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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

第一節 郷土教育の動向

 明治・大正期は、郷土研究・郷土教育の芽生えの時期であった。特記すべきは、明治四三年(一九一〇)から大正八年(一九一九)にかけて柳田国男が中心になり新渡戸博士宅で開いていた郷土会である。この郷土会は、柳田国男によって『郷土会記録』として、大正一四年(一九二五)に発刊された。その目次・序文と会合の記事を読むと、郷土会の性格や研究の様子がわかる。

 『郷土会記録』
 目 次

 郷土会第十四回記事
 同  第十五回記事
 同 旅行記事
伊豆の白浜と丹波の雲原(二宮徳君)
 郷土会第十八回記事
三本木村興立の話(新渡戸博士)
 郷土会第十九回記事
豊後の由布村(石黒忠篤君)
湯坪村と火焼輪知(同上)
 郷土会第二十回記事
大山及び三峰の村組織(小田内通敏君)
 郷土会旅行記事
 同  例会記事
信州延徳沖水災の話(小田島省三君)
 郷土会例会記事
鹿島の崎の新田(石黒忠篤君)
鹿島の崎(田中楳吉君)
小笠原島の話(中村留二君)
 郷土会第二十七回記事
黒川能の話(横井春野君)
屋久島と中硫黄島(草野 士君)
 郷土会第二十九回記事
代々木村の今昔(那須 皓君)
 那須博士追記
 郷土会第三十一回記事
 郷土会第三十四回記事
汐入村の変遷(有馬頼寧君)
 最近の汐入部落
郷土会第三十五回記事
桜島罹災民の新部落(新渡戸博士)
 郷土会第三十七回記事
刀鍛冶の話(小此木忠七郎君)
 郷土会第三十九回記事
伊豆新島の話(尾佐竹猛君)
三宅島の話(辻村太郎君)
富士講の話(中山太郎君)
隅田川の船(有馬頼寧君)
四谷旧事談(山中笑翁)

  序

 郷土会の創立は明治四十三年の秋であったと思ふ。郷土会と云ふ名称は、最初からのもので無かったが、仮にさう呼んで居るうちに、次第に親しい言葉になってしまった。自分の処には第四十回頃までの記録しか存して居らぬが、少くとも大正八年の末までは続いて居た筈である。其八月に大挙して、津久井の内郷村へ研究旅行に出かけたのが、たしか第六十何回かの催しであり、後に又其報告の会があったとも記憶して居る。
 新渡戸博士が大戦争の終頃に、外国へ出て行かれたことが、今の中絶した主たる原因であった。と謂ふのは博士が其の静かにして清らかな住居を、いつも会の為に提供せられたのみでは無く、又至って注意深く参集者の世話を焼かれたので、誰も誰も少しでも早く、次の会日の来ることを願って居たのがもうさう云う事が無くなったからである。(下略)

郷土会第十四回記事

郷土会と云ふ小さな会がある。一月二十九日(大正元年)の雨の晩に、其第十四回の集会を開いた。二十人の会員が十四人まで来て、其席では高本敏雄君が阿蘇の南郷谷の話をせられた。南郷谷の久木野と云ふ村は、高木君の郷土であるが、習俗及天然の条件の共通なる点から観て、此谷全体が輪廓明瞭なる一箇の郷土であった。此谷の彫刻者は即ち白川の水で、一谷の住民は其水を汲み且つ我田々々の井手に引いて居る。白川の源は二箇処の立派な泉である。川が東西に流れて居る為に、川の南は即ち山の陰になる。北岸には村が多く、南岸は唯ニヶ村あって、後代の移住かと思はれる。何れの村も傾斜面を横ぎって路と溝とを通し、昔の家は皆横に連って居る。岸に沿うて竪に南北に見て行くと、水田・溝・人家・路・畑・森・草地・山頂と云ふ順序で、略同様の利用帯を示して居る。此谷の東限は国境の山地であるのに、民家の構造は寧ろ豊後から四国の系統に属し、下流の平野と似ない点の多いのは妙である。組々の労力融通には珍しい不文法が残ってゐる。吉凶其他の手伝には、一軒からきっと二人づつ出て、米を一升持って来て、うんと飯を食って行く。宗教生活にも特色が多い。馬頭観音は純然たる馬の保護神で、正月十四日には福山などの左義長と同じ火祭をする。関東の稲荷に当る屋敷の神は荒神であって、其石塚の上には必ず南天が栽ゑてある。いんがめ(犬神)の信仰も亦南郷谷の一つの特産であると云ふ。此類の事実がまた沢山に且つ詳しく話された。此から此会では、会員がイロハ順で研究を報告することに定められた。第十五回の例会は三月三日に開かれて、会員石黒氏の農村の家屋に就ての談話がある筈である。

 郷土研究の在り方がうかがえて興味深い。ここに参集の人たちが、日本の郷土研究・郷土教育の指導的役割を果たすのである。「大山及び三峰の村組織」を報告している小田内通敏は、後に文部省の嘱託となり郷土教育の推進に尽力する。
 昭和期に入ると文部省は、郷土教育に強い関心を示すようになる。昭和二年(一九二七)八月、全国に照会を出して郷土教育の実施状況の調査を行い、約五〇〇校の実施校から回答を得た。この時期には、郷土科・直観科等の名称で時間を特設する例はほとんどなかっか。文部省は、同四年『農村用高等小学校読本』の編集にあたり、「土及び郷土を愛する精神」の涵養を趣旨に掲げ、同五・六年度には全国の各師範学校に郷土研究施設費の補助を支出し、愛媛県師範学校でも郷土館を設置拡充した。文部省は更に同六年一月、中学校教授要目中、公民科に「我が郷土」の項目を設け、愛郷心・愛国心に説き及ぶことを規定し、また師範学校規程第一四条地理の内に「地方研究」を課した。同七年には「公民教育に関する郷土教育講話会」「郷土教育講習会(昭和七年八月、約三六〇人受講)」を開催した。また地理学者小田内通敏は同五年八月に文部省嘱託となり、文部省が計画する一連の郷土教育奨励策に参画した。このようにして郷土教育は、農林省中心の農村自力更生運動と連携しながら、不況下の農村を中心として全国に急速な普及をしていった。
 一方、民間でも、昭和五年尾高豊作・小田内通敏らが郷土教育連盟を設立し、雑誌『郷土』(後『郷土科学』『郷土教育』と改称、昭和九年終刊)を発行して郷土教育の研究・普及に努めた。国際地理学会員である小田内通敏はルプレー(フランス)・ゲッデス(イギリス)の社会学的「地域調査」に関心が深く、土地と労働と住民との相互作用を中心にした地域の総合的把握を重視した。連盟は『郷土調査必携』(石田竜次郎編、昭和六年)及び『郷土学習指導方案』(同七年)を刊行している。地域調査、他地域との比較による郷土認識に基づき、郷土の再建を考察しようとするもので、愛郷心・愛国心の強調に傾きがちな文部省系の郷土教育とは少しちがった面が感じとれる。小田内通敏は本県にも歩を運び郷土教育の指導をしている。
 第二次世界大戦後、郷土研究が一層深まり、各分野の研究物が続々と出版されるようになった。愛媛県教育委員会は郷土の正しい理解が必要と、郷土教育を重点施策として、郷土教育資料の編集を重ねるとともに、各教育事務所管内に郷土教育研究指定校を設定し、郷土教育の充実発展を図った。なお昭和五一年度からは地域社会学校教育の推進に力を入れている。