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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

三 崎門学派

 1 山 崎 闇 斎

 元和四年(一六一八)二一月九日、近江国伊香立郡(現滋賀県)に生まれた。曽祖父浄栄は播磨国宋粟郡山崎村の人、よって山崎を氏とす。祖父浄泉は又左衛門と称し備中木下家定に仕えた。父浄因は通称三右衛門、家定次子利房に仕えたが、利房が関ケ原の戦に西軍に属したため領地を没収され、浪人となり京都に移住した。母は佐久間氏、名は舎奈「只ならぬガツパリ婆」(直方)の評高い女丈夫であった。闇斎は幼名、長吉、後に清兵衛。字は敬義、通称は嘉右衛門、八歳、比叡山の児となり、一五歳、比叡山を辞し、妙心寺に入って絶蔵主と改称、また梅庵、似功斎、神道号を垂加ともいった。幼時資性桀ごう、悪戯度なしといわれたが長じて峻厳端重妥協を拒否して憚らぬ性格は、曽祖父・祖父の武辺と父の敬虔な信仰心、祖母の学問への誘掖、母の窮居のうちにも失わぬ厳格な節操による家庭教育から形成されたものである。妙心寺に入って修行中、たまたま土佐の山内侯の公子にその才能を認められ、山内侯の菩提寺吸江寺に入った。吸江寺は夢想国師の創建で義堂周信(一三二六~一三八九、建仁・南禅寺主。著書『空華集』)絶海中津(一三三六~一四〇五入明八年、慧林寺、宝冠寺、等持寺、相国寺主。著書『蕉堅稿』・『絶海語録』)を出した名刹、また土佐は南学発祥の地、吸江寺は野中兼山の且那寺でもあり、土佐に移ったことが闇斎一生の転機となった。これより谷時中に学び、小倉三省、野中兼山らと交わり、寛永一九年(一六四二)二五歳、還俗して儒者となった。正保三年(一六四六)二九歳、京都に帰り「正保三年丙戌春三月五日壬子 以父君命復本氏 而以嘉為名 字曰敬義 以闇号斎 称呼加(嘉)右衛門」(家譜)とある。
 正保四年(一六四七)三〇歳『闢異』を著して、仏教から離れ、儒に帰した自己の体験と正学の方向を積極的に説き、異端を排撃して、純粋朱子学に立脚した闇斎学を最初に宣言した。
(参照「闇斎先生年譜」)
 『闇斎先生年譜』の編者山田慥斎(生没未詳)は、山田静斎(~一七九四、石王塞軒に闇斎学を学んだ磧儒)の長子。通称綱二郎、名は連・聯。字は思叔。佐野藩儒を務めた大儒、先行の闇斎年譜、行状を綿密に考証した論拠確実、きわめて篤実な闇斎伝である。その中に明確に闇斎の学風を示した記事がある。

  「語門人曰 我学宗朱子 所以尊孔子也尊孔子以其与天地準也中庸云 仲尼祖述堯舜 憲章文武 吾於孔子朱子亦竊比焉 而宗朱子 亦非苟尊信之 吾意朱子之学 居敬窮理 即祖述孔子而不差者故学朱子而謬 与朱子共謬也 何遺憾有之 是吾所以信朱子 亦述而不作也 汝輩堅守此意而勿失」(『闇斎先生年譜』天和二年項)

