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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

1 旧制中等学校時代

 戦前の進路指導

戦前、旧制度の中等学校には「進路指導」という言葉はない。この言葉が公式に用いられるようになったのは、昭和三二年一一月、科学技術に関する文部大臣の諮問に対する答申が最初であると言われている。これに代わるものとしては、大正初期から「職業指導」という言葉が広く用いられるようになった。しかし、当時の学校では、そういった指導を担当する分掌などはなく、わずかに生徒指導の一環として、最上級生の担当教師による助言あるいは個別の進路相談が行われていた程度であった。それでも大正末期、第一次世界大戦後の経済不況の影響もあって、進学・就職の困難化にともない、進学対策としては、上級生を対象に夏季受験講座とか専門学校入試模擬試験などが、県下のほとんどの中学校でそれぞれ学校独自に計画実施されるようになった。けれども、これらは現在の高等学校で実施されている模擬試験のように、進学指導の資料として役立てることが目的ではなく、あくまでも学習指導ないしは生徒指導の延長上のものであって、年間一回から三回程度実施されていた。したがって、これは生徒にとっては進路対策というよりは、むしろ学力向上の刺激剤的な役割を果たしていたようである。一方、就職指導に関しては、特に計画的な事前指導は行われず、法的にも就職のあっせんは職業紹介所(現在職業安定所)を通じて行われ、学校はその仲介の役割を果たすに過ぎなかった。それでも、主として、工業・商業等の実業系学校では、職場の開拓も担任や専門教科の教師らが中心となって、卒業生・知人等の縁故を通して、ある程度は行っていた模様である。もちろん、現在のような組織的・計画的な活動ではなく、担当教師の個人的な活動に頼る面が大部分であった。ただ、全国的には、昭和二年(一九二七)に日本職業指導協会が設立され、当時の不況下、新学卒者の職業指導を援助するなど、我が国の進路指導組織の草分けとなった。概して、戦前の進路指導は、生徒各自の自主性にまかせた分野が大きく、現在のように、入学時からの組織的・計画的で綿密な指導は皆無であったと言ってまい。したがって、上級学校についても、職業選択についても、学校から与えられる情報量は極めて限られており、生徒は先輩や知人・家族等からの見聞や、数少ない受験雑誌の情報を頼りに、各自で進路を自主的に選択決定し、学校はどちらかと言えば、学力養成の場としての役割を果たしたのである。
 しかし、昭和一〇年(一九三五)、中学校令の改正に伴なって、中学校においては、四年生から、生徒の志望に即応して、第一種(実業志望)・第二種(上級学校志望)の両課程に分かち、前者は英・数・国漢を減じて、商業・簿記・珠算・農業等を課することとなった。移行措置としては、その前年の昭和九年は、五年生のみにこれに準じた課程を実施した。現在の類型別指導に似た形態であり、強いて言えば、学校で進路指導が教育課程の中で行われるようになった始まりと言えよう。ただ、同一二年より日中戦争が始まり、時局が急変するにつれて、この制度は早くも同一五年ころに、県下では姿を消したようである。また、卒業生を対象とする補習科は、県下でも、早くは明治末期ころから設置され始め、上級学校志望者の予備校的役割を果たした。この制度は、戦後もしばらく一部の学校に再設置されていたが、県内予備校の誕生などにより姿を消してしまった。(補習科については、大洲中学に明治三九年(一九〇六)開設の記録が残っている)
 満州事変(昭和六年)から軍事色が高まり、第二次世界大戦にまで発展した戦争の影響は、昭和一〇年ころから次第に生徒の進路にも大きく現れ始め、工業技術系や軍関係の諸学校への進学あるいは県内外の軍需産業への就職の急増が目立ってきた。更に戦局の悪化につれて、昭和一八年ころから戦争一色となり、翌一九年、学徒勤労令・女子挺身隊勤労令が公布されるに及んで、もはや、どの学校も進路についての指導などを行う余裕は全くなくなってしまった。