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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

四 伊勢信仰の展開

お伊勢参り

 長い伊勢信仰の歴史のなかで、民衆的側面が増幅し、私幣を奉ることを禁じた国家神でもあった伊勢神宮(お伊勢さん)が民衆とのかかわりによって維持されたのが近世であった。そしてこの時期、庶民信仰の局面が極度に昻揚したものが、伊勢踊りの流行に始まり、数次のお蔭参りの盛行を経て末期の「ええじゃないか」運動の展開に至る諸現象である。ことに抜参り・お蔭参りと呼ばれた伊勢への参宮は、それぞれの地域社会へ社会的にも文化的にも多様な影響を与えてきた。
 さて、伊予の中世領主として宇和島地方(板島郷・来村郷六六〇〇石)を知行した西園寺宣久も、天正四年(一五七六)に伊勢参宮をなしている。前文を欠いた彼の参宮日記によると、瀬戸内海を航行して播磨国阿伽に上陸、京都に入って本家の西園寺公広に謁見したのち鈴鹿山を越えて伊勢に出、山田西河原の足代民部丞のところへ到着する。内宮・外宮の両宮へ参拝し、足代邸では巫女一八人、大夫一三人による大神楽の調進を受ける。帰途には奈良を経て再び阿伽より乗船して出海(長浜町)にて上陸、丸串城へ帰っている。宣久が訪れた足代民部丞は外宮の権祢宜で、足代式部大夫・西川原式部大夫銘で宇和郡地方など伊予国各地へ御祓いを配っていた御師であった。
 中世後期以来、参詣者の出自地域や階層の多様さ、参詣人数などで他の社寺を圧倒した伊勢参宮であるが、これがさらに庶民の間に一般化し、広く行われるようになるのは近世以降のことである。宝永二年(一七〇五)、明和八年(一七七一)、文政一三年(一八三〇)と続くお蔭年には群居して押し寄せ、お伊勢参りを都鄙をとわず広く人々の間に意識づけた。そして、そこには社寺参詣一般がもつ要因のほかに、「中世以来の国民の総氏神観、国家宗廟観に基づく伊勢参宮の国民的義務観が江戸時代に入り、さらに一段と普及、徹底化したことがあげられる。」と新城常三らが指摘するごとく、人々をして「生に一度は伊勢参り」と、遊興を兼ねたその道中が喧伝されたのであった。中江藤樹も「大神宮ハ吾朝開聞ノ元祖ナリ、日本ニ生ルヽ者、一タビ拝セズンバアルベカラズ」(藤樹先生年譜)と参宮を決行したという。
 お蔭年であった宝永二年(一七〇五)には周布郡あたりでお蔭参りが流行したらしく、また明和八年にも、神幣が降るなどの異変を生じて抜参宮が始まったようであるが、これについて『小松邑志』は、「明和八年辛卯六月三日小雨有リ、此日モ諸方ヘ降ル、色白シテ長五、六寸、平右衛門家所持之、此年六月二十日、西迎寺屋吉郎右衛門宅ノ屋根へ御幣八本降ル、夫ヨリ抜参宮始ル」と記している。この年は、伊予においても大旱魃が続くなど、民心の動揺した年でもあった。さらに、阿波国に始まった文政一三年のお蔭参りはもっとも盛況を極め、県下にもこれを終えた人々(御蔭連中)が参宮を記念して氏神社へ奉納した絵馬の類などがまだ多く残されている。各藩でもこうした群集の参宮を看過しがたく、松山藩では町方参宮人の多いことについて、信心であるからいたしかたないことではあるが、主人や親兄弟に迷惑をかけてまで行かぬよう自粛を促している。
 では、伊勢参宮が実際にどの程度、庶民生活の中に浸透していたのであろうか。これについては、小松藩における江戸時代中期より幕末までの概要が、新城常三によってまとめられている。これによると、同藩の『会所日記』に記載された領民の参宮願いを四一年分にわたって抄出集
計したところ、領内一六か村で都合一七〇二人、年平均四一名であった。これに、当時の小松藩の戸口概数を当てはめると、全体として約七〇戸、三〇〇人に一人の割合で伊勢参宮をなしていたことが窺えるという。これは、香川県の西讃地方などと比較するとやや低い数値となっているが、小松藩における他の社寺参詣と比較したとき、遠隔地の伊勢参宮が近距離の「四国遍路一九二五人以上、宮島参詣一八四五人以上」の数値と伯仲していることは、これら同様に参宮が一般化していたことの証左ともなる。また、四国遍路が三〇%を女性が占めるのに較べ、参宮ではわずかに三%と家長中心であるのは、その共同祈願性や旅費が嵩むためであろうという。そして、参宮人の階層も武士や豪農層のみならずかなり広汎に及んだものとみられている。