 闇斎の学の特色は、朱子への復帰、朱子自体の著作その物に直入して醇乎純正の朱子学を闡明しようとする所にある。諸家の研究注解書を排斥して朱子自身の著作に直接参入して生きた朱子の心奥に直入せよと説く。
 闇斎の学問は、字「敬義」に最も端的明確に表現されている。「敬以直内 義以方外 敬義夾持 出入無悖」の「敬内義外説」である。「敬義夾持」の道は「居敬窮理」であるとして朱子立教の原点に復帰することを強調する。そして、朱子の「白鹿洞書院学規」を教学の法を示すもの、「敬斎蔵」を人間の本心を存し養う存養の要として重視し、学問は知と行を磨き聖賢になることを大目標とするから、根本において「敬」が不可欠である。「敬之一字 聖学所 以成始 而成終者也 為小学者 不由乎此 固無以涵養本源 而謹夫洒掃応対進退之節与夫六芸之教 為大学者 不由乎此 亦無以開発聡明 進徳修業 而致夫明徳新民之功也」(『大学或問』)とあり、また「敬之一字豈非聖学始終之要也哉」(同上)とも述べられている。人間の日々の行事「是皆未始一日而離乎敬」(同上)ものであるから「大学之序 固以致知為先 而程子発明 未有致知 而不在敬者 尤見用力本領親切処」(『朱子公文集』三八「答范文叔」)「古人直自小学中 涵養成就 所以大学之道只従格物做起 今人従前無此工夫但見大学以格物為先 便欲只以思慮知識求之 更不於操存処用力 縦使窺測得十分亦無実地可拠大抵敬字 是徹上徹下之音 格物致知 乃其間節 次進歩処耳(同右四三「答林択之」)また「敬之一字万善根本 涵養・有察・格物・致知種々功夫 皆従此出 方有拠依」(同右五〇「答潘恭叔」)これら朱子の「敬」を基本として闇斎学は純粋に「敬義」を標榜し、居敬窮理を説き「道学」を提唱した。
 闇斎学の他の一面の特色は、大義名分を明らかにして、これを遵守することである。徳目は同等並列に成るものでなく、本末・上下・軽重があるとする。名分の大綱は、父子君臣の大義なりとし、これに悖ればすべての人倫は崩壊すると説く。闇斎は韓退之の「拘幽操」を以て是を示した。この大義名分論は、内に沈着しては尊皇論となり、外に向かっては、我が国文化の主体性確立となる。闇斎が垂加神道を開いたのは、この民族的な自覚からである。闇斎は天和二年(一六八三)九月一六日没した。六五歳であった。
 闇斎に学ぶ門人はすこぶる多く、門下六千人の多きに及ぶと称された。最も傑出しだのが佐藤直方(一六五〇~一七一九)浅見絅斎(一六五二~一七一一)三宅尚斎(一六六二~一七四一)で崎門三傑と呼ばれ、三人の性格に応じて闇斎の学風は拡張分派して全国に伝播した。

2 佐藤直方門の人々

 佐藤直方

 (一六五〇~一七一九)慶安三年備後福山藩士の家に生まれた。幼名は彦七、後に五郎左衛門。字や号はなかった。(号を剛斎とするは誤り)自身若し清国に行っても「五郎左衛門」で通すと豪語していた。父は福山藩水野侯家臣七郎兵衛、致仕後休意と号した。直方は初め同藩闇斎門人永田養庵に学び、寛文一〇年(一六七〇)二一歳、四月養庵に伴われて闇斎に入門を請うたが、学力不足のため許されず、翌年、再び入門を請い、『二程全書』(宋の程顥・程願の遺著)を読まされ渋滞頗る多く、叱責されたが、読書必ずしも聖学の目的に非ずと反論し入門が許された。以来、浅見絅斎と共に刻苦勉励、闇斎の寵愛を受け、「闇斎性急特罵門人遅鈍者 及直方安正輩来談玄理 始恰笑 其妾密嘱直方曰 願君与浅見一日接徳音 不然無奈主公鞅々不楽」と言われるまでになった。元禄四年(一六九一)水野侯に仕え、同七年厩橘酒井侯の賓師となった。
 直方は性豪放、道体に突入して直截に本体を頓悟する勇往邁進を唱え、他にたよらず、道体心法の工夫に徹するの学風で、『四書』・『小学』・『近思録』に限って講義し、『詩経』を付加する程度で、訓詰注釈・博覧を排し、窮理尽性の道学に徹した。浅見絅斎の学力を評価しながらも『通鑑綱目』を四二回も精読するがごときを批難し純乎として脇目もふらず道源本体に直進することを強調した。直方の思想は極めて合理主義的で、情に溺れず、一刀両断して直截に論じて憚らず、『論語』を以てすべてを律すべしとし、恬淡として過去にこだわらぬところがあったことは、三輪執斎との確執と和解にみることができることは既に述べた通りである。
 伊予の直方門は、東の崎門直方系の大儒野田剛斎(一六九〇~一七六八)と並んで西の直方系磧儒と称された稲葉迂斎(一六八四~一七六〇)その子黙斎(一七三二~一七九九)父子の門から奥平栖遅庵(一七六九~一八五〇)が出て黙斎学を受け、さらに三上是庵(一八一八~一八七六)ついで上総の石井周庵(一八三五~一九〇三)と明治まで継承されるのである。

