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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

二 廃仏毀釈

 神仏分離と廃仏毀釈

 前項の終わりにあげた神仏分離の政策で見る限り、それは直ちに廃仏毀釈を意味するものでなかったが、それが神道中心で行われるとすれば、分離が廃仏にっながるのは必至の理であり、現に廃仏へと激しく動いたので、分離令を発した翌月には、「旧来、社人・僧侶あいよからず、氷炭のごとく候につき、今日にいたり、社人どもにわかに威権をえ、陽に御趣意と称し、実は私憤をはらし候ようの所業出来候ては、御政道のさまたげを生じ候のみならず、紛擾をひきおこし申すべきは必然に候」と、神職の横暴を戒めなければならなかった。
 叡山と習合の関係にあった日吉山王社神宮樹下茂国は、叡山に対し、神殿内陣の鍵を渡し、山門も神仏分離に立ち会うことを要求したが聞き入れられず、京都から加勢の同志に人夫を加え、武器を持って神域に乱入、神殿の錠を破って殿内に入り、仏像・法具・経巻をすべて焼き捨てるという暴挙に出た。また、石清水八幡では、諸坊が撤去され、還俗を余儀なくされた社僧は、仏教に関係のある堂舎を整理し、仏像・仏具・経巻の類を大阪の古物商に売却して生活費にあてるというありさまであった。伊予の場合このように特異な記録は残っていないが、程度の差こそあれ、破壊・焼却または売却によって処分してしまった所があったであろう。また、廃仏は、藩によってはげしく、前記の水戸や薩摩を急先鋒に、隠岐・苗木(美濃)・松本・佐渡・土佐・富山の各藩ではげしく行われたが、実施の時期と程度はまちまちであった。讃岐では、土佐藩の廃仏にならって一宗一寺に合寺しようとしたが、寺院と住民が蜂起して阻止しようとしたので撤回した。また、廃仏に反対する農民たちは、主として真宗の僧の指導のもとに、三河・越前・越後などで宗教一揆ともいうべき暴動を起こした。こうするうち明治四年の廃藩置県を境に、はげしく廃仏をすすめた旧藩領においても不徹底のままに終わり、最も徹底した薩摩でも、明治九年には布告によって信仰の自由を認めるようになったのは、折から台頭した西欧風の信教の自由という思想に目ざめてきたためであった。

