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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 国学の発展と限界

荷田春満

すでに僧契沖は元禄元年(一六八八)に『万葉代匠記』を著し古典研究を刷新し、註釈に創見を立てて、 古語の研究に曙光を与えたが、国学の基礎を打ち立てたのは伏見稲荷神社(京都市)の祠官、荷田春満(一六六九~一七三六)とされている。
  ふみ分けよ大和にはあらぬ唐鳥の跡をみるのみ人の道かは
と詠んだ彼の歌は、当時の儒学ないし儒仏的神道に対して、国学を尊重すべしとする第一声であるとともに、国学が国学自体の立場から日本精神の太古に遡るべしという、彼の主張であるとも解せられる。
 じじつ、古典研究に対する彼の態度は古意の主観的歪曲のない再現、つまり古典解釈における仏意・漢意の排除ということに存した。こうした意味において彼は俗神道に反対し、古言をもって古意を尋ねて「神代巻」および『万葉集』において大いに発明するところがあり、進んでは国史・律令・古文・古歌に至るまで隈なく渉猟し、将軍吉宗に願い出て京に国学校を起こそうと企て、まさに着工しようとして不幸、病にたおれた。剛毅な道学的人格で、恋歌を詠まなかったと伝えられ、これはその後発展した国学の性格を規定したものともなっている。

賀茂真淵

春満によって第一歩を踏み出した国学は、賀茂真淵(一六九七~一七六九)によって受け継がれ、古語の研究に沈潜することになる。彼は遠州岡部(静岡県岡部町)の人、はじめ荻生徂徠について古文辞学を修めたが、春満に学んで翻然悟る所があった。仏教・儒教によって真意を失っている我が古道を明らかにすることを畢生の願いとし、古典研究に手を染めた。まず『万葉集』の研究に従い、中世以来の切紙伝授や付会説をすべて否定した。
 しかし彼が最も新しい境地を開いたのは、祝詞の研究で、その著『祝詞考』三巻は古代人の思想を明らかにしたものである。彼の広汎な研究に『国意考』があるが、彼によれば日本が日本としての本質を古道にありとし、古道は人為的な道ではなく、「いとちひさき儒の道などとは異なって、天地のまにまに行ひ、天地の絶へざる限り絶ゆることなき道」という。
  もろこしの人に見せばや三吉野のよし野の山のやまざくらげな
と日本のうるわしさを詠んでいる。

本居宣長

真淵の古道哲学を継承し、これを拡充し、真淵がなさんとして成し得なかった『古事記』の研究を完成したのは、その晩年の弟子というべき本居宣長(一七三〇~一八〇一)であった。彼は伊勢松坂(三重県松坂市)の人、始め医師を志して京に上ったが、真淵の『冠辞考』を読んで心を打たれ、三四歳のとき松坂に来た賀茂真淵をその旅宿に訪うて入門し、爾来、半生をささげて『古事記』の研究に没頭した。
 『古事記伝』四八巻は彼が三五歳の明和元年(一七六四)から寛政一〇年(一七九八)六九歳まで、三五年の長年月を経て完成したものである。これは単なる語釈的研究ではない。歌学・文学・言語学・史学の各方面から科学的態度をもって解釈に当たるとともに、『古事記』そのものを通して神ながらの大道を明らかにしようと企てたものである。大道とは何か、宣長はこれを、
  天地のおのずからなる道にもあらず、人の作れる道にもあらず、此道はしも可畏きや、高御産巣日神の御霊によりて神祖伊邪那岐大神・伊邪那美大神の始めたまひて、天照大御神の受たまひ、たもちたまひ、伝へ賜ふ道なり、故に是を以て神の道とは申すぞかし、(直毘霊)
といっている。すなわち、彼のいう道は神々によって規定された心の本然の働きを意味するものに外ならない。心の本然の働きが何であるか、という点については深く立入ることをせず、「神ながらの道」と呼ぶ。ただ一切の心の働きは神々に規定せられたもので、その限りにおいて善悪の批判を超越したものであるとしている。だから心の働きに価値の差別を設け、また設けることによって心の働きを拘束する儒学的・仏教的道徳は神々に対する人間理知の僣上であるという。ここに彼の古道哲学は哲学と言うよりは哲学以前の状態に止まっているように考えられる。彼の歌、
  しきしまのやまと心を人とはば、朝日ににほふ山ざくらばな
は、余りにも有名である。
 春満によって基礎を与えられ、真淵によって古語研究がなされ、宣長の『古事記伝』の大著によって学問的に大成された国学は、化政期から天保期に現れた平田篤胤によって民間にも広まり、神道的主張が濃厚になり、復古主義運動が拡大していく。