 奥平栖遅庵

 (一七六九~一八五〇)明和六年五月九日、江戸三味線堀武蔵忍藩藩邸に生まれた。本名は定時、通称は定次郎、または幸次郎、別号は玄圃、初め三宅尚斎、稲葉迂斎に学んだ幸田誠之(一七二〇~一七九二)に学び、黙斎に従い、藩の文学兼侍講として職にあること一〇餘年、後に今治侯賓師となる。清廉潔白、外柔内剛、事に処して誤りなく、誠実無比の人と称された。嘉永三年八月九日江戸で没した。
 栖遅庵の学問は、まず道学の渕源を精覈に把握し、その旨訣を体得して謹守、怠らざるを真儒の学、程朱の徒とした。
(参照「道学旨訣淵源説」)
 学術は、大学を中心とし、明明徳に帰へすると説き、闇斎の居敬窮理、直方の直截頓悟を推し進める。
(参照「道学旨訣淵源説」)
 さらに『性論諸説』を著して『性』を論じ、「本然の性」、「気質の性」を論じ「性」の本体は「人物未生以前ハ只是理、性ト呼ビ難シ、形気ナケレハ理ノ頓放スベキナシ、故ニ形気生ジテ始メテ性ト呼ビナス、(中略)ソレナラバ気質ノ外ニ本然ノ性ガホントニアルニアラズ、コノ処ニテ不雑底、方サユ是レ性ノ本体ナルヲ認メ得ベシ、時ニソノ本体ハナンモ云ヘズ、ツラマヘラレヌカラ孟子ガ発処ヲ以テ性善ヲ明カニセリ」(『性論諸説』)と論じ「気質性本然即性、本然生之謂地」と結び、格物致知の上の大悟を説く。
 栖遅庵は、また大義名分を弁え、尊王論を唱えたので、明治維新に活躍した多くの人々に多大の感化を与えた。
 
 三上是庵

 文政元年(一八一八)六月四日生まれ。本名は景雄、通称は新左衛門、または、朝鮮の朱子学者李退渓を尊敬し、あやかって退助ともいった。幼にして松山藩儒高橋復斎(一七八八~一八三四)村田箕山(一七八七~一八五六)に師事、歳一三にして『近思録』、『小学』、『文選』等を読破した。一七歳、三の丸番役となったが一八歳江戸に出て苦学勉励すること数年、奥平栖遅庵に邂逅して崎門学の精髄を受けた。

  辞家門      家門を辞す
男子元懐四方志  無為骨肉分離思  男子、元より四方の志を懐けり、 骨肉分離の思いを為すこと無れ
此行非競利名途  欲了人生一大事  此行、利名の途を競うに非ず  人生一大事を了せんと欲す

  入今治藩邸 謁奥平栖遅庵  今治藩邸に入りて奥平栖遅庵に謁す
浮々悠々三十秋  伊洛津頭忽得舟  浮々悠々たること三十秋  伊洛の津頭、忽ち舟を得たり
看吾一棹遡泂去  遠覓淵源洙泗遊  看よ、吾が一棹 遡泂して来り、遠く淵源洙泗を覓めて遊ぶを

 明治維新の動乱期には松平定昭の顧問として活躍し、藩をして大義名分を誤らしめなかった。明治四年廃藩置県後は、松山市藤原町に三上学寮を開設し、子弟を教えた。
 是庵の偉大さは、道学の渕源を求めて篤実邁進、孜々として勉めてやまぬ学問に対する情熱にある。弘化三年(一八四六)旧師村田箕山の門を離れるに際し、栖遅庵に問うた『師説疑義』は、よく是庵の人柄を現すものである。常に自己を新たにして邁進する真摯篤学の人であった。

