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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

第四節 大洲・新谷藩の洋学

 1 鎌田家と蘭医学

 大洲藩は、早くより蘭学を奨励し、蘭学者を優遇したから伊予諸藩中、最も早く優れた蘭医・蘭学者を輩出した。医学では、加須波留流の外科医鎌田家が著名である。カスパルは、オランダ商館医で、杉田玄白の『蘭学医事問答』によると「正保年間参候カスパルと申医者、上手之由、彼国之書にも同人噂有之」とあるが、実際には慶安二年(一六四九)オランダ難破船ブレスケン号救助報謝特使甲必丹アンドリウス=フリンウスに随行して江戸に上り、同四年まで滞在して外科医術を通詞猪股伝兵衛・山口三郎左衛門らに授けた人である。その門流から河口良庵(一六七〇~一七四六)らが出ている。
 鎌田家は、もと九州浪士鎌田次郎右衛門を祖とし、嗣子政信が喜多郡八多喜村(現大洲市)より出て河口良庵に学び、藩医を務めたに始まるといわれている。爾来、代々カスパル流外科医として名声を博し、また、山城伏見に無荒庵を開いてカスパル流外科医を開業、華岡青洲の師となった伊良子道牛(一六七一~一七二八)、『外科訓蒙図彙』を著して天下に名を知られた道牛の孫、禁裡御医師・河内守伊良子光顕(一七三七~一七九九)に師事、親交を結ぶ者もあり、鎌田家は西日本第一の外科医の名声を得、入門者が相次いだ。

 鎌田明澄

 (一七五七~一八一九)新谷藩士後藤某の二男で鎌田清澄(~一七八二)長女民の婿養子となる。玄閑・玄台・子楽・南溟と号した。若くして讃岐の尾池左膳につき、後、江戸に出て杉田玄白の門に入る。大洲藩一〇代藩主泰済に召され藩医を務め、寛政元年(一七八九)四月幕府巡見使領内巡視の際、徒歩小姓身分で随行、三人扶持八石支給された。文政二年三月一九日没。明澄はまた和歌をよくした。

 鎌田正澄

 (一七九四~一八五四)明澄長男。幼名は清之助、字は子等。玄閑・玄台・桂洲と号した。二〇歳、華岡青洲の門に入り、研鑽五年、カスパル流外科の蘊奥を極めた。また、杉田玄白とも親交を結び外科医術の修行を積み、中小姓格四人扶持一五石を給され藩医を務めた。弘化二年(一八四五)冬、刑死人の腑分を行い、藩絵師若宮養徳の門人服部古兵衛正忠の写生図を付し、翌三年三月『外科起廃図譜』を刊行した。解剖の助手は、鎌田新澄・松沢載清・樋口量春・糸川維寧・松岡公正・岩井重長が務めた。序文題字は、春林軒同門で、後に『外科起廃』の序文を書いた岩井重克である。嘉永二年(一八四九)『外科起廃』の稿成り、図譜と併せ同四年上梓刊行した。一〇巻絵入り。大洲桂洲鎌田先生口授とし、筆記は吉田の松岡肇、校訂は、養子嗣新澄が中心となり、川越の中島国光、吉田の垣生正徳、宇土の家人矩武、荻の飯田直温、豊後岡藩の羽原正翰らの門人が協力した。正澄の手術は精巧を極め、特に骨肉瘤、乳癌、ヘルニアの手術を最も得意とし、成功した幾多の実例が具体的詳細に述べられている。正澄には、別に刀槍傷治療法を述べた『金創要訣』の著がある。鎌田玄台(正澄)の名声はいよいよあがり、門下生は県内はもちろん、西日本全域に及んだ。嘉永七年閏七月一六日没した。頌徳碑文は、熊本藩儒、毛利空桑(倹。帆足萬里門)の撰である。

 鎌田新澄

 (一八二五~一八九七)文政八年大洲藩士高橋孫三郎寛容の家に生まれ、鎌田正澄の養子嗣となる。新徴・玄閑といい、後に玄岱・玄台と改称。国洲・鵬洲と号した。華岡青洲没後の春林軒家塾に入り外科医術修行、また豊後日田藩家老帆足萬里(鵬郷。一七七八~一八五二)に医学・漢学を学んだ。また、中国漢詩人兪えつ著『東瀛詩選』に「東国詩壇の冠」と激賞された広瀬旭荘(淡窓弟。一八〇七~一八六三)に漢詩文を、さらに伊予聖人近藤篤山(一七六六~一八四六)に朱子学を学んだ。父正澄のあとをついで中小姓格藩医を務めた。明治三〇年(一八九七)二月三日没した。