平田篤胤

 平田篤胤(一七七六~一八四三)は秋田藩士、国学者として身を立て、本居宣長に入門の礼を執ったが宣長病死のため間に合わず、死後の門人となった。彼の出るに及んで国学は真淵・宣長の考証学的・文学的なものを捨てて神道的に発展させたこと、従来の国学の復古主義を強め、国粋主義の立場から儒学・仏教などを外来思想として論難攻撃したことにあった。
  人はよしからにつくとも我が杖は、大和島根に立てむとぞ思ふ
 と詠んでいる。『古道大意』を著して国学の本質を闡明し、当時の儒学、仏教、唯一神道・垂加神道などを俗神道と見て折伏的態度を以て臨んだ。これらに対する論駁は彼の該博な学問の上に立ったものであるだけに説得力があり、頗る攻撃的でまた熱狂的であった。ことに仏教攻撃に至っては完膚なきまでの峻烈さを示している。『出定笑語』は篤胤の講説を門人らが筆記したものであるが、この中で彼は、釈迦の生老病死を脱せんとしたことは愚であるとして、
  天津神ノ産霊御霊ニ因テ、コノ天下ニ生レテハ、ドンナニ捨ヨウノ、払ヒ落サウノトアセツテ駈テマハツテモ、生老病死ノ四ハオツコチヌデゴザル、然ルヲ悉多ガ心得違ヒヲ致シテ、アア大ベラボウナルカナ、アアクソダワケナルカナ、尻ノ毛へ火ノ付タヤウニ、夫ヲイヤガリ、周章サハイダガ、ヤツパリ死ンダ、
というように、これを痛罵している。ここにおいて国学は単なる学問ではなく折伏的実践を伴ってくる。一見して判るように彼の思想体系には粗雑、非合理な欠点が増し、平田学は宣長の正統派から嫌われ、また和歌や古典の研究を重んずる江戸・京都の国学者たちからも排斥された。その激しい儒教批判と尊王思想とのために幕府から忌まれ、天保一二年(一八四一)にその著『天朝無窮暦』を無断で出版したことを咎められて秋田に追放され、二年後に死んでいる。
 国学は古代精神を祖国に新生せしめんとする真摯な、止むに止まれぬ情熱をうちに持っていたために遊惰と偸安に沈んだ当時の時代風潮に対して与えた影響は極めて大きい。それは当然、現実を否定し古代精神復活の実践運動に赴くべきものであった。幕末維新期には平田学を主流とする国学が儒学・洋学に対して優位に上がり、王政復古を推進した。神道復興・神仏分離、外来思想としての仏教排斥・廃仏毀釈へと進んだ。この国学の極端な国粋独善主義が明治政府の文明開化政策の妨げとなり、やがて斥けられるに至った。
 世に国学の先鞭をつけた荷田春満、古語の研究に真摯に取り組んだ賀茂真淵(県居の大人)、『古事記伝』を著し国学を大成させた本居宣長(鈴屋の大人)、これに宗教的情熱を以て普及発展させた平田篤胤(気吹舎の大人)を国学の四大人と呼び、あがめている。