データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 婦人団体組織化の胎動

 欧化政策と婦人の覚醒

 通俗教育期における婦人教育にどんな状況だったか。我が国は、幕末以来の不平等条約の改正を最大の課題として、積極的に欧化政策に取り組んでいった。明治一六年の鹿鳴館の竣工は、その象徴ともいえた。欧化政策の対象は、制度改良だけでなく、国語改良・風俗改良から婦女改良にまで及ぶものであった。こうした欧化政策の流れのなかで、各種の婦人団体が結成されていったのである。
 本県では、明治一三年に真鍋ヒデら一六名の今治教会の信者でもって「今治キリスト教婦人会」が結成されている。これが本県で最初の婦人団体である。そして同二〇年八月、今治教会の婦人信者たちによって今治婦人会が設立された。それは、舞踏会を開いたり、男女交際会などを行ったりしても、体の中の思想や品行が野卑で、きたならしいものであっては何にもならない。虚飾に浮き身をやつすよりもまず知識を高めることこそ重要だという考え方から設立されたものであった。当時会員は一五〇名で、婦人英語研究会をつくって、八〇名余が英語の学習会を行っていたという。他方、松山市においても、松山教会の信者たちによって明治二〇年九月一一四日松山婦人会が設立された。私立松山女学校での発会式には二八名が出席し、規則を定め、役員を選び「知識・徳義を磨き、技術の習得を図って、開明国の婦人に恥じないような婦人になろう」と誓い合ったといわれる。毎月二~四回会合を開き、講師を招き、研さんに努めていった。
 これらのキリスト教主義婦人団体の設立と並んで、次のような婦人団体も組織されていった。明治二〇年七月一五目に、愛媛博愛社の付属組織として「松山婦人慈善会」が結成され、その第一回月例会が開催されている。愛媛博愛社というのは松山の事業家粟田与三が創設した仏教信仰団体勧善社の内に設けられた団体である。平時には赤貧患者を救済する博愛病院を経営し、戦時になれば義勇看護隊・担架夫を戦場に送ったり、救護器具申治療器・薬品等を調達・提供することを目的としていた。この博愛社の事業を側面から援助するために設立されたのが松山婦人慈善会であった。毎月一回、第一水曜日に月例会を開き、高級軍人の夫人や知事夫人らを招いて、口論に時を過ごしたといわれる。また松山歩兵二二連隊が明治一七年に設置されたことから、将校夫人らによって明治二〇年に「松山二二連隊将校婦人会」が結成されている。親睦会の意味合いが強く、松山市三番町の「東栄座」(現在の国際劇場)での芝居見学や、洋裁・毛編の実習等が主な活動であった。また同年一〇月には「婦徳の養成研磨」を目的とした愛媛婦人交際会が誕生した。この婦人交際会は「附属小学校訓導喜多見サキ・服部タカニ氏等発起ニテ、有志ノ令閏令嬢諸氏ノ催ヲ居ラレタル談話会ヲ、今回題号ノ如キ組織二変ゼラレ、毎土曜日修身・読書・家政・音楽ノ四科ヲ研修スルコトトナレリ。藤村知事、藤尾・野村両部長、真崎警部長、渡部病院長ノ夫人方モ賛成セラレタレバ、善良ナル結果ヲ得ラルルヤ期シテ待ツヘキナリ。」(愛媛教育協会雑誌第十一号)というものだった。
 これらの婦人団体の多くは、家庭内にとじこめられていた従来の婦人の在り方から一歩こえて、婦人相互、更には男女間の交際を通じて、教育・裁縫・料理等に関する西欧の新知識を吸収し、知見を広げていこうとするものであったようである。

 愛国婦人会愛婦支部の結成

本県の婦人層に決定的な影響を及ぼしたのに、奥村五百子によって明治三四年三月創立された愛国婦大会がある。その愛媛支部は同年一二月に菅井コウ子(県知事夫人)を支部長として発足している。奥村は同三六年一二月に松山をはじめ、県下各地で演説し、会員拡大を呼びかけていった。同月一四目、松山市の公会堂で婦人一、〇〇〇余名、男性約一五〇名に向かって、朝鮮・中国での視察体験をもとに「亡国の因は婦人の教養如何によると断じ悲泣涙を呑んで婦人の奢侈に流るるを戒めた」(同月十六日付海南新聞)、という。ついで一五日は伊予郡郡中町(現伊予市)の彩浜館及び松山市の勧善社で、一六日は温泉郡三津浜尋常小学校で、一八・一九日は周桑郡丹原町の郡役場で、二二日には宇摩郡三島町の興願寺で演説会を開き、愛国婦人会への加入を呼びかけていった。
 日露戦争の勃発に伴って、明治三七年三月愛媛支部長菅井コウ子名で、各郡委員会に「現今の形勢にかんがみ本会事業の拡張に尽力せよ」との指令を出し、各地の愛国婦人会は慰問袋送付・軍人家庭慰問・「奉公義援」の募集等、「婦人奉公の務」を「遺憾なく」行った。そして翌年一〇月八日、戦勝記念を兼ねた形で、愛国婦人会愛媛支部の発会式が道後公園グランドで行われた。当時県内の会員数は一万三、〇〇〇人(同年一一月末)であった。
 以後、愛媛新報の記事を見ると、愛国婦人会愛媛支部は、同四〇年九月松山市内の小学校児童に麦悍経由真田の製造を教え、県内に普及、同四一年七月松山にある私立愛媛盲唖学校に補助金一五〇円を寄付、同四二年一〇月軍人遺族・傷病兵のうち生活困難な者に対し、定期救護金を交付し、またその資格のないもののうち極貧者三〇名に約三〇円を特別援助したり、同年一二月には警察官で公務中傷害を受けた者や、働けなくなった者に対しても救護金を支給する等の活動を行っていった。同年八月四日付の同紙によれば、軍人遺族・傷病兵の赤貧者に対して救護金三、一一二円(救護戸数七五六戸、三、三八四人)を給付したとある。このように、日露戦争後の愛国婦人会愛媛支部の活動は救護活動を中心として展開されていった。