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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第二節 松山藩の洋学

 1 青地林宗

 安永四年(一七七五)松山藩医、徂徠学派儒者青地快庵(一七六一~一八〇〇)の長男として生まれた。本名は盈、字は子遠、号は芳滸。家業の漢方を修め、蘭医学を志して江戸に上り、杉田玄白、宇田川玄真(一七六九~一八三四)に師事。寛政一二年(一八〇〇)家業をつぎ藩医となる。文化二年(一八〇五)藩監察に推挙されたが、固辞して長崎に出て蘭語を学び、ついで再度江戸に上り幕府天文方訳官馬場佐十郎(一七八七~一八二二)につき天文学を学んだ。佐十郎没後、文政五年(一八二二)幕府天文方訳官となる。このころ蘭学大いに進み、同志会をおこして蘭語訳の当否を討論。天保三年(一八三二)水戸徳川斉昭に招かれ藩医兼西学都講となり「町医者青地林宗者天文台御用も相勤、蘭学者にても日本一の由(中略)学者は捨蔵(佐藤一斎)に限不中、蘭学者は、右青地に限り申候」(斉昭書状)と称された。天保四年(一八三三)二月二二日、江戸本所の居に没した。浅草曹源寺に埋葬したが、昭和三年四月二〇日 松山市山越来迎寺に改葬した。林宗は人となり「沈静渕黙 藹然有長者之風 恒甘於清苦 儋石廔空晏如也 但坐一室 左右洋書 晨夕訳述 以為楽焉」(『事実文編』大槻盤渓撰頌徳文)とあるように蘭学研究を最上の楽しみとし、蘭書の訳述を使命として精励、倦むことがなかった。
 主な著書・訳書を掲げよう。

気海観瀾

 文政八年(一八二五)稿成り、同一〇年刊行。「渉猟遠西理科書」さきに『格物綜凡』を訳述していたが、その中の要所を摘録、四〇章として刊行した(凡例)。「自然」を「気」の充溢した生々活力漲る「気海」として把握する我が国最初の体系的物理学書として名声を博した。
  
 気海観瀾補数

 著作刊行年は不明であるが、『気海観瀾』書中に用いられた各種数値の計算法・解説・数値表を
林宗が詳述し、越後小千谷出身で当代第一の和算家と称された佐藤解記(一八一四~一八五九)が補説、詳解して刊行した。

 気海観瀾広義

 青地林宗三女秀子が嫁し、後に洋書取調所教授に任ぜられた川本幸民(一八〇九~一八七一)が「気海観瀾者於理科為嚆矢焉 然其書簡而約 文略而邃 読者或苦其不易解也」(序文)として嘉永三年(一八五〇)九月稿、翌年四月「初学ヲシテ早ク此理ニ通暁セシメム」ため和文で補説した。
 
 輿地誌

 六五巻、文政五年(一八二二)訳述。我が国最初の精密な万国地理書として、幕末外交多端を極める時、西欧事情を知り得る好個の参考書として重要視された。

 輿地誌略

 七巻。題簽は「輿地誌略」内題「輿地誌略巻」。(一)(二)(四)巻は青地盈林宗訳述、(三)(五)(六)(七)巻は青地盈林宗訳選とある(国立国会図書館蔵本)。『輿地誌』六五巻を縮約叙述した。各国の事情・情勢を「名謂」・「方置」・「広袤」・「海浜」・「人物」・「言語」・「法教」・「区分」等の項目に整理して簡潔に述べている。

 遭厄日本紀事

 五冊一六巻。文政八年(一八二五)一〇月刊行。俄羅斯国(ロシア)の人瓦西利=兀老尹が命を受げて文化八年(一八一一)四月葛模沙都加方面に来り、国後島に上陸、六月一八日 日本警備兵に捕えられて箱(函)館の牢に入り、取り調べを受け、文化一〇年(一八一三)九月二六日、許されて帰国するに至る経緯を一二巻までに述べ、以下四巻を付録として再度日本訪問の事、高田屋嘉兵衛抑留・保釈の件、上書写筆詳細に述べたもののドイツ語訳からオランダ語訳したものを馬場佐十郎が翻訳中死亡したため三巻以降を幕府測量所天文方高橋景保(一七八五~一八二九)の序文・校閲を得て和訳刊行した。

