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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 中世神社祭祀の展開

 県下の各神社が伝える祭祀習俗のなかには、現代的な改変が加えられながらもなお古態を伝えるものがある。とくに、大山祇神社の年中祭事や東予地方の頭屋制習俗、南予地方のオハケの習俗、そして荘郷を単位とした郷祭りの発達などは、以後、近世社会を隔てて近年に至るまで大きな流れとして貫かれてきたのであった。

大山紙神社年中祭事

 当社の祭事についてはまだほとんど研究されていないが、古くは貞治三年(一三六四)の古文書に「記録 伊予国第一宮三島社大祝職并八節供祭礼等事」と題して、重要な年間八度の祭りが記されている。「正月御神事、三月三日祭礼、四月祭礼、五月五日中御桟敷殿御幸、七月七日風鎮祭御神事、八月二三日放生会・台浜御桟敷殿御幸、九月九日中御桟敷殿御幸、十一月祭礼」という八節供祭礼である。
 このうち、中世末期の戦乱によって廃され、以後も復活することのなかった三月および七月の祭礼神事のほかは、今日まで多分に古来の祭祀形態を伝承している。そして、そこにおける司祭者である大祝は、諏訪大社と大山祇神社のみにみられる一子相伝の職掌であるとし、「半大明神・擬神体」と記される神と人との中間的存在の中執持であったのである。そのため大祝は、食事のときに土器を用い、しかも同じものを二度使わなかったと『予章記』などは記している。
 ちなみに、この大祝の代替わり神事に当たっては、七日前より別火禁足とされ、臨時の御戸開祭が執り行われて神前より御印の太刀を頂戴することになっていた。この太刀は貰い切りとはならず、子の代に返納する例であったが、これは同社の神体の一つとされる鈎を伴なった特異な形態の鉄製神鉾の存在と関係するものと考えられる。鉾は、大山祇神社にとって特別の由緒因縁を持つもので、越智氏の祖神として邸内に御鉾大明神が祀られてきたのである。
 さて、大山祇神社の祭事のなかで、いまひとつ注目されなければならないのが、四月と一一月の御戸開祭における摂社の上津社・下津社での巫女の役割である。夏と冬の神衣の取り替えをなすもので、現在では絹と麻の反物を交互に献じる風である。貞治三年の文書には詳細を記していないが、近世の宝永四年(一七〇四)の記録に、古例法式として「上津宮下津宮は姫神ゆえ内陣の神役男子相勤ず、遷宮の節は大祝家妻ならびに女子を以て遷座なし奉り候、平常の御戸開神事には一内子女内陣に進み、神衣幣帛を献じ候」とある。巫女には、一内子から三内子までの三軒の家筋があり、これが当社の祭祀において重要な役割を演じ、また遷座祭には大祝の妻や娘が奉仕する慣例があったのである。なお、巫女については家筋というよりも血縁が重視され、母親から娘へと委譲されたのであった。これらは、中世以来の神社祭祀が一般的に女性を忌避するという仏教に影響された汚穢思想の昻まりのなかで、古い祭りの形態を伝える貴重な祭祀であるとみられる。

頭屋祭祀

 地域の神社祭祀を輪番制で主宰する祭祀形態である頭屋制度は、村落における専任神職制の普及に先行する中世的な存在として捉えられる要素を持っている。県下の頭屋制度は、一般に地縁的集団としての氏子、または同族団がその奉斎する神社の祭事を当番制で実施するための祭祀組織であるが、この組織を頭組とか御頭連中などと呼び、うちの一軒を頭屋・頭元として祭りの中心的な役割を委任するわけである。
 頭屋制の残存する地域は、芸予諸島や今治市周辺、周桑郡地方が主な分布地であるが、各地域とも古い祭りの姿をよく伝えてきた。なかでも、旧周布郡のものが、最も古風を留めてきたようである。とくにこの地方では、頭屋祭祀の規約や行事内容を早くより成文化して伝えてきたが、この文書を祭祀頭文とか御頭文といってその遵守を重視してきた。
 県下の祭祀頭文のなかで最古のものは、東予市北条の鶴岡八幡神社で行われていた「予州道前周敷郡北条郷八幡宮八月二八日御頭文事」と題された、大永六年(一五二六)の文書であった(資料五五〇~一頁参照)。全文で一四条にわたって祭祀用具や供え物、個々の祭祀の方式について記している。しかしながら原本は伝存せず、『小松邑志』に収められた写本のみである。これに次ぐのが、温泉郡中島町二神島の「御明見大菩薩・厳島明神御頭文」で、永禄一二年(一五六九)九月のものである。やはり、祭祀用品や神饌を簡単に記したのみのもので、祭祀の具体的内容やその組織は不明である。さて、これらを多少とも具体的に示すのは、周桑郡小松町の高鴨神社にみられた頭屋祭祀で、天正五年(一五七七)の「高賀茂大明神祭祀頭之事」を伝存している。同社の祭祀頭文によると、中世末期の高鴨神社の祭祀範囲は周布郡六郷一円とされ、これを六頭に編成して各郷村ごとに輪番制で祭祀を執行させたものと解される。
 なお、高鴨神社や鶴岡八幡神社など旧周布郡における頭屋祭祀の特徴の一つは、頭屋への精進屋(お仮屋)の設置である。長い祭りの期間中、ここに神霊を迎えて頭人が祭祀する施設で、頭屋居宅の棟に立てられる榊・居宅前の注連とともに、神霊の降臨と奉斎のための象徴的な祭りの標示物となっていた。

郷祭りの発達

 中世的な祭祀秩序の一つに、荘郷を単位とした広域な祭祀範囲の中で祭りが営まれてきたことがあげられる。この郷祭りが顕著な発達をとげたのも、やはり周桑郡地方であった。周布郡六郷、桑村郡四郷の当地方一○か郷においては、近世に入って村切りが行われ、各村々に専任神職が置かれたのちも、各郷の本社の下に村々の末社が存在すると同時に、本社の神職は末社の神職を統轄するなどの方法で、中世的な郷祭りの秩序を長く維持してきたのである。このあたりの様子は、近世中期の神社明細帳の構成などからも窺うことができる。表9は、近世の明細帳にみる郷単位の神社祭祀の構成状況である。
 ちなみに、周布・桑村郡における郷の祭祀秩序を持続させるのに大きな役割を果たしたと考えられるものに、この地方の神職たちが組織した「神祇講」の存在があった。神祇道の講習を目的として結成したもので、両郡一〇郷二四人の神職が、延宝八年(一六八〇)六月一一日に署名捺印した七か条の定則が『小松邑志』に収載されている。これによると、毎月一一日の卯の刻に集合して祓いをあげ、天下泰平国土安穏を祈ることなどを掲げているが、近世中期ころには歌会として開かれたこともある。ともかくも、そこでは、近世の村切りや藩の領域に規制されない、中世郷村制下の祭祀秩序が継承されたわけであった。また逆に、この地方の祭祀形態や構造を分析することによって、伊予国の中世村落のあり方を少なからず復元することも可能なわけである。
 その他、南予地方においても、宇和郡三間郷の三島神社(三間町)や石野郷の岩崎八幡神社(宇和町)などをはじめとして、近年に至るまで比較的明確に郷の社としての位置づけがなされてきたのであった。

周敷郡・桑村郡における郷の社一覧

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