 2 越 智   崧

 文化五年(一八〇八)大洲領伊予郡郡中灘町、宮内吉通の長子として生まれた。字は高崧、通称は仙心(僊心)号は桂荘・静慎・仏手仙心・一邨といった。一四歳京都に上り漢学修行、一八歳江戸に出て伊東宗益方に寄宿、蕃書取調所教授箕作阮甫(一七九九~一八六二)に師事して蘭学修行、さらに阮甫養子嗣、適塾出身の箕作秋坪、蘭医師ニーマン直門の林洞海、伊東方成らと研鑽を積む。天保一三年(一八四二)長崎に出て蘭法眼科研修、この間の事情等を『眼科新説』の序文で「既自西而東 瑣尾流離困頓顛躓 而嚮学之志 毫不撓屈(中略)初下手方技 欲兼綜内外凌轢古今而至其上乗(中略)既而収拾欝勃精悍之気 而一決区々眼科」と述べている。元治元年(一八六四)蘭医ボードウィンの建白により長崎に分析究理所が設置されると直ちに出向してボードウィンの指導を受けた。一時郷里郡中に帰っていたが、晩年再び京都に上り、女婿宗直哉方で眼科開業、治療にあたった。明治一三年(一八八〇)一〇月没。著書に『眼科新説』(別名、『銀海金針』。「科字誤作料」の内題注がある)・『眼医秘笈』がある。(『内装書』は目録のみ)

 3 武 田 成 章

 文政一〇年(一八二七)九月一五日大洲藩士武田勘右衛門敬忠の二男として生まれた。通称は斐三郎、諱は斐、裁之・竹塘と号した。幼時、兄敬孝(一八二〇~一八八六)と共に古学堂に入り、常磐井厳戈(一八一九~一八六三)に学び、国学者で蘭学に造詣深い厳戈から多大の感化を受けた。天保一二年(一八四一)兄と共に藩校明倫堂に入り、昌平黌派朱子学の大儒山田東海(一七八八~一八四八)の薫陶を受けた。
 弘化五年(一八四八)二月一〇日、大阪に出て緒方洪庵(一八一〇~一八六三)の適塾に入る。時の塾頭は二九歳の久坂玄機(玄瑞兄。一八二〇~一八五四)で、同年の入塾者一九名、二七歳の佐野常民、渡辺卯三郎らがいた。大洲藩出身適塾入門者は既に郡中の倉橋考序、長浜の岡部去章がいた。
 嘉永三年(一八五〇)伊東玄朴・箕作阮甫・佐久間象山らに師事し、蘭学・英仏語・西洋兵学を学んだ。同六年七月一八日、露国のプチャーチンが四隻の艦隊を率いて長崎に来り、自由貿易と国境設定要求の国書を長崎奉行に提出した時、師の阮甫と通訳を担当した。安政元年(一八五四)佐久間象山の推挙により幕府出仕、箱(函)館詰、同三年、弁天岬砲台工事着手、文久元年(一八六一)完成。箱館奉行所支配諸術調所教授となる。安政四年、五稜郭築城着手、元治元年(一八六四)完成。工事途中、北方事情熟知の必要性を痛感して文久元年四月二八日、亀田丸に乗船し、九月二日まで間宮海峡を北上、黒龍江ニコライエフスクまで溯行視察して紀行報告書『黒龍江誌』を刊行した。後、江戸開成所教授、大砲鋳造所頭取となり、フランス砲兵大尉ブリューネの指導を受け、ナポレオン砲の国産化に成功した。明治元年(一八六八)松代藩士官学校教授、同四年兵部省出仕、同七年任陸軍大佐、兵学大教授、同八年幼年学校校長、小銃・大砲試験委員、火薬試験委員等歴任、明治一三年(一八八〇)一月二八日没。同一四年東京芝公園に頌徳碑が建立された。撰文は軍医監石川桜所、題額は有栖川宮熾仁親王、書は日下部東作である。また、昭和三九年画館市に武田斐三郎先生顕彰碑が建てられた。和蘭般携爾扮の著書を訳した『用砲軌範』は当時砲兵術の規範となった。

