データベース『えひめの記憶』

えひめの記憶 キーワード検索

愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

四 一遍と時衆

 一遍聖絵

 一遍の伝記を記したものには、『一遍聖絵』のほか、『一遍上人縁起絵』・『一遍上人年譜略』・『一遍
上人行状』・『一遍義集』などがある。最も信用されるのは一遍聖絵であるが、これについては後述することにする。
 二遍上人縁起絵』一〇巻は、「一遍上人」といっているげれども、一遍に関する記述は初めの四巻のみで、残り六巻には二祖真教のことが書かれている。また、これは、一遍没後一〇年目に、一遍の異母弟聖戒によって完成した一遍聖絵に対し、一四年目に真教の弟子宗俊によって作られたもので、前者が一遍と聖戒の関係を重視するのに比し、後者は真教が一遍の法統を継承するものであることを強調する。ところで、縁起絵の初め四巻と聖絵一二巻の内容をみると、縁起絵は、聖絵に拠り、これを簡単にしたものであることがわかる。したがって、聖絵との間に矛盾はないが、史実の上で参考になることは少ない。
 つぎに『一遍上人年譜略』は標題のとおり略年譜であるが、著作年代は慶長五年(一六〇〇)ごろとみられ、著者は不明である。これまた聖絵に拠りながらも他書を参考にしたので、かなり異説があり、聖絵との間に矛盾がある。さらに、『一遍上人行状』はごく簡単なもので、正安二年(一三〇〇)ごろの作とされるが、これまた著者はわからない。異説があり、矛盾もある。また、『一遍義集』は、明応六年(一四九七)~永正一〇年(一五一三)在位の遊行二一代知蓮の著作であり、一遍の宗教と思想の内容を中心とするもので、伝記的事項は少ない。
 『一遍聖絵』一二巻、俗に六条縁起ともいう。六条道場歓喜光寺開山聖戒(弥阿、~一三二三)の編著にかかるもので、正安元年、一遍没後一〇年に完成した。これが製作にあたり、聖戒は、土佐派の画家円伊を伴って一遍遊行の跡を遍歴して描かせ、関白九条忠教など公卿の援助を受けて完成した。絵詞は正確で信用するに足り、絵は写実的で当時の世相まで克明に写しており、もちろん美術品としてすばらしく、国宝である。したがって、一遍の伝記は、一遍聖絵に拠って他書を参考にするが、それも聖絵と矛盾しない限りにおいてである。
 一遍は、延応元年(一二三九)二月一五日、河野通広の子として宝厳寺(松山市道後)の地に生まれた。母は鎌倉のご家人大江氏の女である。その生い立ちから成道までについては愛媛県史『古代Ⅱ・中世』を参照されたい。