 伊予における廃仏毀釈

 伊予における神仏分離と廃仏毀釈は、他に比べるとかなり穏健であったとみえ、一、二を除いてあまり特異な記録は残っていない。
 明治二年の県村(野間郡、現今治市阿方)庄屋越智家文書(大西町誌)は、神祇局役人の回郡にあたって示された神仏分離のための七か条の注意を記し、早く手分けして触れ出し、即刻実施するようにとの内容である。その七か条は、神社の白木の鳥居はそのままでよいが、塗ってあるものは白木にしかえること、その場合の鳥居の形は下の貫手の両端を出さぬようにすること(・(鳥居の記号)の形)、神社にある仏像は、村役人立ち会いの上故障のないよう寺院へ渡すこと、寺院にある神体も右と同様にして神社へ渡すこと、これらが終われば、寺院または社人より受取書を提出すること、このたび改めて仏号を付けた寺院は仏号を書いた掛け札をすぐに用意すること、もし神殿造りの場合は堂塔に造りなおすこと、神社の狗犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと、というものであった。おそらくこれは伊予独自のものではなく、全国共通の神仏分離基準を具体的に示したものである。
 神仏分離の上でまぎらわしいのは、習合の著しい権現の類であった。明治四年の湯山村社寺書類(伊予史談会文庫)の中に、白山権現と金毘羅権現のことが出ている。湯山村内福見川村持ちに白山権現の小社があり、役所より神職へ引き渡すよう沙汰があったが、これは仏体であるのに、どういうわけで白山権現小社と書き出したのかわからないが、村方の神社とは地所が別になっているので、神仏取り分けで権現号を廃止せよとのことですから、本尊夜叉明王を祀る小堂として引き続き村持ちにしたいと庄屋から願い出たものである。また、同村にもう一つの白山権現小社があり、祀っていた仏体は村方の阿弥陀堂へ移し、社殿は社人へ渡したという社寺役所への届け書もある。つぎに金毘羅権現に関しても、同じく湯山村金毘羅社の仏体を取り除き、新たに金刀比羅宮を勧請したのでお届けするという神主からの届け書きがある。
 これまでのところは神仏分離の処置であるから別に問題はないが、このあとにつづく湯山村の庄屋文書は、無住らしい堂庵の取り除きに関するもので、廃仏毀釈の問題である。まず布告の写しがあり、堂庵を廃止するにつき、庵室はしいて取り除くに及ばず、仏体・仏具を取り除いたあとを住所として売り払ってもよいこと、しかし、堂は必ず取り壊し、跡にある樹木は必ず伐り払うことを指示したあと、ついで、堂庵まで取り除いて寺院が全くなくなった村では、村の大小にかかわらず滅罪所一宇を残し置くようさらに布告が出たから、どういう宗旨であっても、この一村一宇の滅罪所で葬式を営んでもよいので、差し障りのないよう心得るべきこと、ただし、滅罪所にこれまで安置していた観音や地蔵などの仏体はすべて布告どおり本寺へ引き取るべきこと、滅罪所を建て替えるときは必ず四ッ堂に限るべきことなどを守るようにとの趣旨である。これに関連して、湯山村庄屋が配下の組頭と連名で役所へ提出した文書があり、堂庵を取りこわして本寺へ引き取り、しかも村に本寺がない場合、一村に一宇もなくなることを悲嘆して庄屋より願い出ているところであるが、湯山村では上高野・末・藤野々以外の一四か村には寺院がなく、これまで祀ってきた仏体も他村の寺院へ引き渡すことは心外なので、このたび布告のあった滅罪所へ安置することを許してほしいという願い書である。その結果はどうなったかわからないが、無住堂庵の廃合に関する情勢がよくわかる。
 右に出ていたように、村々の堂庵はおおむね廃除され、仏像・仏具は本寺に移された。明治四年の「越智郡村々廃除堂庵仏像本寺江集合帳」(社寺帳、県行政資料)にあるものを一つ例としてあげると、宮浦村の禅宗大通寺に集合したものは、宗方村の十一面観世音、野々江村の阿弥陀如来・弘法大師像・薬師如来・観世音・石仏観世音・十一面観世音・瀧見石仏観音、宮浦村の地蔵菩薩・閻魔王・阿弥陀如来・地蔵菩薩・石仏地蔵菩薩・阿弥陀如来であった。この記録は本寺へ移した仏体のことを書きとめたもので、廃除された堂庵のことが記されていない。そこで、同じく明治四年の「久米郡村々仏鉢取片附達面綴込」郡控(伊予史談会文庫『伊予志材雑集』46)によって、久米郡内各村でどれほどの堂庵が廃除されているか、村別の数だけにまとめて(堂庵名、仏鉢名、仏鉢を移した本寺名を省略)あげてみよう。

 和泉村2、朝生田村2、古川村3、居相村1、井門村2、石井村2、天山村1、福音寺村3、星岡村2、土居村2、今在家村1、久米村5、鷹子村2、来住村2、高井村(不明)、窪田村8、畑中村1、水泥村4、平井谷村4、小屋峠村2、梅本村8、西岡村5、志津川村7、樋口村4、山之内村14、北方村14、松瀬川村11

