データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第一節 心学のおこり

 広く心学といえば、心の修養法を説いた学問で、聖賢の学は、すべて心学といわれてきた。「儒仏不同 枢要只此 愚嘗究而論之 聖賢之学心学也 禅学陸学亦自謂心学」(陳建『学蔀通弁』)とあるように、朱子にも『朱子心学録』(二巻)があり「晦菴朱先生之学其心学矣乎」(序文)と述べられており、陽明学も禅学もすべて心学であった。藤原惺窩は、『仮名性理』において「心学の伝授」といい、中江藤樹も『翁問答』の中で「終始ことごとく心の学なれば、心学とも云ふなり。」と述べ、熊沢蕃山は、『集義和書』の中で自分を心学者と称している。
 しかし、今日、一般に心学といえば、石田梅岩を始祖とする一門の人々が、明治初年まで社会教化運動として広く庶民の間に普及させた「石門心学」に限定される。

 1 石 田 梅 岩

 梅岩は、貞享二年(一六八五)九月一五日丹波国東懸村(京都府亀山市)の農家の二男に生まれた。本名は興長。通称は勘平。一一歳で京都の商家に奉公、数年にして帰郷。二二歳、再度京都の呉服商に奉公し、約二〇年間徒弟、番頭を務めた。梅岩が求道者、教育者として生涯を歩むようになったのは自己性格への反省からである。

 我レ幼年ノ時分ヨリ生レツイテノ理窟者ニテ、友達ニモキラハレ、只々イヂノ悪イコト多ク、十四五歳ノ頃フト心付有テ、是ヲ哀シク思フヨリ、三十歳ノコロハ、有増ニナリタリト思ヘドモ、言葉ノ端ニ見侍シガ、是モ四十年ノコロニハ、梅ノ黒焼デ、少シ酢メガ有ルヤウユ侍ベリ(『石田先生語録』)

 幸い奉公先の主人夫妻は、篤信の本願寺門徒で、梅岩のよき理解者であった。梅岩が「朝夕如何々々」と心を尽くし、自問自答、反省自戒を怠らなかったのは、寛大な主家への報恩と自己性格鍛錬のためである。
 「アナタコナタト師ヲ求メ」(『石田先生事蹟』)いずこにも師とすべき人なしと悲嘆に暮れていた時、めぐりあったのが小栗了雲(一六六九~一七二九)であった。「心を知らずして聖人の書を見るならば、毫釐の差、千里となるべし」(『都鄙問答』巻之一)と教えられ、刻苦勉励すること一年半、「堯舜の道は、孝悌のみ。魚は水を泳、鳥は空を飛。詩云、鳶飛戻天 魚躍干渕。道は上下に察なり。何をか疑はん。」(『都鄙問答』巻之一)と大悟して自己の学問に初めて確信を持ち、商家の一徒弟にすぎなかった梅岩が、高名の学者の群集する京都に心の学を説いて憚らず、たじろぐことはなかった。
 梅岩は「我ら如きは、文字を正しては、手紙一通も書き得ざる者」(『都鄙問答』巻之一)といい、「予不学なれば、四書五経にさへ仮名して読み来れり」。(『斉家論』上)と謙遜しているが、「文学は末なり。凡そ学問は、本末を知るを肝要とす」(『斉家論』下)という確信において動ずることはなかった。「性を知るは学問の綱領なり。我怪しき事を語るに非ず。堯舜、万世の法となり玉ふも、是率性而已。故に心を知るを学問の初めと云」(『都鄙問答』巻之一)と述べ、この心を知るには、「口伝にて知らるる所に非ず。我に於て会得する所なり」(『都鄙問答』巻之一)と断じ、自己の体験によってのみ自得出来るものとした。このゆるがぬ信念の上に立って、「我不肖の身にて儒を業とす。」(『斉家論』上)と断言し、一五年ほど坐禅した禅僧をも、その言行を看破して「未徹の僧なれば、云ふに不足」、(『都鄙問答』巻之一)と弾劾して譲らぬのである。
 また、「神・儒、仏とも悟る心は一なり。」(『都鄙問答』巻之三)とし、儒教の「明徳」、神道の「清明」、仏教の 「仏性」も根本は一なりと説き、「仏・老・荘の教も、いはば心を磨く磨草なれば舎つべきに非ず」(『都鄙問答』巻之三)と教え、三教の一致を説き、拮抗対立する学派間の争いに警告して日常生活における不断の反省と道徳実践こそ真の修行なりとした。
 自己の使命を自覚した梅岩が、積年の素志を遂げる端緒として、享保一四年(一七二九)京都車屋町御池上ル東側の居宅で無料公開講座を開いたのが心学教化運動のはじめである。「あの不学にて何を説くや」とそしられ、また「文学に拙き者なれば、聴衆もすくなからん」との侮蔑にも耳をかさなかった。初日、二日は一人の聴講者もなく三日目にして格子の外に担い桶をおろしてのぞいていた肥取の農夫を招いて聴講させたほどであった。
 しかし、教化伝道の使命感に燃える梅岩は、少しも屈せず、もし聴衆来なければ、鈴を振り、町々をまわっても、人の人たる道を勧めたしと益々精励して、漸次聴講者が増加した。梅岩は、市中数か所に講座を設け、招請があれば、遠路いとわず出張した。梅岩の講席は、通常の講義のほかに、策問による討論学習を採用した。これがいわゆる「会輔」である。『論語』の「顔淵篇」末文「君子以文会 以友輔仁」からとったものである。
 梅岩は、終生独身を通し、人間の本性を追求して止まぬ気迫に満ち、質素な生活の中に厳しい自己学習を続け、人に対しては誠実、親切丁寧であったから、接する人々に測り知れぬ感化を与え、多くの俊才を世に送った。
 延享元年(一七四四)九月二四日病没した。主な著書に『都鄙問答』(四巻一六段)、『斉家論』(上下二巻)、『莫妄想』(一巻)、門弟ら編さんの『石田先生語録』、『石田先生女教訓』、『石田先生遺稿』、『石田先生事蹟』がある。

