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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

4 昭和期―戦後の学校保健

 保健教育の充実

第二次世界大戦後の教育改革は、主として文部省の行政的措置によって進められた。保健教育に関連するものとしては、昭和二〇年九月に出された「新日本建設ノ教育方針」において「……衛生養護二カヲ注ギ……」と言及され、同二一年二月の「学校衛生刷新二関スル件」では「……学校二於ケル衛生教育二再検討ヲ加へ……」と記されているものの具体的方向は示されていない。保健教育が教育改革の表面に現れてくるのは第一次米国教育使節団報告(一九四六)以降である。同報告は保健教育についても「健康教育は国民学校においても、甚だしい欠陥があるように思われる」と指摘し、その必要性を勧告した。
 文部省はこの勧告を受けて、昭和二一年(一九四六)五月に「新教育指針」の中で組織的に衛生教育を行う必要を明示し、翌年八月にそのための内容を「学校体育指導要綱」(体発第七七号)に示した。それによると、体育は運動と衛生の実践を通して人間性の発展を企図する教育である、それは健全で有能な身体を育成し、人生における身体活動の価値を認識させ、社会生活における各自の責任を自覚させることであるとしている。そして、小学校から大学に至るまで保健衛生教材が各学校段階ごとに提示された。更に文部省は、「保健科」の独立を提言の一つに盛り込んだ体育振興委員会答申(昭和二四年二月)を受けて、同年五月と六月に中学校と高等学校の「体育科」を「保健体育科」に改称し、それぞれ三年間のうちに七〇時間を充てて「健康教育」を実施するよう通達した。これによって保健教育は、制度的には一応の成立をみた。しかし、この制度上の改革は、第一次米国教育使節団の勧告に対するいわば急場しのぎの対応といえるもので本格的な改革は次の「学校保健計画実施要領」の刊行段階を待たねばならなかった。
 昭和二四年(一九四九)九月、文部省より「中等学校保健計画実施要領(試案)」が、同二六年二月に「小学校保健計画実施要領(試案)」が発表された。これらは、学校保健活動全般にわたってその進め方が書かれている教師の手引書であるが、文部省が保健教育についてその理念や目標・内容・方法にわたって体系的に整理したものを示した最初のものであった。
 二つの実施要領が打ち出した保健教育についての特徴は、一つは学校の健康教育は、教育の一科目であるだけでなく、それはあらゆる機会を通じてなされるものであるという非常に幅の広い保健教育の概念を打ち出したことであり、今一つは、その後の保健教育界に浸透していった生活経験主義的教育観である。その内容には、生活に必要な行動の仕方や知識と技術といった実用主義的な教材が選択され、方法として日常生活に実践させるような工夫が強調されている。
 愛媛県では、昭和二四年(一九四九)一一月に「愛媛県健康教育指導細目作成委員会」を組織し、保健科教育の方法について具体的成案を同二五年四月末に発表することとした。文部省から発表された保健計画実施要領(試案)によると、保健の学習時間は、高等学校では三か年中に二単位、中学校では三か年中にある特定の学年で七〇時間以上を特設するとなっているが、愛媛県では中学校の保健学習時間を三か年を通して一週間一時間程度特設することにした。小学校は保健を指導するために教科としての時間を特設しない方針であった。
 文部省は、昭和三一年から同三三年にかけて学習指導要領の改訂を行った。この一連の改訂で中・高等学校の保健の内容が初めて学習指導要領に示されるようになった。更に、小学校においては、文部省がそれまでとっていた「小学校においては保健の時間の特設は必要ない」という方針をかえ、小学校五・六年時に「体育や保健に関する知識」として内容を示し、それに体育の時間の一〇%を配当した。こうして保健は教科としての実質的な意味での産声をあげた。
 学習指導要領に初めて示された保健教育の内容は、小学校では、第五学年は「健康な生活」「身体の発達状態や健康状態」、第六学年は「病気の予防」「傷害の防止」「各種の運動の特徴と運動競技会」となっている。中学校では、第二学年と第三学年に「保健」を配し、第二学年は「傷害の防止」「環境」「心身の発達と栄養」「疲労と作業能率」、第三学年は「病気の予防」「精神衛生」「国民の健康」が内容となっている。また、高等学校では、保健体育科の第二「保健」として、(一)人体の生理、(二)人体の病理、(三)精神衛生、(四)労働と健康・安全、(五)公衆衛生の五領域が基本内容となっている。
 これらの内容は、昭和四三年からの学習指導要領の改訂にほぼ引き継かれ、内容領域も「個体の健康状態」―→「環境条件」→「社会条件」に整理され、いわゆるらせん型のカリキュラム構成となった。同五二年(一九七七)の小・中学校、同五三年の高等学校学習指導要領の改訂では、「ゆとりある充実した学校生活」と「内容の精選」を主要なねらいとした。
 現行の保健教育の内容は、小学校では、第五学年「身体の発育」「けがの防止」、第六学年「病気の予防」「健康な生活」の四項目に精選された。中学校の場合は、前回七項目であった学習内容が(一)心身の発達、(二)健康と環境、(三)傷害の防止と疾病の予防、(四)健康と生活、の四項目に絞られた。高等学校については、前回六項目であった学習内容が「心身の機能」「健康と環境」「職業と健康」及び「集団の健康」のの四項目に整理統合された。これら一連の改訂は、内容項目を大幅に整理し、重複を避け、小・中・高等学校を通して一つの内容体系を描き出したことが目立った変化であった。

