能力差が大きいことなど種々の難点があった。(中略)児童中心ということから、児童会直属の部活動については特に綿密な配慮をした。各学級から計画・生活・図書・資料・保健というように委員を選任し、それぞれの委員会を持って活動をはかった。                            (松山市番町小学校『番町校史』)

 ここでは、すでに教科としての自由研究を「教科外活動」としてとらえているなどの実態の外に、従来の権威主義的教育への批判として児童中心主義が重視され、その中で児童会の組織化が図られていることにも注目したい。事実、この時期のほとんどの学校で児童会・児童自治会・子供議会などの組織化への活発な動きが見られた。
 戦前の児童自治が「自分のことは自分でする」といった考えのもとでの訓育的組織として機能していたのに比べると、ここでは児童たち自身が集会をもち、学校生活に関するさまざまな事項を相談し、議決し、実行するという自治的な性格を強くもつものであった。
 例えば、附属小学校では

  松山教場では、昭和二三年度に学級児童会を設けてから順次発展して、学校児童会・販売部・放送部・銀行部・クラブ活動などが運営され、三津教場では、昭和二二年に学校自治会が組織され、学校憲法として〝私たちのきまり〟をつくった。このほかに毎週学習発表会を持って、学習やクラブ研究の発表を児童の手によって運営した。

                                           (附属小学校『八十年史』)

とある。この「学校憲法」については六年生による憲法審議会を開いて原案の作成を進めており、その第二回案は次のとおりである。
     第一章 めあて
   一 私たちの自治で、きまりの正しい学校にしていこう。
   二 よく計画し、みんなで共力して、実行することにつとめよう。
   三 礼ぎの正しい、ことばづかいのよい学校にしていこう。
   四 みんなで助けあい、仲のよい明かるい学校にしていこう。
   五 一人一人がよく働いて美しい学校にしていこう。
     第二章 しくみ
   六 学校自治のために、次の役員と係をおく。
   七 委員ー校内自治の責任者で学級で男子三名女子三名、せんきょできめる。
   八 班長ー校内清掃の責任者で六年生が輪番であたる。
   九 区長―校外自治の責任者で、東西南北郊外の五区長は六年生でたがいに選きょしてなる。
                      /世話係
     区長(男)―副区長(女)―    (上級生)
                      \世話係
   十 各係ー運動・学芸・工作・衛生・校園・図書・風紀係をおく。
  十一 各係へは、自分のはいりたいものに入り、かたよる場合には、みんなで相談の上公平にする。
  十二 週番ー小学部では六年生がなり、人数は男女各二名ずつ順番にする。
     第三章 しごと (以下の各項は省略する)、第四章 校内のきまり、第五章 校外のきまり、第六章 賞ばつ

 旧兵舎を利用した粗末な仮校舎で、教材・教具その他すべての面で不自由ではあったが、児童会活動は活発であった。やがて、これを参考にして県下各地の学校に児童会が作られていったという。
 「六・三制の花形」として発足した新制中学校ではどうであったか。昭和二二年四月一五日、県下の公私立中学校二七七校が発足した。しかし、その実態については、次のようであった。

  開校したとは言え、教科書は整っていない、教科の大綱はあってもこれを具体化する何ものもない、といった情況であって、教員の負担は極めて重く、開店休業のおそれが多分にあった。
  校舎不足で、倉庫の改造、神社仏閣の社殿のかりずまいはまだ良い方であって、馬小屋の改造、急造のバラックで雨の日には教室内で傘をさして授業を受けなければならぬと言った状況の所があり、校舎建築が地方の大きな政治問題となった。                                    (『愛媛教育年鑑』一九五〇年版)

 こうして出発した中学校の教科課程に、選択教科として新しく自由研究の時間が登場した。ただ教科担任制の中での選択教科としての位置づけの不明確さもあって、昭和二四年五月二八日文部省「発学二六一号」をもって廃止され、特別教育活動が新設されることになる。
この間、名称も自由研究から自由活動、自由活動から特殊教科活動(教科外活動)、更に特別教育活動と、まさに「あがきあがきつつ」の実践試行が重ねられる中で、その推進力となる生徒自治会(自治会)のたくましい成長がみられた。
 そこには、当時の中学校をめぐる教育状況のもとで、なによりもまず生徒の訓育と学力の問題が緊急共通の課題として浮び上っていたという実態がある。その訓育面について昭和二二年度の新居郡中萩中学校(現新居浜市立中萩中学校)の実践記録を見ることとする。

