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愛媛県史 学問・宗教(昭和60年3月31日発行)

一 キリシタンの伝来と愛媛県

 1 キリシタンの受容

 天文九年(一五四〇)、スペイン人イグナチウス・ロヨラが創立したイエズス修道会の宣教師フランシスコ・ザビエル(Franciscus Xaverius)一行が、天文一八年(一五四九)八月一五日に、同伴の信者ヤジロー(Angero)の郷土鹿児島に着いたのが、キリスト教がわが国に伝わった最初であった。
 当時は織田信長をはじめ諸国諸大名が群雄割拠、天下を制覇せんとする時代であって、新しい西欧の文化をもたらすキリシタン(ポルトガル語でキリストの教え、あるいはキリスト信者を意味するChristaoから出たことばで、吉利支丹・切支丹・切死丹と表字した。この表字の推移はキリシタンに対する姿勢の変化を示して興味深い。)は、多くの大名や民衆にすこぶるる歓迎された。というのはキリシタンは当時大名たちには彼らが強く求めていた文明と武器とを貿易により供給したし、戦乱におののく民衆には、不安を解き平安を与えたからである。
 もっとも仏教徒の抵抗があり、すべて順調に教勢が伸びたわけではなかったが、九州、中国、そして京都の地方には、信者が生まれ教会堂が建っていった。しかし、四国は意図的な宣教の地ではなかった。言い換えれば四国は、全く偶然の機会に布教が始まったといってよいのである。
 フロイスの『日本史』によると、ビレラ神父とロレンソ、ダミアン両日本人修道士が、豊後から京都に向かって瀬戸内海を通り、安芸の国宮島に着き、そこから伊予の堀江(松山市)に来だのが、四国(もちろん愛媛県)に足を踏み入れた最初であったという。折あしく天候が悪く予定の航行ができなかったので、船客たちぱこの事を神父たちのせいにし、ついに船長を説得して神父たちを追い出した。
 永禄九年(一五六六)一月一五日、フロイス神父・アルメイダ修道士その他四名のものが、大分から京都への途次、やはり堀江に着いているが、ともに布教の目的を持って来だのではなく、荒天を避けるために寄港したので全く偶然であった。しかし、アルメイダ修道士は、この堀江でマヌエル・アキマサ外数名のキリシタンに会い、彼らが既に京都で洗礼を受けていたことを報告している。そして、天候の回復を待ちながら八日間滞在し、その間六名の者に洗礼(バプテスマ)を施した。
 このように、寄港地堀江とその近隣の湯治地道後には、四国で最初の福音の種が蒔かれ育って、信者が生まれ、教会堂が建ち、(教会設立は一五八六年秋だと「巡礼する教会」に出ている。)そして天主教学校としての初等学校さえ建てられた。それは全国で八〇校に及んだが、四国では伊予堀江のみであった(石川謙著、日本学校史の研究)。また、イエズス会力ルディン神父の地図(寛永二〇年=一六四三)には、阿波・讃岐とともに伊予道後にもはっきり教会と神父館のあったことを示しているし、一五八三年のバリニアーノ神父の巡回報告書にも、山口・伊予・下関に教会と神父館のあったことが書かれている。一六五三年イエズス会シャルダン神父は、正木(松前)に信徒たちが集まって礼拝や宗教行事をしていたと述べている。従って、大いに布教がなされて多くの信者がいたことは確かであるが、残念ながらそれらがどこにあったかについては、現在何らの手がかりもない。

 2 キリシタンの禁教と追放

 しかし、天正一五年(一五八七)七月二四目、豊臣秀吉が島津氏制圧の帰途、突如筥崎(福岡市)において伴天連追放令を発してからは、事情が。変した。慶長元年(一五九六)イスパニア船サン・フェリーペ号が土佐浦戸に漂着、直ちに積荷は没収され、そのうえ乗組員が強大なイスパニアを誇張・吹聴したので秀吉が激怒し、それがついには翌年の二六聖人の処刑につながり、同一七年徳川幕府の禁教令発布、元和八年(一六二二)踏絵による信者の摘発など、切支丹弾圧と絶滅への方策は厳しい上にも厳しくなり、寛永一六年(一六三九)つトに三代将軍家光は鎖国令をしくにずっだ。そして、信者たちぱその迫害の激しさにやむなく教えを棄てるものもあったが、信仰を堅持するものは教えに殉じ、あるいは、隠れキリシタンとなった。
 秀吉の布令後、年を追ってキリシタンへの弾圧・迫害が激しくなっていった時、四国は反対に信者の数が増大した。というのは、京都や大阪方面より迫害を逃れて、より安全な四国へ避難して来たためであった。最も多かったのは一番近ト讃岐であったが、伊予の北部にも数か村が移動したほどの信者が来てトたと、マルナス神父は「イエズスの宗教」の中で書いている。そして、さらに人目にっかない僻地僻村へ移り住んだことは、十分考えられる。一六○六年、「修道会の神父二人と修道士一人が、広島及びその周辺の国々を訪ね、さらに、伊予に回わってここで一二五○名の信者をつくったという記録もある。(パジェス『日本切支丹宗門史』)
 しかし、彼らも信仰を全うするためには静かに潜伏していったに違いないし、いわゆる隠れキリシタンなるが故にどこに行ってつつましく住んだのか、その町村なども明らかでない。