伊勢講

 主に参宮を目的としつつ、伊勢信仰がもっとも一般的なかたちで民間に広く浸透したのが伊勢講であ
る。県下でも、たいていの村や町にみられたもので、正月、五月、九月の年三回の講を開き、積立金をして路銀の一部を補助し、くじ引きで代参者を立てるのが普通であった。例えば、東宇和郡宇和町岩木の遊美谷地区で寛政一〇年(一七九八)に定めた「お伊勢講規約」(『愛媛県教育史』所収)によると、以下のように規定している。

  一、遊美谷中申合せ、伊勢講相勤申候。尤年中三度づつ講会相調申候。
  一、正月、五月、九月、右講会相調可申候。
  一、正月、五月は会計之事。
  一、九月、講会之節は、講員一人前六銭(四匁)持参之事。
  一、右講銀九月講会之節、籤取に可致事。
  一、講仲間寄多人数本参宮致候節は、参り候人数ばかり籤取可致事。
  一、参宮致候者無之年は、定めの通り籤取に致し候て、取当たり候者大体本参宮可致事。
  一、内分困窮者は五反田村伊勢屋へ参り可申事。尤講中へ幣帛一づつ相送り可申候。
  一、本参宮致候者へ、講仲間一人前一匁づつ餞別可致事。
  一、伊勢屋へ参り候者へ、一人前五分づつ餞別可致事。
  一、講会賄之儀、茶漬、濃汁、香物。尤有合せの野菜に限り可申候。
  一、軽吸物、酒三献、魚三色。尤有合せの品に限り可申候。
  一、講会宿相当たり候者、講仲間一人より白米五合相集可申候。
  一、宿順番究め申候へ共、万一差支へ候時は、其の者より順番の者へ相頼み、相調可申限。
  一、講会に参り候節、魚代一人前三歩づつ持参可致候。
  右之通り、何れも打寄相究候上は、定の儀末々迄無相違相守可申候。
    寛政十年

 右の遊美谷では、講員の経済力によって伊勢へ本参宮をなす者と近くの伊勢屋(八幡浜市五反田)へ参って済ませる者のいたことが窺える。同時に、後で述べる伊勢屋のもつ機能の一つがそのあたりにあったことも興味深い。また、伊予郡松前町大間や周桑郡丹原町来見など伊勢講を維持するために部落有の田地を所有し、これをお伊勢田などと呼んで、これの年貢米を講や代参の足しとしたところも多い。松前町大間中組では、慶応元年(一八六五)に一九人連名でこれを成文化して定めているが、それによると同所の仲蔵新田徳米二俵および講員各人銭二匁と米一升の負担によって諸経費を賄おうとしている。
 さて、一般に庶民信仰としての性格が強い伊勢講のなかで、これに社会的・思想的背景を付加させたものがあった。天保一〇年(一八三九)に結ばれた大洲市久米地区の伊勢講は「御蔭講」と称し、一一項目の誓約を取り交している。すなわち、

  一、講連中は申合せ睦まじく、親類の如く万相談、悪事これ無き様致すべき事、
  一、犬神宮様、天子様並に先祖の恩を昼夜忘間敷事、
  一、又追々は御上へも冥加金として献金致すべき事、

