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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 教派神道の分立と神社神道

神道事務局の創立と神道一三派

 明治八年(一八七五)三月三〇日、神仏合同布教の差し止め、同年五月の大教院廃止によって仏教各宗は独自の教義を布教する自由を得るに至ったのであるが、これより先、神道側ではこのことを事前に察知して三月二七日に大教院に代わる「神道事務局」の創立を願い出て、翌日聞き届けられている。神道事務局は、神道宣布を目的として創設されたが、分局と教会が付属し、分局は神社・神官、教会は教導職の集団で構成されていた。
 事務局は東京有楽町に置かれ、神殿があって四柱大神(天御中主神・高産霊神・神産霊神・天照大神)を奉斎していた。さきの大教宣布では神官の教導職は東西両部に分けられていたが、六年一月には合併されて神道と称した。しかしまた九年一月に三部に分けられ、各部に管長を置いて教導職を取り締まることになった。第一部は千家尊福、第二部に久我建通、第三部に稲葉正邦が管長となるのであるが、一〇月には第四部が設けられて田中頼庸が管長になった。
 神道事務局の構成は、神道黒住派、神道修成派、神道大社派、神道実行派、神道大成派からなっていたが、同年一〇月には早くも黒住派と修成派が別派独立を申し出て許され、そのため神道事務局は一教派として取り扱われることになり、名称を「神道」と称することになった。
 ところが、一五年一月二四日、内務省は「自今神官ハ教導職ノ兼補ヲ廃シ、葬儀ニ関係セザルモノトス。此旨相達候事。但府県社以下神官ハ当分従前之通」という達書(乙第七号)を発したのである。これは神社より宗教を分離する方針から出たもので、これによって神道は神社神道と教派神道に二分されることになるのである。すなわち、神社はこれより国家の宗祀と定義づけられ、祭祀を主とし、信仰が従となるのであるが、一方教派神道は神社から離れて個人的宗教に化するのである。したがって神道事務局も一七年には一宗教団体として発足することになり、神道本局と称して教派神道一三派の中に数えられることになるのである。しかし、この宗派はその発生が他の教派神道と異なることから―つまり教祖がいないこと、明治初期における神祇崇敬の結果成立したことから一三派中の初位に位置づけられた。
 神道大教院を中心とする神道事務局から最初に別派独立したのは、黒住派と修成派で、ともに九年三月二三日である。その後、黒住派は黒住教と改称されるが、これを契機に次々と教派の独立が見られるようになり、五月には神宮教院が別派独立を認可され、さらに神道大社教、扶桑教、神道実行教、大成教、神道神習教及び御嶽教などが独立するのである。二七年一〇月には神理教が御嶽教より独立し、禊教も同時に大成教より独立した。さらに後れて三三年六月には金光教が、四一年一一月には天理教が独立した。以上のごとく分派独立した神道系宗派を教派神道または神道一三派と呼ぶのである。しかし、神宮教はその後三三年九月に解散して宗教を離れ、財団法人神宮奉斎会に組織替えされ、現在に至っている。

