データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

3 青年団の復興と青年学級

愛媛県連合青年団の活動

政府は、昭和二〇年九月青少年団設置要領を決定して、従来の「官製的或ハ軍国主義的色彩ヲー擲シ」、「新生青少年団体」の育成を促した。その基本的性格として、各人の自覚と自由意思による結団並びに入会が強調されたこともあって、各地でクラブ形態の文化団体が相次いで結成されたが、次第に地域を基盤とする青年団体が新しい機構として再生し、全国的にその主流をなすものとなっていった。
 本県の場合、地域青年団は、その結成の初めは、その目的も性格もあまり明瞭なものでなく、ただ若い力を結集して新日本を建設するのだという、青年の熱情のもとに結成されたものが大部分であった。しかし幹部青年達の間に次第に地域青年団の在り方についての定見も生まれてき、同二一年には戦災都市の一部を除くすべての町村に単位団が結成された。同二二年四月には各郡市に連合体も結成され、同年一〇月四日には愛媛県連合青年団(以下県連青)が結成されたのである。
 ところで、当時の青年団の事業を見ると、県下一円に流行した素人演劇会等の文化運動やスポーツ大会が各地で開かれていた。また供米運動や疏菜類の供出運動、社会奉仕としての引揚者・戦災者の援護「まごころ運動」、新憲法を中心とした諸講座、正しい選挙を実施するための啓蒙運動、あるいは公民館設置や郷土産業の振興等の郷土を基盤としての祖国再建へ向かっての活動を行っていた。
 しかしその後の急激な社会の変動・思想の対立・民主化の徹底に伴って、特に同二三年の半ごろに、各単位青年団役員のリコールが相次ぎ、また地方選挙にからんで役員のみの活動に終始する傾向が生まれてき、「運動方向が青年団の本質を逸脱し、ややもすると社会運動的な活動に偏向をみせている」との批判が起こってきた。そこで、県では、この局面打開のため講習会を開き、戦後の青少年運動の一大転換を図った。つまり受講青年達を中心に、各郡市別の講習会を実施し、民事部の後援のもと、青少年団体の性格について徹底的な研究を行わせていたのである。そして同二四年には、青年団運動は、(1)個人の修養・団員の人格の向上を図ること (2)レクレーションの知識と技術とを習得し、これを実際に行うこと (3)社会奉仕をなし郷土の建設・国の建設を図ることを目的とするものとして、青年団は主に次のような事業を行っていくことになった。
  文化部ー講習会・討論会・座談会・読書会・演芸会・展覧会・弁論会・レコード・コンサート・機関雑誌発行等 産業部ー農作物品評会・農事講習・見学・一人研究等 体育部ー陸上競技大会・卓球大会・ハイキング・登山等 社会部ー社会奉仕・共同募金・道路修理・警備・供米協力等 家政部ー家事講習会・料理講習会・洋裁・生花等であった。
 なお、当時の団体及び団員数を見ると、県に連合体一、郡市連合体が五市一一郡、単位団三〇五、支部(部落・班・組)一五二、団員数八万一九九人であった。(昭和二五年「社会教育の概況」)

青年学級の開設

 勤労青少年が自発的に共同学習を行う社会教育組織としての青年学級が、本県では同二五年度に開始されたが、以後の青年学級開設運動が青年団を中心に展開されることとなった。同一六年度には一三〇市町村で三二〇学級が開設され、一万四、〇〇〇人が受講している。同二八年八月「青年学級振興法」が公布され、青年学級は勤労青年の学習の場として制度的に位置づけられ、公費でもって助成されることとなった。しかし一学級当たり五、〇〇〇円平均の補助金に過ぎなかった。当時は、学習活動の内容も地域課題の解決に取り組み、全村教育の一環として直接村づくりに貢献しようとする真剣な学習が行われていた。以後、学級運営についての相互学習、小人数によるグループ活動、職業教育を中心とするカリキュラムの研究等を通して、青年学級の振興が図られていった。
 しかし、表3ー14にみるように、同三六年度から開設学級数、受講者数が、高校進学者数や県外就職者の増加に伴って、次第に減少しはじめてきた。同年三月、愛媛県青年学級振興協議会が正式に発足し、全国青年学級振興協議会と連携を保ちながら、県教育委員会と一体となって青年学級振興のために諸事業を遂行していくこととなった。

愛媛県青年団協議会の結成

同三六年ごろから、県連青内部で活動方針をめぐる対立が激化し、西条市・大洲市・伊予市・北条市・喜多郡・伊予郡・西宇和郡の各連合青年団と重信町・川内町・朝倉村・大西町・菊間町亀岡の青年団が県連青から脱退した。そして同三七年七月二二目、西条市・大洲市・喜多郡・伊予郡の連合青年団が、別に愛媛県青年団協議会(以下愛青協)を結成した。しかしこの愛青協は、下部から積み上げた組織でなかったために、発会したまま、これといった活動をしないうちに有名無実なものに終わった。
 その後、県連青批判派の退脱郡市町村団・愛青協・県連残留郡市団有志の間に、全県的な青年団組織の気運が高まり、同三九年九月二三日、愛媛県青年団連合会(以下愛青連)の結成大会が開かれたのである。大会言言として「社会正義と友愛互助の精神をもって世界平和・人類の幸福と繁栄を追求、住みよい郷土を建設する担い手として、常に県民に愛される公正で明朗な青年団の確立にまい進します」を採択した。しかし愛青連に県下の青年団すべてが加盟したわげでなく、同四二年時でも愛青連(一万一、一〇七名)、県連青(八三七名)、未加盟団員(二、四七五名)の三つに分かれた状態であったが、同年二月二三日、愛青連の日本青年団協議会への加盟が承認され、愛青連を中心としての活動が本格化していくこととなったのである。
 その他の青少年団体として、地域青年団の外、YMCA・VYS・ボーイスカウト・ガールスカウト・四Hクラブ、青少年赤十字・子供会等は戦前に勝る復活を見せ、著しく進展してきている。

表3-14 青年学級開設状況

表3-14 青年学級開設状況