 新しい学校保健

戦後の学校保健は、教育委員会法に保健上の規程条項が加えられたり、学校保健計画実施要領が発行されるなど、教育法規に確固たる位置づけがなされ、教育課程の中に一つの位置が与えられた。これは日本の教育の歴史にとって画期的なことであった。更に、学校保健の推進を図るために、学校・PTA・地域社会の三者の協力によって、各学校に学校保健委員会の設置が要請されるようになった。この委員会は教師代表・生徒代表・PTA代表・地域社会代表・学校医・学校歯科医等によって構成され、学校保健主事が中心となって運営を企画し、活動を推進することになった。なお、文部省が学校保健計画実施要領案を発表して以来、愛媛県下の学校においては、この実施要領にのっとり、保健主事を中心として学校保健委員会を組織する学校が小学校一八四校、中学校一一八校、高等学校四一校にのぼり、相当効果的に運営された。
 学校保健の重要性についての関心はようやく高まってきたが、学校の保健管理面の法的不備、財政的配慮の欠如に対し、昭和二六年ごろから全国学校保健大会の決議要望、全国小・中・高等学校長の要望、日本PTA全国協議会の請願をはじめ、各方面から学校保健の振興に関し、法制化についての強い要望がなされた。同二七年八月には、第二回全国学校保健大会において「学校保健憲章」が制定された。この憲章は、学徒の心身を健やかに育成し、民族発展の基を培うために定められたもので、学校・家庭・社会が一体となって憲章制定に努力することをうたったものであった。
 昭和二八年七月七日に「学校教育法施行規則の一部改正」が行われ、学校医・学校歯科医と並んで学校に学校薬剤師を置くことができるようになった。また、同二九年一月一九日に「保健室の設置並びに学校医および学校歯科医等について」(文初保第九四二号)の通知が地方教育委員会に出された。同二九年には学校給食法、同三三年には学校保健法が制定され、学校保健管理に必要な事項についての法的裏付けが確立した。更に、交通事故の増加にともない健康教育の中で安全教育についでも取り上げられるようになり、同三四年には日本学校安全会法が制定された。新しい健康教育の特色は、単に教科の時間の指導ばかりでなく、学校保健事業や健康に適した学校環境・学校生活等が併せて考慮されるようになったことである。