 奉使日本紀行                                         
 一八編。天保一一年(一八四〇)刊行。享和二年(一八〇二)八月七日 俄羅斯国の即俄羅斯列散廼夫が日露通商・北洋海域調査の命を受け、国王親書及び仙台の漂民を伴い、軍艦「ナデスタ」・「ネワ」を率いて大西洋・太平洋を渡り、葛模沙都加に寄り、文化元年(一八〇四) 一〇月八日 長崎に来り、幕府目付遠山金四郎景元(~一八五五)の説諭により帰国するまでの経緯、航海中の諸記録等を九二八頁(国立国会図書館蔵本)に亘り述べた蘭語訳本を高橋景保の「小引」を得て和訳した大冊である。

 地学示蒙

 文政三年(一八二〇)刊行。題簽は渡邊崋山(一七九三~一八四一)筆。「問、地学トハ何ゾ。答、地学ハ我人ノ住スル地球ノ全体、水土産物ヲ知ルノ学ヲ云」等三五〇項目についての問答と項目の内にも若干の小問答を挿入して地学の意味・西欧諸国の事情等をわかりやすく和文で叙述した。

 加模西葛杜加国風説考

 別名『赤蝦夷風説考』。附録として「魯西亜文字の事」・「魯西亜国ヨリ呈スル書翰写」・「別垨阿利安設戦記」(通詞吉雄宜と共訳。ナポレオン戦争始末記)「或問海防漫記」を付す。「松前の人の物語と和蘭の書物に記する所と能合たる事をもあるが珍しき物語とおもひ、且其及聞たる所」(序文)を加えて一冊とした。(仙台藩医工藤平助著『赤蝦夷風説考』は別本)
 医学関係翻訳書では『詞倫産科書』、『和蘭産科全書』、『依百乙薬性論』(六冊二一巻)があり、また、高野長英の信任篤く、その著『居家備用』(一四冊)を校訂し、天保三年(一八三二)刊行した。
 林宗には、二男三女があり、男二人は共に早世、長女粂は荻藩侍医三百石で、伊東玄朴・戸塚静海と並び当代三大蘭医と称された坪井信通(一七九五~一八四八)に、二女道子は伊東玄晁に、三女秀子は川本幸民に嫁した。

 2 安東其馨

 生没未詳。信濃の人で旧姓有阪。安東姓を嗣ぎ松山藩医となる。号は東渓、子蘭。早くより杉田玄白の門に入り、『解体約図』の出版を助けた。寛政七年(一七九五)三月『和蘭医事問答』刊行に当たっても杉田伯元(建部清庵四男、玄白養子。一七六三~一八三三)を助け、衣関伯龍(?~一八〇七)、大槻玄沢(一七五七~一八二七)と共に編さんにたずさわった。大槻玄沢の序文に「因与同社阪其馨等 輯録其往復書札 以為二巻 間者与田士業 再更校訂 名曰和蘭医事問答 不敢秘于帳中授諸剞劂 以公于世」とあり其馨の協力を述べている。

 3 藤野海南

 文政九年(一八二六)五月九日、松山藩士の家に生まれた。幼名は立馬。本名は正啓。字は伯廸。別号を致遠斎と称した。八歳、明教館に入り、一三歳、業終わるも剣法・射技・砲術・槍術・馬術・拳法等意の如く上達せず、一六歳、再度明教館に入り、以後、「尽廃武技」専心読書に耽った(『海南手記』)。嘉永元年(一八四八)昌平黌に入り、古賀穀堂長子で儒学・洋学に磧学の誉れ高い古賀謹一郎(一八一六~一八八四)に師事、漢学・洋学ともに学業大いに進む。嘉永六年(一八五三)明教館寮長、安政六年(一八五九)昌平黌に招かれ、「詩文掛」、「舎長」を務めた。
 文久元年(一八六一)昌平黌舎長辞任。勝海舟に入門、航海術・測量・暦学を修め、「辞未了而義已通 不復須人指授」(『海南手記』)までに学術進み、航海術の翻訳書を直ちに出すことができた。
  