などの旨を誓約し、これらに背いた場合には、伊勢神宮両宮や西宮大明神、日本国中の神々の神罰を蒙るであろうと記しているのであった。

御師と檀家

 伊勢信仰の民衆的側面が近世社会において活況を呈したのは、御師と檀家の結びっきによるところが大であった。御師は「御祈とう師」の略称といわれ、伊勢に限って「おんし」と訓ずる。元来は内宮・外宮の権祢宜層の神職たちが兼業として行っていたもので、彼らが五位の位階を有したことから何々大夫と呼ばれていた。中世以降その活動が盛んとなり、近世中期が最盛であったとみられ、およそ千人の御師とその手代・代官たちが全国各地を廻檀したのである。また御師にはその階級によって禁裡御師・公儀御師の特殊なもののほか、神宮家・三方家・年寄家・平師職の区別があった。その中堅となったのは、宮元の山田や宇治町の役職を兼ねた三方家と年寄家であり、社会的・経済的な力も大きかった。
 さて、御師はそれぞれに自己の縄張りともいえる固定の檀家(旦那)を有していた。一御師当たりの檀家数は、御師と檀家との相関関係の限界性から三五〇ないし四〇〇戸が必須と試算されているが、いずれにせよ一種の株として取り扱われ、確かな財産ともなることから御師相互に売買されることも稀ではなかった。檀家に対して御師は毎年、伊勢暦などの土産とともに神札(御祓い)を配り、米や金子で応分の初穂料を得たわけである。例えば、文化一〇年(一八一三)に大洲領内の檀家二一六二軒を廻った某御師の初穂は、「檀所神徳勘定之事」(『宇治山田市史』所収)によると四八両二分とあり、これより土産や諸入用の経費二九両三分を差し引くと純益は一八両三分であった。この御師の実質の利益金を「正味神徳」と称した。純益収入の多寡は、檀家に町方をもっか否かに左右されるとみられているが、この場合の収益率は三八・七%となり、かなりの高率を示している。しかし、時代が下るにつれてその割合ぱ下降したらしく、本県の場合は最後の廻檀となった明治三年(一八七〇)の記録より推定して二〇%以下であったと考えられる。伊予郡や南予方面を中心に檀家を有した橋村大蔵大夫は、県下で都合二万八七八〇戸に御祓いを配布し、二五八〇円の初穂料を得たが、その純益金は二〇〇円と報告されている。したがって収益率のみから判断すると一〇%にも達していないことになる。
 また逆に、檀家は伊勢参宮に際して特定の御師を訪れて止宿し、祈とうや饗応を受けたわけである。さきの橋村大蔵大夫の檀家である伊予郡上野村(伊豫市上野)の庄屋・玉井三右衛門は文化一二年(一八一五)三月六日より四月一五日にかけて同郡八倉村の四人とともに伊勢参宮を行っているが、このときもやはり四月一日に御師のもとへ宿を得ている。このような御師と檀家の相互関係を、明治四年二月の神宮御師制度廃止後に救済金交付などに当たって同一二年に作成された神宮御師資料によって伊予国関係分を抄出したのが表13である。すでに廃絶してしまった御師もいくつか見られ、現存する御祓銘にみられる北御門大夫(美川村)嶋御門大夫(松山市藤野町)などの御師名は存在しない。しかし、近世末期ころの大要は窺うことができよう。
 それでは、地域社会におけるこれらの御師による「御祓」の頒布率はどの程度であったのだろうか。各御師の村ごとの配札数まで記録された資料は少ないが、本県関係では宇摩郡・新居郡方面を檀家とした橋村久大夫の明治初年時の村別配札数が判明している。これを、明治九年ころに編まれた『宇摩郡地誌』に記された戸数と比較し、宇摩郡内の村ごとの頒布率を示しだのが表14である。村によっては複数の御師が入込みの形態をとっているところもあり、また各村とも戸口増加のみられた時期であることから橋村久大夫が記した配札数を正確なものとみれば、実際の比率はこれを上回るものと思われる。以上のようなことから推定して、近世から明治初年の御師による御祓頒布は、本県の場合でおよそ七~八割程度であったものと考えられるのである。これは、伊勢勧化への初穂負担戸の割合とも一致する。例えば、新居郡松神子村の文化四年(一八〇七)の勧化帳では、約二〇〇戸に対して一五四戸が勧化に応じているのである(小野家文書)。このようなことからも、伊勢信仰がいかに近世社会において普遍的な庶民信仰であったかを窺うことができるであろう。

