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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

四 同和教育①

 戦前の同和教育

明治年間においては、未解放部落民子弟の就学促進・分教場設置・特設学校の設立・差別教育廃止・一般校入学等が大きな教育問題であった。
 愛媛県では、明治三六年(一九〇三)県議会で、安藤正楽議員(宇摩郡選出)が、未解放部落の分校制度廃止を要求、同三七・三八年と続いて、三たび未解放部落の教育差別を追及した。これらの動きの中で、明治四一年県内務部長は、宇摩郡長に未解放部落の分教場廃止を指示し、次第に一般校就学が進むようになった。
 しかし県内各学校では、教員、児童の差別事件も多く、同盟休校にまで発展することもあった。
 一方、運動としては、部落改善運動・水平社創立・部落委員会活動等、平等な人間としての自覚に立った活動が見られるようになった。反面、県・郡市又は町村設置の融和団体によって、県を区域とした融和促進の機関として、愛媛県善隣会が大正一二年(一九二三)に創立された。
 こうして、昭和に入ると、融和教育の必要性が叫ばれ、師範学校生徒や教員に対する融和問題講演会、県の融和教育の方針作成(昭和九年)、昭和一〇年には、愛媛県融和教育研究協議会が設立され、同一二~一五年にかけて、融和教育研究指定校(温泉郡新浜小学校・川上小学校・宇摩郡妻鳥小学校、周桑郡楠河小学校、西宇和郡宮内小学校)が認定されたり、融和教育講習会等が開催された。

 本県同和教育の誕生

昭和二六年(一九五一)、宇摩郡天満村(土居町)清寧中学校において、本県で初めての「人権尊重研究大会」が行われた。当時としては、全国的にもまれなことであり、その内客においてもすばらしいものであった。事の契機は、生徒の差別発言、及びその処理に当たった教師の差別発言からであるが、戦前から人権運動・解放運動を通じて、解放の願いと団結心を育てられていた部落の人々は、差別発言を個人の差別にとどめず、社会意識としての差別であるとして、個人糾弾をせず、「人権の尊さを守り、部落差別を完全に否定する教育実践」を要望した。
 この要求にこたえて、教師たちは、部落に出かけ、子供会を組織し、京都・和歌山の先進県に学び、又部落問題研究所の本村京太郎等の指導を受け、「人権尊重教育」を進めたのである。(この間の歩みは、当時同校の教論であった山内数雄著『このこらと』を参照されたい)
 このごろ、南予のある中学校では、歴史学習の中で、部落間題を取り上げ、同和教育として部落の解放に役立てようとしていた教師がいた。ところが、部落の人々から強い抗議を受け、時には暴力事件にまでなったこともあった。このような例は、昭和三〇年前後には、県下では数件起こっている。清寧中学校では部落の人々の支援を受け、他の学校では部落の人々の反対を受けたのはなぜだろうか。残念ながら、本県ではその分析がなされなかった。そのことがその後、同和教育を発展させなかった原因の一つになったものと考えられる。
 これについては、広島県で昭和二七年に起きた「吉和中学校事件」が明確な答えを出している。
 文部省は、この年「同和教育について」の次官通達を出し、又同三四年度より、同和教育研究指定校を委嘱するようになった。
 昭和二八年全同教示、又同二九年には本県でも同和教育協議会が結成され、翌三〇年には、県教育研究大会に、初めて、分科会で取り上げられ討議された。
 このように、同和教育の発表が組織化され、全県下に取り上げられる体制が整った時、勤務評定に端を発した県教育委員会と県教職員組合の対立で、県同和教育協議会も弱体化し、教育研究の分裂化の中で同和教育もまた衰退し、わずかに文部省同和教育研究指定校による研究が支えになった。