 遊 行

 熊野における成道からの帰途京に立ち寄り、郷里に帰ったのは三七歳の秋であった。一遍の念仏を郷里の人々にすすめるため国中を勧進したあと、師聖達にこの喜びを伝えるため大宰府へ行き、その後、筑前を手初めに九州を一巡した。こうして三八歳から始めた遊行は、五一歳で遊行に果てるまで一三年間もつづいた。
 一遍の生涯はすべて遊行であった。捨て聖と言われる一遍の真面目である。一遍は、寺を持たず、宗派を立てず、寺や宗派の跡を継ぐ弟子を持とうとしなかった。一寺に止住しないということであれば遊行しかない。すなわち、遊行は、捨てるということの必然約結果である。また、寺や宗派の跡を継ぐ弟子を持つ必要はなかったが、念仏の心を伝える人を大切にし、できるだげ多くの人に念仏をすすめて救済することを使命にした。それは、一遍が到達した思想、仏と衆生の同時成道、一遍と人々の同時成仏という願いによるものであった。それには、一を構えて止住するのではなく、一日も怠ることなく、広く全国に遊行して一人でも多くの人に念仏をすすめなければならなかった。すなわち遊行である。
 一遍の遊行地は、南は鹿児島から北は現在の岩手県北上市まで及んだ。行ったとみられないのは、主として日本海側の地で、山口・島根・福井・石川・富山・新潟・山形・秋田・青森の各県だけである。そして、一遍の遊行で特徴的なことは、その遊行先の中に、聖たちの多く集まっていた善光寺・四天王寺・叡福寺・当麻寺・高野・熊野本宮・石清水八幡などがあり、ほかに庶民の崇敬が厚い神社、すなわち各地の一の宮や八幡神社が選ばれていることである。一遍には、神祇はもとより原始信仰・民族信仰のすべてを否定しないばかりか、霊験あらたかな神社を崇敬する厚い心があった。こうした庶民の神社や寺院に参詣するのは、一つには一遍自身の信心によることであり、もう一つは、そこに群る信心深い庶民に接して念仏を勧進するためであった。
 二一年間にわたる遊行は、鎌倉に入ろうとした時を境に二つに分けて整理することができる。前半期は、備前福岡と信州佐久におげる成功を例外として、乞食にもまちがわれるような、名もない僧の教えに耳を傾げる者は少なかった。ことに九州では全く孤独の遊行であったが、河野氏と姻籍関係にある大友頼泰に迎えられるうち、のちの二祖真教など七、八人の弟子を得、備前福岡での成功で随行者を増し、信州佐久でさらに多くなって、碓氷峠を越えて上野国に入るころには二五名前後の随逐者になっていて、それ以上の大集団になると旅行に困難を来たすので、それぞれの土地に残して布教にあたらせたとみられる。
 さらに、前半の遊行で特徴的なことは、それが鎮魂のための旅であったということである。それは万霊の鎮魂のためであることはもちろんであるが、ことに、承久の変に敗れて不運の死をとげた祖父通信と通政・通末の二人の伯(叔)父の霊を慰めることであった。弘安三年の晩秋から冬にかけて奥州を遊行したのも、祖父通信の霊を江刺(現北上市)に慰めるためであり、それより前に、信州小田切(南佐久郡臼田町)では叔父通末の霊を慰め、ここで鎮魂のために行なった踊躍念仏が、以後時衆の踊り念仏のはじめになった。さきに四天王寺ではじめた賦算にあわせてこの踊り念仏、この二つが一遍の念仏勧進のいわば手段であり、鎌倉以後大功成を収めた直接の原因である。
 弘安五年(一二八二)の春、決死の覚悟で鎌倉に入ろうとしたが制禁のため果たせず、やむなく山中に野宿したところ、「かまくら中の道俗雲集してひろく供養」を受けた。これ以後一遍の遊行は各地で大歓迎を受け、つぎの片瀬と、東海道を経て都に入ったときの歓迎は熱狂的なものであった。そこで、鎌倉以後を遊行の後半とみることができる・片瀬(藤沢市片瀬町)の浜の地蔵堂では、「貴賤あめのごとくに参詣し、道俗雲のごとくに群集」した。ここではじめて仮りごしらえの踊り屋を建て、敷き板をふみならして踊り念仏をしたことが図によってわかる。以後踊り屋の図が諸所に見える。信州小田切の里で自然な形で始められた踊り念仏が、次第に盛んになるにつれて様式化し、見せる要素を含んできたことを意味する。入洛を前に、近江の布教は難渋した。それは、近江の国が天台宗の勢力下にあって、ことに園城寺の阻止にあったからである。それでも、もともと横川は天台浄土教の本所であり、叡山は浄土教発祥の地であるから、念仏僧も多く、幸い東塔の重豪の帰依や、横川の真縁のとりなしにより近江の布教を終えて都に入ると、四条京極の釈迦堂では、「貴賤上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき」というありさまであった。ここでは、空也上人の遺跡市屋に仮の道場をつくって数日を過ごしたのをいちばんの思い出として、行法は四八日に及んだ。以後、山陰・畿内・山陽の各地を遊行、いったん帰郷して郷里の社寺に参詣したあと、さきに都を発ったとき以来の病身にもかかわらず、讃岐・阿波・淡路を経て兵庫観音堂に達し、正応二年九月二三日、五一歳をもってここに没した。遊行に果てたわけである。