  壬子新年口吟   壬子新年口吟
時々刻々化工新  時々刻々として化工新たなり
况複今朝一番春  况んや 今朝、一番の春をや
満目風光非時日  満目の風光 時に非ざるの日
愧吾還是旧年人  愧ず 吾 還た旧年の人ならんかと

 栖遅庵に学んで大悟して以来、心身脱落、迷うことなく己が学問を政道に生かした。

 先生教人要在於任底英気二矣 斯此佐藤子之学脉而黙斎先生相伝之旨訣也 盍学者莫任道之意 則不能峻門風 故能為流俗見撓鞭策録不之為用 莫英気則壓高堅仰忽之道不能心術厳 而自惑他岐投人情 道学標的何用為之 学者須以英気用任底于鞭策矣 以任底用英気于標的矣 是道学之門戸 接続先生之統之端歟(『柴山子門風論妄評』)

 是庵の著書はすこぶる多い。『小川真砂』(三三道)『同附録』(一一道)『麓之志る辺』にその主張が平明に述べられている。『栖遅庵先生年譜』は、学統を知る正確な資料である。明治九年(一八七六)一二月四日没した。五九歳であった。墓碑は宝塔寺にある。

 3 三宅尚斎門の人々

 三宅尚斎

 寛文二年(一六六二)正月四日播州明石城下生まれ。寛保元年(一七四一)正月二九日没。
 本名は重固、字は実操、通称儀左衛門、後に丹治と改める。延宝八年(一六八〇)一九歳、闇斎に入門、闇斎没後は、直方、絅斎に兄事。崎門三傑と称された。生活は不如意で、その上獄に投ぜられたりして不遇であったが、絅斎・直方らよりも略三〇年長命で、崎門の最長老と仰がれ、崎門学は尚斎に至って大成せりと評された。性剛直であったが自ら戒め、温厚篤実な人格を形成し、著書も多く、多数の門弟を教育した。
 尚斎の学術は、服部栗斎の評が最も正鵠を得ている。

栗斎服氏嘗謂 崎門諸子、佐藤子知見透徹 才力絶倫、而不屑読書 浅見子所見正大 学亦精博 而自任太過 三宅子質行有余 研理亦密 但規模聡明 不及二子 又謂 学程朱子而弗差者 其唯三宅氏歟
                                     (『吾学源流』)

 即ち闇斎の学説を祖述敷衍し、綿密に注釈を加え、崎門派必読書の『易』、『詩』、『四書』、『小学』の字句、語彙の出典を『朱子文集』その他程朱学者の著書から求めて解釈し、自説を付した。直方・絅斎の説も大いに採択し詳細を極めている。従って尚斎の学術は折衷的といい得よう。道とは天地自然の理で、聖学はその精神をとって我がものとするのが正しい教学であるとする絅斎の説と儒者のいう学問とは我を離れて聖賢に依順し、その語を正確に理解し、その教えをきわめるのが正しいとする直方の学説の両者を調和させたのが尚斎の学といえる。その著『黙識録』に「学有体用 体者成己之学也 用者成物之学也 夫経済成物之学 出於成己之本 欲成物 而不本成己 則固管商之流也耳」と根本の動機を尊重した。闇斎を崇敬し「居数窮理」を主張しながら漢土聖賢の遺著により考究、体認すべしと説くのである。
 尚斎の思想は、獄中血書した『狼疐録』三巻、『白雀録』 一巻、『黙識録』四巻及び、同じく獄中三年、思索をめぐらせて立論した一種神秘的な理気説『祭祀来格説』によってうかがうことができる。