 学校保健法の制定

 昭和三二年七月保健体育審議会は、全国的な要請に応えて学校保健の立法措置と相当の予算措置を講ずるよう答申した。こうした背景と必要性をもとに同三三年(一九五八)四月一〇日「学校保健法」(法律第五六号)が成立した。同法は同年六月から施行され、同法施行令(政令一七四号)及び同法施行規則(文部省令第一八号)も相次いで制定され、ここに学校保健管理制度の基礎は確立された。
 学校保健法は、昭和二四年文部省令七号「学校身体検査規程」を根本的に修正・強化し法律化したものである。同法は第一条で「児童、生徒、学生及び幼児並びに職員の健康保持を図り、もって学校教育の円滑な実施とその成果の確保に資することを目的とする」と学校保健の目的を定めることによって、保健管理を学校教育の重要な機能として積極的に位置づけた。特に同法は、健康診断のみならず、学校保健計画・学校環境衛生・伝染病の予防などの学校における保健管理及び安全管理に関すること、児童・生徒・学生のような被教育者のみならず、教職員の健康の保持増進のための措置についても規定している。また、学校保健に関する職員である学校保健技師・学校医・学校歯科医・学校薬剤師などについての根拠規定でもある。
 愛媛県教育委員会においては、学校保健法の趣旨徹底による保健管理と健康教育の充実を図り、特に南予地区におけるへき地学校病対策事業の推進を図った。例えば、昭和三六年四月から、文部省体育局長の通達による「児童生徒自らも自分の健康状態を理解し、進んでその保持増進に努めさせる」ため、児童生徒に健康手帳を使用させることを奨励した。また、同三七年度から指導の重点事項として、小・中・高等学校改訂指導要領の徹底と指導強化、保健主事及び養護教諭の資質の向上、へき地学校病対策として前年度に引き継ぎ体位向上策の一環として、へき地校に医療班を派遣し、治療及び予防措置を行うことになった。

 養護教諭の配置

第二次世界大戦後、学校教育法(昭和二二年制定)によって小・中学校に養護教諭を置かなければならないことが定められ、「養護教諭は児童生徒の養護を掌る」とその職務が定められた。養護教諭は学校保健の専門職として学校保健管理及び保健指導の計画立案と実践において中核的役割を担うものである。養護教諭の配置状況は、「当分の間置かないことができる」との例外規定もあって、当初は極めて低いものであった。昭和四〇年度の本県における配置率は、小学校二八%、中学校一六%であった。この数値は同三九年文部省統計による小学校二八・八%、中学校二四・七%より低率であった。その後、健康教育への認識の高まりとともに配置率も上昇し、同五八年度には、小学校八六・四%、中学校八七・八%、高等学校一〇八・三%となり、小・中学校は全国平均並み、高等学校は全国平均をしのぐ配置率となっている。
 養護教諭の研修会は、昭和二五年度に四国四県養護教員研究協議会が本県で開催されたのを契機として開始され、同四五年度からは県学校保健会養護部研修会として毎年開催されている。

 研究校の指定と保健大会の開催

本県では、昭和二六年度に研究指定校制度を設け、県下全般の保健教育の進展につとめてきた。また、同三七年には安全教育、同四〇年には学校給食の研究指定校をそれぞれ発足させ、保健・安全・給食の面から健康教育を推進してきた。更に、同五五年度から新構想による研究を推進するため、従来の学校体育・学校保健・学校安全・学校給食の四領域を統合し、広く健康教育の立場から総合的かつ積極的な実践研究を行う健康教育研究指定校制度を設けた。
 新構想による健康教育指定校は次の通りである。

  昭和五五・五六年度
   吉田町立立間小学校   自ら進んで健康づくりにはげむ児童の育成
   西条市立東中学校    地域とともに健康な東中生を育成する。
  昭和五七・五八年度
   砥部町立宮内小学校   健康でたくましい体力づくりをめざす児童の育成
   愛媛県立小田高等学校  自ら求める健康づくりー生涯教育を目ざしてー
  昭和五九・六〇年度
   菊間町立亀岡小学校   自ら進んで健康な心とからだをきたえる児童の育成
   保内町立保内中学校   意欲的に活動する生徒の育成ー自ら求める健康・体力づくりー

  一方、昭和三七年度から愛媛県学校保健研究大会を毎年開催し、本県学校保健の推進に功績のあった個人及び団体を表彰し、研究発表会・講演会等を行い保健教育の啓蒙に努めている。その他、本県で開催された中・四国以上の規模の研究大会及び講演会を年度別にあげると、次のとおりである。