 一遍の念仏

 一遍が観音堂において示寂する前、所持の経典を焼き捨てて、「一代聖教みなつきて南無阿弥陀仏になりはてぬ」とつぶやいた。自分も南無阿弥陀仏になったという最後の心境を洩らしたわげである。「南無阿弥陀仏」、それは念仏であり、念である。「念は声なり」で、ロに唱える念仏である。南無は機としての人間の信、阿弥陀仏は信の対象としての仏、とするのが普通の解釈である。しかし、一遍においてぱ、浄土宗西山派、特にその深草流顕意の説く「機法一体」を受けて、機としての人と、法としての阿弥陀仏を二元相対として立て、それが一つになるというのではなく、人と法を初めから一体として、人はすべて本来仏であるという立場、人と仏が同時に成道するという立場から、機法一体の南無阿弥陀仏ととらえる。だから、このような一遍の思想からは、二元相対的な阿弥陀仏は存在しない。極端に言うと、阿弥陀仏という仏像が本尊ではなくて、機法一体としての南無阿弥陀仏が本尊、すなわち名号が本尊である。しかも、名号と言えば書かれたものを想像するが、そうではなくて、一遍が敬仰する空也の木像のロから六躰の小阿弥陀仏が出ているのが象徴するように、本来見えない南無阿弥陀仏を形にあらわしたまでのことである。阿弥陀仏の木像ではなく、南無阿弥陀仏という名号書ではなく、南無阿弥陀仏が本尊である。さらに、それは、対象としての本尊ではなく、人が、おのれが本来南無阿弥陀仏(極端に言うと自己が本尊)である。衆生という言葉に移すと、衆生はすべて南無阿弥陀仏、さらに、衆生とは存在するものすべてを意味するから、「吹く風波の音までも南無阿弥陀仏にあらざるものなし」(一遍上人語録)ということになる。存在はすべて南無阿弥陀仏、すなわち名号である。
 だから一遍は、信ずる心が深かろうが浅かろうが、穢れていようかいまいが(当時穢れた者は成仏しないといわれていた)、人は本来南無阿弥陀仏なのだから(一般的に言えば、仏性を持つというのではなく、仏性そのものなのだから)、念仏を唱えさえすれば南無阿弥陀仏になることができると、念仏札を渡して念仏をすすめた。しかも、念仏は、ただ今の念仏としてはただ一度、すなわち一遍きりである。当時、天台系の融通念仏、真言系の念仏においては、不断念仏とか百万遍の念仏とか言って、数多く念仏を唱えるほど功徳になると、いわゆる「数とり念仏」を行うのが普通であった中で、一遍は「一遍の念仏」をすすめた。これには、一遍の時間論を媒介にしなければわからない要素がある。一遍の時間論は、何も独自のものがあるわけではなく、仏教一般の時間論によるものである。それを代表的に表現したのが道元の時間論である。仏教における時間は刹那で、道元はこれを「前後際断」の時とか、「而今」とかと言い、また「行持のいま」が時であると言った。それでは、やはり宗教の世界で重視される永遠をどう考えたらよいかということになるが、それは、前後際断の時は非連続の時であるから、非連続の時の連続が永遠という時である。しかも、時には実体はなく、いわば空虚なものであるから、存在と時を同じくし、一人で時を過ごすこともできれば、二人でも、あるいは多くの人とでもともにもつことのできるのが時である。時は空虚であるから、それ自身にはわれわれの感覚で捉え得る何ものもない。春という時は、花の咲く時であり、秋は実る時である。すると、花という存在、実という存在によって、春という時、秋という時を知ることができる。刹那について言えば、花を見ている今が時であり、時は存在としての花によって知られる、すなわち、時は存在である。さらに、行為する今、念仏する今が時であるから、行為即時間、念即時である。一念が時であり、ただ今という時においてはただ一遍の念仏しかあり得ない。これが一遍の説くところの一遍の念仏にほかならない。全身全霊をこめたただ一遍の念仏、今を一期と覚悟しての一遍の念仏である。そして、浄土教一般で重視し、わけて時衆の行法で重んじる十念は、そのような念仏を十度唱えることである。行為の時を重んじる道元が刻々の座禅を兀座と言って重んじたように、一遍の念仏は刻々の念仏であり、兀座の念仏である。
 しかも、中国浄土教の大成者善導の影響によって成立したわが国の浄土宗を中心に一般教化の上で言っているように、浄土を西方億万土にありとし、現世において念仏の功徳を数多く積めば、来世においてその極楽浄土に往生できるというのではなく、浄土は尽十方世界のどこにでもある、この世において到る所に浄土がある、しかも、極楽は死後往生の世界ではなく、ただ今住む所、現世において極楽がある。すなわち、一遍においては、ただ今の一度の念仏において正念(正覚)を得れば、それが往生ということになる。刻々の念仏によって刻々往生する、それは、いつも往生しているのではなく、一時をもゆるがせにせず、生きる限りの刻々の時を有意義に力強く生きることを教える。
 一遍ほど、在世中自らの足を運んで庶民に接し、衆生を済度した人はいない。鎌倉仏教の性格を庶民の仏教と捉えるが、一遍の仏教においてそれが言える。また、仏教本来の思想である衆生即仏身を最も的確に示し、同じく仏教本来の時間論の上に行動の宗教としての面目を発揮したのが一遍であった。