 石王塞軒

 元禄一四年(一七〇一)四月一八日、近江甲賀郡水口村に生まれ、安永九年(一七八〇)正月二一日没した。通称安兵衛。本名は明誠。字は康介。別号、黄裳、確廬。弱冠京都に出て三宅尚斎に師事、久米訂斎(一六九九~一七八四)、井沢強斎(一七〇五~一七五五)とともに宅門の三傑と称された。大洲に招かれ、藩侯賓師となり、政務・育英に参画して、中江藤樹以降の大洲文運興隆に参与すること甚だ大であった。
 父母奉養のため帰国、宝歴三年(一七五三)江戸に出て仙台侯に『孟子』を講じ、翌年阿波侯に招聘せられ、居住数年、京都に出て私塾開設、子弟の教育に専念した。太極図説の旨趣を研究し『太極図説大意講義』を著し性理断治(久米訂斎)太極康介(塞軒)と併び称された。また、塞軒の講義を門人の小林貞亮が筆記編録した『孟子記聞』は解説詳細を極め、名著の誉が高い。冒頭を掲げよう。

趙岐章句上ノ三字ヲ加ルナリ 以前アルベキヤウナシ 集註ヲ御書被成トキ趙岐ガシタ通リニ被成也是ニ意ハナキ事也 害ナキ故ニ其ママサシヲカル也
梁恵王ノ召ニ応ジテ御出被成也 年月ノ事 注ニ吟味アリ或問ニ論アル通リ 其臣トナラザレバ其君ヲ見ズ 孟子ハ御浪人也 此方カラ求メテ君ヘアウトイフ事ナシ 孟子ハソレトハチガフ也 恵王ガ礼ヲ卑シ謙退シテ賢者ヲ招待スルナリ 諸侯ハ我国領分ヲ出テ人ニアウト云事ナシ 国君ノ身代一パイノ音物ヲトトノエテ謙リ インギンニシテ招ケバ 召ニ応ズルナリ             (『孟子記聞』「深恵王章句上」冒頭)

 宅門三家は、それぞれ程朱の学を奉じ、闇斎を心から尊敬しながら学風・主張を異にして拮抗したが、徐々に一致団結を図るに至る。宝暦一二年(一七六二)闇斎没後八〇年墓所改修が行われ、石王塞軒らが中心となって門流を結ぶ威縁をつくった。塞軒の学術は、大洲地域に普及したばかりでなく、京都住の塞軒高弟山田静斎(~一八九四)を通じて東予全域にも浸透した。竹鼻正修(一七四四ー一八〇五)長野恭慶(一七四九ー一八二四)らは静斎を通じて尚斎・闇斎につながる崎門学派であり、今治克明館に学び、或いは同館教授となった豊田政仲(一七七六~一八二九)園美久(一七七〇~一八三三)らも恭慶を通じて静斎・尚斎に闇斎と学脉のつながる崎門学派である。恭慶の息、長野友賢・孝彝兄弟も同様である。

 服部栗斎

 元文元年(一七三六)摂津国豊浦郷浜村に父服部梅圃(通称与右衛門。本名は行命。摂津飯野侯の同地邑宰。一六八六~一七五五)の四男として生まれ、寛政一二年(一八〇〇)五月一一日没。
 幼にして頴悟、学に志し、一四歳、大阪に出て懐徳書院教授五井蘭洲(一六九七~一七六二)に師事、中井竹山・履軒兄弟と親しく、長じて尚斎門の石王塞軒・久米訂斎・稲葉迂斎及び村士玉水らと交わって崎門学に親しんだ。藩主中扈従から世子の侍読に進んだが病のため家居静養した。村士玉水・栗斎の大器を認め、舎宅を建て講堂・器材等を付与した。村士玉水は尚斎の高弟山宮雪楼に師事した人であった。後、松平定信によって宅地を賜い、き渓書院と名づげて多くの門弟を指導した。その著『隠居放言』(六冊)は、栗斎の学術・思想をうかがう重要著書で、深い思索による論説・評論・随想・解説等極めて興味深い。伊予の人は栗斎のき渓書院に学ぶ者多く、石王塞軒とともに伊予尚斎派崎門学興隆に多大の影響を与えた磧学である。
 栗斎に学び、伊予の地に尚斎派崎門学を普及させた人では、まず宮原龍山を挙げなければならない。