 3 キリシタンの潜伏

 さて、その隠れキリシタンがこの村あの里に潜伏していたのでぱないかという推定は、その遺跡や遺物と考えられるものが各地に残存していることからも可能になっている。
 例えば、堀井順次の調査研究によると、愛媛県には、多くの隠れキリシタン遺跡・遺物があり、それが地域によってそれぞれ異なった傾向を示しているという。キリシタン仏(マリア観音、キリシタン大師像など)は、旧大洲藩領内、喜多郡長浜町・大洲市・内子町辺りに多く、キリシタン碑(キリシタン碑・キリシタン画像碑)は、旧松山藩領内の松山市城北地区、今治市、玉川町、大西町、菊間町及び北条市に多い。そして、もう一つキリシタン塼龕と呼んでよいものは、大体においてキリシタン碑のある所に見いだされる。
 つづいて、堀井は、この遺されたものの傾向の違いはバテレン会派(イエズス会・フランシスコ会・アウグスチノ隠修士会・ドミニコ会)の違いに由来するのではないかという。すなわち、伊予は主としてイエズス会の伝道地であったようだが、フランシスコ会が広島のほうから来たという報告があり、中・東予地方はイエズス会系の神父たちが、そして南予地方はフランシスコ会系の神父たちが、それぞれ分担して伝道・牧会した結果のように考えられる。
 隠れキリシタンがいたという事実の傍証となるべきものの一つに、古老からの言い伝えもある。菊間町種にヒトクロ田という霊地があり、そこに一つの塚がある。これは昔、その付近がまだ種川の川原であったころ、村人の訴えで捕まえられたキリシタン四八人が、野間から来た役人によって斬首され、庄屋の好意で胴体は一か所に埋めて塚を造りササを植えた。人はそれをヒトクロザサといっていたが、その川原が後に田となったのでヒトクロ田と呼ぶようになった。塚には四八人とだけ記しているのは、庄屋が役人に遠慮して名前を伏せたのであろうという。ヒトクロのクロはクロス(十字架)であろう。
 かくのごとく、かなりの数の隠れキリシタンが伊予にいたということは、遺跡や言い伝えなどによって明らかになっているが、これを裏付ける文献資料は、スペイン神父たちの報告書や手紙などはあっても、わが国のものにはほとんどないのである。

 4 キリシタンの流刑

 嘉永六年(一八五三)ペリー提督の黒船来航によって修交と開港を迫られた幕府は、宣教師たち(パリ外国宣教会)の来住を許さざるを得なかった。二〇〇年前耶蘇教禁制の故追放されたミッションが、絶えず心配していたのは、残したキリシタンたちの行方であったが、条約締結後初めて来日したジララ師とモレット師の長崎に建てた教会堂の前に、慶応元年(一八六五)三月一七日、十数名の男女と子供たちがたたずみ、われらは祖先の信仰の継承者であると告白した。それが端緒となって周辺の島々からも続々と信仰の子孫が現れ、その数六万人に達したという。この事実に驚愕し憂慮した幕府は、再び禁令政策を強め同三年六月一四日、浦上の主たる信者の中、六四名のものを捕え虐待した。そして、キリシタンを見つけ知らせた者へ褒賞を与えることを公示し、他方、見せしめとして約四○○○人にのぼる男女子どもを捕らえ、多くの群に分けて各地へ配送した。昭和五一年発見された『古三津村御用日記』その他によると、そのうち四国へ来たもの三八一名(「巡礼する教会」によれば四八二名ともいう。)は、先ず高浜港に下船し三津浜まで歩き、三津町会所に集められて翌日、松山、高松、徳島、高知へ移送された。
 松山藩への流配者は、主として本原郷辻の信徒たちであったというが、明治四年(一八七一)五月二〇日、八六名の者が、三津ロの牢に入れられ、虐待、説諭など種々の方法をもって棄教を迫られたが、拒絶して信仰を曲げず、そのため後半は衣山の草葺長屋に移されて待遇も改められた。この異宗徒取扱係には、学校係の内藤鳴雪や権小属和田昌孝・史生伊佐庭如矢が兼務を命ぜられていた。
 明治六年(一八七三)禁令の高札が撤去され赦免令が下ったので、一同は五月二〇日故郷浦上の土を踏んだが、その中に三歳の時両親と来松し苦難をともにし、長崎に帰ったのち献身して神の道を説くようになった山口宅助司祭が、昭和一二年七〇歳にして再び松山を訪れ、追放中亡くなった信徒たち八名のために記念碑を建てることを提唱、司教代理モデスト・ペレス神父及び松山在住の信徒だちと準備し、マルシアーノ・ディエス神父が設計して墓地を衣山に求め、同年一一月八日に除幕した。これが「長崎キリシタン流謫碑」である。遺骨が実際に移されたのは、翌年五月二〇日であった。