 一遍にゆかりの寺

 延応元年(一二三九)、一遍は宝厳寺の地に生まれた。当時父通広は、如仏と号してこの寺の塔頭林迎(光)庵に隠栖していたものとみられる。現に同寺にある木像一遍立像(重要文化財、文明七年=一四七五の作)は、かつて得能通綱の外護によって再建整備されたとみられる一二の塔頭のうち、明治初年まで最後にただ一つ残った右の庵に守られてきたものであり、門前の「一遍上人誕生之地」という石碑は、もと寺の前の坂道を下った所の総門脇にあったのを移したもので、元弘四年(一三三四)得能通綱が建てたものといわれる。この寺は古代に開創された天台寺院であったとみられるが、一遍の弟仙阿が時衆として再興、時衆奥谷派を立てた。なお、交通広と関係が深く、河野氏の崇敬の厚い繁多寺(松山市畑寺)また岩屋寺についても、すでに記したので省略する。
 東予市上市の観念寺(臨済宗東福寺派)は、従来、鉄牛継(景)印を開山とする禅宗の寺として有名であるが、草創のころ浄土宗系の念仏道場であったことはほとんど知られていない。観念寺文書の上で、その創建には延応二年(一ニ四〇)説と文永年間(一二六四~一二七四)説の二つがあるが、前者では論拠である史料に矛盾があり、後者にも欠陥があるものの、総合的な判断からは後者の方が有力とみられる。すなわち、観念寺の開基を越智盛氏とすることは通説どおりであるが、その妻尊阿以下定阿・智阿・弥阿とつづく者は少なくとも念仏者で、明らかに時衆の念仏道場であった。のち盛康の代に禅宗寺院として、元弘二年中国
から帰朝してまもなく鉄牛を迎えて開山としており、その入寺の時期は建武二年(一三三五)以前とされる(岩本裕『伽楼羅』)
 ともあれ、草創を文永年間とした場合、これを一遍に結び付けてみると、最後の年である文永一二年(一二七五)は、一遍は、桜井の浜を発って熊野に行っており、賦算を始めたのはその途中四天王寺に参寵した時であり、その直後伊予に帰ってくまなく国中を勧進したのはその翌々年であったから、あるいは弟聖戒の布教によるとも考えられる。一遍が結縁したのはおそくともその翌年である。
 熊野へ向かう一遍の一行を桜井まで見送った異母弟聖戒は、このあと内子町願成寺に入った。やがて建治二年(一二七六)熊野から帰った一遍はくまなく国中を勧進したというから、おそらく聖戒の止住する願成寺を訪ねたであろう。同寺の縁起によると、この時の留錫は三日間となっている。同縁起には、これよりさき文永八年(一二七一)秋、二旬ばかり滞在したことになっているのは、ちょうどそのころ窪寺の閑室で長期間修業中であったから、ここまで足を延ばしていたものとも解せられる。ちなみに、願成寺は、河野の支配下にあった竜王城の近くにあって、寺伝では、開祖越智益躬、二祖一遍、三祖聖戒、四祖万松院殿貞忍法尼(河野通有妻)としているから、越智ー河野氏に有縁の寺であることはわかるが、たしかとみなされるのは、古くからあったこの寺を、聖戒が一遍を開祖として中興し、願成寺と改めただろうということで、四祖貞忍尼というのは名目上のことかも知れないし、まして越智益躬を開祖とするについては明らかでない。