 宮原龍山

 宝暦一〇年(一七六〇)一一月桑村郡高知村(丹原町高知)に生まれ、文化八年(一八一一)六月一七日江戸松山藩邸に没。「代二洲先生」長野豊山撰文の「宮原楽大墓碣銘(『事実文編』五四)によると、譚は斌・彬、字は楽大(楽太)通称は文太、後、泰助。号は龍山、梅巣、六竹軒。弱冠にして大阪に出、後、江戸により、服部栗斎につき刻苦勉励、栗斎をして「所攻甚善」(『隠居放言』三)と嘆ぜしめ、その「指導甚至」(墓碣銘)とあり、師弟の情誼の篤かったことは「送飯野大夫服部某還摂浜村序」(『龍山存稿』下)にも明らかである。(服部某とは文中「旗峯先生」とあり、栗斎の別号である)
 龍山「為人有気崖 毅然不苟戯談 具行己勇於敢為 学提其大義不治訓詰 然能属文 頗有磊砢不凡之気 旁講武学 喜談世務 咸得其要云」(墓碣銘)とある。松山藩九代藩主松平定国に仕え、杉山熊台と並んで藩学興隆に精励、また多くの俊秀を養成した。著書に『龍山存稿』(上・下)があり、論説、評論、紀行、随想、漢詩等が多数収録され、特に「六竹軒」のいわれ等の随筆が興味深い。
 龍山の生涯は「墓碣銘」が最も適切簡潔に表現している。

 得於資已異 得於学亦侈 維織所成
 可謂備矣資を得ては已に異、学を得ては亦侈なり維れ、その成すところ、備わると謂うべし

 宮原桐月

 明和六年(一七六九)、桑村郡高知村(丹原町)に龍山の弟として生まれ、天保一四年(一八四三)九月一九日七五歳で没した。桐月の学術・人となり、履歴は、友人益城松崎明復(慊堂)が撰した墓碣銘に明らかである。
(参照「弦堂宮原先生之墓碑」)
 帰藩後、藩儒官となり子弟の教育にあたる。龍山の男法堂(一七九六~一八六二)は昌平黌に学び、帰藩後、明教館創設に尽力する等育英に精励した。事蹟は武知清風銘井書の「弦堂宮原先生之墓碑」に詳述されている。
    
 西川楽斎

 (一七八五~一八四四)大洲市新谷の人。門田円平とも称し、宮原龍山に学ぶ。服部栗斎に学んだ奈良の神官・松山藩儒池内義方(生没未詳、通称禎助、字仲立)門の村田箕山と交友篤く、ともに研鑽を積み、経学に精通した。後、江戸に出て儒学を講じ、伊勢崎侯に招聘され、学徳を称揚さる。後、寛政三博士の董陶を受けて昌平黌舎長を務め、仙台藩養賢堂学頭に任ぜられた志村五城(一七四六~一八三一)門、服部栗斎高弟、桜田鼓岳(一七七四~一八三九)に師事、朱子学の蘊奥を極めた。
(参照「西川楽斎の詩」)

 村田箕山

 天明七年(一七八七)松山藩士村田武住の男として生まれた。本名は常武、通称は平蔵。字は伯経箕山または趾斎と号した。服部栗斎門の池内禎介に学び、刻苦勉励「弄筆不輟 一生手写無慮数百巻」(「墓碑」)といわれ、毎月二〇日学友相集い、経義を論じて「不相合則劇論数刻、往々徹於中夜」(同上)といわれるほど精励した。藩祐筆をつとめ、「性峭直 遇事敢往不敢屈撓」(同上)といわれ、識見高く、経解は簡にして要を得、よく聴者をして旨趣を了会せしめたという。安政三年(一八五六)一一月四日没。七〇歳であった。俳諧にも秀で興に随い句作を楽しんだ。