となっており、記載が不統一で正確につかむことはできないが、おおよそのところはわかる。
 右は村々にあった小さい堂庵の廃除であるが、これとは別に、かつては住職がいて今は無住になっていたか、あるいは還俗を喜ぶ住持が寺を去ったため、廃寺になった寺院も多かった。明治八年愛媛県が教部省へ提出した「廃寺院取調帳」写し(県行政資料)は、宗派別に廃寺の寺名と場所を本寺名とともにあげている。天台宗では九か寺、温泉郡の一か寺を除き他は宇和郡で、等妙寺本が四か寺と多い。真言宗は九二か寺、県下全域にわたっているが、比較的に多いのは伊予郡・喜多郡の寺院で、西宇和郡法道寺末八か寺、京都醍醐三宝院末七か寺、喜多郡法円寺末七か寺などが多い。浄土宗は二八か寺、旧宇和郡に多く、宇和島市大超寺末が一三か寺と圧倒的に多い。臨済宗が一六三か寺と多いのは、本寺も持たぬような堂庵が残っていたこともその一因で、喜多郡以南に多く、大洲市如法寺末・瀬戸町長養寺末が一一か寺、大洲市西禅寺末、伊方町天徳寺末が一〇か寺と多い。曹洞宗は四二か寺、喜多郡以南に多く、保内町伝宗寺末が八か寺と多い。日蓮宗は松山市宝塔寺一か寺、真宗は七か寺、時宗は吟松庵一か寺、宗旨不明分一三か寺は堂庵の類である。以上の合計は三五六か寺、各派宗勢の消長をよく示している。
 なお、右の真言宗醍醐三宝院末とある七か寺(うち松山六か寺)は明らかに修験の寺(当山派)である。本稿では修験道については取り上げないことになっているが、ここに一言せざるを得ない。古代以来の修験道は複雑であるが、徳川幕府は慶長一八年(一六一三)「山伏法度」を発し、室町時代中期以来明らかになった天台密教系の本山派(本山園城寺末聖護院)と同じく末期に明らかになってきた真言密教系の当山派(本山醍醐寺三宝院)のいずれかに所属させて統制したが、明治五年には神仏分離令によって天台・真言のいずれかに入れられ、廃仏によってほとんどは廃寺となり、山伏の多くは還俗した。伊予にどれはどの山伏寺があったかは、西条藩と松山藩の「修験寺院明細帳」(国を国会図書館蔵『社寺取調類纂』、資料編八七四~八六頁)によって知ることができるが、西条藩内には、天台宗本山派四六か寺、真言宗当山派二か寺、松山藩内には、本山派二〇か寺、当山派三四か寺があり、天台宗本山派は備前国報恩院末、真言宗当山派は三宝院末がほとんどである。これらはおそらく廃仏直前のものであろうが、県行政資料の中に明治九年と一〇年の天台宗本山派関係、明治一〇年の真言宗当山派関係の県下の全修験道寺院の「廃寺願名簿」があり、それによると、前者は九八寺、後者は七六寺に及ぶ。統計が整わないので厳密な検討はできないが、大体の傾向を知ることはできる。傾向を知ることはできる。

 前神寺の廃寺と再興

 四国霊場六四番前神寺(真言宗石鉄派、西条市)は、桓武天皇勅願所と伝える古寺で、その後弘法大師の護摩修行の地という伝えから四国霊場札所ともなっているが、わげて特徴的なことはこの寺が石鎚山修験道の根本道場となって蔵王権現を祀っていることである。古くこの寺を里前神寺と称したのは、慶長年間(一五九六~一六一四)成就に奥前神寺という出張所を作ったためであり、石鉄神社の別当寺として横峯寺との間に争いがあった。その後明和年間(一七六四~一七七一)に幕府の裁断を得てこの寺が別当になり、なおその後も争いは絶えなかったけれど、そのまま明治の神仏分離を迎えることになった。ところが、明治三年の神祇官通達により、石鉄神社が認められ、蔵王権現は祀るに及ばないと廃寺の方針が決定した。しかし、里前神寺住職は還俗せず、かえって蔵王権現像を山上に安置して石鉄山上鎮座の姿に模し、庶民の信仰を集めた。そこで旧石鉄県より役人を派遣して引き渡しを迫った際、住持はなお復飾しなかったところ、明治五年二月本堂と庫裡を焼亡、末庵で無住になっていた医王院に移り、権現像は封印して戸長に預けひとまず落着した。しかし、その後寺僧と檀家より権現像の下げ渡しを願い出たので、明治七年二月、もはや破却しなければなるまいと県から教部省へ伺いを出した。
 一方寺側では処分を不服として司法省裁判所へ控訴したが、この方は結果として訴状取り下げになった。その間、岩村高俊県令は、就任後はじめての管内巡回の途次寺を視察、また、改めて当初よりの経過を下僚に調べさせた。それによると、事の起こりは、維新の当初高知藩の支配下にあったとき、神祇省よりの指令で、復飾しない社僧は放逐し、社地内の寺院は破却すべきことが示されただけの簡単なもので、そのため葛藤を引き起こしたと、明治八年四月二八日提出の岩村県令の伺い書は言っている。この文書はつづいて、だから、これを他の寺院へ合併して寺名を残し、寺の石鉄遥拝所は石鉄神社とは別であると見なすようになってしまって紛糾は解決されないままでいる、蔵王権現像を石鎚神社で祭るかどうかは別の断案によればよいことで、要するところ、前神寺を社地にある寺院と見なして廃絶するか、通常の別当寺と見なして分離存続させるかのいずれかであると意見を述べ、さらに、具体的に考慮すべき問題として、檀家一八〇戸を住僧との関係でどうするか、寺に所属の山林田畑などは、そのことが判然としておれば寺の存廃にしたがって帰趨もおのずから明らかになることであるなどと述べ、詮議してほしいと伺いを立てている。
 ついで同八年六月一七日の岩村県令より教部省あて文書は、前神寺処分について、社地に残っている大師堂と護摩堂の処置は神官に任すこと、前神寺所有の仏体・仏具および什具は悉く引き取ること、復飾を受け入れない前神寺現住の去就は本人の意に任すこと、檀家一八〇戸は銘々信仰の宗旨へ入宗させること、前神寺再建のため集めた金はそれぞれの寄付人へ還付すること、という案を明示して指図を求めている。そして、教部省の指令にもとづき、県の通達をもって廃寺と決定したのは同年七月九日のことであったが、なお、旧寺領の処分については問題を残し、また、この決定に対して寺の存続を求める歎願書(七月二〇日付け)が檀家惣代である庄屋久門家から提出されている(同家文書、愛媛県立図書館寄託)ところをみると、実質的解決に至っていないことがわかる。果たしてその後も問題は残り、最終的には、明治コー年九月一四日の復旧願いにより、同一〇月一日の県指令にもとづき「前上寺」として復活、のち前神寺に復して落着した。現寺地は近接する別の谷を選んで移したものである(愛媛県行政資料)。
 なお余談ながら、瑞応寺(新居浜市、曹洞宗)にある県文化財「輪蔵」のことを記しておこう。輪蔵というのは、一切経を納める経庫で、六角形または八角形の経箱が大きな輪軸にささえられて回転する仕掛けになっており、県下でも代表的なものとして如法寺に巨大な輪蔵がある。瑞応寺の輪蔵はさして大きくないが、由緒があり、かつ神仏分離・廃仏毀釈の遺物として意味をもっている。すなわち、この輪蔵はもと京都北野神社(天満天神)にあって、明徳年中(一三九〇ー一三九三)に足利義満の本願により、旧臣山名氏の冥福を祈るためにつくったと伝えられる由緒深いものであるが、明治四年、神仏分離によって瑞応寺が譲り受けた。この輪蔵は六角形でそれほど大きくないが、謡曲「輪蔵」(観世弥治郎作)にも謡われた名品で、鉄眼の一切経二〇〇〇余冊が納められている(『瑞応寺輪蔵の由来』)。