 行政と運動の協調による同和教育

 昭和三六年、当時県内で活動していた部落解放同盟愛媛県連合会と、愛媛県同和対策事業協議会の代表が会合を重ね、部落問題の解決を県民的な課題としてとらえ、県民に理解きれ支援される運動への脱皮を目指して、「対話と協調」を基本理念とした愛媛県同和対策協議会(県同対協)を結成した。
 同四〇年同和対策審議会答申が出され、同和問題の解決は行政の責務であることが指摘され、その内容もある程度はっきりしてきた。このころ、かねてより同和教育に対する組織の再建を念願していた、県教育委員会・県同対協等が中心となり、各種団体と協議し、同四三年愛媛県同和教育研究協議会(県同教)を結成した。
 昭和四四年、国は「同和対策事業特別措置法」を制定したが、同和対策事業に対する措置法であり、啓発・教育に対する措置が明確でなかったことは残念であるが、解放運動と同和教育に信念と勇気を与えた。
 折も折、「タカキベーカリー差別事件」が起き、県下の教育界に大きな波紋を投げかけた。この事件は、部落問題の重大さを正しく教えられていない者の行動や発言が、人の心を深く傷つけ、死に至らしめかねないことを物語っている。糾明会では、同和行政の円滑な推進及び部落の完全解放にとって、同和教育が最も重要で不可欠であるとの厳しい指摘があり、これまで同和教育がほとんど実践されていなかった高校教育は、急速に同和教育への取り組みを推進していった。
 昭和門六年に県教育委員会は、同和教育係を設置し、やがて同四八年には同和教育班に昇格、同年七月には、同和教育基本方針を策定し、同和教育に対する姿勢と行政施策を明確に打ち出した。
 一本化なった県同対協は、同四六年「対話と協調」「行政と共闘」「教育との連帯」という運動方針を打ちだし、同和教育を県民すべてのものにするための全面支援を組織的に行った。間もなく県下のすべての市町村に同和教育協議会が結成され、力強く活動を展開するようになった。
 昭和四○年代になっても県下では、同和問題を正面にすえて学習する学校は少なかった。同四七年文部省の同和教育研究指定を受けた八幡浜市・保内町共立青石中学校は、学校長三好常喜を中心に、「部落の父母の願いを私たち教師自らの願いとして受けとめ、教育の課題として実践していきたい」と決意し、一人一人を大切にした分かる授業の研究と実践、地区においては、部落差別のための学力の遅れを取り戻す学習会等に力を入れ、同和地区の生徒の進路保障に取り組んだ。又「寝た子を起こすな」「子供には同和問題を教える必要はない」というそれまでの流れに対して、すべての子供を正しく起こして、部落差別にたくましく立ち向かって生きるようにと指導した。この青石中学校の実践は、当時県下の教職員に自信と展望を与えた。
 同四九年、県教育委員会同和教育班は同和教育室となり、同五二年には同和教育課と昇格し、同和教育の行政組織は充実した。一方同和教育協議会も、内部組織の確立、機関誌「えひめ同和教育」の発刊、そして同和問題学習資料集、高校生用「人間の輪」を同五二年に、小学生用「きょうだい」、中学生用「ほのお」を同五四年に刊行し、各学校における同和問題学習の推進に重要な役割を果たすようになった。又県同教は、四国地区同和教育研究協議会・全国同和教育研究協議会(全同教)にも加盟し、部落の完全解放をめざし、真の民主主義を確立するため、各県の研究・実践との交流を図り、当面の実践課題を明確にし、同和教育を推進している。

 宮崎差別発言と同和教育の見直し

昭和五六年六月九・一〇日宮崎市で開催された、全同教主催の「進路保障・学力保障に関する研究会において、県内の一教諭が差別発言をした。県同対協は、事の重大性を解明するため、直ちに宮崎問題調査委員会を設け、調査糾明会が開かれ、①当教諭の発言は悪質な差別発言であり、同時に当教諭の差別体質が明らかである。②当教諭の勤務する学校の同和教育の取り組みが不徹底であり、教職員の同和問題に対する認識が欠けている。③当教諭の勤務する地域の同和教育の取り組みが不十分であり、行政責任としての同和行政施策が欠けている等のことを確認し、国民的課題として同和教育の推進に当たる県行政・県教育委員会・地方自治体・地方教育委員会等に反省と検討を求め、六項目の申し入れを行った。
 これを受けて、直接の責任者である県教育委員会は、「同和教育実践の手引」を全教員に配布し、宮崎差別発言を教訓として、今までの学校における同和教育について、基本的な研修からの再出発を求め、各教育事務所単位に学校長・同和教育主任の研修会を開き、全教職員の研修充実に力を入れた。
 この年表によって、愛媛県の同和教育の動向か、ほぼ察知できるものと思う。
 教科書に、同和問題に関する記述が掲載され、また、児童・生徒間の同和問題学習資料が活用されるようになって、同和教育は急速に高まり、教職員は同和地区に足繁く通うようになった。そうして、子供や父母の生活を正しく理解することによって、真実の「子供の姿」を見ることができ、「子供が見える」ことによって、更に深い教育の営みができると確信するようになってきた。
 今日、人間の尊厳と人権の確立を求める流れは大きくうねり、世界の国々をその風潮の中に巻き込む勢いになっている。
 このような状況下にあって、同和教育は、部落差別の現実に深く学びながら、差別の痛みと解放への喜びを共有できる人間づくりを目指して、更に真摯に取り組まれていくものと期待する。

同和教育史略年表1

同和教育史略年表1


同和教育史略年表3

同和教育史略年表3


同和教育史略年表4

同和教育史略年表4


同和教育史略年表5

同和教育史略年表5


同和教育史略年表6

同和教育史略年表6


同和教育史略年表7

同和教育史略年表7


同和教育史略年表8

同和教育史略年表8


表2-71 高校進学率の推移

表2-71 高校進学率の推移


表2-72 奨学金給付人員の推移(実数)(高校の部)

表2-72 奨学金給付人員の推移(実数)(高校の部)