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愛媛県史 教 育(昭和61年3月31日発行)

5 明玄農士道場

 「明玄」とは、「くらきを明らかにする」ことで、つまり「世の、人世の諸々の黒い部分、奥深くて、ばかり知れないところを、つまびらかにし、はっきりさせていく」ということである。「農士」とは「先覚者(リーダー)となる農民」のことで、生きていく上で、何か正しいか、何か中道であるかを、見透す力(眼力)をそなえた人間、先覚者をつくるところが「明玄農士道場」である。

村おこしのねらいとその構想

昭和の初期の農村恐慌は上須戒(大洲市)の山村にもおしよせ、この地区の主産業の柱であった生糸が大暴落してしまい、この上須戒は疲弊の極に達した。郷土を放棄してブラジルに移民する者、都市部に流出する者が相次ぎ、村民の意気沈滞は目にあまるものがあった。
 当時(昭和一〇年)、上須戒小学校長の梶谷永五郎らが村の有志と村おこしについて真剣に語り合った。
 陸の孤島といわれるこの村で、大昔の人のような生活をしている村人を救うのは、他村の人たちでなく、この村に住んでいる自分たちであり、若い青年たちでなければならないと、自力更生の村おこしを村民たちに訴えた。これが、後で「汝の郷土を開発する者は汝自らなり」というこの道場の指導原理となった。
 構想は次のとおりである。
 ①折尾地区の原野六ヘクタールをあてる。
 ②地主一二名の土地購入費は、白石村長が自費で立て替え、後年、
 村有林立木伐採で精算する。
③建造物の第一期工事
 ア 三〇畳の学習室兼宿泊室(研修生の居住室)ー明玄寮
 イ 一○坪の調理室
 ウ 収穫物・農具保管の作業場
 工 井戸・配電施設にとどめる。ー満足には頂上なし、不足の中より希望と努力が生まれるI
④補助金に頼らず、村の自主財源と村民の奉仕作業による
⑤初代道場長は梶谷永五郎上須戒小学校長兼青年学校長とする
⑥村民総出動で昭和一〇年六月一〇日に事業着手(六月一〇日が鍬人式、毎年この日に記念行事を持つ)
⑦箴規(いましめ)
  一、自然の中に汝を見いだすべし  一、報恩の道を工夫すべし
  一、物の性を極め之を生かすべし  一、郷土の先覚者たるべし  一、和顔協力の美を済すべし

経営内容

道場で学ぶ者は、青年学校の生徒(高等科の卒業生、一九歳まで)を主たる対象者とし、村民(各種団体)も学習に参加した。
 当時、青年学校の男子は約七五名、女子は約五〇名であったが、男女は別々の教育課程であった。青年団・処女会の活動と相互に補充し合うよう運営されていた。
 男子は二班に編成され、各班が週三日登校(午前八時~午後五時)農作業にあたった。一日は夜学を受けた。夜学の日は宿泊し、午前七時に下校した。夜学は、公民・一般教養・農業経営・盆踊りなどで、農繁期には夜学は省かれた。なお週に一回は教練を受けた。
 女子は農閑期(一二月~三月)は週六日登校し、裁縫を主として学び、料理と華道・茶道もあった。農繁期(四月~一一月)は週に一日交代制で登校し、男子青年や奉仕作業者の食事づくりと農作業に従事した。男子青年と夜学を受けることもあった。
 全村教育として、世帯主・婦人会・警防団・翼賛会等の団体を別々や合同で一般教養・時局講演等の学習会を開いた。その日は必ず農作業を半日できりあげて学習に参加した。特に、県内や郡内の団体(農会・森林組合・翼賛会・青年団・警防団等)の指導者研修会(短期は二泊三日、長期は三〇日間)では、著名な講師を招いていた。この時には、青年学級生と全村民が受講した。
 また、農事研修生として、明玄道場の趣旨に賛同し、農業経営を学ぶ青年が県内より常時二名上二名無給で住み込み、農場・家畜管理のサブリーダーをしていた。

来場した講師とその揮毫
I 賀川豊彦(福音聖書研究会)「野の百合を見よ 空の鳥を見よ」
2 大山澄太(松山大耕舎)「この道しかない一人であるく」
3 西田天香(京都光泉林 一燈園主)「亡私奉公」
4 江谷村蔵(光泉林大学教授・宗教哲学者)「働くあとから美が追いかけてくる」
5 笹原仁太郎(光泉林大学教授)「以和為貴」
6 米田吉盛(神奈川大学理事長)「衆心成城」
7 明礼輝三郎(東京弁護土会副会長)「水流不急先」
8 菅菊太郎(県立松山農学校長、県立図書館長)「天祚忠孝」
9 田中円三郎(青年師範学校長)「大和」
10 林傅次(愛媛師範学校長)「抱大朴長存」
11 大西監九郎(長浜小学校長)「抱撲見素」
12 小坂正行(翼賛壮年団 講師)「色則是空」
13 後藤幸慶(翼賛壮年団 理事)「至誠一貫」
14 藤井一正(翼賛壮年団 理事)「初霜のとけて小春日 木出す馬」
15 和田農作(長野県人 篤農家)「変穢為浄」
16 梅村登(開拓農人 篤農家)「忍行。我行く道 後 人来る道」
   以下 略

