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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 黄檗宗寺院の開創

 黄檗宗

 黄檗の名は、京都府宇治市の万福寺に黄檗宗を開創した隠元隆埼の故山・中国福建省の黄檗山万福寺からきている。隠元(~一六七三)は福建省の人、万福寺で臨済の正伝を受け、ここに嗣席して多くの人材を養い、すでに明末における禅林の重鎮になっていた。当時の中国は明の滅亡から清の勃興期にあたり、政変をのがれて長崎に来住した華僑が多く、自国から禅僧を招いて寺院を建立した。元和六年(一六二〇)に開創した興福寺(開山真円)、寛永五年(一六二八)の福済寺(開山覚海)、同六年の崇福寺(開山超然)があり、長崎三福寺(唐三か寺)と呼ばれた。その後慶安三年(一六五〇)来朝して崇福寺に留錫した道者超元の名が高くなると、盤珪など臨済・曹洞の僧がこれに学び、明朝禅がわが国に導入されるようになった。隠元は、興福寺の明僧逸然や、他の二寺をあわせて三か寺の檀家の招講により、承応三年(一六五四)来朝し興福寺に入った。六三歳であった。その後江戸に上って麟祥院に寓するうち、やがて徳川家綱の尊信を受げ、山城国宇治に寺地を賜り、寛文元年(一六六一)万福寺を開創、同三年完成した。この寺地は、もと臨済宗の寺趾であったから、幕府はその復興のため隠元に寺地を与えて外護したのであろうといわれるが、結果としては黄檗宗の開宗になった。隠元はその後寛文四年退隠、延宝元年(一六七三)八二歳で逝去、以後数代の法嗣は中国よりの渡米僧である。
 隠元の禅は念仏禅といわれ、また密教の行法を取入れたものであったから、禅・浄・密兼修であった。すなわち、朝夕の勤行に浄土教的行法を取入れ、俗信徒にも念仏をすすめたし、真言陀羅尼など密教の行法を併用したが、これは元・明時代における中国の禅風でもあった。隠元のこうした禅は、妙心寺派を中心に、日本の禅に広く影響を及ぼした(『日本仏教史Ⅲ近世・近代篇』ほか)。