伊勢屋

 神宮の御師が地方廻檀の拠点としたのが「伊勢屋」である。それは、単に伊勢御師の出先機関というだけでなく、神宮の分霊を奉斎して宗教的行事を執行するなど地域の人々の崇敬対象となりえていた。
すなわち、民衆の伊勢信仰を支えた一つの象徴的存在でもあったのである。県下における、このような伊勢屋の所在はまだほとんど未確認の状況であるが、数十か所は存したものと考えられる。しかし、御師制度の廃止以降廃れてしまい、現在もその建物遺構をとどめるのは、松山市来住町の伊勢屋(岸純一宅)のみであろうとみられる。
 来住町の伊勢屋は、松室与三大夫が久米郡内三〇か村やその他の檀家を背景として設けた約八〇坪の建物で、明治以後これを旧庄屋の岸氏が買い取ったものである。松室氏は慶長二年(一五九七)より師職を務める外宮の御師で、町年寄役を兼帯しながら月読宮物忌職を世襲していた。伊勢神宮内の神宮文庫が蔵する安永六年(一七七七)の『師職檀家諸国家数帳』によると「松室志津摩 御祓銘松室与三左衛門」とあり、伊予国九八六一軒、若狭国一三五四軒、その他合わせて一万一四八七軒の檀家を有する比較的大きな御師であった。
 ところで、来住町の伊勢屋がいつごろ設置されたものかは、充分な史料も残っておらず不明である。ただ、旧神殿内に納められていた「太神宮御神木」の銘文によると、「天明四年(一七八四)霜月上旬」とあるものを最古とし、他に嘉永五年(一八五二)二月のものと無記銘のもの二体がある。その他、神殿には天保八年(一八三七)奉納の弓や神御衣の断片などもみられる。また、移築現存する神門の棟札によると天保二年の造営とあり、手洗鉢には安永一〇年(一七八一)と刻されている。その他、明和八年の『久米郡手鑑』にも来住村の項に「家数内壱軒伊勢家」とあることなどから、江戸時代中期にはすでに当所に構えられていたものと考えられる。なお、御師本人が廻檀配札することは稀有なことなので、松室氏の場合には、代官の宮掌大内人職・高尾氏が神務を代行していたらしい。神門棟札にも代官・高尾善九郎忠通らの名前がみえる。
 県下の伊勢屋には、他に外宮権祢宜の橋村大蔵大夫が構えた伊予郡松前の伊勢屋、内宮権祢宜で三ヵ年寄の久保倉大夫による新居郡新居浜浦や大町村のものなどが判明している。後者の新居浜浦の場合には、使いの手代とみられる中村権之進や柳原東四郎などが幕末期の檀家廻りに当たっていた。また、大町村については、『西条誌』に「ここを伊勢屋と称ふ。二間半に六間の家ありて伊勢の御師久保倉大夫の使者来れば此処を旅宿とす。此事昔よりしかりと見て、屋敷地二畝二拾歩余一柳時代より御免地也。普請修覆等の入用は氷見村より小松領萩生村迄の内二拾八ヶ村へ割賦す。此村高合て一万三千八百五拾六石余也と言。この旅宿の傍に小祠ありて大神宮と号す。使者の朝夕拝事の為に後世より設けたるものと見て改帳には載せず。」とある。その他、北条市八反地、松山市東方町、重信町志津川、内子町内子、八幡浜市五反田などにも伊勢屋が構えられたようである。しかし、御師の代替わりには奉賀金収入を目当てとした御師本人の廻檀もあったらしく、伊予郡上野村(伊豫市上野)の旧玉井家文書にも「(橋村)大蔵大夫代替下向ニ付寄付人別帳」―文久二年―の一冊が残っている。
 また、伊勢屋の普請も檀家の村々が請負うもので、来住伊勢屋の神門は、同村中と特志寄付による造営であった。同様に新居浜浦伊勢屋の場合には、天保一〇年(一八三九)に西条領沢津組と舟木組の村連合でこれの修覆を行っている。当時、沢津組大庄屋職にあった松神子村の小野家の記録によると、両組ともいろいろと入用が嵩み延引されていたものの「伊勢家大夫」より再度の申し出があったので、両組惣代より大庄屋へ伺いを出したのち、組内の各庄屋へも普請の入用見積りを示している。「新居浜浦伊勢家修繕見積り」によると、左官・大工・畳屋・張物屋などより出されたものの合計は、一貫五二一匁九分となっている。

