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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

はじめに

 西暦紀元の始め、人間の生き方について新しい愛の倫理を示し、人類をその最も深刻な苦悩と罪の問題より、その身を犠牲にして救済したイエス・キリストヘの信仰―キリスト教は、パレスチナよりローマへ伝えられ、ローマ教皇によって継承されて来たローマ・カトリック(旧教)と、西暦紀元三九五年、キリスト教を国教としたローマ帝国が東西に分裂、そのため東方教会(ギリシャ正教)が北進してロシアへ入り、スラブ民族の間に広まったハリストス正教と、そして、ローマ・カトリックに対しルッターらによっていわゆる宗教改革されたプロテスタント(新教)と、この大きな三つの流れになって全世界に伝えられている。
 また、この三つの流れは愛媛県にも伝えられた。過去においてそれらがどのように伝えられ、現在においてそれらがどのようになっているか、その通史を概観するのがこの章の目的である。したがって、全教派、全教会について詳しく触れるまでには至っていない。
 さて、カトリックとキリシタンの呼び方については、幕藩政治が終わり明治維新となっても、なお、キリスト教(旧教)徒は逮捕・遠島・入牢と、苦闘と受難の歴史をつづっているので、禁制の高札が撤去される明治六年(一八七三)までは、いわゆるキリシタンとし、それ以後をカトリックとするのが妥当であろうと考える。
 カトリックが愛媛県に到来し定着して宣教を始めたのは、松山市(中予)であり宇和島市(南予)であった。それはプロテスタントが最初に松山(中予)に入ったがしばらくはそこでは実らず、今治(東予)に定着し今治を拠点として、西条・伊予小松、そして、松山へと拡張して行ったのと対照的であった。断定的にはいえないにしても、キリシタン時代に堀江・三津浜・松山に教会が建ち、天主教初等学校ができ、受難期には、浦上キリシタンが三津に上陸し松山に囚われていたこと、一方、キリシタン大名の一人土佐領主一条兼定が豊後で受洗し宇和島の沖、戸島に没し、また、宇和島藩初代藩主伊達秀宗は支倉常長をローマに送った伊達政宗の子であったという歴史からすれば、プロテスタントよりカトリックのほうが松山や宇和島の人情に合っていたのかも知れない。
 それに対して、港町であり商工業の発展に意欲的であった新進の町今治は、新教としてのプロテスタント・キリスト教を積極的に受容したといえないだろうか。プロテスタントは、まず松山に来たにもかかわらず、ここに根を下ろさずして東予の地に育ち、そこから逆に松山へと伝達されて来たのである。このことは、また、メソジスト教会がまず宇和島へ、日本基督教会が最初に大洲へ伝わり、そこから松山へ伝えられて来たという事実に似通っている。
 また、カトリックの形体としては、ローマ聖庁の下全世界を分割し、それぞれの会派(イエズス会・フランシスコ会・ドミニコ会・アウグスチヌス会)に割り当て、さらに分割された各地を各教会が分担して、一つの信仰・一つの教会体系に統轄し、都市の規模にふさわしい教会建設と伝道を推進しているので、(愛媛県内二一市中九市に一〇教会と一伝道所)都市中心の、規模の大きい教会となっている。
 これに対し、プロテスタントはキリスト教でありつつそれぞれ信仰の自由において独自の信条と教会組織とを堅持しているので、三大教派(日本基督教会・日本美以教会・日本組合教会)が合同した今日でさえも、なお二〇以上の大小教派に分かれている。そのため、各教派が独自に教勢の拡張に努めているゆえ、一都市にも多数の教会が建ち、その規模はすべてが大きくはなく小さい教会が多い。例えば、松山においても三五の大中小の教会がある。そして、県下市町村には実に九〇の教会、一七の伝道所が存在している。これらは、みな、カトリックとプロテスタントの特質をありのままに表わしているといってよい。

カトリック教会分布図

カトリック教会分布図


プロテスタント教会分布図

プロテスタント教会分布図