 伊予の黄檗宗寺院

 隠元が万福寺を開創した寛文元年ごろ、すでに幕府の宗教統制による寺檀制度は確立期に入っていた。キリシタン弾圧は早く始まり、元和八年(一六二二)には新寺の建立は禁止され、さらに寛永七年にも再禁止令が出されており、一方では寺院の再建は認めているから、万福寺の建立もそのような名目であろうが、それにしても、幕府の特別な計らいがなくては、このような開創にも等しい建立は成らなかっただろう。こうした事情は伊予においてもほぼ同様で、伊予における黄檗宗寺院のすべてがそのようになっており、中心寺院になった千秋寺(松山市)の開創も同様である。
 しかし、千秋寺の開創に先立つ動きがある。すなわち千秋寺開創前史である。古鏡(一六二七~一七〇〇)、諱は道明、喜多郡成能村(大洲市成能)の平井氏、六歳で曹洞の溪寿寺(大洲市菅田)是尊に入門、その後美濃国の別峯に参じ、盤珪派の卓禅師に教えを乞うたあと、万福寺二世木庵および独湛(いずれも明僧)に学んで帰郷、伊予における黄檗宗布教先駆けの一人になった。延宝元年(一六七三)、時の大守松平定直の帰信を受け、覚王寺(松山市高井)の檀家相原治兵衛に図り、これを再興、同六年完成し、迎えられて開山になったが、古鏡はみずからの師独湛を勧請開山とした。定直は駕を覚王寺にまげて親しく古鏡に参じたという。覚王寺は、古く天授四年(一三七八)の創建で土居氏の菩提寺であったが、河野・土居の衰退により荒廃していたものである。
 ついで貞享元年(一六八四)、隣村の来住村の檀家に乞われて再興したのが長隆寺(松山市来住町)である。事実上の開山は古鏡であるが、覚王寺と同様独湛を勧請開山にしている。
 松平定直が黄檗宗に心を寄せたことについては直接の動機がある。隠元・木庵に参じた鉄牛(~一七〇〇)は石州の人、小田原侯稲葉正則(河野氏の末裔)の帰信を受けて小田原に紹泰寺を開いた。そして正則の子正通の女正心院が定直の夫人であることから、定直も鉄牛に参じて黄檗宗に帰依するようになり、やがて郷土では伊予出身の古鏡に帰信したのであった。
 さらに、古鏡によって黄檗宗の寺院として中興した寺に雲門寺(北条市本谷)がある。古くは河野通清の建立した天台寺院であったと伝えるが明らかでない。中ほど海翁を開山として横山城主南通武(河野氏傍流)が中興して菩提寺としたが横山城の落城で衰退、天和三年(一六八三)古鏡が再興した。
 古鏡は死を期して遺言し、死後骨を覚王・長隆・雲門の三寺に分かち、僧堂の後ろに塔を建てるように示した。それは、永く衆僧を護るためであった。こうして、元禄一三年(一七〇〇)示寂、七四歳であった。なお、古鏡が黄檗の寺院とした寺に得能寺(桑原村)・長福寺・安楽寺(荏原村)・玉泉寺(立花村)-いずれも松山市-などがあるが廃寺となったのか今は黄檗宗の寺の中にみられない(『古鏡和尚道行記』など)。
 松山藩領内黄檗宗の中心寺として開創された千秋寺より前に存在した寺には、右の覚王寺・長隆寺のほかに正伝寺(大洲市菅田宇津、現廃寺)があったとみられる。この寺の開山別峯(~一六八七)は、初め美濃国妙応寺に住した曹洞宗の僧で、前記古鏡の師にあたる。のち古鏡のあっせんで、古鏡が次僧を勤めていた渓寿寺に首僧として入ったが、やがて万福寺千呆に参じて黄檗に転じ、再び来予して大洲三代藩主泰恒の知遇を得、宇津村板野の古寺済福寺を移築再興、のち正伝寺に改めた。延宝七年のことである。別峯はその後松平定直の帰信を受け、定直によって再興された宗昌寺に入ってこれを黄檗の寺とし、正伝寺さらに千秋寺の建立にもかかわり、貞享四年に示寂し、墓は正伝寺旧境内近くの山林中の墓地にある。正伝寺はいつのころからか廃寺になったが、『大洲秘録』第五巻(元文五年=一七四〇以前)には明記され、大栄寺など末寺六か寺をあげている。これら末寺もすべて廃寺になったのか、今は黄檗の寺籍に見あたらない。
 宗昌寺(北条市八反地)は、元弘元年(一三三一)、大虫を開山として宗昌禅尼が開創した臨済の寺であるが、寛文コー年(一六七二)松平定長が再興を図り、貞享元年(一六八四)別峯により黄檗宗になった。定直の位牌が祀られている。天明二年(一七八二)の寺の記録によると、安養寺など五つの末寺があったという。