 航海要法節訳

 文久元年一一月一三日 序文、刊行。二七六頁。オランダ人蘓華児都著『航海術書』(安政三年刊)を「繁ヲ省キ、簡ニ就キ、意ヲ補ヒ、説ヲ添へ(中略)原書ノ意ヲ猟取シ、之ヲ述ブルニ我邦ノ語法ヲ以テス」(凡例)と意訳したことを述べ、これを「節訳」と定義づけている。三編と付録より成り第一編地理略説等九項目、第二編天球説等一〇項目、第三編時分説等八項目、付録は航海必須数表一二を付した。
 海南は、維新後、松山藩権大参事、東京府権知事、修史局御用係等を歴任、明治二一年三月一八日没した。
   
 4 久米駿公

 文政一一年(一八二八)松山藩士籾山資敬の四男として生まれ、久米政寛の養子嗣となる。幼名は孝三郎、後三郎右衛門と改称、諱は政聲。嘉永四年(一八五一)世子公勝成小姓、翌五年侍読。安政四年(一八五七)藩命により、長崎に蘭学修行に出たが、病のため翌五年六月二六日 学業半ばにして没した。三一歳であった。親友藤野海南は「有久米孝三郎 自少善詩 少予二歳 文雖非其所長 有作則可観 課題之文 有時駕予上者 亦畏友也 後為世子小姓 三一歳没有与予論隣交往復書五通 自今見之駿公為先見」(『海南手記』)と追惜した。
 墓表は、昌平黌教授兼蕃書和解御用出仕安積艮斎(一七九一~一八六〇)撰文、書は、藤野海南である。

 5 その他

 松山藩は、蘭学を通じて医学・兵学・航海術・天文学も積極的に採り入れた。藤野海南が学んだ医生河野亮造(通猷)はオランダ文典に造詣が深く、学んだ海南が「解綴字趣 不復労授受」(『海南手記』)であった。
 安政五年(一八五八)五月朔日、松山藩は法龍寺東手裏地に西洋流砲隊調練場を設け、翌六年一〇月朔日には松平左吉が師範として迎えられ、慶応二年(一八六六)には蘭学者高松清衛が迎えられ航海術を指導、関流和算家として著名な山崎喜右衛門(昌龍)がその門に入って洋算を学んだ(『松山叢談』第十四上)。
 蘭学研究の全国の中心緒方洪庵(一八一〇~一八六三)の適塾へは大内貞介(弘化三年入門)・河野・(上が「さんずい」に「刃」、下が「木」)蔵(安政四年入門)・楳木俊蔵(万延元年入門)らが入塾研鑽に励んでいる(『適々斎塾姓名録』)。
 日本外科の父といわれる華岡青洲(一七六〇~一八三五)の紀州平山にある春林軒家塾へは烏谷良民(文化一二年入門)・明星尚圭(同)・天岸椒玄(文化一三年入門)・明星熊磧(同)・柴崎玄順(文化一五年入門)・須賀暁平(文政七年入門)・天岸慶仲(文政一三年入門)・西崎昇栢(同)・望月秉介(同)が入塾した。(『華岡青洲先生門人姓名録』)青洲末弟華岡良平(鹿城、中洲。一七七九~一八二七)が大阪に開設した合水堂家塾への入門者があったものと思われるが詳細不明である。大洲の鎌田玄台(正澄)に師事した人も多い。
 松山藩の蘭学研究は、医学研究・西洋事情研究・兵備の洋式化等を進めるためであったが、藤野海南のように貿易推進をはかろうとする者も出ている。
(参照 「海南手記」)

『海南手記』

『海南手記』