 現在臨済宗妙心寺派に属する大禅寺(大洲市西山根)は、一遍の父通広を開基として建治元年(一二七五)に開創したと伝える(万年山大善寺観音縁起)。建治元年に一遍の父通広は在世しなかったから、一遍が父の霊を弔うため開創したとも考えられる。この年一遍は熊野から帰国して国中を勧進しており、河野の勢力下にあったとみられる大洲地方のことであるから、十分あり得ることである。この寺は、のち永禄年間(一五五八~一五六九)、河野一族のト星建洞が再興して臨済宗に改宗している。
 松山市堀江の光明寺(浄土宗)は、古く北寺と称した華厳宗の寺院であったが、文永一〇年(一二七三)一遍が再興したと伝える。文永一〇年には、一遍は窪寺と岩屋寺で修行中であるから、この年とするわけにはいかないが、もっと時代を繰り下げれば、一遍が厳島など中国筋に渡るため出発したのはこの堀江の浜でもあり、地縁としては条件にかなう。この寺が浄土宗となったことについては、延徳元年(一四八九)順誉により浄土宗寺院として中興したとも、天正八年(一五八〇)現地に移して浄土宗に改宗したとも伝える。
 温泉郡重信町下林の浄土寺(真言宗醍醐派)は、文永一一年(一二七四)一遍の開創と伝える。この地はもと別府河野氏の本拠地でもあり、一遍が承久の変に倒れた河野の将兵を供養するために建立したとする寺伝に不自然さはないから、少し時代を繰り下げれば認められる。その後いつのころか改宗し、江戸時代には修験道場であって、現に醍醐寺派に属する。
 今治市中寺にあって、地名の元になった石中寺は、元天台宗寺門派に属したが、最近廃寺になった。景雲二年(七六八)寂の法仙を開山とする説があり、奈良時代の伝承などあいまいさを免れないし、一遍が当時この寺に止住していた親類の僧を訪ねたという伝承も明らかでない。最近まで寺門派に属する石土修験道場であった。 北宇和郡松野町豊岡の正善寺(曹洞宗)には、一遍が康元元年(一二五六)に草庵を結んだ浄念寺(松野町次郎丸)を前身とするという伝えがある(正善寺旧記)。康元のころ一遍は一八、九歳で大宰府にいたから矛盾するが、後のこととすれば、この地が河野氏と関係の深い西園寺氏の勢力圏内でもあり、理解することができる。その後禅宗寺院正善寺として中興したのは南北朝時代のことで、さらに下って慶安二年(二八四九)、城川町魚成の龍沢寺南秀が再興して曹洞宗に改宗したという。
 今治市蔵敷東禅寺(真言宗醍醐派)は、一遍の祖父通信(東禅寺殿)の菩提寺である。通信は越智郡府中に生まれて幼名若松丸、のち出生地に若松寺、さらに「東禅寺殿前予州大守観光西念居士」を祀る廟所として東禅寺に改めたという。また、『東禅寺来由記』にもとづいて書かれたという『寺院明細書』(明治三八年)によると、推古代越智益躬による建立(この寺の南隣りに益躬を祀る鴨部神社がある)、延久五年(一〇七三)、国司源頼義、河野親経が協力して再建、文治元年(一一八五)守護河野通信再建、元弘三年(一三三三)得能通綱再建などと、越智・河野に関係の深いことも伝えられている。また、本尊薬師如来を祀った薬師堂は太平洋戦争で焼失、旧国宝であったが、現在はそのままの姿で再建されている。聖絵によると、はるばる江刺(現岩手県北上市稲瀬)の通信の墓に詣って供養した一遍のことであるから、郷里でその菩提を守ったこの東禅寺には幾度も詣ったことであろう。