伊予における黒住教の布教

 教派神道の独立分派について略述したが、その経緯は複雑であり、その前後の状態を明らかにすることは簡単ではない。また、その必要もなかろうと思われるので略することにして、ここでは本県に最も早く布教活動の及んだ黒住教について触れておきたい。
 伊予に黒住教の布教活動が行われたのは教祖黒住宗忠の死後まもなくのことである。黒住教松山大教会所創立百年史誌『年輪』によれば、嘉永五年(一八五二)、八木実太神文捧呈入信、安政四年(一八五七)山脇俊治入信、安政六年(一八五九)田坂隆作神文捧呈入信、このころ久万の石田佐吉が入信した。万延二年(一八六一)門田丈三郎神文捧呈入信、文久二年(一八六二)和気郡勝岡八幡神社神主武智寛史、松山萱町七丁目に説教所「長生殿」(松山教会所の基)を開設した。明治一三年(一八八〇)松山松前町に説教所が設置(現在の松山大教会所)された。
 大体以上のようなことであるが、ここで注目されるのは神主武智寛史の唱導によって、近郷の社家の神職が加わって布教活動を支援したことである。すなわち、久米日尾八幡宮の三輪田米山、立花井手神社の八束能登、道後東照宮の玉乃井因幡、平田阿沼美神社の大内氏、三津厳島神社の柳原但馬等であるが、なお北条八反地の井上参河や長戸の村上薩摩らも加勢している。松山地方において神社または神職と親密性の深かったのは黒住教であると一般にいわれているが、その背景にはこのような経緯があったのに因ったのである。
 教団草創のころ伊予方面の開拓をしたのは本多応之助(本姓石川勝興、安芸国出身)であったが、彼の意志を継承して布教活動に当たり教勢を拡張したのは門田丈三郎であった。彼は松山教会の初代所長になったほどの人物で、その布教ぶりは熱烈を極めた。彼は和気郡新浜村(松山市新浜町)門田丈衛の養子となり、万延二年二月二五日入信した。天保三年より五か年間松山藩士森広助について皇学儒学を修めた。家業は藩のお船手という。彼は禁厭をよくして数々の霊験を示現したため各地から来訪者があり、入信する者が多かった。例えば久万地方での布教活動において明治三年七月一九日から二九日までの一一日間に一七席の講座を務め、また『諸方出勤日加恵』及び明治四年から一五年までの約一一年間に地方出張の講席が三一八回、なお別の明治八年初めの記帳によれば二五六回、合計五七四回に達している。こうした彼の熱心な布教活動によって神文を捧呈した信者は数百人を数えたのである。

常磐井精戈の大八洲教会

 神道本局下に所属する一派として設立された教団として、わが伊予にあってぱ大洲八幡宮の神官常磐井精戈による「大八洲教会」を挙げなげればならない。精戈は幕末の神道家常磐井厳戈の子で桂太郎といい、安政元年(一八五四)に生まれた。のちに青柴垣、醜廼舎、蛙友仙人などと称するのであるが、八歳で父に死別した。それで文久三年(一八六三)五月、一〇歳で上京し、矢野玄道の門に入り勉学に精励したのである。彼は父厳戈の血を受けた慷慨の士であった。明治三年六月二日、石川真澄(筑後柳川藩)、菊池深志(伊予宇和島藩)、村上鎌太郎(上野前橋藩)、拓植一郎(美濃苗木藩)、丹正報(伊予西条藩)、二宮信二郎(伊予宇和島藩)、塩出朝香(伊予西条藩)、今井太郎(同)らとともに集議院に「形勢意見書」を提出したりしている。それは神武天皇創業に基づき工政復古はなったけれども、いまだ混沌として世の形勢は定まらず、欧化に流れて行く国情にあることを憂え、日本古来の伝統を基にして確固たる基礎を築いてもらいたいと建言したものであった。
 彼は明治一七年(一八八四)、大八洲教会を設立し、また『大八洲雑誌』を発行して神道宣布に努めようとしたが、その大成をみないで明治二六年(一八九三)死去した。のちに神宮小宮司となった親友木野戸勝隆は精戈の死を悼み、その霊前に次の和歌をささげている。

