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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

4 少年団体育成の芽生え

町見少年会の結成

少年の組織化はどうだったろうか。明治のころは、少年は、若者組の付録的な存在で、彼らの集まりが認められたとしても、少年団体というべき性格もなければ活動もあまり見られなかった。全国的にみても、愛知県知多郡横須賀に少年少女会が明治四四年に結成されたという記録がある(「大日本青少年団体』)か、ごく一部にしか存在していなかったと思われる。こうした状況であったが、本県の場合伊方町九町に九町郵便局員信部洪介によって、大正元年に「町見少年会」が結成されている。本県最初の少年団体として特筆すべきことであろう。
 伊方町誌によれば、この会は、前年明治四四年(一九一一)二月旧正月の夜、日ごろ洪あんちゃんと慕ってくれる近所の一〇歳前後の子供たち数人を彼の勤務している局の宿直室に集め、「話の会」を作ったことが発端となっている。最初はお互いに友情を暖めながら人前で自由に話ができるようになることを目的に運営されていたようであるが、それが翌年の大正元年には「町見少年会」へと発展していった。特に注目すべきは、この会は機関誌『少年世界』を毎月発行している点である。会員が一枚一枚毛筆で原稿を書き、それを一冊にして回読していたらしい。ところが、某出版会社が同じ題名の雑誌を出版していたことから、同六年一〇月一五日から『半島男子』と改名され、出版されていった。この雑誌の表紙には燈台が描かれているが、どの号も同じではない。それは信部自身の手によるものであるが、第一に会員が成人した時に、一人残らず人生航路のよき案内者、指針者となるように、第二に、この機関誌が会員一人一人の心のともしびとなり、道しるべとなるような価値の高いものにしたい、との願いをこめて燈台を表紙に描いたといわれる。この当時、機関誌を持った少年団体があったことは、驚くべきことだといっていいだろう。
 この「町見少年会」は、「町見少年倶楽部」となり、大正二年八月に「町見進善倶楽部」と改名され、規約を制定し、初代会長に信部が選ばれ、ここに本格的な活動が始まる。会員の発表意欲はますます盛んとなり、月一回の機関誌が一日、一五日の二回発行となった。行事は談話会の外、勉強会・試胆会・奉仕作業等も取り入れられ、特に鼓笛隊を編成して歌を歌いながら目抜き通りをパレードし会員の意気を高めて社会浄化に当たったという。役員の任期は六か月で、誰でも役員となり指導者としての体験を義務づけられた。入退会は自由で、少ない時は一五・六名、多い時は六〇余名に及んだ。集会は月二回の例会で、ほとんど夜間行われ、時間厳守で、なごやかさの中に真剣に能率的に進められ、時には歌や遊戯を入れながらの集会であった。また休日を利用して、遠足・小旅行を行ったり、郷土の生物・鉱物・史跡の研究をしたりする時もあった。会費は必要に応じて徴収し、村費の補助、有志からの寄付金等を加えてまかなわれていた。同一一年七月四日、一〇周年記念祝賀会が催され、九月一五日には文芸部が記念事業として詩集『詩境』を創刊し、以後月刊として毎月一〇日を締切りに、必ず自作を集めて発行されていった。

少年会の発足と普及

ところで、全国レベルにおいて、大正一一年四月ボーイスカウトの系統にある少年団体の中央機関日本少年団連盟が創設され、また同年赤十字精神の普及を目的とした少年赤十字団が創設され、以後少年団運動が主としてこの二つの系統のもとに発展していくこととなった。本県でも、漸次二つの系統の少年団が誕生してき、同一三年には、表3ー7にみるように、男児団七三、女児団七、男女連合団一五の九五団体があり、一万五、四五二人が団員になっていた。それらの少年団は、同年七月一日付の愛媛新報によれば、小学校で自治的訓練のために作られたものが多く、敬神崇祖の観念養成・社会奉仕の訓練・心身の鍛錬・知識の向上を目的とした活動を展開していたという。
 しかし同一四年一月時点で日本少年団連盟に加盟している団体は松山愛国少年団と堀江村(現松山市)の土犬団のみであった。こうした状況のもとに、同年九月一六日県知事として赴任した香坂昌康は少年団に深い理解を示し、少年団運動の啓発に乗り出した。彼は日本少年団連盟長後藤新平の招聘を計画した。これに応じて後藤が来松するとの情報を得た愛媛新報は、論説「少年団」を掲げ、後藤の来松を機に、県民は青年団同様少年団に理解を持つことが必要で、特に少年団を指導すべき立場にある小学校教師は少年団を深く研究すべきだと論じ、少年団結成の気運を盛り上げていった。
 同年一一月一七日、後藤は理事三島通陽と共に来松し、同日午前九時から松山愛国少年団と土犬団の宣誓式に臨んだ後、県公会堂で講演を行い、「少年団の真精神は少年の心理状態を師として学ぶという事を基礎とするものであって、自発的教育である。少年の純なる心を圧迫せずにそのまま育てることを主眼とするものということができる。…今日の教育は一律教育であって、その弊害のあることは誰も認めるが、しかしながら一朝にしてこの一律教育を脱することは至難のことである。しかしこの弊害を補うものは少年団の自然的教育より外にないと思うが、少年団の発達は父母教師および指導者の自覚がなければならぬと、今少し少年団に理解をもって少年団の発達を扶助してほしい」と訴えた。
 更に後藤に続いて連盟の理事長である二荒芳徳も同月下旬に来県し、松山と宇和島で講演を行った。これらの講演会及び香坂の理解もあって、県内に少年団が次第に普及発展していったのである。

表3-7 大正13年における愛媛県内少年団

表3-7 大正13年における愛媛県内少年団