  元朝や火はつめたし水はあつし
  花に寐ん鶴が迎ひに来るまでは
  どち向ひて盃とらん花の山
  寐るまでがまあ人間の今年かな

 なお、事績の詳細は、河東坤撰文の「村田箕山先生墓碑」に詳しい。『四書私考』・『周易略』等著書も多い。

 4 浅見絅斎派の人々
 
 浅見絅斎

 承応元年(一六五二)八月一三日近江国高島郡太田村の郷士で、医を業とする父俊盈道斎の二男として生まれた。本名は、順良または安正。通称は重次郎。絅斎または望楠楼あるいは望楠軒と号した。初め兄道哲とともに山脇道立に医を学び、高島順良と名のり、その間伊藤仁斎の門に入り、経学を学ぶとともに、また軍学も学んだといわれている。絅斎が闇斎に入門したのは、闇斎門人備後福山藩文学、佐藤直方の最初の師永田養庵の勧めによるもので闇斎年譜では延宝五年(一六七七)一二月成立した闇斎の『張書抄略』の浄書をしているから、その前年、二五歳ころと思われる。入門以来、闇斎の厳格苛酷なまでの薫陶によく耐え刻苦勉励し、崎門三傑の一人と称された。後に、「敬義内外の論」、「神道論」等において師闇斎と対立し、直方とともに破門されるに至る。しかし、学恩は忘れず、晩年にこれを悔いて罪を師霊に謝したといわれている。 
 絅斎の学術は、博覧を斥け、詩文を卑しみ、全力を挙げて全身全霊孔孟程朱の真随に向かって集中するにあった。経語を解するに委曲を尽くし、数言を解するに数日あるいは数十日を費し、微に入り、細を穿ち、聖賢の核心に直入することを期待した。従って言々、聴者の肺腑をつき、師弟間の礼法は厳重を極めた。

絅斎晩講授錦里 師弟之間 厳峻又甚於闇斎先君子嘗侍其講筵 課会之日 門人侍坐函丈 実如臣下在君前 毎請業請益 及講義中語勢有段落 聴徒唱諾叩頭 毎一章解了呼聴徒曰 咸且如此会去 聴徒又一々叩頭 席間録口義者 筆硯墨楮皆豫 翁既出席 則不復評注硯麿墨也 翁為人尤肥大 及其従室出諸席 尚扶杖発気息 登褥盤坐倚几安体 而後低声説出 標儀威重 一坐粛然 屛気聴 無敢嚏咳欠伸者(稲葉黙斎『先達遺事』)

 絅斎は崎門学派の正統本流として世に認められた。師道の厳なること「甚於闇斎」かったから「厳師道 待門人甚刻 人悪其厳刻」(稲葉黙斎『黙識録』)といい、また「絅斎先生 深不許見他師最厳」(同上)といっているから従遊の徒も多くはなかったが、優れた俊秀を養成している。特に若林強斎は絅斎門下の領袖としてその学統を継いだ。鈴木貞斎は大阪に住し、その門から飯岡義斎(一七一七~一七八八)が出た。義斎に二女あり。長女静か頼春水夫人「梅颸女史」で、二女直が尾藤二洲の継妻「梅月女史」である。
 絅斎は著書も多い。中でも『靖献遺言』は崎門派内は言うに及ばず、広く世間に普及し、後世にこの書が与えた感化力は測り知れぬ。「大義名分即崎門学派」の印象を一般社会に流布した書である。
 正徳元年(一七一一)一二月一目没した。享年六〇歳であった。伊予に絅斎学を伝えだのは、絅斎の『大
学伝五章講義』を筆録した大月履斎である。

 大月履斎

 延宝二年(一六七四)九月二三日、大洲藩士大月新左衛門吉次の二男として生まれた。本名は吉廸(迪)小字正蔵、十有余年江戸に在って浅見絅斎に学んだ。正徳五年(一七一五)二〇人扶持で松山藩に招聘され、享保一九年(一七三四)三月四日没した。享年六一歳であった。

大月正蔵者儒者なり。二〇人扶持御抱なり。此時家中の面々御政事御用に相立侯様に導き数可申旨、申上しとかや。朱学なれども経済を専らとせし趣なり。燕居偶筆を著し、国政の事を述べたり。耿介の土と見えたり。偶筆の荒増左の如し(以下略。『松山叢談』第五(下)・『却睡草』)