   なにしかもみうせましけむともどもに はかりしことらなしもおへずて  勝隆
 次に大八洲教会について述べることにする。大八洲教会は明治一七年八月一八日付で愛媛県令関新平の認可を得て、明治一九年四月二一日神道管長稲葉正邦がその設立を承認したものである。「大八洲教会条規」の裏面に次のようにある。
  書面之趣当庁ニ於テ差支無之候条明治七年教部省乙第三十八号達之通可心得事
    明治十七年八月十八日                愛媛県令  関  新 平(印)
  書面願之趣聞届候事
    明治十九年四月二十一日               神道管長  稲 葉 正 邦(印)
 大八洲教会の主旨、組織、義務等は教会条規に次のように掲げられている。なお教会条規は全三五条からなっているが、ここでは摘要のみ掲げることにする。
     大八洲教会条規
  本教会ハ 皇祖天神ノ彝訓ヲ奉ジ国体ヲ講明シ惟神ノ大道ヲ宣布シ敬 神尊 王ノ士ヲ養成スルヲ   主トス
     第壱章 本教会祭神
  第一条 神道教規第二条ニ掲クル所ノ祭神ヲ奉戴シ 産土大神ヲ奉斎敬祀ス
     第弐章 教会成約
  第二条 本教会信徒タル者ハ教会条規ヲ堅ク遵守スベキ事
  第三条 教会長及分支教会長ノ教訓ヲ謹守スベキ事
     第参章 教会概則
  第四条 全部ヲ総轄スル所ヲ大八洲教会所ト称シ一国ヲ総轄スル所ヲ大八洲教会何々分教所ト称シ一郡 ヲ分轄スル所ヲ大八洲教会何々支教会所ト称ス
     第四章 講社規約
  第七条 吾人顕事ハ行政官ニ隷シ幽事ハ 産土神ニ属ス故ニ敬 神ノ大要ハ先ヅ産土神ヲ崇敬スルニ在リ由テ産土講社ト称ス
  第九条 信徒ニ等級ヲ附シ高等一等二等三等初等ノ五級トナス
  第十一条 社員タル者ハ敬 神尊 王ノ心掛ケ第一タリ。故ニ毎朝夕ノ 神拝祖霊拝怠タル可ラズ。且ツ 皇上ヲ遥拝シ父母長上ノ安否ヲ問ヒ厚ク敬礼ヲ尽スべシ
  第十二条 出入ニハ必ズ 神前ヲ粛拝シ及祖先ノ霊ト 父母長上ニ告ゲ、若シ遠行スルトキハ則チ殊ニ 産土神ノ霊徳ヲ仰グペシ
  第十三条 例月一日十五日ノ両日ハ午後ヨリ本社へ参拝シ説教ヲ聴聞スベシ
  第十四条 一講社毎ニ例月両度ノ説教ハ解怠ナク必ズ聞筵スベシ
  第十五条 春秋両度ノ祖霊祭ヲ怠ル事ナク必ズ懇ニ執行スべシ
  第十六条 父母ノ忌日ニハ斎戒沐浴シ必ズ祭供モ薦リ、且ツ墓参スべシ。祖先ノ祭祀モ忽ニスベカラズ
  第二十八条 神明ニ事フルハ顕事ニ功アルヲ本義トス。故ニ其力ニ堪ル所ヲ量リ、社中互ニ協心戮カシ 応分ノ実功ヲ奏ス可シ。是ヲ社員本分ノ義務トス(下略)
  第三十条 左ノ定日ニハ必ズ洗米神酒等ヲ神前ニ供奉リ敬祀拝礼シ、謹テ 皇統無窮国家安寧ヲ懇祈シ、且ツ洪恩ヲ謝シ後福ヲ祈リ、一日休暇スペシ (下略)
     第五章 結成規約
  第三十一条 入社ヲ願フ者ハ先ヅ教会大意及ビ講社規約ノ条々ニ基キ本人ヨリ直チニ最寄ノ世話掛等ヲ 経テ社長へ申出ベシ 但シ十五歳未満ノ者ハ父兄ニ議リ共ニ願出ベシ
  第三十三条 入社式日ハ例月一日トス 但シ五十名以上ニテ臨時入社式ヲ願フトキハ時宜ニヨリテ許可スベシ
  第三十四条 当日社長或ハ代理ノ者其人ヲ延テ教会所ニ至リ誓約書ヲ呈シ入社式ヲ受クべシ 但シ遠隔ノ地ハ教会巡回ノ節該式ヲ行フ事アルべシ
  第三十五条 当分各地ニ結成掛ヲ置キ入社ノ志アリト雖モ未ダ手順ヲ知ラザル者ヲ誘導セシム
         以上
右之条々堅ク相守ル可キ者也
    明治十九年五月一日                            大八洲教会