 2 手 島 堵 庵

 梅岩没後、その学問を継承してさらに平易化し、一大社会教化運動にまで発展させた堵庵は、享保三年(一七一八)京都富小路四条の素封家、近江屋宗義の長男として生まれた。本名は信、一名喬房、通称は近江屋源右衛門、隠居後は嘉左衛門、字は応元、号は東郭子といった。
 一八歳、梅岩の門に入り、三年にして開悟。四四歳、家業を長男建(和庵一七四七~一七九一)に譲り、心学修行に専念。天明六年(一七八六)二月九日、六九歳で没するまで、多くの著書によって梅岩の思想普及に邁進した。梅岩の「知ル性ヲ」を「知ル本心ヲ」と言い換えた。
 知ル本心ヲは、則ち知ル性と同じ。性は理にして諭し難し。故に知本心と説くのみ。中庸は、性によって説き、大学は、心によって説く。心は体用をかねて説く故、人達するに近し(『知心弁疑』)
 以来、梅岩門の学を一般に「心学」と呼ぶようになるのである。
 安永二年(一七七三)一二月には『会友大旨』を著わし、「講義旨趣」篇では、心学の目的を簡潔に述べ、ついで「邪正の弁」篇では、会輔の役職を規定し、講義用の書は、四書・近思録、小学、都鄙問答、斉家論に限定し、他の書物を用いる時には「此方にて吟味いたし置候」物として厳しい統制を加えた。
 また、己が隠居所を五楽舎と称して心学道場としていたが、さらに安永二年に京都五条東洞院に修正舎を、同八年西陣に時習舎を、天明二年(一七八二)には河原町三条に明倫舎を創設してこの三舎を心学の中心講舎とした。また、心学の門に入り、修行を積んで本心発明した者には、梅岩門流たることを認定する証拠として「断書」を与え、「知本心者可守之大略」を併せ授与した。
 道話指導者の認定には、厳しい査定を加え、本心発明、修行の程度により、「初入善導」、「道話前講」等の資格証明書をわたし、特に最高の指導者として「道話後講」をなし得る認定書は、修正・時習・明倫三舎が連名で授与する「三舎印鑑」とし、この印鑑保持者のみが都講、講師となる制度を確立し、門徒の管理を厳にした。