 先づ私達か重点においたのは子供の行動的な質をよくする事にあった。混乱した世相の影響を受けて子供達も自由のはき違いをしていた。私達は自由の中に責任と規律のあるべき事を信じ指導を忘れてはならないと思った。(中略)校則・生徒綱領・自治会規定・校友会則などが出来て自治会は結成された。そして校章・胸章・バッジ等が次から次へと制定されたが、生徒の荒んだ気持は一朝一タでは容易に改まらない。(以下略)
 学校が生徒の訓育に苦闘している様子がよく分かる。
 やがて二年次を迎えた自治会では「入学生を迎えるにはどうしたらよいか」を議題として、次の三項を議決し実行している。

一 新入生を快く迎える為に立派な入学式をしよう。その為に新入生入場を拍手で迎え入れよう。
二 中学生としての自覚をもたせる為に、入学式で、校則・生徒綱領・自治会則を説明しよう。
三 楽しい歓迎遠足を計画しよう。

 ガイダンス的生徒指導

さきに見たように、中学校の開校にあたっては取りあえず必要な学校経営目標を定め、校則や生徒綱領などの諸規定を整えて生徒指導(訓育)に取り組んだのが大方の実態であったろう。また「服装を整えよう」「礼儀正しくしよう」「喜んで働こう」などといった目前緊急の指導も、敗戦の中の混乱期では直ちに実効を挙げることは難しく、青少年の不良化が校内外の問題となっていた。
 こうした生徒指導への取り組みに対し、文部省はさきにあげた「発学二六一号」(昭二四年五月二八日)において、「特に中学校は身体の急速な成長・自我の形成・性のめざめ等の諸特質を持つ青年前期の青少年男女を対象とするものであるから、生徒個々の成長発達に即した生徒指導を重視されたい」として

 ○ 生徒指導の領域は教育指導・職業指導・人格指導・社会性指導・健康指導・余暇教養指導等にわかれるが、ここでは実際的に相互有機的連関のもとに、いわゆる全人指導、生活指導として実施されるものである。
 ○ 生活指導は、生徒の不適応より生ずる精神的不健康や性格的なひずみに特に留意して行う必要があるが、窮極において生徒が自ら自己の生活を律することのできるようにすることがたいせつである。

と述べたあと、特別教育活動に含まれているホーム・ルームこそ「生徒の諸活動及び生徒指導の基礎集団(学校における家庭)」であるとして、「週あたり少くとも一時限以上」をその指導に充てるよう指示した。
 ここには、戦後いちはやくアメリカから導入されたガイダンス理論が「指導」とか「生活(生徒)指導」とか訳され、新しい指導原理として登場している。
 本県でも、昭和二四年度には生徒指導研究会を県下五会場で開催して、「ホームルーム生徒会、クラブ活動の企画運営についての研究」を進めており、昭和二五年度以降も、ディーン研究会(昭和二五年)・カウンセラー養成講習会(昭和二五ー二七年)・ガイダンスのための諸テスト講習会(昭和二六年)・教科外活動研究会(昭和二七年)・校外生活指導協議会・カウンセラー研究協議会・特別教育活動研究会(昭和二八年)・生活指導研究協議会(昭和三二年)等を開催して、ガイダンス(生徒指導)への積極的な取り組みを進めた。またこれと並行して実践記録や手引きの印刷配布、実験校の指定などの諸施策があった。