 結局、精戈の立教の眼目とするところは産土神信仰であり、敬神崇祖と国民道徳を昂揚することであり、ひいては神道的実践者の教化育成にあったのである。
 次に大八洲教会の信徒入会者について見ておきたい。信徒数の実態は正確にはつかみ切れないけれども「入社初穂帳」(明治一九年より明治二六年まで)によって拾ってみると表15のような数字になる。
 信徒入会者は「信徒書」を提出して入会した。精戈は権少教正で大八洲教会長として神道会議議員名簿(第三三番)に名を連ねているのであるが、「大八洲教会」と名付けたからには余程大きな夢を抱いていたと思われる。信徒者を見るとその大部分は、喜多郡、上浮穴郡、下浮穴郡、風早郡忽那諸島などであって主として旧大洲領・新谷領内になっている。中には温泉郡からの入会者があり、また遠く安芸国広島、土佐国土佐郡、筑前国志度郡、肥後国熊本から一名ないし二名の入会者があったようである。なお温泉郡からは北吉田の中西盛信が祖母と妻との三人で入会(明治二〇年二月一九日)しており、また二三年六月には、松山市常盤町に河田勝五郎が高等産土講社の設立を願い出ているが、これは実現しなかったようである。いずれにしても彼は明治という新時代に対処した神道的宗教活動の展開を図ろうとしたのであったが、その充実伸展を見ることなく夭折したことは惜しまれることである。

神社合祀

 神社合併ともいい、集落内神社の統廃合事業のことであるが、一般には明治三九年(一九〇六)の勅令九六号及び二二〇号に基づいて、明治四〇年代に政府によって実施された。神社合併のことはすでに明治一〇年五月に示達があったが、不徹底であったことから「今日ニ存在セシメ候ハ不都合ノ儀ニ付、可然御措置相成度申添候也」ということで、再々布達されたものであった。
 本県の場合にも「県社以下神社維持方法に関する規程」(明治四一・二・一〇「愛媛県布達達書」)ということで、訓令第六号で示達があった。
                                   郡市町村 県社以下神社

 神社ハ国家ノ宗祀ニシテ畏クモ上ハ皇祖皇宗ヨリ下ハ国家ノ功臣ヲ奉祀セル処ニシテ実ニ本邦特有ノ事例ニ属ス、之ヲ以テ国民タルモノハ祭祀ヲ粛ミ崇敬ヲ永遠ニ持続スヘキハ固ヨリ当然ノ義務ナルヘシ、然ルニ現下本県神社ノ状況を視ルニ神社ノ体裁備バラス神職ノ常置ナク祭祀行パレス、崇敬ノ実挙ラサルモノ少ナカラス、今ニシテ之レカ維持ノ方法ヲ講シ基礎ノ鞏固ヲ図リ以テ奉祀ノ実ヲ挙クルニ勉メスンハ其ノ衰願ヤ一層甚シキヲ加へ国民崇敬ノ念日ヲ逐フテ滅却スルニ至ラン洵ニ憂フヘキコトニ属ス、依テ左ニ県社以下神社維持方法ニ関スル規程ヲ示シ県下ヲ通シ其ノ軌ヲ一ニシ永遠維持奉祀ノ目的ヲ達セシメントス、当局者能ク此ノ旨趣ヲ体シ奮テ尽策スル所アルヘク若夫レ永遠奉祀ヲ要セサルカ若クハ維持方法ノ確立シ難キモノニアリテハ速ニ神社ノ廃合ヲ断行シ以テ其ノ整理刷新ヲ図ルヘシ、
         (中 略)
    明治四十一年二月十日                   愛媛県知事  安 藤 謙 介

 右、訓令を受けて同年四月一四日付で内務部長より「神社廃合整理奨励ノ件」の通牒が出されているが、「神職又ハ教導職等ニシテ右等神社源祠ヲナスモノ若ハ神社ノ廃合整理等ニ隠然妨害ヲ為スガ如キモノハ相当戒飭ヲ加ヘラルヘキコト」となかなか強行である。さらに一〇月九日には寺院仏堂に類する堂宇についても通牒が出され、一〇月一九日には警部長訓示が出されている。

 近時本県ニ於テ社寺ノ廃合及同事務ヲ整理中ノ処多衆民中ニハ理解ニ鈍ク徒ニ他ニ誘惑セラレ又ハ迷信ノ結果其実行ヲ遅疑スルノミナラス奸譎ノ徒ハ却テ之ニ乗シテ不当ノ利得ヲ為サントスル者モ有之哉ニ聞へ今般内務部長ヨリ各郡長へ左記要旨ノ通牒ヲ為シタル趣ニ就テハ此際其官ニ於テモ相当援助ヲ与フヘシ右訓示ス
      左  記
 一、県ノ明細帳ニ登載セラレ在ル神社ナリトスルモ体裁備ハラス神職ノ常置ナクシテ祭祀ヲ行ハス全然崇敬ノ実挙ラサルモノニシテ尚且維持法ヲ講セサルモノハ最寄ノ神社へ合併スルカ又ハ廃止セシムルコト
        (以下 略)