 千秋寺とその末寺

 同じ別峯を二代とし、勧請開山を即非(明僧、寛文一一年寂)、初代をその弟子千呆(明僧、宝水二年寂)とする寺が千秋寺(松山市御幸)である。即非は黄檗宗開山隠元の弟子で、師に遅れること四年後の明暦三年(一六五七)渡来して長崎崇福寺に入り、ここに没した。千秋寺の松平定直による開創は貞享四年であるから、即非の没後一六年のことである。また、初代とされる千呆は、崇福寺二世、万福寺に入って第六世になった。その寂年は千秋寺開創より後であり、万福寺六世になった後、定直の帰信を得て松山へも下向したということでもあるが、やはり勧請開山とみられ、さらに二代別峯は、千秋寺の開創式が行われた貞享四年の二一月二一日を待つことなく、この年の四月二七日に没しているから、けっきょく事実上の開山は三代とされる大休(享保五年寂)である。大休、諱は海燁、薩摩の村尾氏、貞享四年千秋寺開創にあたり定直に聘せられ、のち元禄九年(一六九六)道後鷺谷大禅寺に隠棲した。千秋寺開創にあたり、定直は和気郡の新田五〇石を寄進、元禄元年大伽藍の建築に着手、翌二年には、この地にあった宝林寺を福祥寺(五行寺、後の法華宗大法寺)の地へ移し、福祥寺を今の大法寺の地に移して、宝林寺の跡地を千秋寺に与えて境内を拡張、同三年完成して黄檗式の七堂伽藍を完備、その威容は、「松山に過ぎたるものが二つあり、河原布衣徒に千秋の寺」と誇称された。多くの寺宝中、即非書といわれる扁額「海南宝窟」が山門に掲げられている。
 千秋寺は、その後の歴世による開創もあって、多くの末寺をもつようになった。これまでに記した覚王寺・長隆寺・宗昌寺のほか、円蔵寺・正法寺・大禅寺・久徳寺・梅津寺・安城寺など、合わせて五十余か寺を数えるという。 右にあげた円蔵寺(今治市波止浜)は、もと波方町波方にあって長福寺の末寺であったが、元禄四年、定直の命により、代官林信秀が開基となって建立、勧請開山は明僧柏厳、実際の開山は大休とみられ、隠元の「紫金光」、即非の「護国山」、千呆の「福寿海」などの扁額を有し、元禄七年銘の梵鐘がある。同じ大休を開山とする正法寺(東予市高田字正法寺)は、もと高田村庄屋高瀬家の先祖を開基とする道場であったが、元禄八年現地に移建して黄檗宗になった。事実上の開山は二代広音とみられ、開基は定直である。三代晦宗の撰述にかかる縁起書(宝永年間)のほか、木庵と大休の書いた聠、千呆筆の扁額「円覚場」、墨蹟など寺宝が多い。さらに、大禅寺(松山市道後鷺谷、現廃寺)は、もと宝珠庵、元禄元年大禅寺に改め、同九年定直が再建、千秋寺と同様千呆を招請開山とするが、事実上の開山は大休であり、大休は同年千秋寺を退いてここに隠棲した。その後享保六年この寺へ寺領五〇石が寄進されたことがわかるが、いつ廃寺になったかは明らかでない。つぎに、久徳寺(松山市湊町)は、元禄一四年(同四年、同七年の二説もある)開創、大休を開山とするというが、これは勧請開山で、実際の開山はその弟子蘭庭、開基は黒田宗円(亀屋弥三兵衛)である。
 千秋寺四世雪广(一六四九~一七〇八)は明国蘇州常熟県の人、譚は上潤。長崎興福寺澄一の招きにより延宝五年(二九歳)長崎に来たり、ついで千呆に師事、元禄二年(四一歳)その法を嗣ぎ、同一一年(一六九八)千秋寺に入山、宝永五年(一七〇八)に示寂した。この雪广が建てて隠居寺とした梅津寺(松山市梅津寺町)は、宝永(一七〇四~)の初めごろ建立、土地の景観が故郷の梅津に似ているところから寺号とした。同寺には、雪广が中国からもたらしたという鐘、雪广筆の扁額と聯などがある。また、同じく千秋寺一二世妙奄(一七四五~一八二三)は、譚は普最、会津山内氏の出。師貫道(~一七九六、千秋寺一一世)に従って共に松山久徳寺に入り、さらに師に従って阿波国広福寺・宇治万福寺を経、安永六年(一七七七)波止浜円蔵寺に住持、天明元年(一七八一)千秋寺に入った師貫道を助け、その退隠のあとを追って同六年千秋寺に嗣席、藩主定国の帰信と外護を得、寛政一一年(一七九九)東野に大福寺を建立して終焉の地としたが、文化五年(一八〇八)千秋寺を辞し、翌年請われて本山万福寺に出世して二六世、再び松山へ帰らず、文政四年(一八二一)七七歳で没した。著作に『黄檗妙菴禅師語録』(資料編七八三~八〇五頁)『疏啓集』等がある。