 学習指導要領と特別教育活動

 〈第一次改訂(昭和二六年以降)〉 昭和二六年になって、学習指導要領(試案)に大幅な改訂が加えられた。すなわち小学校では、「自由研究という名まえのもとに実施していた、幾つかの活動と、更に広く学校の指導のもとに行われる諸活動を合わせて」新しく「教科以外の活動」の時間が設けられた。内容の一例として、児童会、種々の委員会、児童集会、奉仕活動、クラブ活動などが示された。
 これに対し中学校では、すでに昭和二四年の一部改訂で新設されていた特別教育活動を「単なる課外ではなくて、教科を中心として組織された学習活動でない一切の正規の学校活動である」とし、この特別教育活動においては特に「なすことによって学ぶ」という原則を強く貫き、生徒たち自身の手で計画し、組織し、実行し、かつ評価することで民主的生活の方法を学び、公民としての資質を高めることができるとした。そして、その主要な活動領域を、ホームルーム、生徒会、クラブ活動、生徒集会としたのである。
 こうした改訂学習指導要領(試案)を受けて、小学校では教科以外の活動を全く新しい課題として受けとめたのに比べ、大方の中学校ではすでに特別教育活動の基礎のできた段階と考えていたようである。けれども、それらを学校教育全体にどう位置づけ、どう経営するかとなると、ともに産みの悩み育ての苦労に直面しており、郡市別研究会、更には県教育委員会の積極的な指導が重ねられることとなった。
 いっぽうこうして迎えた昭和二六年には講和条約締結を契機に戦後教育を反省検討する段階にきたとして、自主的な教育を進めようとの気運が高まり、国の教育政策にも一連の変化が現われ始めた。県下教職員の各種会合においても、これらをめぐる賛否の見解が対立することがしばしばであったという。新教育の行き過ぎが反省されるよりも、新教育の不徹底な実施の途上において、安易な右旋回が行われる方をこそ警戒すべきだとの意見も含めて、昭和三〇年代にかけての教育界は激動の時代を迎えた。
 〈第二次改訂(同三三年以降)〉 第二次改訂にあたって、学習指導要領は文部省告示として法規化されるようになり、教育課程を小中共通の四領域で編成するものと規定した。すなわち「各教科」「道徳」「特別教育活動」「学校行事等」である。
 ここでは、教科以外の領域が格段の整備をみた反面、特別教育活動と学校行事等を分離して別領域としたことや学級活動に進路指導を位置づけた上、「進路指導については、卒業までの実施時数四〇単位時間を下ってはならない」としたことなど、実践面に困難な課題を持ちこむ結果となった。
 なお、こうした進路指導の位置づけについては、「技術・家庭科」の新設に伴い、それまで「職業・家庭科」で担当していた職業指導を、ホーム・ルームの発展として生れた学級活動に包含させたという経緯がある。
 県教育委員会では、この時期に、「学校行事等の運営(昭和三八年)」「特別教育活動の調和的運営(昭和四〇年)」を刊行したが、これらには手引き書としての性格と同時に、この時代における教科外課程の実践成果と問題点をみることができる。
 また、教職員の研修団体として発足した愛媛県教育研究協議会(以下愛教研)が年々組織的な研究を進める中で、その実践を交流蓄積していくことになる。
 〈少年式〉 昭和三九年二月五日「立春の日」(昭和三九年は二月五日が立春の日)に松山市の御幸中学校と拓南中学校で「立春式」が行われた。
 もともとこの行事は、日本児童文芸家協会が「十四歳少年式」として提唱していたものを、独自の学校行事として取り入れたものであったが、昭和四〇年には本県独自の県民運動として実施することとなり、翌四〇年二月の「立春の日」には県下の全中学校二五一校で第二回少年式が挙行されるようになった。