  昭和二九年度   西日本学校保健大会         一〇月 松山市三津浜小学校
  昭和三〇年度   第二回中国四国学校保健大会      九月 愛媛大学附属小学校
  昭和三九年度   第一〇回中国四国学校保健大会     九月 愛媛県民館
  昭和四二年度   第一七回全国学校保健大会      一一月 松山市
  昭和四八年度   西日本環境衛生講習会         九月 松山市
  昭和五四年度   全国歯科保健講習会          九月 松山市民会館
  昭和五七年度   第四六回全国学校歯科保健研究大会  一〇月 松山市民会館

 また、昭和二六年に第一回全国学校保健大会が開催されて以来、学校保健の推進に貢献した個人や団体が文部大臣表彰されることとなった。愛媛県ではこれまでに一五名の学校保健関係者と二一の団体が受賞している。

 健康優良学校・健康優良児童生徒の表彰

第一回は、昭和五年(一九三〇)に朝日新聞社主催のもとに開催され、その年度の小学校六年生が対象となり、同一七年まで続いたが、第二次世界大戦のために中断された。戦後は同二四年から愛媛県健康優良児童生徒・学校の表彰が新たな構想のもとに復活実施されることになった。それは、個々の児童生徒の表彰にとどまらず、対象となる児童生徒全員について綿密な審査を行い、成績の良い学校を健康優良校として表彰する制度である。小学校は同二四年、中学校は同二六年から実施されている。当初の健康優良校表彰は、大規模校と小規模校の二種別であったが、同五四年から中規模校を加えて三種別としている。審査は、教育活動に学校保健活動をどう位置づけるかを主眼に、学校保健委員会、児童生徒の保健活動、地域社会・PTA保健活動など保健教育への取り組みが評価される。
 愛媛県教育委員会表彰の健康優良児童と健康優良学校は、引き続いて全日本健康優良学校・児童表彰会の中央審査を受け、日本一・準日本一・特選表彰が行われた。健康優良児童の中央審査会は同五三年で中止され、優良学校表彰だけとなった。県教育委員会では、同五四年から健康優良児童生徒表彰を県独自のものとして行っている。
 健康優良児童生徒・学校の表彰制度ができて以来、愛媛県教育委員会表彰の健康優良学校並びに全国表彰をうけた全国優良学校・健康優良児童を年度別に掲げると表2ー78・79のとおりである。

