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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第四節 南予各藩の心学

 大洲・新谷藩は、初め中江藤樹(一六〇八~一六四八)の陽明学を宗とし、川田雄琴(一六八四~一七六〇)によって大いに学問が興隆した。寛政異学の禁後、山田東海(一七八八~一八四八)藩校明倫堂教授となり、朱子学が大いに興った。新谷藩においても、六代藩主加藤泰賢の治世下求道軒をおこして文教の振興を図った。
 大洲一〇代藩主加藤泰済(一七八五~一八二六)は篤学の藩主で、その上、心学最高の庇護者松平定信の親戚であり、その薫陶を受けていた。定信は、しばしば中沢道二及び武蔵一貫舎講師、共倹舎都講関口保宣(一七五五~一八三〇)を招聘して自らも心学修行に励み、社会教化を進めていた。泰済もこれにならい、文化年間初期、関口保宣に心学を学んだが領民への文教政策にとり入れるまでには至らなかった。新谷藩も同様であった。
 宇和島、吉田藩においても藩の援助による心学の普及はみられなかったようである。
 南予各藩は、政策として積極的に心学を推進した跡はみられぬようであるが、既に述べたように再度に亘る近藤平格の巡講により、庶民の間に相当に浸透普及していたことは、多数の心学関係図書が民間に残っていることで証明されよう。