 NHK「明玄道場場の人づくり」

NHKの「明るい農村」で、生きている年輪「明玄道場の人づくり」が昭和五八年八月一六日に放映された。その中で村づくりの拠点である「道場」の地ならしや開墾の様子が放映された。これは、当時の道場づくりの様子をフィルムに収められていたもので、深い感銘を私たちに与えてくれる。村人総動員で地ならしをしている姿、赤ちゃんを背負ってモッコで石を運んでいるお母さん、子供たちも運搬や開墾に従事している様子をみると、自分の村は自分らでつくるのだという意気込みが個々の人たちに徹底していたのである。年に二、三回は講師を招いて村人たちが講義を聞いている姿、村の乙女(処女会)が週に二度茶道と華道に励んでいる姿、まことに学習態度の真剣さに心をひかれる。
 この道場の初代道場長、梶谷永五郎は「ここの教育は青年の土根性をつくること、百姓魂を養うこと」と話していた。昼は働き夜は読書、身をもって学ぶという体験学習そのものであった。牛・豚・山羊・兎・にわとり等の家畜を導入し、これらの糞尿と刈りとった山草で堆肥つくりをし、これを開墾地に入れて土つくりをした。その結果、従来裏作の麦はできないものとされていた土地が、みごとに小麦や裸麦の栽培のできる土地に変わっていった。このことは、また村人たちの農作に対する自信につながっていった。現在でも、六月一〇日の鍬入れ式(この前後)に、青年がこの地で寝食を共にしながら当時の先輩から道場魂を学んでいる。

道場づくりの評価

原野の開墾や施設づくりに汗を流す過程において、勤労の喜びと愛郷心が喚起された。また、負債も整理され、木炭生産などの産業が振興し、農会に収穫物保管倉庫や精米製粉加工場が建築され、村の経済が著しく発展していった。昭和一五年には「模範村」としての表彰を受けている。

道場の変遷

初代 道場長 梶谷氷五郎   二代 道場長 辻正吉   三代 道場長 河村純一
                  (茨城県内原訓練所出身)       (長浜町出海の出身)
昭和一〇年六月一〇目 ○明玄農士道場鍬人式 ○六町歩の原野にいどむ ○明玄寮・付属施設

      ○青年学級を併置
〃 一二年~同一三年 ○経済更生村の指定 ○講堂・畜舎 ○農業倉庫・作業場・農道
〃 一八年~同二〇年 ○県民修練所 ○宿舎完備 ○二乙・丙種合格者を三か月訓練す。一期五十名
〃 二一年~同二二年 ○県立憩の家 ○復員軍人・外地引揚者を慰労、新出発のため隔月三〇名一か月収容
            教育し就職斡旋する。
〃 二二年~同四七年 ○上須戒中学校ー卒業生 九三二名
〃 四八年~     O大洲少年自然の家ー年間七、〇〇〇~八、〇〇〇名入所

梶谷永五郎先生寿像の銘文

 昭和五八年一一月三日除幕、兵頭義高 撰(寿像の写真は中扉にある)
 梶谷永五郎先生は明治二十七年上須戒村に生れ 上須戒小学校 県立大洲中学校を経て愛媛県立師範学校を卒業 大正三年から四十余年の長期間 公立学校訓導 校長 更に教育長を務められた 先生の人となりは温情の豊かさと誠実一路明敏な頭脳で学術の研究を重ねて博覧強記 特に人みなを生み育てた源を郷土に観て感謝報恩 融和協力 勤労奉仕の精神養成を教育の基幹とされ 名教師としての誉高く敬慕と信頼を一身に集められた 昭和八年郷党に迎えられ 先生又自ら進んで郷村上須戒へ小学校青年学校の長として帰任 村の有志と相図り昭和一〇年「明玄道場」を創設して全村教育に全生命を賭けられたのである 郷土開発の四字に托した道場教育は先生自ら陣頭に立つ師弟同行の実践であり 郷党を挙げて自覚奮起村振興の基礎を築かれたのである 昭和二十九年大洲市制実施と共に教育長に就任 戦後昏迷の教育界の中に正常不動の大洲教育を確立されたのである(後略)

 今から五〇年前、小さな山村(標高二五〇m)の一角で、人づくり村づくりに切磋琢磨したところが、明玄農士道場である。                             (資料提供 上須戒公民館長 久保慈教)
 このような修練道場の動きは各地にみられるが、これは、「郷土」を教育上の方法原理として利用するだけでなく、目的原理として位置づけることを強調するもので、昭和期の郷土教育の特色である。つまり、「時局」の推移を背景に、知識的な郷土理解をこえる「精神」の方向づけを図るものであった。