     断 書
一 古先生諸人に性を知らしめ給ふは、その性にしたがわしめんがためなり。各此度性を御知り成られ候上は、心のうちに不善ある時は、直に古先生の勘当を思召さるべく候。形を以て古先生の門人とは申さず候事。
一 古先生の門人中、若し不行跡これあるとき、其事 御見聞成られ候はば、其人は御不審なく古先生勘当の人と思召さるべく候。古先生の門人と申すは、名と形とにては御座なく候。善成人は門人、不善成人は、破門と御心得成らざるべく候 已上。
    宝暦十四年甲申二月                 喬房敬白
     口上
 天下泰平の御恩を有難く存じ奉る義、最第一なり。然れば御冥加のため、せめて人々身をつくして奢らず、家内一門和合して暮らすべき事なり。尤も下々の身、御恩を存じ奉るなどと申すは恐れ多く、憚あれば、心底にありがたく存じ奉りて相慎み候ことなり。それ故、別に口上を以て申し候。已上。

 堵庵は、平易な文章で心学の精髄をわかり易く解説し、道歌を作り、相手に応じて懇切丁寧に教えたから新たに多数の信徒を獲得し、心学が全国に浸透普及する基礎を築いた。
 堵庵は、「本心」をまたわかり易く「思案なし」、「私案なし」の心とも言い換えた。「身共は、思案なしのところを知らしゃれィといふまででござるワイ」(『坐談随筆』)と説いた。この「思案なし」の境地は、後に上河淇水によって「我なし」の境地として言い換えられ、伊予心学者の追求する中心課題ともなるのである。
 堵庵の著書は、梅岩の著書と並んで、心学者の間で常に引用される。著名なものとして『坐談随筆』(明和八年)『知心弁疑』(安永二年)『前訓』(安永二年)『児女ねむりさまし』(安永二年)がある。

 3 上 河 淇 水

 寛延元年(一七四八)近江国今田居(滋賀県能登川町)に生まれた。本姓は志賀氏。手島堵庵に養われて、堵庵母方の上河氏を嗣ぐ。譚は正揚、通称は愿蔵。別号は子鷹。義兄和庵の後を襲い、明倫舎三世舎主となって、全国心学界の最高位に就く。寛政四年(一七九二)『京兆五楽舎心学承伝之図』、『聖賢証語国字解』を著して心学の基礎を明確に朱子学におき、伏義、神農、黄帝・堯舜、孔子、朱子に心学の道統を求め、日本において、梅岩に直結させ、心学こそ堯舜の道であり、朱子学の正統を嗣ぐものと断定した。
 心学界全体に対しては、堵庵以上に統制を厳にし、管理体制を確立した。全国心学者の著書は必ず校閲し、巻頭に淇水の序文を載せることを出版の条件とし、心学指導者の認定には、寛政九年(一七九七)一月通牒を発して厳重な手続きと査定を課し、淇水の意に添わぬ者への三舎印鑑授与を拒絶した。

 諸国心学御舎中方の中、弘く講釈道話等成され度御志の方も御座候はば、其所々々の舎に於て数度講習被成、御老友方に御聞糺し貰ひに相成候上、御一統可然と御中被成候はば、其所々々御都講方御連名の添状御貰被成候て、京都へ御上り可被成候。京都明倫舎に於て、又々数度御講習可被成候。老友共、得と聴聞致候上にて、古先生方の御説き方と相違も無御座候はば、三舎印鑑並びに添状御度可申候(寛政九年正月通牒)