 学校給食

戦前の学校給食は、昭和七年当時の不況の際、貧困児童の養護を目的として実施されたのがはじまりである。その後第二次大戦中は児童の栄養改善と体位向上を目的とするものへと性格を変え、国庫補助金の交付が行われたが、戦争の激化と学童疎開などにより学校給食は廃止されるに至った。
 戦後は、昭和二一年(一九四六)一二月二四日に出された「学校給食の普及奨励について」の文部・農林・厚生省各次官通達によって再出発した。翌二二年一月から連合国総司令部の協力のもとに実施された学校給食は、戦前のように一部の児童を対象とするものではなく、発育の助長、健康の維持、食生活の改善等全児童生徒を対象に、教育計画の一環として位置づけられた。当時、食糧が極度に欠乏した中で学校給食が全国的規模で実施できたのは、連合軍総司令部・アジア救済連盟あるいは国際連合国際児童緊急基金からの物質的援助があったからである。このうち、スキムミルク(脱脂粉乳)は給食といえばスキムミルクをさすほど普及した。
 愛媛県においても松山市道後小学校が、給食モデルスクールとして指定され、校内にパンエ場をつくるなど、県下市部で完全給食が開始され効果をあげた。ところが、同二六年平和条約の調印に伴い占領地域救済資金の打ち切りや、我が国の財政事情から学校給食の継続が困難となった。県内における給食実施状況は、無償時においては学校数にして約一二ニ校、実施人員一四万一、二一六入に達したが、有償となったことを契機として給食を中止する学校が続出し、同二六年度には給食を続けている学校は三五校、三万三、四七八人に減少した。
 そこで政府は、学校給食継続の世論にこたえて、小麦粉の半額国庫補助、ミルク買い入れ資金の利子補助を具体化した「昭和二七年度学校給食実施方針」を文部次官通達した。また、同二九年(一九五四)六月三日には「学校給食法」(法律第一六○号)を制定公布した。この法律によって学校給食は制度的に確立し、義務教育諸学校に及ぶこととなった。更に、その後の改正によって夜間課程を置く高等学校や、盲学校・聾学校及び養護学校の生徒に対しても実施されることとなった。
 昭和三六年七月文部省内に「学校給食制度調査会」が設けられ、学校給食のおり方について研究討議を重ね、同年八月三一日学校給食制度の改善について文部大臣に答申した。答申の要旨は、(1)小学校は五年、中学校は一〇年計画で完全給食の全校実施 (2)給食内容の改善 (3)農山漁村等での米の給食 (4)国内産ミルクの利用 (5)給食費の半額公費負担 (6)施設設備費の全額公費負担 (7)運営の合理化・能率化などであった。この答申に沿って同四六年度までに小・中学校において完全給食を実施することを目途として普及施策が進められた。
 愛媛県における学校給食普及状況は、「学校給食法」が公布された昭和二九年当時は、全国的にみて四六都道府県中四三位であったが、同三二年度は三七位と着実な普及を示した。同三七年には、へき地ミルク給食の施設改造費を計上して推進を図った結果、実施率は小学校六八%、中学校二九%にまで上昇し、ほぼ全国レベルに達した。同四〇年度は、国の特別措置と合わせてへき地学校給食の普及促進が図られ、実施率は小学校九五%、中学校九一%と飛躍的に上昇した。同五八年現在で完全給食実施率は、小学校九四・四%、中学校八八・四%、調理方式は共同調理方式六八・九%、単独調理方式三一・一%となっている。
 また、同五一年に米飯給食を導入、同五三年から特産のミカンジュースを取り入れるなど、農業政策に即応した取り組みがなされている。
 学校給食は、体位向上・栄養改善・健康増進の目的の外に、食事についての理解や習慣、社会性を養うことなどが目標として掲げられるなど、心身ともに健全な発達を図る教育活動として位置づけられている。本県では、給食学習指導研究会・調理講習会など種々の研修会を開催し、学校給食の普及・充実につとめている。その外、昭和三七年度から愛媛県学校給食研究会が開かれ、優良学校や功労者の県教育長表彰が行われている。

 学校安全

昭和三三年に「学校保健法」が制定され、保健管理、健康指導の面から安全教育が保健教育の一環としてとりあげられるようになった。その背景には、交通事故、その他不慮の事故による児童生徒の死亡、傷害件数の増加などがあり、児童生徒の傷害防止対策、災害防止の必要性への機運の高まりがあった。同三六年ころになると、一般大衆車の普及によって交通事情は極めて悪化し、この年における交通事故件数は五〇万件、死傷者数三〇万人、死者一万三、〇〇〇人に達した。死者のうち二〇%が一五歳以下の児童生徒や幼児で占められていた。このような事態に当面して、学校教育において交通安全教育に強い関心を示すようになり、指導の中心となった。文部省においても「交通事故防止について」各県教育委員会宛通達した。
 愛媛県教育委員会は、昭和三七年三月一六日に「愛媛県学校安全協議会」を設置し、県民各界の協力を得て学校安全に関する県民の意識を高め、児童生徒等の災害の防止に資することとした。同年四月三日には、「愛媛県交通安全対策協議会」が結成され、同年五月一〇日には交通安全県民総ぐるみ運動愛媛県本部が結成され、本部長に知事が就任した。なお、同三七年から毎年一回「交通安全県民大会」を開催し、先の交通安全総ぐるみ運動と合せて展開し、交通道徳の高揚と事故防止に県民の総力を結集している。
 愛媛県教育委員会では、交通安全教育の徹底と強化を図るために次のような事項を実施してきた。(1)安全通学強調週間の指定 (2)現地指導の強化 (3)学校安全研究校の指定 (4)指導計画の樹立と実践化 (5)自転車及び単車乗車の管理・指導の徹底 (6)登下校の安全確保 (7)交通安全手びき書の作成 (8)通学路における危険箇所の点検(9)父兄への啓蒙 (10)指導者教育
 このほか、安全教育に資するため次のような「手びき書」を作成し、その徹底を期している。