 時衆の寺

 つぎに、かつて時衆に関係のあったとみられる寺院について述べよう。
 不論院 浄土宗、松山市高砂町三丁目。この寺の開創に関し、河野通治(通盛)の家臣森田六郎左衛通賢の建立、森田寺と言ったということについては伝承がある。河野通治は、元弘二年(一三三三)二月、折から六波羅に属して戦い、嫡子通遠を失ったので、家臣森田通賢に命じてこの寺を造り、通遠の霊を弔った。ところで、この森田通賢は「万阿弥」と号したというから、時衆であったとみられる。その後通治は藤沢に赴き、遊行上人安国の仲介で建長寺南山によって得度、のち尊氏に知遇を得て通信以来の所領を安堵されたと伝えるが、あいまいさを免れない。通賢が時衆万阿弥となったのもこの時以来のことにちがいない。
 得法寺 浄土真宗本願寺派、松山市萱町。この寺は、鎌倉の武将和田義盛(一一四七~一二一三、本姓三浦氏、のち北条氏と対立して挙兵、いわゆる和田合戦で北条義時に滅ぼされた)の末裔の創建であるという。伝えるところによると、その系流は、
  義盛―常盛―朝盛(実阿弥陀仏)―義正
で、義盛の孫朝盛は、源実朝の歌友であり、朝廷にも仕えた人で、出家して実阿弥陀仏と号したというから時衆である。現在得法寺の本尊となっている阿弥陀仏は、この人の造立によると伝えられている。その子和田修理太夫義正は、通信以来縁故の河野氏を頼りに伊予へ下り、道後に一寺を開いたのがこの寺の初めで、その後河野の没落にともない、二代から五代までは越後に寺を移していたが、六代の時再び道後に帰り、勝山築城にあたり現在地に移築したという。初めて松山へ移りこの寺を開創した義正の画像が戦前まであって、遊行僧の姿であったというから、おそらく時衆であったのではないかという(同寺住職の談)。
 宗光寺 現曹洞宗、喜多郡五十崎町古田。内子町願成寺を中心に、かつてこの地方の寺院はほとんど時宗であり、宗光寺もその一つであったとみられる。その後、嘉吉元年(一四四一)創立した内子町浄久寺を、元文二年(一五三三)この地を支配した曽根高昌が現在地(内子町城廻)に移建、のち高昌寺となり、この寺の興隆と願成寺の衰微にともない、この地の時宗寺院のほとんどが高昌寺末の禅寺になり、時宗は願成寺とその末寺一か寺を残すのみとなった。ところで宗光寺本尊阿弥陀如来は、像高九四cmの立像で県指定文化財、禅宗寺院にふさわしくない仏像である。一方、時宗の中心寺であり、河野の外護を受けた願成寺の本尊阿弥陀仏はそれほど立派でない。そこで、地元の郷土史家につぎのような推測が生まれた。『大洲旧記』によると、慶長五年(一六〇〇)藤堂高虎が二〇万石を得て大洲に入ると、もと近江にあって時宗であった高虎は、当時衰退していた願成寺を菩提寺として再興しようと、本尊ほかを一時大洲城に移して七堂伽藍の建立に着手したが、普請の最中に伊勢の津へ国替えとなったため、資財まで全部移してしまい、願成寺再建計画は全く放置されてしまった。これからが地元史家の推測であるが、願成寺建築中大洲城に移されていた本尊が返される際、一時的にかどうか、かつて末寺であったとみられるこの宗光寺に安置されてそのまま本尊になったというのである。
 円福寺 現真言宗豊山派、松山市木屋町。伝えによると、寛永年間(一六二四~一六四三)松山藩主蒲生忠知の祈願所として祝谷に創建、のち、松平氏の入封にともない、常信寺を拡張するためこの寺を現在地に移建して円福寺としたという。現に寺宝として残っている蒲生忠知画像と蒲生系図は、蒲生家断絶とともに菩提寺であったこの寺に残されたものであり、これらとともに一遍筆と伝えられる名号書が所蔵されている。時宗の盛んだった近江出身の蒲生氏のことであるから、近江以来蒲生家に伝わっていたものか、あるいはこの寺自体がその当時時宗であったからか、いずれによるかわからないが、享保六年(一七二一)の七条道場本時宗末寺帳に、伊予国でわずか六か寺のうちの一つに円福寺と見え(他の五か寺については場所が記されているのにこの寺にだけはない)、これがこの円福寺ではないかとみられる。