 寺領上知

 寺領には境内地とその付属地、境内外地の別があること、境内外地については、幕府から下知された朱印地、各藩主からの黒印地、その他の寄進地があり、このうち、伊予には朱印地社領は全くなく、黒印地については甚だ不正確ながら二〇件、二一七三石余という数があがっている(安藤宣保作成、『寺社領私考』)ことについてはさきに記した。
 江戸時代の末期、藩士知行地の一部は引き上げられたが、寺社領には変動なく明治維新を迎え、明治三年一一月「社寺領収納六箇年平均額取調」が行われ、翌四年六月「諸国有禄ノ寺院二係ル禄制」が定められ、前年の調査による年平均額の二分五厘の割で地方官から禀米を渡すという禄制が決められたが、実行されないままに終おった。ついで同四年一月五日、いわゆる上知令により「社寺領現在ノ境内ヲ除クノ外一般土地上知セシメ、更ニ禀米ヲ賜フ」ことになり、同年七月より現収の五分の割で同六年までの三か年支給されて中止、代わって同七年九月三日の布告により「逓減禄制」を実施、「旧高平均の二分五厘ヲ現米ニ計算シ、其半額ヲ十か年逓減しながら支給して一一年目には廃止することになり、さらに明治八年の地租改正にあたり、境内付属地まで上知したが、神社の社領には及ばなかった。右の『寺社領私考』は、試算として愛媛県内寺領をあげ、当時の寺院数一六二一か寺の境内地を二五一町歩、境内外地を三二町歩としているが、これまたたしかなものではない(寺社領私考―明治維新を中心にして―)。
 ところで、ここに「旧松山県諸寺院境内地節減帳」という明治四年の文書がある。旧松山藩領寺院の寺領上知の記録で、寺院別に現在境内地と上地の面積が書き上げられ、上地の惣計を百五拾七町八反壱畝拾七歩としており、これによると右にあげた当時全県内の寺領の推定高は少なすぎることがわかる。今主要寺院の寺領を摘記すると、