 『燕居偶筆』(二巻)は久しく世に埋もれていたが、松山藩儒宮原龍山によって価値が認められ、世に紹介された。『欽慕録』によると龍山が土佐の儒者箕作迂斎と会談した時「上州に『燕居偶筆』なる本が伝わっており、大いに国政に益する有益な論であるが著書が不明なのが残念だ」との言葉を聞き、龍山は雀躍してこれを世に広めようと尽くした。『松山叢談』第五(下)・『燕居偶筆』の著者が久しく不明であったのは、江戸の朱子学者『如不及斎叢書』の編者藤森大雅(一七九九~一八六二)の左のような後序をそのまま信じ、追究詮索しなかった為と思われる。

此編不著撰人名氏、或云、大月氏所著、亦不詳何許人也、夫治病者、必有其方、而貴先明其証焉、昔者扁鵲飲上池水、明五臓之癥結、而病乃無不可治、古今流俗之通病亦多矣。此編所論、縄引規切一一中其病、有益於実用 然世之病亦恒在欲矯弊図治 徒事察々 不本諸人情 夫人情所不楽 則不可以従事於久 不可以従事於久 則非唯不克済 災亦随之 故先生必因人情 而施之治 是亦不可不察焉
                                    (国立国会図書館蔵本)

 『燕居偶筆』の成立は確定しないが、「巻之上」(五五段)に、「頃世間ニ取ハヤス、江戸ニテ山下某ト云ヘル浪人諌状ヲ上ゲシトテ一巻アリ」(山下幸内上書、享保六年(一七二一)目安箱に投ぜられた。吉宗の施政を批判したもの。六一段・六七段にも山内上書の内容が示されている。)とみえる。従って、それから二~三年後に書かれたものであろう。
 まず冒頭に「政」の根本を述べ

吾邦、政ノ学ヲ訓ジテ、マツリゴトト読。ソモソモ吾邦ハ神明開闢ノ国ニシテ、祭ヲ以、国ノ大事トセリ。サレバ国ノ大事、政ニシクハナシ。是ヲ以、政ノ字ヲマツリゴトト訓ゼリ。誠ニ有故コト也。サテ俗称ニハ
是ヲ仕置ト云。子細ハ此事、一朝一タ、当座当座ノ事ニ非ズ。予メ評議シ、善悪是非ヲ兼テ内々ニ吟味シテ、法ヲ建コトヲ決スルコトナレバ、シヲクト云意ヲ以云リ、尤至極ノ意也。(『燕居偶筆』巻之上冒頭文)

 ついで「政の要領」即ち履斎の場合は、政治論のポイントは「人君」にありとし、日本・中国の実例をあげ

(参照 『燕居偶筆』巻之上、七段)

 と述べて朱子学のノ「窮理致知」が原理として政治の中核に据えられねばならぬことを強調する。更に具体的な現実の問題に対しても独自の提案を公開する。
(参照 『燕居偶筆』巻之下、三七項)
 藩の仕置、奉行・郡代・代官・庄屋のありよう、芸能・喪祭・治水・財政・福祉等、具体例を挙げながら適切にあるべき様を指示、平易な文章で明快に提言している。『松山叢談』第五(下)によると、宮原龍山が『燕居偶筆』の後に「其論痛切核実 皆中世之宿弊 其言雖俚 其慮甚遠」と付記したが、誠によく『燕居偶筆』の全貌をあらわしている。
 履斎は多くの優れた門弟を養成したが、中でも松田東門が傑出している。大原観山の『膾残録』に目次のみが記載されているが、伝本は未詳である。

闇斎先生年譜

闇斎先生年譜


『道学旨訣淵源説』

『道学旨訣淵源説』


『道学旨訣淵源説』

『道学旨訣淵源説』


弦堂宮原先生之墓碑

弦堂宮原先生之墓碑


西川楽齊の詩

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『燕居偶筆』巻之上、七段

『燕居偶筆』巻之上、七段


『燕居偶筆』巻之下、三七項

『燕居偶筆』巻之下、三七項