(一)『小学校交通安全指導書』昭和三八年
(二)「中学校安全教育指導の手びき」昭和三九年
(三)『交通安全指導の手びき(中・高等学校教師用編)』昭和四六年
(四)『学校安全指導の手びき』昭和四九年
(五)『幼児・児童・生徒の事故防止を図る学校安全指導の手引』昭和六〇年

 日本学校保健会

 本会は、大正九年に帝国学校衛生会として発足し、戦前の学校保健の向上に寄与してきた。戦後の昭和二一年に日本連合学校歯科医会と合併し、日本学校衛生会となり、同二九年に名称を日本学校保健会と改めた。この会には、全国都道府県・政令指定都市の学校保健会が加盟団体として加入している。
 愛媛県では、学校保健関係者の連体と組織活動を強化し、保健活動を推進するため、各市町村に学校保健会を結成するよう指導した。同二九年五月県下の市町村に先がけて松山市学校保健会が結成されたのを契機に愛媛県学校保健会を結成した。愛媛県学校保健会が名実ともに学校保健の統括団体として組織を整えたのは同四八年である。規約によると、学校保健の管理及び指導の充実に寄与することを目的とし(第三条)、保健思想の普及啓発、学校保健に関する調査研究、事業の企画及び実践、指導・研修並びに各種保健大会への派遣、関係機関との連絡などを主な事業としている。また、会の目的を達成するために、校長保健部会・保健主事部会・養護部会・PTA保健部会・学校医部会・学校歯科医部会・学校薬剤師部会の七部会を置いている。なお、県学校保健会は、県下郡市単位の保健会、特殊教育諸学校、各部会及び学校保健に関心を有する者によって組織されている。

 日本学校健康会

この会の前身は、学校安全会である。児童生徒の教育の場における災害については、修学旅行バスの転落事故による死亡など、大きな事故の場合は、被災者に対して損害賠償がなされることはあったが、一般の小さな災害についてはそうした補償もなく、医療費等はすべて保護者の負担とされていた。
 こうした状況下において、昭和三一年大分県などで学校管理下における児童生徒の災害に対し、療養費等を支給することを目的として法人組織の学校安全会が発足し、その後二〇県に及んだ。これらの安全会は、主として父兄の寄付によって運営されていたため、公費による援助が要望された。こうした背景のもとに、同三四年日本学校安全会法(昭和三四年法律第一九八号)が制定公布され、ここに児童生徒に対する災害給付制度が確立した。これによって義務教育諸学校の学校管理下における負傷その他の災害に対して、学校設置者と保護者とが共済掛金を拠出し、国も補助金を支出して災害給付を行うこととなった。
 昭和五七年日本学校安全会と日本学校給食会とが統合され、日本学校健康会法(昭和五七年法律六三号)によって、新たに日本学校健康会が特殊法人として設立された。この会は、児童・生徒等の健康の保持増進を図るため、学校安全及び学校給食の普及充実、義務教育諸学校等の管理下における災害給付、学校給食用物資の適正円滑な供給等を行い、心身ともに健康な児童生徒等の育成に資することを目的としている。日本学校健康会は、東京に本部を置き各都道府県に支部を置いている。同六一年三月には日本体育・学校保健センターとなった。
 日本学校健康会愛媛県支部における災害の発生状況は、昭和三五年に学校安全会法が施行されて以来、年々増加の一途をたどり、給付金額の上昇は著しい。一人当の給付額でみると発足初年度に比べ同五九年度は一四倍となっている。

表2-78 歴代健康優良学校

表2-78 歴代健康優良学校


表2-79 健康優良児童の特選として全国表彰を受けた児童

表2-79 健康優良児童の特選として全国表彰を受けた児童


表2-80 児童生徒の近視の推移

表2-80 児童生徒の近視の推移


表2-81 愛媛県における災害給付金の推移

表2-81 愛媛県における災害給付金の推移