 このような訓示を受けて神社合祀は進められるのであるが、もちろん神職界においても神社の合祀はそう軽々に決行すべきではないと主張する者もあったが、結局は政治権力に押し切られ、明治四〇年から四二年をピークに積極的に進められた。合祀による神社の減少率は府県によって非常に差があり、地方長官の手加減に一任されていた節が見られる。最終的に合祀率の最も高かっだのは三重県で九〇%強、和歌山県が九〇%弱であり、第三位は愛媛県で七〇%であった。しかし、合祀といってもこれまで村落内にあった小社・小祠を氏神境内に移転したにすぎない形式的合祀例も多かった。これら小社・小祠はその後合併騒ぎが鎮まってから元の位置に戻され、村落共同体の紐帯として復祀された事例もある。
 なお、ちなみに本県の合祀結果は、合祀前の五三七〇社が、大正六年(一九一七)には、国幣社一、県社二九、郷社一〇六、村社七二六、無格社を加えて一六五〇余社となっている(『愛媛県誌稿』)。また、愛媛県統計書(明治三七年以降)によれば表16の通りである。
 しかし、昭和二〇年、国家神道の廃止により、神社数に変動を生じたが、昭和四五年の愛媛県神社庁の調査によると、本社一二四三社、境内社一九八七社となっている。
 以上見てきたように神社合祀は、政府の意向を受けて府県が市町村に訓示して実施したものであるが、果たしてそれでよかったのであろうか。そこで改めて合祀政策の反響及び意味が問われてくるのである。温泉郡南吉井村見奈良(重信町)の『相原直温日記』は「コタビ無格ノ小社ヲ合祀スルコトトナリ、本日我が部落ノ小社ヲ悉ク素鷲神社(天王社)ニオクル。因テ部落内ミナイデテコレニ従事ス。合祀ノ名ヲカリテ実価アル石燈寵ノミトリ、小祠(瓦造リ)ヲ放置スル絞猪ナモノアリ」(明治四一年一〇月二七日)と記していて、本県あたりは比較的平穏に行われたように見えるが、各地ではいろいろトラブルがあったのである。例えば合祀政策を批判し、これに真向から反対した人に植物学者南方熊楠があるが、彼は大正九年、そのために官命抗拒罪で未決監として拘置されたりしている。
 要するに神社合祀政策は、政府にとっては単に「神社の整理」にとどまらず、「国家の宗祀」という画一的信仰体系を確立していくプロセスであり、それは住民の生活に密着した「民間守護神信仰」の拠点を破壊するものであった(日本人の宗教Ⅲ 『近代との邂逅』)。

パーフェクトリバティー教団

 略称「PL教団」という。教派神道でもない、いわゆる神道系の新宗教である。その教祖は松山市の御木定五郎の二男として生まれた御木徳一(一八七一~一九三八)である。かれは九歳で市内朝美町安城寺の福山大道和尚のもとで得度し、二二歳のとき同市津吉の安楽寺住職となり、長正と称した。その後、人道徳光師の教えをきいて弟子となり、大正一四年四月「人道徳光教」を開き、みずから教祖となった。昭和六年一月、同教は「ひとのみち教団」と改称され、信徒一〇〇万と称されるほどに発展したが、同一一年九月「ひとのみち事件」として官憲の弾圧(不敬罪という冤罪)を受け解散させられた。かれはその冤をそそぐこともできないまま六九歳で没したが、その教義は現教祖御木徳近(安楽寺にて出生)によって継承され、現PL教団として信者三〇〇万余(公称)を擁してますますの隆昌をみているのである。
 その教義は「人生は芸術である」に始まる『PL処世訓』二十一ヶ条である。本教の特異点は、代々「おしえおや」と称する教祖が現れ、現在の教祖によって道が説かれることにある。教祖の神業ー「みしらせ」「みおしえ」に対する信仰こそPLの信仰であり、個人は「世界平和の為の一切である」とするのである。

大八洲教会入信者数

大八洲教会入信者数


愛媛県における社格別神社数の推移

愛媛県における社格別神社数の推移