 4 山 本 節 庵

 文政四年(一八三)大洲藩医山本木庵の子として生まれた。幼名は鉾太郎、本名は正美、字は致美、号を有中といった。漢学を大阪梅花社篠崎小竹(一七八一~一八五一)に学び、伊東玄朴に蘭医学を学んだ。また長崎に出てシーボルトに師事、帰藩して藩医を務めた。村田蔵六(一八二四~一八六九)とも親交があった。安政五年(一八五八)ベルリン大学教授フーフェランド(一七六四~一八三六)著、蘭医ハーヘマン蘭訳本を和訳し、仙台藩医・幕府西洋医学所教授大槻肇(俊斎。一八〇六~一八六三)の校閲を得て『扶氏診断』(三巻)を翻訳出版した。また藩内に養蚕・製茶業をおこし地域産業に貢献した。明治二〇年七月一五日没した。

 5 三 瀬 諸 淵

 天保一〇年(一八三九)一〇月一日、大洲中町の塩問屋麓屋半兵衛の子として生まれた。幼名は弁次郎、後に周三。字は諸・(淵から「さんずい」を除けた字)(墓碑。・(淵から「さんずい」を除けた字)は淵の古字)といった。祖父有儀(一七六二~一八一一)、父宗円(一八〇〇~一八四九)共に国学をよくし歌人であった。母倉子は二宮敬作の姉であった。(大禅寺頌徳碑文)諸淵は五歳にして百人一首を諳んずるほどで、九歳、地域の漢学者玉田三治より四書の素読を受け、一四歳、古学堂に入った。
  
 嘉永五年壬子五月初メテ常磐井厳戈先生ニ遇シ、親シク我古道ノ講義ヲ聞キ、旁ラ和歌ノ添削ヲ乞フ。予従来、心性不敏ナルモ、此師ヲ得テ志立テリ(『諸淵手記』)

 学友に武田斐三郎・三輪田元綱(一八二八~一八七九)・巣内式部(一八一八~一八七二)・山本尚徳(一八二六~一八七一)・矢野玄道(一八二三~一八八七)らがいた。一七歳、二宮敬作に師事、一八歳、敬作に従って長崎に至り、川島再助にオランダ文典を学び、開業した敬作の助手を務めた。
 安政五年(一八五八)古学堂の屋根から肱川河畔川水亭までの電信実験に成功、同六年長崎に赴き再度来日したシーボルト(一七九六~一八六六)に師事し蘭医学を学んだ。
 シーボルトはドイツのビェルツブルクに生まれた。家系はドイツ医学界の名門であった。文政五年(一八二二)オランダ領東印度陸軍病院の外科軍医少佐に任命され、翌六年七月六日長崎出島に上陸した。翌七年長崎郊外に鳴瀧塾を開設して診療所兼蘭学塾とし、二宮敬作・高野長英ら数十名の門人に西洋医学、一般科学を教授した。同九年一月九日商館長デ=スチュルレルの江戸参府に随行し、解剖・手術を実施して多くの日本人医師に蘭医学を教えた。滞日五か年、日本に関する多くの資料も収集し、文政一一年(一八二八)九月任期を終えて帰国する際、九州を襲った台風がシーボルト所蔵品を積み込んだコルネリウス=ハウトマン号を難破させ、流出した荷物の中から国禁の伊能忠敬測量日本・蝦夷地図が発見され、家宅捜索の結果、幕府侍医土生玄磧寄贈の葵の紋服が見つかり、およそ一年間出島に拘禁され、同一二年一〇月二二日「日本御構」(追放)を申し渡され一二月五日出島を出航した。これが、いわゆる「シーボルト事件」である。
 シーボルトは、来日二か月後の文政六年九月、楠本タキ(其扇)と結婚し、娘伊禰(伊篤・稲)を生んだ。帰国の際、タキと伊禰を日本に残したが、タキは回船問屋俵屋時次郎と再婚し、伊禰は二宮敬作に引きとられ、産科を学び、後に岡山の石井宗謙に嫁して娘高子を生んだ。後の三瀬諸淵夫人である。安政五年(一八五八)追放令が解かれ、シーボルトは長男アレキサンデル(一八四六~一九一一)を伴い翌六年再度来日したのである。
 文久元年(一八六一)三月、シーボルトは幕府外交顧問となり、諸渕を通訳官としたが、同年一〇月「江戸通訳官ノ讒ニヨリ」(『諸淵手記』)幽囚の身となった。元治元年(一八六四)八月許されて宇和島藩英蘭学稽古所教授、イギリス公使パークス通訳等を務めた。明治以後、大阪医学校教授、大阪病院一等医官等歴任した。著書、訳書は多い。蘭学と共に英米語研究の必要性に着目し、英文典の翻訳に着手したことなども炯眼といえよう。
 明治一〇年(一八七七)一〇月一九日没した。墓碑・頌徳碑は大洲市大禅寺にある。