 これ以後、少年式は中学二年生を対象にした学校行事として定着してきた。「自覚・立志・健康」の目標を掲げ、生徒会を中心とした生徒の自発的な参加による行事として運営されたことが少年式に新鮮な内容と形式を与えることとなっている。
 〈生徒指導・進路指導〉  「もはや戦後ではない」という言葉の聞かれ始めた昭和三五年(一九六〇)前後から再び青少年非行の激増傾向、特に集団化・低年齢化か顕著となった。その中で中・高等学校における生徒指導の充実強化が緊急の施策として取り上げられることとなる。当時は小中とも校務分掌としての生活指導係・生活指導主任・補導教師等による校外補導や関係機関との連携活動が生徒指導の重点を占めていたといえよう。県教育委員会でも昭和三七年に中学校生徒不良化防止対策研究協議会を県下五会場で開催し、また「問題生徒指導事例集」の編集配布をした。翌年には、さきの研究協議会のほかに、中学校の生徒指導責任者による地区別生徒指導懇談会を開き、また指導資料『生徒指導と非行対策』を編集配布している。
 昭和三九年になると、文部省は生徒指導主事一〇〇名を全国に定数配置し、中央での長期研修を実施するという画期的な施策を実施し、これをうけて本県でも担当指導主事二名を任命するとともに、一一名の生徒指導主事を市の中学校に配置した。また、文部省指定の研究推進校として松山市立勝山中学校を指定し、翌年には、新居浜市立中萩中学校、更に県教育委員会指定校として、宇和島市立城東中学校・今治市立美須賀中学校・大洲市立北中学校が研究推進の拠点となった。
 昭和四〇年の文部省発行「生徒指導の手びき」において、生徒指導の意義を「青少年非行の対策といった消極的な面」だけでなく「積極的にすべての生徒のそれぞれの人格のよりよき発達を目指すとともに、学校生活が生徒のひとりひとりにとっても、また学級や学年、更に学校全体といったさまざまな集団にとっても、有意義に興味深く、そして充実したものになるようにすることを目指すところにある」としたことの意義も大きい。
 この時期、本県教育センターでは、生徒指導講座・カウンセリング研修等を開催する外、相談活動を通して、生徒指導の研究推進を援助した。
 また、県教育委員会による生徒指導資料が毎年刊行されるなど、生徒指導は息の長い継続施策となっている。
 なお、愛教研生徒指導委員会(部会)の活動については、「愛教研二〇年のあゆみ(昭和五五年刊)」に詳しい。
 この間、生徒指導主事の定数配置については、年々増員が図られてきたが、学校教育法施行規則の一部改正(昭和五〇年一二月二六日付)による生徒指導主事の法制化に伴い、現在では一八学級以上の中学校と、地域の実情を勘案して少数の小中学校への配置が実現している。
 なお、昭和二八年一一月、すでに制度化されていた「職業指導主事」は、同四六年一二月二四日、学校教育法施行規則の一部を改正して「進路指導主事」と名称を改め、更に同五〇年には職務内容に関する文言の改正が行われるなど、進路指導の充実が図られてきた。また、昭和四八年、愛教研では進路指導委員会を新設した。この外、中・高等学校教員による愛媛県進路指導研究協議会の研究活動がある。
 〈第三次改訂(昭和四三年以降)〉 昭和四三年は、小学校、翌年は中学校の学習指導要領が改訂され、それまで特別教育活動と学校行事等の二領域に分かれていたものを、「特別活動」として一領域を新設した。その内容は、小学校では児童活動・学校行事・学級指導、中学校では生徒活動・学級指導・学校行事をねりあげている。ともに人間形成の視点を明確にし、特に、中学校では、学級指導・クラブ活動・学級会活動に各学年とも年間五〇時間(標準)を充て、学校行事に勤労、生産的行事を新設したことなどの特色がみられる。