           (元寺領地全)      (現在境内地)      (上   地)
  石手村石手寺   四町五反九畝弐拾四歩  壱町七反六畝八歩    弐町八反三畝拾六歩
  畑寺村繁多寺   四町八反六畝壱歩    四反八畝拾四歩     四町三反七畝拾七歩
  太山寺村太山寺  九町六反弐畝壱歩    壱町壱反六畝拾三歩   八町四反五畝拾八歩
  山越村天徳寺   三町三反四畝弐拾歩   八反六畝        弐町四反八畝弐拾歩
  山越村龍穏寺   三町九反六畝六歩    壱町三畝拾四歩     弐町九反弐畝弐拾弐歩
  同 村千秋寺   五町三反三畝拾歩    壱町六畝弐拾六歩    四町弐反六畝拾四歩
  上市村観念寺   七町六反七畝廿五歩   壱町三反四畝弐拾壱歩  六町三反三畝四歩
  古田村興隆寺   八町六畝七歩      弐町三反三畝三歩    五町七反三畝四歩
  浜村遍照院    壱町壱反八畝五歩    三反七畝廿八歩     壱町四反弐畝六歩
  米之野村高縄寺  七拾六町八反      壱反六畝        七拾六町六反四畝

となっている。これら同類の資料も全県的なものがないから、決定的な資料になり得ず、大体のことがわかるだけである(愛媛県行政資料)。これは、右にあげた明治四年の上知令によるもので、境内外地に限られたものであった。そして、境内地の上知を命じた明治八年の上知は、公認された境内地以外の旧境内地が収公されたのであるが、県内の状況を示す資料が見あたらない。
 こうした二度にわたる上知による寺院の打撃は大きく、中でも天台・真言・臨済・時宗・浄土の打撃はことに大きく、曹洞・日蓮・真宗の諸宗は打撃を受けることが少なかった(日本仏教史Ⅲ)。この時の余力が以後の宗教活動の出発点になる。

 教団組織

 江戸時代の宗教制度で確立していた本末制度と寺壇制度はどのようになったであろうか。まず、天台宗では、明治三年、東叡・日光の両天台本山の格下げをして教権を延暦寺に返し、浄土宗では増上寺の総録所(触頭)の権限を知恩院に移して名実共に本山とし、後には浄土宗全寺院を知恩院の末寺とした。さらに、明治五年には一宗一管長制を定めて教団の中央集権化を図り、日蓮宗では総本山久遠寺のもとに四大本山を置き、真宗では江戸時代から成立していた派ごとの総本山(東西両本願寺)のままであった。
 つぎに、それら本山と全国の末寺との関係であるが、江戸時代には地方に各宗派ごとの中本寺・小本寺があり、おおむね中本寺は中央本寺の直末になり、他は孫末になる場合が多く、また、戦国領主の統制以来、地方本寺の末寺とする傾向が強かったが、明治時代になると、地方的本末関係を離脱して中央本寺の直末になることを希望する寺院が多くなった。また、修験道の寺院が明治五年に廃止され、残存する寺院がいずれかの寺院に転属したこともあって、本末関係をめぐる混乱を生じた。明治一二年二月に真言宗仁和寺・大覚寺・西大寺(堺)など西部大本山関係の末寺について愛媛県令にあてた依頼書で、今後本寺換之の届出があった際は、本山へ照会ずみのないものは大教院へ照会願いたいというものがあり、これは前者の場合である。後者の修験道寺院の本寺帰属に関しても、同年三月、三宝院・報恩院など六院の末寺について、取調べの上醍醐寺へ照会してほしいと依頼した文書がある(愛媛県行政資料「神社及宗教」、明治一二年)。ことに混乱したのは新義真言宗の場合で、明治三年の太政官布告以来混乱し、明治四年の触頭制廃止により、触頭が本山または出先でなかったためさらに混乱が大きくなり、明治二七年、二八年になって智山派一〇〇九か寺、豊山派一四五五か寺の転末を終えることができた。
 寺檀制度は宗門改めを動機として確立したが、宗門改めがのちには戸口改めとしての性格が強くなり、それも明治四年の戸籍法によって意義の大半を失った。また、キリシタンの取り締まりは、神社による氏子調べによって行おうとしたが、同六年二月キリシタン禁制が解除になると全く不必要になり、宗門改めの産物として残った寺檀制度だけは宗教的意義を失わなかった。しかし、それも葬祭と祈祷に限られ、形式化してしまった(日本仏教史Ⅲ)。