伊勢宿と地参宮

 伊勢屋と伊勢講を折衷した伊勢信仰の習俗が、温泉郡中島町大浦のお伊勢宿である。大浦部落を山狩・流内・中村・浜小路の四組に分け、輪番制の宿を設けて伊勢神宮を民家に一年間奉斎する祭祀形態である。旧正月の前に翌年の新宿が決定すると、旧宿から分霊を納めた箱を奉遷する。先ず、旧宿で親類や近隣の者が寄って酒宴を張ったのち遷座祭となり、宮司の先導で部落総代らの奉持する神体が浄闇の中を新宿へ向かうのである。新宿では、これを床の間などに設えた祭壇に祭り、以後一年間の祭祀を怠らない。お伊勢宿の主人は、毎朝、海の汐を汲んで帰って神前に供え、お祓いをする。これをシオクミ、オシオイといい、満ち潮を朝日の方向を向いて長柄の先にさげた竹筒に汲みとるのである。また、毎月一日と一五日には幟を立てて供物をするが、以前はこの一日幟が立つと老人たちが多勢参詣したという。今も明治三〇年に造られた幟箱が残り、「皇太神宮幟箱」と記された箱の内側には、山狩の寄進者七〇名の氏名が書かれている。なお、旧の正月・五月・九月の朔日には神職を招いて祭祀をなす。また、宿の家に不幸が生じたときには、神体を氏神の神職家へ遷して祭祀することになっている。
 さて、大浦やその近郊からお伊勢宿へ参詣することを「地参宮」と呼んでいる。毎年、旧三月ころに行われたもので、日が決定されると世話人が各浦々へその旨を触れて回るのである。こうして連中をつくっていくらかの講金を集め、代参者を賄って神札を出した。宿の前には露店も出て賑い、娘たちは酒のシャクトリに出て祝儀をもらうのを楽しみとしたのである。例えば、昭和一一年三月二〇日の地参宮では、参詣人七一名、初穂料男一円二〇銭・女一円の計七七円、給仕人は三三名に及んでいる。経費は、初穂料など一一三円の収入に対し、支出は酒・魚・膳などで四四四円九〇銭を払っており、宿元の負担額は相当なものであった。
 ところで、お伊勢宿の発生時期はそんなに古いことではないと思われる。現存する伊勢宿の算用帳では嘉永五年(一八五三)のものを最古とし、道具類も文久二年の銘文をもつ賽銭箱のほかは明治以降のものとなっていることなどから、江戸時代末期よりの習俗とみることができるであろう。
ええじやないか
 伊勢神宮の神幣・神札が降り来ったという神霊出現の一形式である飛び神明の伝承は、中世以来いくつかの奇瑞譚が県下にも伝えられている。同様に幕末の慶応三年八月から翌年四月にかけた一時期、当時の政局の焦点をなした東海道から山陽道や阿波、土佐・讃岐国にかけた表日本の各地で神札降下を瑞兆として、熱狂的な民衆運動である「ええじゃないか」が発生した。
 伊予でも讃岐国と接する宇摩郡のあたりにその影響が及び、慶応四年の一月には川之江村(川之江市川之江町)や下分村(同市金生町)が「ええじゃないか」の渦中にあった。下分村では「正月十二日 天気 大神宮御守 朝門ロニ竹皮二巻有」などと庄屋日記に見えるごとく、伊勢その他の神札や守札が降下する瑞兆が同月二九日まで続いたという。同様に川之江村庄屋の長野惣左衛門の日記によると、

 正月元日 快晴 旧臆より諸神社の守札処々に降る(小銭等も雑り降るという)これを(おさがり)と唱え人民狂奔踊躍す、此度の事たる実に前代未聞にて男女老少の別無く(男は多く髪を放い散髪となる)都て家業を廃し(アリガタイゾヤ、モッタイナイゾヤ、エジャナイカエジャナイカエジャナイカ)と唱え踊り狂う。
                             (『川之江市史』)

といったありさまであった。中には、四斗樽を出して通行人に酒を振る舞う者や女装・男装をする者、七福神や天狗の恰好をする者などが多数あらわれ、また数十人が連続して金毘羅へ参詣するなど、異様な光景が現出したと記している。そして川之江村では、土佐藩が進駐する一月一五日まで狂乱が続いたのであった。
 「ええじゃないか」は、その後二月に入って三島村にも起こり、「三島町は種々御降臨に付 エジャナイカにて多人数種々様々の姿になり、三味太鼓にて拍子とり賑しき事」と下分村庄屋日記は記している。
 これに対して松山藩でも他領の風聞よりその対応策が示され、慶応四年一月に「当領において右様奇異の儀はこれある間敷候得共、万一不慮の品落散これ有り候共筋立ず所と為にこれ有り候間、決して相迷わず一円農業に出精致すべく候」(湯之山村公用記)などと布達しているのである。
 しかし、「ええじやないか」と呼ばれる民衆の乱舞は、伊勢の御祓いが降下するなどそれ以前のお蔭参りと似かよった兆しを見せたものの、人々の足が全体的には伊勢へ向かうことはなかった。そして、この民衆運動自体も、伊予国ではこれ以上に拡大されることはなく、いつしか下火になっていったのである。また、庶民信仰としての伊勢信仰も、明治維新を契機に神道国教化施策のなかで新たな展開を求められるようになるのであった。

伊予国廻檀伊勢御師一覧

伊予国廻檀伊勢御師一覧


伊予国廻檀伊勢御師一覧の続き

伊予国廻檀伊勢御師一覧の続き


旧宇摩郡における一御師の御祓頒布率

旧宇摩郡における一御師の御祓頒布率