 〈少年自然の家〉 県教育委員会が「少年自然の家」を構想し始めるのは、昭和四五年(一九七〇)である。これは国立・公立の少年自然の家とは別に、過疎による学校の統廃合等があって遊休校舎となっていた施設を整備活用し、小・中学校の教育課程に位置づけた野外活動をしようというものであった。すなわち、「自然の中に子どもたちを帰し、自由で伸び伸びとした野外活動や人間的な触れ合いの集団合宿などを行う」施設として、校舎等の整備を関係市町村に依頼した。ついで、関係機関・団体の全面的な協力があって、昭和四六年秋には、次の三施設を開設し利用を始めた。
 一〇月九日開設 面河少年自然の家(旧若山小学校)
 一〇月一二日開設 新宮少年自然の家(旧新成小学校)
 一一月四日開設 野村少年自然の家(旧惣川小学校)
 ついで昭和四七年八月一日には、津島少年自然の家(旧下灘小学校)、翌年四八年七月一一日には、大洲少年自然の家(旧上須戒中学校)、同年八月一日には、大三島少年自然の家(旧鏡中学校)、昭和四九年七月三一日には、西条少年自然の家(旧高宮小学校)と、次々に開設された。
 これらは、それぞれ一五〇~一六○名を収容できる施設として整備されたが、ここを活動拠点としてキャンプ・ハイキング・飯ごう炊飯・水泳・登山・オリエンテーリング等の野外活動(二泊三日~二泊四日)を実施している(写真2-72)。五施設での全面利用が始まった昭和五〇年度の実績は、小・中学校あわせて四十六校、三万六三五一名である。これは対象学年(小学校五・六学年及び中学校各学年)の児童生徒数の八一・七%が利用したことになる(表2-68)。
 〈第四次改訂(昭和五二年以降)〉 第四次改訂は小・中学校について年次を追うての改善方式をとらず、同時改訂を実施して、小・中学校の一貫性を重視した全面改善を図った。特別活動でも小・中学校共通の目標として「望ましい集団活動を通して、心身の調和のとれた発達を図り、個性を伸長するとともに、集団の一員としての自覚を深め、協力してよりよい生活を築こうとする自主的・実践的な態度を育てる」に改められた。内容では、小学校の学級指導における生徒指導機能が一層明確化されるとともに中学校での「教育相談(進路指導を含む)」を重視するなどの改善点がみえる。
 一方、改訂の基本方針として、ゆとりある充実した学校生活を実現するため標準授業時数の削減によって生じ九時間(学校致量の時間、ゆとりの時間など)の運用が期待されている。本県では、これを「創意を生かした教育活動」として、それぞれの学校の主体的な展開にゆだねた。
 〈地域社会学校教育〉 また、本県では、昭和五一年度から「地域に根ざす教育」を学校教育の重点施策として推進し、研究校(小学校五、中学校五)を指定するなど、地域に根づき、地域に根を張る学校づくりを進めてきた。退職教員や有識高齢者を指導者とする小中学生の「校外活動グループ」も、こうした施策の一環として定着しており、それぞれの郷土に親しみ、地域に奉仕する活動を進めている。
 なお、昭和五三年度からは、過疎地小規模校二校を一組として年間三回以上の交流や協同学習をする「協同学習指定校」、また、都市部と農村、農村と海辺など地域を異にする学校間の交流学習を目指した「姉妹校交流学習指定校」を設けるなど、交流教育を積極的に進めており、地域間学校交流も年々盛んになってきた。