 これは、「諸国心学御社中」あてに配布され「定書」として厳重に遵守すべきものとされた。「温厚孝順、人称其行」と称された義兄和庵が没して明倫舎を嗣ぎ、文化一四年洪水が没するまでに、朱子学による心学思想体系の樹立と、社会教化運動の振興と心学界の機構を統一し、完全に統制管理を果たしたのである。

 4 中 沢 道 二

 享保一〇年(一七二五)京都上京新町一条の代々西陣織を業とする富裕な商家に生まれた。諱は義道、通称は亀屋久兵衛。五五歳、剃髪して道二。家は、日蓮宗で、四一歳にして既に等持院東嶺禅師の法話を聞き「一天四海 皆帰妙法」の理を体得していた。(『道二翁道話』巻下)その後、同じ京都の呉服商で『松翁ひとり言』の著書を持つ布施松翁(一七二五~一七八四)の紹介で堵庵に師事、たちまち頭角をあらわして同門の重鎮となった。
 安永八年(一七七九)堵庵の代講として江戸に赴き、翌年には江戸日本橋通塩町の炭屋某の家に寓居して参前舎を創立、関東心学の基礎を築いた。寛政七年(一七九五)上河淇水の序文を得て『道二翁道話』(上下)を刊行すると共に全国を遊説した。心学講舎を新設すること二一舎、淇水と東西相呼応して心学発展に貢献した。
 道二の心学は、梅岩の「性」、堵庵の「本心」にかわり、「道」を中心とした。

 近思録ニ 「夫天地之常 其心普万物而以無心也」ト。天地の常とは、則ち道の事でござります。
   (中略)
 道とは何ぞ、雀はちうちう、烏はかあかあ、鳶は鳶の道、鳩は鳩の道、君子其位に素して行ふ、外に願ひ求めはない。その形地の通り勤むるを天地和合の道といふ。柿の木に柿の出来るもあいあいあい、栗の木に栗の出来るもあいあいあいと口舌言わず、ただ素直に和合の道、この外に道はない。それが神道、それが仏道じゃ。此外に道といふはない。聖人は、天地同根同性なる故、一切万物を心として、其外に別に心はない。学問といふは、其道理を明らめるのじゃ。(『道二翁道話』巻上)

 道二の布教範囲は、九州を除き、五畿七道二七か国に及び、道二を招いて修行する大名・旗本・御家人ら数を知らず、また、老中松平定信の意を受けて、人足寄場にも出張道話した。
 道二の道話の特色は、題材を堵庵指定の図書以外に「高札」を好んで採り上げたことであろう。民衆に親しみ易く、具体的、現実的な道徳の訓令として、「道といふは順応するばっかり」(『道二翁道話』巻上)とする道二にとって、直接庶民を規定する「高札」は最も恰好の教材であった。