 中等教育における生徒指導

昭和二三年四月一日に発足した高等学校の教育活動も、同三一年四月一日から「高等学校学習指導要領」の実施に伴い充実してきた。しかし同時に戦後の社会状勢の安定とともに、少しずつ減っていた少年犯罪が増加し始め、殊に学生・生徒の犯罪増加が目立ち始め、学校における生活指導はひたむきに前進しなければならない状勢になってきた。県教育委員会では生徒指導実験学校を設け、その指導強化を図り、更に高等学校生徒指導主任研究協議会を開催し、指導徹底を図っている。昭和三一年六月一三日県立八幡浜
高等学校で「校外生活指導の組織と指導について」の研究主題で生徒指導実験学校研究発表会が開催されており、同年七月九日高等学校生徒指導主任研究協議会が開催され、「本校における生徒指導運営状況並に指導上の問題点」と題して、県下四高等学校(今治南・砥部・松山商業・宇和)から研究発表が行われ、「特別教育活動指導の問題点」「道徳教育の具体的方策」「夏休み中の校外生活指導」について研究協議が行われている。吏に同年一一月一四日から一七日まで大分市で開かれた文部省主催西日本生活指導研究協議会の参加報告会を兼ねて行われた高等学校生徒指導主任研究協議会(昭和三一年一二月五日)では、参加研究報告の外、「校外生活指導・特別教育活動における生活指導」「純潔教育および男女交際」「生活指導に必要な基本調査について」「生活指導上の具体的な諸問題とその解決策について」「冬季休暇中の指導について」等が研究協議されている。
 昭和三八年四月一日に新しい「高等学校学習指導要領」が新一年生から実施された。教育課程の改訂に伴い道徳教育が特に強化され、教科として社会科の中に倫理・社会が新設されるとともに、道徳教育の場として特別教育活動及び学校行事等の位置づけやその内容が明確となったので、これに関する研究指定校を設け、学校訪問の機会を兼ねてその発表会が開催されている。昭和三八年一一月二六日、西条高等学校(特別教育活動及び学校行事等研究指定校発表会)ではロングホームルーム参観のあと、ホームルームの年間指導計画の立案、ホームルームと学校行事等の関係、ホームルームの実践と反省の研究発表を行っている。更に高校生の非行や不良化の防止と増加傾向にある交通事故の防止等について、その対策と指導の徹底を期し、高等学校生徒指導研究協議会において交通安全及び高校生の精神衛生について協議研修している。また県教育委員会では生徒の生活指導、殊に校外指導の重要性にかんがみ、県立各高等学校に対して生徒補導費を交付し、一層有効適切な指導を期するとともに併せて県下九地区の校外補導協議会の連絡会を開きその助成を図っている。
 昭和四三・四四年の学生運動・大学紛争を契機として起こった高校生の政治活動・高校紛争の波は愛媛県にも押し寄せようとしたが、県下全高校教職員・PTA等関係者の一致協力により無事乗り切ることができた。同時に県下の高等学校の生徒指導体制も一層強化された。昭和四五年に七名の生徒指導主事が標準法の枠内操作により配置され、順次増置され、昭和四七年には県下全高等学校に配置された。これら生徒指導主事を中心に県下の全生徒指導関係教職員によって組織された愛媛県高等学校教育研究会生徒指導部会の果たしてきた役割は極めて大きい。生徒指導部会が取り組んできた研究主題は、次頁の表2-69のようになっている。
 愛媛県高等学校長協会生活指導専門委員会委員と愛媛県高等学校教育研究会生徒指導部会研究委員が年間数回の研究会を開いて研究を推進し、年度末に愛媛県高等学校教育研究会生徒指導部会研究発表大会を開催しで、その成果を広く県下全高校の生徒指導関係者に研修してもらい、これが愛媛県の高等学校生徒指導推進の実践活動指針となっている。
 昭和四八年四月一日から「高等学校改訂学習指導要領」が新一年生より学年進行により実施された。この高等学校学習指導要領の改訂によって、高等学校におけるクラブ活動は従来の「クラブ活動に全校生徒が参加することは望ましいことであるが、生徒の自発的な参加によってそのような結果が生まれるように指導することが大切である」ということから、「クラブは、学年やホームルームの所属を離れて共通の興味や、関心を持つ生徒をもって組織すること」をたてまえとして組織上の工夫の余地を残しながら、「全生徒がいずれかのクラブに所属するものとする。原則として、各学年において週当たり一単位時間を下らないものとする」となり、全生徒の参加ということが明確に打ち出された。これに対し各高等学校においては事前の準備研究やクラブ活動特別研究校における研究推進等により昭和四八年四月より県下全局等学校において全校全員のクラブ活動参加が実施されたのである。
 昭和五〇年代に入り、愛媛の教育は、豊かな人間性を育てる学校教育の充実、心の通うふるさとづくりをめざす社会教育の推進を図るために、青少年期においては、地域をみつめる教育平地域に奉仕する体験を推進することが期待された。これをふまえ、昭和五一年度から県教育委員会では、「地域と一体となった高校教育研究指定校」を設けて、実践的研究を進め、発表会を開いてその成果を広く全県下各高等学校に活用されるように図った。昭和五一年度以降の「地域と一体となった高校教育研究指定校」は表2-70のとおりである。
 長年にわたり県下全高等学校が取り組んできた「地域に根をおろす教育」の成果は極めて大きい。自然愛や人間愛を大切にし、豊かな心を育てる人間教育は、身近な「えひめ」を抜きにして進めることはできない。愛媛の風土に立脚し、しっかりと地域に根をおろし、郷土に根を張った高等学校教育、高校生徒指導が今後も力強く進められていくことを期待している。

図2-10 中萩中学校生徒自治会組織(昭和24年度)

図2-10 中萩中学校生徒自治会組織(昭和24年度)


図2-11 本県における「少年自然の家」

図2-11 本県における「少年自然の家」


表2-68 小・中学校別「少年自然の家」利用者数の推移

表2-68 小・中学校別「少年自然の家」利用者数の推移


表2-69 生徒指導部会における年度別の研究課題

表2-69 生徒指導部会における年度別の研究課題


表2-70 地域と一体となった高校教育研究指定校

表2-70 地域と一体となった高校教育研究指定校