 5 大 島 有 隣

 伊予心学に最も強い影響を与えた有隣は、宝暦五年(一七五五)一二月四日武蔵国北葛飾郡大島村(埼玉県)の名主の家に生まれた。名は義展、通称は幸右衛門。天明三年(一七八三)同村の関口保宣と共に中沢道二の門に入り修行、開悟して『心学心得草』、『信徳録』、『心学和合歌』『心学初入手引草』等を著し、「信」を中心とした神道思想に基づく独自の心学思想体系を樹立した。
 梅岩の「元来形ある者は形を直に心とも可知(中略)形を践むとは、五倫の道を明らかに行ふを云」(『都鄙問答』巻之三)を一歩進めて、「此身を利せんとする心は形より生ずる心にして、是を人心といふ」(『心学初入手引草』)として「道心」と区別し、「人心」を克服す所に道徳があり、「格物致知」こそ心学修行と一致すると説いた。物と心を峻別し、物心一如の域に直入するには「信」以外になく、「夫れ信は天命性之徳、譬えば扇の要の如し。天に在りては四時運行し、地に在りては万物生育し、人に在りては仁義礼智、此信をもって要となす。凡て
天地の有情非常、造化の妙用、信の一字に非ざるはなし、」(『信徳録』)といい、信に直入するには神道以外になしとし、「神は信なり。身は社なり」と述べ、心学の根底は神道によって確立するとした。「神道最上の教は、心上の塵を祓い、内外清浄の注連を張り、霊明の鏡を立て、清浄の心眼を開く」(『信徳録』)とも述べている。この思想は、必然的に日本国体の特殊性を強調する。
 「神の御国に生まれし人は、心素直になければならぬ。広い天地の四海の中に、わけて貴きこの日の本に、国の御徳か、むかしも聞かぬ、さても貴き教が開け……」(『心学和合歌』)と詠うに至る。「信」によって直入体得した「本心」は万物に充溢し、万物を生育し、人倫を確立する本源であるから、常に自らを新たにし、永遠に生々発展するものであり、天命を受けてその道を尽し勤める不滅のものであるとして「末世主義」を否定する。
 これは現実には「作新民」主義となり、現実の社会の立場からする教化運動となる。心学が個人の道徳性錬磨の域から社会教化、倫理過運動に発展してゆく。
 有隣は、講舎の創設にも力を注いだ。天明五年(一七八五)には郷里に恭倹社を興し、翌六年には、師の道二を招いて七日間の「続道話」を行い、千余人の聴衆を集めた。道二没後は、植松自謙(一七五〇~一八一〇)と輪番で参前舎主を努め、文化八年(一八一一)には盍簪舎を再興して全国心学者の最終修行道場とした。ここを根拠として全国を遊説し、老中水野忠邦に社会教化のため心学振興策を献ずるなど心学界の中核となった。
 天保七年(一八三六)一〇月二二日、八二歳で没するまでに関東心学は、京都心学を凌駕するに至る。
 有隣の門弟は全国に及び、それぞれの地で講舎を持ち心学興隆に寄与した。文政一〇年(一八二七)には、松山藩から近藤平格が入門し、やがて斯界の重鎮となって活躍するに至る。文政一一年には、松山藩一一代藩主、松平定通も有隣を藩邸に招いて心学を講ぜしめ、自身も心学修行に励むのである。
 文化・文政期の心学の驚異的な発展は、有隣に負うところが大きい。有隣は、必ずしも京都明倫舎の上河洪水の靡下に甘んぜず、その活動は淇水の羈絆を脱出して独走的とすら見られ、そのため三舎印鑑受領は遅れて文政二年(一八一九)九月、有隣六四歳になっていた。しかし、意に介することなく、独自の心学体系と活動方針で全国に信従者を得た。有隣は、これを悦び、次の歌をのこしている。

      道の徳 ことばの花に自ら 人集まりて有隣をぞなす

 6 矢 口 来 応

 伊予心学と最も関係が深く、相提携して瀬戸内心学圏を構成した広島心学の祖、矢口来応は、天明二年(一七八二)二月一日広島藩士増原家に生まれた。一六歳矢口家を嗣ぐ。享和元年(一八〇一)藩勘定方となる。本名は直方、通称は八郎平。有隣に師事して断書を受け、文政元年(一八一八)三舎印鑑を受く。翌二年二月、舎号印可され、広島に敬信舎創設。このころ田中一如と親交を結ぶ。京都明倫舎淇水系の奥田頼杖(~一八四九)の主宰する歓心舎と提携して広島心学の修行、教化の規定をつくる。文政八年京都留守居に転じ、明倫舎に入舎朱子学を基礎として老荘を加味した知行合一の思想体系を樹立し、多くの門弟を育てた。妻仲子(一七九〇~一八四六)もまた心学に造詣深く、ともに平格と親交し、平格広島巡講の際には「不眠不休の切磋」を続けた。
 広島心学者は、関東、関西派を問わず、来応の人格を慕い、来応を始祖とし、小異を越えて団結、切磋したので強力な発展をとげた。江戸参前舎五世を嗣いだ中村徳永(一八〇〇~一八五六)らの優れた門弟を出し、江戸京都と措抗するほどであった。来応には、中村徳水の聞き書き、大阪静安舎都講秋田周輔序文の『矢口先生心学初入話聞書』の著書がある。安政五年(一八五八)六月二七日病没した。